2026-02-22 私たちの幸い

2026年 2月 22日 礼拝 聖書:ルカ6:17-38

 クリスチャンに投げかけられる疑問の一つに、「信じて何かいいことあるのか」というものがあると思います。皆さんの中にも一度は聞かれたことがある、という方がいるのではないでしょうか。

そういう質問に対して皆さんは何と答えてきたでしょうか。または何と答えるつもりでしょうか。

「キリスト教は御利益宗教ではない」と言ったところで何も良さは伝わりませんし、罪の赦しについてくどくどと話し始めたら、相手もうんざりするかも知れません。

もう少し完結に、福音の素晴らしさ、クリスチャンになることの良さを説明できたら良いといつも感じます。

そこで今日はルカの福音書の続きの箇所から、私たちクリスチャンの幸いについてイエス様が教えたことと、現代における意味合いについてご一緒に学んでみましょう。

1.群衆と弟子たち

はじめにイエス様の周りに集まっていた人たちが何を求めてイエス様について来たか考えてみます。

17節から19節です。ちなみに、ちょっとした豆知識ですが、20節以下のイエス様の教えはマタイの福音書にある「山上の説教」と良く似ています。あちらは山の上で教えたことにちなんでいますが、ルカのほうは17節に「山を下り、平らなところにお立ちになった」ということから「平地の教え」と呼ばれています。イエス様は説教原稿とかなしに、その場その場で人々に合わせてお話になりましたので、同じ内容の教えをいろいろな機会に、少し表現を工夫しながらお話なさったのだと思います。

それはそうと、どんな人たちが集まっていたでしょうか。

17節には「大勢の弟子たちの群」と「ユダヤ全土、エルサレム、ツロやシドンの海岸地方から来た、おびただしい数の人々」の二つの大きなグループがあったことが記されています。

弟子たちというのは、前回選ばれた12人の使徒たちだけでなく、イエス様を信じついて行くことを決めた人たちと言って良いでしょう。彼らの多くはガリラヤ地方出身の人たちです。

そしてもう一方のグループは、いろいろな地域から来ていました。ユダヤというのは当時の行政区分で、田舎のガリラヤに対して首都エルサレムを中心とする地域です。さらにツロとシドンの海岸地方ということですが、こちらはユダヤとは全く別の区分で、住んでいる人たちもユダヤ人ではない人たちがほとんどです。ですからこの群衆の中にはユダヤ人だけでなく、異邦人と呼ばれる人たちも多数混じっていたということが想像できます。

彼は何を求めてイエス様のところに来ていたかというと、18節にあるように、イエス様の教えを聞くため、そして病気を治してもらうために来ていました。中には悪霊に取り憑かれた人もおりました。そうした病人やその家族にとってイエス様のいやしの力は文字通り「救い」だったことでしょう。

彼らのイエス様を信じる信仰、いやしを求める真剣さは疑いようがありません。けれども弟子たちと違って、彼らの多くはある時からイエス様を離れ、特にエルサレムのあたりにいた人たちはイエス様が捕らえられた時に祭司長たちの先導に乗っかって十字架につけろと叫ぶ側にまわってしまいます。

20節でイエス様は弟子たちを見つめながら話し始めたとありますが、イエス様はここでお話になることが、病気のいやしを求めて各地からやって来た人たちが求めているものとは違うことに気付いていました。

残念なことですが、イエス様を求める人たちのすべてが、イエス様が与えようとしているものを欲しがるわけではなかったのです。イエス様は父なる神のみこころがこの地上でなされることを願い、ご自分に従う人たちが、新しい生き方をするようになることを求め、そのために教え、導き、力を与えようとされます。しかし、イエス様を求める人たちの中には、自分の必要は満たして欲しいけれど、自分の心や生活を変えたいとは思っていない、そこにはイエス様に手をつけて欲しいとは思わない、そういう人たちが案外多いのです。しかしイエス様の弟子となった人たちには、イエス様をただ自分の望み、必要を満たす方として見ては欲しくなかったのです。

2.希望をもって生きられる

20~26節は、マタイの福音書にある「山上の説教」の冒頭部分、「~~な人は幸いです」とほぼほぼ同じです。

貧しい人は幸い、今飢えている人は幸い、今泣いている人は幸い、誰かにけなされたりのけ者にされたり悪口を言われているなら幸いだとはどういうことでしょう。

実際、イエス様の周りにいる大勢の群衆は、病気や悪霊のために働くことができず、貧しさや乏しさの中に置かれ、苦しみや差別に泣き、のけ者にされ、悪口を言われていたわけです。だから状況を変えて欲しいと願うのではないでしょうか。状況が変わらなければ何の望みも持てないと、絶望の淵に立たされていたのです。

しかしイエス様は、イエス様の弟子となった者は状況を越えた希望を持つことができると語りかけます。

イエス様の弟子として、つまりクリスチャンとして生きることは裕福な生活や、敵のいない常に平和な人生を約束するものではありません。むしろ24~26節で「哀れです」と言われているように、豊かさや楽しみを第一に求めるような生き方をして、それを得られたとしても、それはやはり一時的な満足であり、天の報いはないから、実は希望のない人生になります。楽しさや笑いを求めれば、すぐに慣れてもっと刺激を求めるようになります。豊かさを求めれば失う不安を心に抱えるか、ある日突然失って呆然とすることになります。今楽しければ、今充実してれば良いという生き方には、実は希望がないのです。

しかし、イエス様を信じる弟子たちにとって、そうした人生の困難な状況というのは、私たちに与えられている希望をより切実に感じ取り、生きる力をもたらしてくれます。

イエス様が天に挙げられた後の教会には、奴隷ややもめといった困難な状況の人たちがいました。彼らはどのように生きたのでしょうか。急に自由の身になり自力で商売して裕福な生活を送れるようになったりはしませんでした。やもめをわざわざ妻に迎えてくれる大金持ちもいませんでした。キリストにあって家族とされた教会の仲間たちの助け合いによって十分に生きることができました。

敵対する人たちの攻撃や迫害も絶えませんでした。教会が設立されて二年目にはステパノが殉教し迫害が始まりました。しかし彼らはやがて主がもたらしてくれる天の報いを望んで耐え忍びました。

クリスチャンであってもなくても人生には苦難が伴います。病気を治してもらいたい大勢の群衆のように、イエス様に状況だけを変えて欲しいのか、それとも弟子の生き方として示されたように、神の国の祝福と豊かな報いという、苦難の中でも生きる希望と力をもって歩む新しい生き方を願うのでしょうか。

迫害はイエス様を信じるからこそ背負うことになる苦労で、クリスチャンでなければ味わうことはないかもしれません。けれども世の中、何がきっかけでいじめられる側、のけ者にされる側にまわるか分かりません。しかしクリスチャンは、この世が全てではなく、すべての労苦に報いがあることが分かっているので、希望を失うことがありません。

このように、イエス様の弟子としてのお得なことの一つは、どんな時でも希望をもって生きられるということです。そして私たちには祈り、具体的な助けや励ましを差し伸べる神の家族がいます。

3.与える愛という幸い

イエス様の弟子、クリスチャンになって良いことのもう一つは、与える愛という幸いを手に入れることです。

27~38節では、敵を愛し、彼らを裁くより与える者であるようにとイエス様が教えています。

誰でも愛されることが必要です。特に幼少期から大人になる過程で親や大人から十分に愛される体験がないと、心に大きな穴が空いたまま大人になり、それが人間関係や行動に大きな影を落とし、思わぬ問題を引き起こすことが知られています。

愛を受けることは私たち人間を真っ当にし、喜びをもたらしてくれますが、さらに受けるだけから誰かに与える愛になったときに、愛の喜びは本物になり、愛されたことの本当の意味を理解することになります。

しかし、イエス様はその愛を敵に対しても向けなさいと言われます。敵の悪意た悪行に対して、怒りや復讐で答えるのが世の常です。推奨されるわけではありませんが、やられたらやり返すのがこの世です。それはしかたがないことと、賛成はできないけど理解はできることです。そして敵を愛するというのは、私たちの感情に反することですし、敵の主張や考えを認めるようで簡単には受け入れられません。

敵を愛することは、敵の正当性を認めることではないし、好きになることでもありません。さばいてはいけないとあるように、判断を保留にして、善を行い、祝福し、祈り、与えることが愛することです。

入院していたときに、病室にとても困った患者がいました。看護師に暴言を吐き、暴れるのですが、看護師の皆さんは本当によくケアをしていました。心の中ではどう思っていたかは分かりません。でもプロフェッショナルですから手を抜いたりはしません。本当にすごいなあと思いました。ある意味で、イエス様の弟子である私たちも愛することにおいてプロにならなければならないのです。

敵を愛することには、主の恵みがあると32節や33節から読み取れます。与えることには報いがあるということも35節に書かれています。また37節では不用意に人を裁かず、悪人だと決めつけなければ、自分も不義に定められないとか、赦せば赦される、惜しみなく与えれば、同じ秤で与えられると言われています。

つまり、与える愛には豊かな報いがあるということです。現代人は、そういう善行が良い報いを得るなんて本気にしていないかもしれません。大谷さんのように、良いことをすれば良い運が向いてくるというのを信じて実践する人はいるかも知れませんが、相手が人間となると話しは別だというのがほとんどではないでしょうか。

しかしイエス様は、敵に対してさえ与える愛がもたらす幸いをはっきりと主張します。確かに、悪に対して悪で応え始めたら人間関係は酷いものになります。敵に対して悪を報いる、親切にしないで意地悪する、貸してと言われてもケチる、赦さない、悪人と決めつける。そうやって私たちは幸せでいられるでしょうか。やり返したという小さな満足感はあっても喜びはありません。

イエス様は父なる神様があわれみ深いように、あなたがたもあわれみ深くありなさいと言われます。私たちがイエス様を通して与えられた愛の力をもっと信じていいのです。

適用:幸福について

さて、イエス様はいやしを求める大勢の群衆を目の端に捕らえながらも、イエス様を信じて従う弟子たちに、神の国の福音がもたらす幸いとは何かを教え始めました。

多くの人たちが、自分の置かれた状況を変えてもらいたい、そうすれば幸せになれると考えていましたが、イエス様は状況を変えるのではなく、あなたがたの考え方、生き方が変えられることで幸せになるのだとおっしゃっています。たとえ状況が変わらなくても、困難の中にあっても、敵がいても、希望があり愛があるなら、そこに喜びがあり、幸いがあります。

幸せは欲しいものが手に入ったから、状況が変わるからではなく、イエス様を信じて従う者には、どんな時でも希望があり、愛の力が人生に深い喜びを与えてくれ、しかも天における報いが約束されているからです。希望は私たちの考え方や物事の捉え方を変え、愛が私たちの行動を変えます。

最初の質問に帰って、「クリスチャンになって何か良いことがあるのか」という問いにどう答えることができるでしょうか。今日の聖書箇所を通して皆さんはどのように答えますか。これらを単なる命令として読むと、とても困難な状況は喜べない、敵を愛するなんてとても無理、という思いが先に立ってしまうかもしれません。もしかしたら、これまでの数々の失敗や苦い経験が思い出され、次も無理だろうと思ってしまうかも知れません。

しかし、あなたがたは幸いだという希望の基は、私たちの力や経験ではなく、神の国がすでに到来しているということ、神のご支配は私たちの心と人生に恵みをもたらし、やがての完成の日にはすべての労苦に報いをもたらすという約束に根ざしています。

敵でさえも愛しなさいという愛の基は、神ご自身が私たちを赦し、あわれんでくださったという事実に根ざします。

先週、とてもがっかりする出来事がありました。そのせいで数日間憂鬱な気分で、眠りも浅く、集中力を欠く日々でした。涙は流れていませんが、心では泣いていてとても悲しい気持ちでした。その出来事に直接関わる人たちの悲しみや傷を覚えると怒りも湧いてきます。

そんな中で今日の聖書箇所を開いて、「あなたはそれでもまだ幸いなのだよ」とイエス様が語ってくださるのを、どんなふうに受け取ったらいいだろうかと思い巡らしています。この状況も神様のご支配の中にあると信じますが、でも「なぜ」という思いが消えるわけではありません。また満ち足りるようになる、また笑えるようになるという言葉が幾らか前向きにさせてくれます。自分にとって敵ではないですが、このがっかりな気分をもたらした、その人を愛せるだろうかと考えると、何かを判断するのは後にしようと考え、心はニュートラルなままですが、積極的に何かしてあげようという気分にはまだなれません。ですから、正直に申し上げて、今日、皆さんに大きな笑顔と確信に満ちた顔で、何があっても私たちは希望のゆえに幸いであることができ、与える愛に生きることができると宣言する強さがありません。

そういえばとても感動したこともありました。ご覧になった方もいらっしゃるでしょうが、イタリアで行われている冬季オリンピックのフィギュアスケートのペアの金メダルですね。ショートプログラムで失敗してしまい、大変落ち込んだ選手をパートナーやコーチが、あらん限りの言葉を尽くして励まし、力づけ、引っ張って、ギリギリの所で立ち直らせ、ついに逆転の金メダルを掴んだのは本当に凄かったです。

私たちにとっても、簡単に前向きになれないときも、神様が私たちとともにいて、恵みを与え、なおも愛してくださるという、神の国の福音に込められた希望と愛を繰り返しくり返し聞くことが立ち直っていくきっかけになります。

私もこの希望をしっかりと見つめ、神様が私に注いだ赦しとあわれみを思い返すのが精一杯ですが、その小さな火だねが失われていないことを心から感謝しています。

祈り

「天の父なる神様。

あなたがすべてをご支配なさり、希望を与え、愛とあわれみを示してくださいました。そこに、私たちの幸いがあり、困難の中でも立って行ける礎があります。

特に困難の中にあるとき、あなたが与えてくださった素晴らしいものを何度も何度も繰り返して噛みしめ、この小さな火だねがもう一度私たちの心の中で大きな炎となって燃え盛るまで、いつも守り導いてください。

イエス・キリストのお名前によって祈ります。」

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