2026-01-01 よろめくことなく誠実に

2026年 1月 1日 元旦礼拝 聖書:詩篇26:1-12

 新年おめでとうございます。

皆さんはどのような心持ちで新しい年を迎えたでしょうか。

2日前に、今年一年を振り返る時間を持ちました。一年を振り返って、2026年の歩みについて考えるためです。

昨年は個人的な目標として「一日一捨」を実践しようと考え、実際取り組みました。毎日何かを捨て、捨てたものを記録するというのを8月くらいまでは何とかやっていました。だんだん毎日というわけにはいかなくなり、8月あたりから記録も途絶えました。結構いろんなものをメルカリに出したり、ゴミとして処分しましたが、新しい趣味も追加になったので、増えたものもあります。そんなことも踏まえて、今年一年の歩みについていくつか取り組んでみようと考えていることがあります。皆さんはいかがでしょうか。

あまり大きな目標を立てる必要はないかもしれませんが、せっかく新しい一年をいただいたのですから、今朝は今年一年の歩みのために詩篇26篇からヒントを得たいと思います。続きを読む →

205-12-28 神の国の福音とは

2025年 12月 28日 礼拝 聖書:ルカ4:31-44

 年が明けてから、祈祷会では「天国」についての学びをしていこうと計画しています。これは、4月から神学校のクラスとして担当する予定の講座の準備のためなのですが、聖書が教える天国って何なのか、私たちはどういう希望を持てるのか、私たちの人生にどういう意味があるのかを学んでいきたいと考えています。

実は、今私たちが使っている聖書には「天国」という言葉は出て来なくて、今は「天の御国」というふうに訳されます。そして「天の御国」という言葉自体はマタイの福音書には出てこなくて、他の福音書ではもっぱら「神の国」という言い方になっています。つまり、天の御国と神の国は同じ意味なのです。

今日の箇所には「神の国の福音」という言葉がはじめて出てきます。私たちが聴き、信じた福音は「神の国の福音」だということなのですが、「天国の福音」だと何となくイメージできても「神の国の福音」はピンと来ない人が多いのではないかと思います。イエス様が伝えようとした神の国とはどんなものでしょうか。続きを読む →

2025-12-21 恵みとまこと

2025年 12月 21日 礼拝 聖書:ヨハネ1:14

 今日はクリスマスということで、こうして皆さんとともに御祝いできることを本当に嬉しく思います。

クリスマスはイエス・キリストがお生まれになったことを御祝いする時ですので、イエス様に注目したいと思います。私たちの家族や友だちの誕生会なら、注目すべき主人公は目の前にいますが、いまイエス様をこの目で見ることはできません。しかし、イエス様は私たちと共にいてくださるので、想像の翼を広げつつ、聖書の言葉に耳を傾けることを通して、イエス様に注目したいと思います。続きを読む →

2025-12-14 約束の成就と人々の憤り

2025年 12月 14日 礼拝 聖書:ルカ4:16-30

 アドベントに入ってクリスマスに向けての準備もいよいよ本格的に進み始めています。リリーベルの皆さんの練習曲もクリスマスに因んだ曲が多くて、かすかに聞こえてくる演奏にクリスマス気分をずっと味わっています。

さて、そのクリスマスに人の子としてお生まれになったイエス様は、およそ30歳になったときに、ガリラヤ地方でメシヤ、すなわちキリストとしての働きを始め、あたり一帯で評判になっていました。これまでのところ、ルカの福音書を見てきて分かることは、イエス様がイスラエルの民に約束されてきたメシアとしてお生まれになったということです。それはアブラハムと神様との間に結ばれた契約に基づいており、ユダヤの民は数百年におよぶ外国勢力の支配の中でずっとその実現を待ち望んで来ました。しかし、外国人である日本人にとって疑問なのは、アブラハムの子孫に約束された救い主が、なぜ、外国人である私たちにとっても救い主なのか、自分の国の神々ではだめなのか、ということかも知れません。続きを読む →

2025-12-7 試練と称賛

2025年 12月 7日 礼拝 聖書:ルカ4:1–15

 会社勤めや家業の手伝いなどで最初に任された仕事はどのようなものだったか覚えているでしょうか。もしかしたら掃除だったかもしれないし、簡単なコピーとかだったかもしれません。

イエス様も父ヨセフの仕事である大工の技術を身につけるために、最初にやったのは材料運びや道具の手入れ、掃除とかだったかもしれません。それは技術がない者に任せる雑用ということではなく、仕事全体の土台となることです。

イエス様の生涯における最も重要な務めは神が約束された救いの実現でした。そのスタートは前回見たように、ヨルダン川でヨハネからバプテスマを受けることで、神ではなく人として、罪ある者、汚れた者の側に立ち、徹底してへりくだり仕える者としてのあり方を示すことでした。

そして今日の箇所は、働きを始めた時のいわば最初の仕事です。この経験にはどのような意味があったのでしょうか。続きを読む →

2025-11-30 恵みの良い管理者

2025年 11月 30日 礼拝 聖書:第一ペテロ4:7-10

 今日は、私たちは神様から与えられた様々な恵みの良い管理者であることについてみことばから聞いていきます。

ところで10節に「賜物」という言葉が出てきますが、「あなたの賜物は何ですか」と質問すると、ごく稀に「私の賜物は○○です」と自信を持って応える人がいる以外は、多くの人が「分かりません」とか「私には賜物なんてありません」「賜物って何ですか」と応えるような印象を持っています。

賜物をある種の才能というふうに理解してしまうと、自分にはそういうものはないと言いたくなるでしょう。また賜物は「御霊の賜物」だから、クリスチャンになる前に持っていた才能や技術とは無関係な、何かミステリアスで、霊的な何かだというふうに捕らえる人もいますが、それは狭すぎる考え方です。

「恵みの良い管理者」という言葉があるように、神様は私たちに様々な恵みを与えておられますが、特に、教会の交わりや働きに用いるようにと備えてくださっているものを賜物と理解しましょう。続きを読む →

2025-11-23 へりくだりから始まる

2025年 11月 23日 礼拝 聖書:ルカ3:21-38

 この中には、ここ数年で新しく楽器を始めたという方が結構おられます。トーンチャイムとかウクレレとか。始めるときには「楽しそうだな」とか「やってみたい」という気持ちがあったでしょうし、誰かから「やってみよう」と誘われたかもしれません。ちょっとした思いつきであれ、新しく何かを始めるときには、内なる動機とそれを後押しする何かがあるものです。

私の好きな小説家は、神宮球場外野席にある芝生に寝そべりながら野球の試合を眺めているとき、突如「小説を書こう」と思い立ったそうですが、そういう天啓のような場合もあるかもしれません。いずれにしても「よしやってみよう」という瞬間があります。

ここまでルカの福音書でイエス様誕生からバプテスマのヨハネの活動まで見て来ました。イエス様がメシアとして誕生したけれども、ごく普通の赤ん坊として産まれ、その時代の少年と同じように成長してきました。そんなイエス様が、30歳になったころ、突然活動を始めるのですが、いったい何があったのでしょうか。続きを読む →

2025-11-09 完成に至るまで

2025年 11月 9日 礼拝 聖書:ピリピ1:3-6

 人生にとって成功とは何でしょうか。やりたいことを全部やったら成功でしょうか。仕事ですごい業績を上げたり、社会的に地位を上り詰めたら成功でしょうか。友だちをたくさん作れたら成功でしょうか。子どもをいい学校に入れられたら成功でしょうか。使徒パウロは最後の書簡、テモテ第二の手紙で、自分は走るべき道のりを走り終えて義の栄冠を主から受け取るだけだと言い切ることができました。彼にとっての成功は、主から託されたことをやり遂げたことでしたが、多くの人たちが困っているのは、主が自分に託したことはいったい何なのか、というところで確信が持てずにいることかも知れません。

では、教会の場合はどうでしょうか。イエス様を信じる者たちの集まりである教会にとって成功とは何でしょうか。素晴らしい会堂を献堂することでしょうか。多くの人数が集まるときでしょうか。

地方の小さな教会にいると、都会の大きな教会、元気で活発な教会、立派な会堂を建てた教会を見ると「すごいなあ」「いいなあ」「上手く行ってるなあ」と単純に羨ましく感じます。

しかしイエス様は果たしてどのようにご覧になっているのでしょう。今日の箇所にも「完成」という言葉が出てきますから、人生であれ教会であれ、その歩みが向かって行くべき方向性があることが分かります。果たして何をもって成功といえるでしょうか。

1.感謝と喜び

今日開いているのは、使徒パウロがギリシャにあるローマの植民都市であったピリピに生み出した教会に書き送った手紙の冒頭部分です。挨拶のあとで、パウロはピリピ教会のことでどれほど神に感謝し、喜んで祈っているかを書き記しています。

パウロは成功という言葉は使っていませんが、ピリピ教会はうまくいっている教会と言えました。もちろん、手紙を読み進めればピリピ教会にも問題がなかったわけではないことはすぐに分かります。それでも、パウロはピリピ教会の様子を思いうかべて祈るとき、感謝と喜びが自然とあふれて来たのです。

パウロが私たちの教会の様子を見たり聞いたりしたとき、同じような反応は返ってくるでしょうか。いったいパウロはピリピ教会の何を見て感謝し、喜んだのでしょうか。それはイエス様がご自身の教会についてこうあって欲しいという姿と深く結びついています。

5節には、パウロが感謝し喜んでいる理由が書かれています。「あなたがたが最初の日から今日まで、福音を伝えることにともに携わってきたことを感謝しています。」

理由は明白なように見えます。ピリピ教会が福音を伝えることに「ともに」携わってきたことです。では「ともに」という小さな言葉が添えられることで何を言おうとしているのでしょうか。

ピリピ教会にとってパウロは、教会の設立者です。しかしパウロはピリピに長くとどまることはせず、次の町へと移動します。

ピリピ書を読み進めると、ピリピ教会が物心両面でパウロの宣教旅行に協力し、大きな励ましになっていたことが分かります。それはパウロにとっては確かに大きな感謝であり励ましでした。他の教会がそこまでしてくれることはあまりなかったのです。

しかしパウロは、サポートしてくれることより、ピリピ教会自身が、パウロと同じ心で、自分たちの町で福音を宣べ伝え続けていたことを何より感謝し、喜んでいたのです。宣教師が、自分をサポートしてくれる教会がたくさん献金してくれているのに、自分たちの町では全然伝道していないと知ったら、献金には感謝するでしょうが、とても悲しく複雑な思いをするのではないでしょうか。

パウロが市ピリピで福音を伝え、教会を設立したのは紀元56年から57年にかけての冬のことだったと思われます。そしてローマで手紙を書いたのが62年の春頃と考えられます。教会設立からだいたい5年くらい経っていたと考えられます。

6節の「最初の日」つまりピリピ教会が始まったときの様子が使徒の働き16章に記されています。パウロはシラスという弟子と途中で加わったテモテにギリシャに渡ります。このとき後に福音書と使徒の働きを書くことになる医者ルカも同行することになります。

そして最初の主要都市であるピリピの町でリディアという紫布の商人と出会い、彼女が最初にキリストに導かれます。さらにシラスとともに捕らえられてしまいますが、鞭で打たれ牢に入れられた夜に起こった奇跡を通して看守とその家族がイエス様を信じます。その後パウロたちは次の町に向かうために旅立ちます。しかし、手紙を書いている時には、教会は成長しており、使徒の働きには出てこない名前も手紙に出てきます。この5年間、リディアと看守家族はパウロから聞いた福音を信じて自分たちだけで信仰を守っていたのではなく、パウロの福音宣教を引き継いで宣べ伝えていたのです。

2.主が始めてくださったこと

一昨年、私たちの教会は70周年を迎えました。その数年前に最初の宣教師、ソレンティノ先生の長男ポールさんがご夫妻でおいでくださいました。退職を記念して、奥さんが取り計らってお父さんのはじめた教会がどうなっているかを見たかったからです。5年と70年ではだいぶ違いますが、それでも、70年前に主がお父さんを通して始めてくださった宣教の働きがただ細々と維持されているだけでなく、世代を超えて確かに働きが広がっているのを見て本当に感動し、喜んでいました。ですから70周年記念の時に、ピリピ1:3~6を引用して、お祝いの言葉と祈りを捧げてくださったわけです。

教会に成功があるとするなら、それは、主が始めてくださったことをやり遂げて、次の世代にしっかりと受け継ぐことができることだと言えないでしょうか。一つの世代で完成することはありませんし、何世代かけても、その時代時代にいろいろな課題、問題に直面し、その都度悩み戦わなければなりません。完成させてくださるのは主であり、それは主が再びおいでになるときのことですが、私たちはいつもその日を待ち望み、その日に向かって主が始めてくださったこと、また委ねてくださった良い働きに取り組み続ける必要があるのです。

では主が始めてくださった良い働きとはなんでしょうか。

9~11節にはこの良い働きのゴールが書かれています。愛が豊かになり、良いもの、大切なことを見分けることができ、まっすぐな心と誠実な振る舞いができ、豊かに実を結んで、神の栄光と誉れを表す者になっていることです。

そのために何が必要かというなら、27節にあるように、キリストの福音にふさわしい生活をすることです。そしてキリストの福音にふさわしい生活というのは、単に道徳的に正しい生活とか、教会の伝統や教団の規範を守っているというようなことではありません。教会の交わりの中で信仰と心が一つにされ、福音の証のためにともに戦うということなのです。そうすることで30節にあるように、ピリピの兄弟姉妹たちが目撃したパウロの経験、つまり福音に生き福音のために苦闘する姿を、自分たちも経験しているのだと説明しています。牢屋の中でそれが、パウロのいうところの「福音を伝えることにともに携わってきた」ということの意味合いです。

そして、このことこそがピリピの町でイエス様が始めてくださったことであり、イエス様がもう一度おいでになる時に完成させてくださることです。イエス様が私たちのうちに始めてくださった良い働きというのは、私たちの罪が赦され、良心の呵責や不安から自由になり、安心して幸せに暮らせるというようなものではなく、もちろん罪は赦され責めから解放されるのですが、それだけでなく、私たちがますますみことばによって心も人との関わり方も神の家族の間での関係や奉仕、私たちが暮らしている世界での生き方も新たにされ、この世界の人々に福音を携えて遣わされることまでを含んでいるのです。

つまり、イエス様が始めてくださった良い働きの完成というのは、私たちがクリスチャンとして成熟することだけでなく、神の家族としての教会が心を一つにし、福音を宣べ伝える働きが完了することまでを含むということです。

3.福音の務めと成熟

では、クリスチャンが成熟し、神の家族として心を一つにし、福音の務めを果たしていくために、具体的に何に取り組む必要があるのでしょうか。

もしかしたら多くの人が挙げるのは「礼拝」ということかもしれません。信仰生活や教会の中心は何だと言ったら、迷いなく「礼拝」と答える人が多いと思います。確かに、現代の教会は日曜日の礼拝を中心に回っています。場合によっては礼拝さえ守っていれば教会は大丈夫、信仰生活は大丈夫とさえ思われています。私たちの教会の週報には第3807回とまで書かれています。

ところが、教会について新約聖書が教えていることを見ていくとき、私たちが思いうかべる礼拝についてはほとんど教えていません。確かに、賛美、祈り、みことばの教えといったことは書かれていますし、命じられています。そして聖書全体が神を礼拝することを強く指し示しています。しかし、それは私たちが日曜日に教会堂で決まったプログラムで礼拝するということとは大分異なった意味合いで言われているのです。もちろん、日曜日の礼拝は不要だとか、間違っているということではありません。しかし使徒たちが教えた教会の姿はもっとシンプルな集まりでした。食事を共にし、みことばから互いに学び、励まし合います。そうした交わりの中で一人一人の成熟を目指し、各家庭や神の家族としての教会を建て上げ、福音の素晴らしさを生活を通して証しする。奉仕についても、礼拝を中心とする現代の奉仕と比べてずいぶん違って見えます。

実際、パウロをはじめとする使徒たちが教会に教えていることを大きな視点で見ていくと新しい発見があります。

例えば、ピリピで宣教をしていたときに行動をともにしていたテモテに宛てて後に書いた手紙には、次世代の教会指導者に対して、教会で何を教えるべきかが書かれています。

そこには、私たちが教会の会議や話し合いで議題になるようなことは出て来ません。テモテ自身が福音にしっかり立ち人々の模範になること、他の人に教える能力のある人たちを励まし強め働きを委ねること、家庭や神の家族としての教会の中で人々がどのように振る舞うべきかを教えることが書かれています。

教会に関するまとまった教えが書かれているエペソ書を見ても、教理的な教えをどう実践するかという後半部分では、夫婦や家族、神の家族としての教会の交わりを互いへの愛と尊敬によって築くことにもっともページが割かれています。

福音についてまとまった教えがあるローマ書でも、後半の12章で「自分を献げる事が相応しい礼拝だ」といって、教会の交わりの中での仕え方、人間関係、社会での生活の仕方がほとんどです。

教会の様々な問題を取り上げたコリント書でも何が問題になっていたかというと、教会の集まりの中での人々の行動です。有名な聖餐式についての教えも、儀式としての聖餐式をどうするかとか、パンと杯に対してどのような信仰・態度で向き合うかではなく、パンと杯を共にするお互いに対してどのような関係を築いているかを問いかけています。

同じようにピリピへの手紙の中でも、神の家族の中で宣教を共に担っているユウオディアとシンティケに仲違いせず心を合わせるようにと、名指しで励ますのです。

適用:完成を目指して

聖書の教えはどれも目新しいものではなく、何度も聞いたことのあるものかもしれません。しかし、それが実際に私たちの教会の課題や問題意識、目標と結びついているかというと、かなり偏ったものになっていなかったかと考えさせられるのです。また個人の生活と教会の働きとがバラバラになっていることもしばしばです。

子どもの頃に歌った賛美歌で「福音の汽車に乗ってる、天国行きにポッポ」というのどかな歌がありました。もちろん、この歌はイエス様を信じるだけで救われるんだよ、ということを子どもに向けて歌ったものだし、その面でそれは正しいと言えます。しかし信仰の歩みは、電車の中でよく見かける光景のように誰とも話さず、眠っているかスマホをいじっているかしていれば目的地に着くというようなものではありませんし、新幹線で移動する修学旅行生のように自分たちだけで盛り上がってワイワイやっていたら自動的に天国に到着するようなものでもありません。

イエス様は私たち一人一人にただ電車に乗って到着を待つような信仰生活ではなく、一人一人に、置かれた家族や教会の交わり、社会の中でなすべきことを与えてくださいました。それは私たちが罪赦され救われるためにする善行や徳を積むようなことではなく、キリストが王として治める世界はこういうものだという実例を示すようなことです。互いに愛し合い、尊敬し合う家族や教会の姿はこの世界に対して、それだけで力強いメッセージになります。そして私たちにとっては、神様の前での生き方、妻や子どもたち、教会家族や隣人達に良いものを与え、遺すことができたと思えるなら、それが人生の成功と言えるでしょう。

確かに主は、私たちのうちに良い働きを始めてくださり、主がもういちどおいでになるまでにそれを完成させてくださいますが、これまで見たように、この良い働きは、教会で取り組む個別のプログラムや事業ではありません。それらは時とともに変化し、始まりもあれば終わりもあります。私たちには自分の人生を通して、この地上の現実世界の中で生活しながら、神のご支配とご愛が目に見える形でこの世界にやってきたことを示す務めが与えられているのです。私たちが日々の人との関わり、家族や教会をどう建て上げていくのか、私たちが受け取った救いの恵みを他の人に分け与えるために何ができるのか、私たちは聖書に教えられながら考え、取り組み続けていくことで、パウロやピリピのクリスチャンたちとともに福音を伝えることに携わる者の列に加わるのです。

今日の午後、私たちは教会の将来について語り合う、「みらいワークショップ」の1回目を開こうとしています。今やっていることを継続するという視点から一旦離れて、イエス様が私たちのうちに始めてくださったことを、私たちのこととして受け止め、どのように取り組んで行くのかという視点で考えられたら素晴らしいと思います。

今日の午後はとくにこれまでの72年の歩みをみんなで振り返りながら、イエス様が私たちの教会をどのように導いてくださったか、その中で教会が取り組んできたこと、やめてしまったこと、成し遂げたこと、やり遂げられなかったことなどを確認し、教会が何を大事にしてきたか。聖書が教える教会の姿と比べていったいどうだったのか、足りなかったことは何か、もっと創造的にできることはないかなど、考えていきましょう。

私たちのうちに良い働きを始めてくださった主イエス様は、それを完成させてくださいますが、私たちの世代でできること何か、次の世代にできるだけ良いものを受け渡すためにどうしたらいいのかを考えたいと思います。

祈り

「天の父なる神様。

あなたの深いお考えと摂理によって、私たちのうちにもイエス様による良い働きを始めてくださり、ありがとうございます。私たちの罪が赦されて天国に行けるというだけでなく、私たちが福音に根ざして生活し、生き方を通して福音を証し、また福音を語る働きに加えられる新しい人生へと招いてくださいました。

いろいろ足りない所がある私たちですが、それでも私たちのうちに始めた良い働きを完成させてくださるとあなたは約束してくださいました。私たちの不完全さではなく、あなたの約束と真実を信じて、私たちが自分の人生、この世代で家族や教会を通してなすべきことを示してくださり、私たちもまた喜んで仕えていけますように。

どうぞ私たち一人一人の人生と家族、また神様の家族としての教会の歩みを祝福し導いていてください。

イエス様のお名前によって祈ります。」

2025-11-02 荒野で叫ぶ声

2025年 11月 2日 礼拝 聖書:ルカ3:1-20

 「荒野で叫ぶ声」で思い出すのは、昔観た西部劇の「シェーン」の最後のシーンです。荒くれ者に困っていたある家族のもとに、ふらっと立ち寄ったシェーンという流れ者が、家族の世話になりながら、その家の男の子と交流を深め、荒くれ者たちから守って旅立っていくとき、馬に乗って荒野を遠ざかって行く姿を目で追いながら「シェーン、カンバーック」と呼ぶシーンが印象的でした。その後、「シェーン、髪バーック」という、育毛剤のCMに使われたりもしましたね。古い話ですみません。

荒野に声が響き渡る情景はとても印象深いものがあります。見渡す限りの荒野なのに、声があちらこちらに跳ね返りこだまします。ある種の寂しさやすさんだ心の情景を重ねて感じ取ってしまうのかもしれません。

今日は月初めの主日ですので、主の恵みの器として用いられた人を取り上げる日ですが、ちょうどルカの福音書でバプテスマのヨハネの箇所に来ましたので、バプテスマのヨハネにスポットを当てたいと思います。

荒野で声を上げたヨハネはいったい何のために荒野で語り始めたのでしょうか。今日は彼に倣うというより、彼が何を語ったのかに耳を傾けたいと思います。続きを読む →

2025-10-19 神であり人である方

2025年 10月 19日 礼拝 聖書:ルカ2:39-52

 私たちが信じているイエス様はどのような方でしょうか。少し前に、教科書から「聖徳太子」の名前が消えたということで「え?なんで」と昭和世代の私なんかは驚いたのですが、正式な名前が実は違ったということで一度消えたものの、その後通称として復活したらしいということで変な安心感を得たのですが、実の所、聖徳太子がどんな人物であったのか、伝説と実像に違いはあるだろうと思いながらも、あまりそのことで悩んだりしません。しかし私たちは2千年も前の人物を歴史上の人物として単に記憶しているだけではなく、神であり、救い主であると信じ、私たちの心、生活、人生をあずけています。この方がどういう方であるかを適当に済ませるわけにはいきません。

ルカの福音書が書かれた時代、当時流行の考え方を取り入れて妙な解釈をぶち上げる人たちもいました。それを意識して書いたかは断定できませんが、今日の箇所でルカは、イエス様がどういう方であったかを示すために子ども時代のエピソードを取り上げます。

1.家族の中で

まず、子ども時代のエピソードが取り上げられることで、イエス様は普通の人として、家族の中で成長したことがわかります。

39節で、ベツレヘムで生まれたイエス様が、ちゃんと両親の家があるガリラヤのナザレという、かなりの田舎町に戻ったことが記されていますが、さりげなく語られていることは、イエス様が律法の儀式を守る普通のユダヤ人家庭の中で成長したことです。

もちろん細かいことは分かりません。イエス様の幼少期について奇想天外な奇跡をおこなったことが記されている「トマス福音書」という聖書とは認められていない古代文書があります。その中には子ども時代のイエス様が行った奇跡がいろいろ記されているのですが、それはまるで超能力に目覚めた子どもが力のコントロールができずに感情の趣くままに力を使い、周りに大迷惑をかけたり驚かせたという話しになっています。そこには何の教えも、象徴的な意味もありません。

ルカは、むしろイエス様が普通の子どもとして成長したことを強調します。幼少期から12歳まで特別なことは何も書かれていませんが、大抵の人も、その時期のことを思い返してみて、何か世間に発表すべきような特別なことがありましたかと聞いたら、特筆すべき事はない、という人のほうが多いのではないでしょうか。近所の友だちと遊んだことや家族の思い出はあるかも知れませんが、特別ということでもないでしょう。私も子ども時代に、近所の友だちの家で当時流行った野球盤ゲームをやったとか、家の中で妹とかくれんぼをしたとか、仕事終わりの父親と家の前でバドミントンをしたとか、近所のおじさんが手伝ってでっかいカマクラを作ったとか、そういう思い出はありますが、特殊なことではありません。

そういう意味ではイエス様もユダヤの習慣で大人の仲間入りをする13歳の直前まで、特筆すべきことなく、普通の私たちと同じように、近所の子どもたちと遊んだり、家の手伝いをしながらすくすく成長したのです。

その替わり、イエス様の家族には一つの習慣がありました。41節にあるように、毎年過越の祭のときには、家族そろってエルサレムに旅をしたということです。そうした旅は普通一家族が単独で行くということはなく、同じ村の人たちがグループを作って旅をします。先頭に子どものグループがまとまって歩き、その後ろの大人の女性グループ、最後の大人の男性グループと続き、地域の人たちが一緒に旅するもので、とても楽しい旅路だったに違いありません。

イエス様が後に十字架につけられるために過越の祭のためにエルサレムに向かう旅が福音書に描かれますが、それは子ども時代の楽しい思い出の詰まった道のりだったのです。

12歳というのは、ユダヤ人の子どもたち、その家族にとってはとても大事な時でした。13歳になると、「バルミツバー」といって、律法に対する責任と社会的責任が求められる、いわば成人を迎えるのですが、その前にはエルサレムの神殿で礼拝を捧げることが推奨されていました。いよいよ来年は大人の仲間入りだねという期待と共に、13歳には律法の一部を暗唱したり朗読するような儀式もあるので、その前に十分準備することになっていました。ですから、12歳の過越は一家にとって楽しさだけでなく、とても重要な旅であったわけです。

2.自己理解

12歳の過越の祭が終わり、ナザレへの帰り道で事件が起こりました。そして、この場面で、これから大人になろうというイエス様が自分自身についてどのように理解していたかが描かれています。

さっきも言ったように、エルサレムへの巡礼の旅では子どものグループと大人のグループに別れて移動します。現代では考えられませんが、当時のユダヤ社会では地域の共同体はまさに家族のようにお互いのことを知っていますから、こうした旅が成り立ったわけです。しかし、今回はそれが災いして、子どものグループの中にイエス様がいないことに気付きませんでした。マリアとヨセフがそれに気付いたのは一日の道のりを歩き終え、その日の宿営地についてからでした。簡単なテントを張るか野宿するかだと思いますが、さすがに寝る時は家族一緒ですので、家族そろって休むために息子を探したマリアとヨセフがどこにもイエス様がいないことにやっと気付きました。見つからないので、捜しながら来た道を引き返しました。恐らく真夜中は灯りもなく、危険もありますので、簡単には移動できなかったでしょうから、結局ユダヤ人の数え方で三日後、私たちの感覚だと一日挟んで二日後にようやくエルサレムの神殿で律法の教師たちに囲まれているイエス様を見つけます。

まだ成人に達していない少年が、大人顔負けの律法の知識と知恵深さをもって対話することに皆が驚き、人だかりが出来ていたので、神殿まで行ったところですぐ見つけたことでしょう。

48節のマリアの言葉は、迷子になった子どもを心配する母親の言葉そのものです。私も娘が迷子になったときのことを思い出します。だいたい同じようなことを言いました。

しかしイエス様は迷子になっていたわけではありません。49節はイエス様の返事が書いてあります。これを読むと、なんだかずいぶん生意気な言い方だなと思うのは私だけではないと思います。

生意気と感じるのは日本語の訳の問題もあると思いますので脇に置いておきますが、ここでは2つの大事なポイントが書かれています。

まずイエス様が神様を「自分の父」と呼んでいることです。これは神と人間に過ぎない自分を同列に置くことなので、自分を神と言っているようなものとされ、ユダヤ人は神を冒涜する言葉と受け取られるものでした。しかし、この時点でイエス様はご自分が父なる神と並ぶ者であると理解していたのです。

二つ目は父の家にいるのは当然であると理解していました。神殿という場所にいるというより、神に仕えることが自分のなすべきことだという意味と思われます。

学者たちは、人間の赤ん坊として産まれたイエス様が、人間と同じように成長のプロセスを辿ったのなら、いつ自分が人であるとともに神であり、メシアであると自覚したかと、答えの出ない問いに格闘しています。ルカの福音書を見る限り、ユダヤの成人を迎える時には、自分が何者かをすでに分かっていたということです。

しかしマリアとヨセフにはイエス様の言っていることが理解できませんでした。それでも、何事もなかったかのように、いつも通りの様子で両親の仕事を手伝い、家族とともに過ごしている様子を見守りながら、我が子がメシアであることの意味をマリアたちも学ばなければならなかったのです。

3.神と人とに愛され

最後の52節はイエス様の成長に関するとてもシンプルなまとめの言葉です。

「イエスは神と人とにいつくしまれ、知恵が増し加わり、背丈も伸びていった。」

3つの面からイエス様が健全に成長していったことが記されています。まず「神と人とにいつくしまれ」ということで、神様の愛と家族やユダヤ教会堂を中心とする地域の共同体の中で育まれて行ったのです。メシヤとして生まれたからといって、王宮に生まれた王子たちのように特殊な環境で特別な育てられた方をしたわけではなく、普通の子どもとして幼少期から成人するまで成長していきました。

もう一つは「知恵が増し加わり」ということで、知識が増えたというよりも、知識を生活に活かす知恵をしっかり身につけて行ったということです。マタイやマルコは、イエス様がメシアとしての働きを始めたたとき、故郷の人たちがイエス様を見て「この人は大工ではないのか」と言って、イエス様の権威を認めようとしなかったことを記録しています。つまり、大工であった父ヨセフの職人としての技術や知恵も学び取って一人前の職人としても働けていたということです。ヨセフが早く亡くなったとも言い伝えられていて、若いうちから母マリアや弟たち妹たちの生活を支えるために一生懸命働いていた時期もあったのでしょうし、父のいない家庭で兄弟たちの世話もして来たことでしょう。「知恵が増し加わり」と簡潔に書いていますが、イエス様もイエス様なりの苦労を重ねながら成長し知恵を身につけていったことが伺えます。

三つ目に「背丈も伸びていった」ということで身体的にも健やかに成長していきました。イエス様が公に働きを始めるのは30歳頃のことですが、それは旅をし、町々を巡り歩き、ひっきりなしに人々の相手をしながらという働きですので、健康で頑強な体でなければなりませんでしたから、こうした身体的な成長は大事なことでした。

イエス様は、ある意味で理想的で健全な成長を遂げていったということができます。現代の多くの人が機能不全に陥った家庭環境の中で苦しみや悩みを抱え、歪みを抱えたまま大人になりますが、健全な成長を遂げた人が何の苦労も悩みもなかったかというと、そんなことはありません。

イエス様に現代人にありがちな家庭問題がなかったからといって私たちの気持ちや悩みが分からないということはありません。メジャーリーグで大活躍している大谷選手がどれほど頑張っているか、人の知らないところで苦労したことやものすごいプレッシャーなど、私たちの知らない苦労も不調も必ずあります。イエス様が理想的に、健全に成長したと書かれていても、記されていない苦労は必ずあったと考えるべきです。ヘブル4:15には「私たちの大祭司は(イエス様は)、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯しませんでしたが、すべての点において、私たちと同じように試みにあわれたのです。」とあります。同じ経験ではなくとも、私たちが人生の中で味わうあらゆる試練、弱さをイエス様はちゃんと分かってくださいます。そうした経験を経ながら、私たちを助けられる者として、神様は成長させてくださったのです。

適用:神であり人である方

今日までのところは、ルカが福音書で描いているイエス様の教えと働きの導入部分になります。イエス様がどのような経緯でお生まれになったのか、どんな人たちのためにお生まれになったのかが描かれてきました。そして、約束されたメシアとして生まれたお方は神でありながら、完全に人間として生まれ、私たちと同じ過程を経て成長された方なのだということを見て来ました。ひと言で言うなら、よく言われるように、イエス様は神であり人である方ということです。

もちろんイエス様には特別な面がありました。12歳にはすでにご自分が何者であるかを理解し、そのために備え始めていたことは、何歳になっても「これが本当に自分のすべきことか分からない」と言う人が多い現代人からすれば、早熟すぎるのではないかとも思えます。13歳で成人するのが当然のユダヤ人の間であっても、イエス様の聖書の理解と知恵とは大人が驚くほどでした。神様を父と呼ぶのは私たちクリスチャンが父なる神様と呼ぶのとは全く意味が異なり、自分を神であると主張するようなものです。それをさらりと言ってしまうことに両親も驚きました。

しかし、それ以外は至って普通の、ユダヤの社会ではよくある、貧しい職人に生まれ、少なくとも4人の弟と2人以上の妹たちがいる兄弟の長男として、勤勉に働いて大工としての腕を磨きながら家を支えながら成長しました。

ではルカがこうしたことを意識してわざわざ福音書に記した意図はなんでしょうか。ルカを導いた神様はテオフィロや私たちクリスチャンにどういうことを考えて欲しかったのでしょうか。

イエス様がどういうお方なのかという捉え方の違いは、私たちの信仰のあり方に大きく影響します。

現代の人気のある捉え方は、イエスは1人の人間だったということです。自分が何者であるか最後まで迷いながら、人々の期待や妬みに翻弄され、死んだ後で神に祭り上げられたみたいなストーリーが好まれます。でもそれではイエス様を信じる意味がありません。生き方から学ぶことはできても私たちを救い新しく生きる力を与えることなんてできはしません。

聖書が書かれた時代に出て来た捉え方は、救い主である方がただの人間なわけはないというもので、中には、実は肉体すら持っておらず、そう見えるように振る舞っていただけだという今考えればとんでもない説が唱えられたりもしました。それならイエス様が十字架で苦しまれた姿は茶番であり、イエス様が私たちの苦しみや痛みを理解してくださるというのは単なる願望でしかないことになります。

マリアとヨセフがそうであったように、救い主であるイエス様が完全に神であると同時に、完全に人間であるということを私たちが頭で理解することはできませんが、聖書が指し示していることをそのまま受け入れ信じる時、はじめて私たちはイエス様のうちに慰めと力を見出すことができます。

妻ががんだということが分かって医大病院で手術と治療を受けるために転院したとき、主治医の先生もがん経験者だと分かったとき、とても安心したのを思い出します。イエス様は私たちの弱さも痛みも分かってくださるだけでなく、その力によって私たちを救い、慰め、助け、造りかえる方です。感謝しつつ、信頼して歩みましょう。

祈り

「天の父なる神様。

今日はイエス様の子ども時代のエピソードを通して、私たちのためにお生まれになったイエス様が、神であり、また人でもあられたことを改めて見て、その意味あいについて深く考えさせられました。

神であり、また完全な意味で人でいてくださったので、イエス様は私たちの苦しみや悲しみ、悩みを分かってくださり、完全に神であられるので私たちを救い、また慰め、また新しく生きる力を与えることができます。

イエス様をそのようなお方として受け入れ、信頼して歩むことができますように。

イエス様のお名前によって祈ります。」