2024年 8月 18日 礼拝 聖書:ルカ 13:10-17
伝道者の書にある有名な格言にこうあります(7:16)。
「あなたは正しすぎてはならない。
自分を知恵のありすぎる者としてはならない。
なぜ、あなたは自分を滅ぼそうとするのか。」
ちょっと皮肉の混じった口調で、自分の正しさや知恵深さをことさら強調したり、過信すること、また自分の正義を他人に押しつけるようなことを戒める言葉です。
神様が聖いお方であるように、あなたがたも聖い者でありなさいとか、愚か者にならないで知恵深くありなさいと教えられている私たちですが、時として人は自分の正しさや知恵を優れたものと勘違いしてかえって人を傷つけ、ブーメランが帰って来るように、自分自身のつまずきとなることがあります。
これは私も経験があって、とても苦い思い出となっています。こういう場合はこうするべきだ、という思い込みが強くて、誠実にやったつもりなのですが、結果としては関わった人たちを傷つけ誰の救いにもならなかったということがあります。そんな記憶と重ね合わせながら今日の箇所を読むと、イエス様は私たちに何を与えようとしているのか、どうあって欲しいと願っておられるのかを考えさせられます。
1.安息を求めて
イエス様が安息日に会堂で教えているとき、そこに18年もの間、腰の曲がって全く伸ばすことのできない病気にかかっている女性がいました。ルカは彼女が「病の霊につかれ」ていたとあります。またイエス様は16節で「サタンが縛っていた」と言います。
いったい彼女はどういう人なのでしょうか。「病の霊につかれ」と訳されていますが、悪霊に憑依されていたという意味ではありません。より正しく訳すと、「霊によって病に冒されていた」ということです。またイエス様は後で彼女に手を置いていますが、他のケースで悪霊につかれた人から悪霊を追い出す際には、イエス様が手を触れることはありませんでした。ですから、悪霊に取り憑かれて墓場で暴れていた人のようなイメージではなく、悪霊の仕業で病に苦しめられていただけの女性です。しかし間違いなく彼女は、そのような病によってサタンの支配下に置かれてはいたわけです。
この病気については、現代の医学なら変形性腰椎症とか後弯症といった診断をするかもしれませんが、どちらも高齢者が掛かりやすい病気だそうです。ただ、福音書の女性がそこまで高齢だったかは分かりません。実際、何の病気だったかというのはそこまで大きな問題ではありません。
問題は、彼女が病の霊の仕業によってそのような症状に18年も苦しめられていたということです。しかし、悪霊によってこのように支配されていたことが、彼女の罪深さとか、悪霊に心を開いていたというようなことではありません。彼女は、ほかのユダヤ人と同様、安息日には会堂に集い、礼拝を捧げともに御言葉を聴くことを習慣としていました。何なら他の人よりも、より真剣に、真実に神を求め、神がくださる安息を求めていたのではないでしょうか。
ただ、彼女のように健康を損ねていることはユダヤ人からしたら神の祝福から外れた人として見られ、「あの人が何か罪を犯したからだ」とか「そこまで酷い病気に長い間かかっているということは、親か先祖のよほどの罪のために違いない」という見方がされがちでした。そのうえ、病の霊につかれているといった噂がまとわりつけば、皆と一緒に会堂で礼拝を捧げていたとしても、会堂の隅のほうになるべく目立たないよう座っていたのではないかと想像されます。
イエス様の時代の状況と私たちの状況は違いますが、それでも苦しみ、心の中で本当の安息を求めていながら、なかなか得られずによけいに辛い思いをしたり、本人に責任はないのに偏見にさらされている人は案外身近なところにいるのかもしれません。
しかし、そんな彼女にイエス様は目を留めてくださいました。
2.奇跡と偽善
この箇所にはイエス様による奇跡と、それに対する会堂司たちの偽善が見事に対比されています。
イエス様が呼びかけると、腰の曲がったままの女性がなんとか近づいてきます。そしてイエス様は言われました。「女の方、あなたは病から解放されました。」
「女の方」というのは、ユダヤ人の間では成人女性に対する丁寧な呼びかけなので、腰の曲がったこの女性に対するイエス様の敬意が表れています。そして、イエス様はちょっと不思議な言い方をしています。普通は病気に関しては「癒す」という言葉を使いますし、悪霊の場合は「追い出す」という言い方をします。病から解放するという言い方はここにしか出て来ないのです。
イエス様が手を置くとすぐに腰が真っ直ぐに伸びました。彼女は自分の体に起こった変化をすぐに感じ取り、18年間ずっと腰をかがめ、地面を見ながら生きてきましたが、今は腰を伸ばし真っ直ぐ立ち、天を仰ぐことができます。彼女はイエス様を通してこのような奇跡をもたらしてくださった神を崇めました。
しかし、この場面に憤りを感じる人がいました。会堂司という立場の人です。以前の訳では会堂管理人と訳されていましたが、ちょっと誤解のある訳でしたのでより相応しい訳に直されました。
会堂司は単に建物の管理をするのではなく、礼拝や律法教育、地域全体のための行事など、会堂で行われるすべてに責任を負っていました。その会堂司が、イエス様のした病気を癒す行為は安息日の律法に違反しているんじゃないかと会堂にいた人たちに問いかけたのです。しかもその言い方が結構意地悪ですね。「働くべき日は六日ある。だから、その間に来て直してもらいなさい。安息日はいけない。」まるで癒された彼女に非があるような言い方です。明らかに病を癒す力を持っておられるイエス様に面と向かって非難することができず、弱い女性を非難し、イエス様ではなく会衆に同調を求める問いかけをしたのです。
イエス様は会堂司と彼に同調する人たちに向かって「偽善者たち」という厳しい言葉を向けました。ユダヤ人にとって6日間働いて安息日はいっさいの仕事をしないというのは、神の民としての生活リズムを支える土台のようなものです。十戒の中で命じられているもので、非常に尊ばれました。彼らはのこの戒めを完全に守るために、安息日に許される行動、移動距離などを細々と決めて守っていました。それらの規則は律法そのものではなく、律法を解釈し、ユダヤ人の生活に合わせて規則化し伝統的に守ってきたものです。あくまで人間の考えた取り決めです。しかしさすがに喉を渇かせた家畜に我慢させるわけにもいかず、つないでいたロープを外し、あるいは小屋から出して水飲み場に連れて行って上げるのです。命を守ることは規則や伝統を守ることより重要だからです。それが分からないはずがありません。会堂司の憤りには、律法に反しているということより、会堂での事柄に責任を負っている自分がないがしろにされたという怒りのほうが大きかったのではないでしょうか。
3.安息を与えるために
イエス様は安息日でも水を飲ませるために家畜をほどいてあげることを引き合いに、病の女性を安息日に癒すことが相応しい行いであることを説明します。
まず、彼女は「アブラハムの娘です」。神の祝福を約束されたアブラハムの子孫であり、神の平和、安息を受け取るに相応しい人です。彼女は「病気の女」「病の霊につかれた女」である以前に、神の民であり、恵み与る権利のある人です。
そんな彼女が自分の落ち度や罪のためではないのにサタンが悪霊を使って18年も縛っていたのです。その束縛は解かれるべきだとイエス様は主張します。この「解く」という言葉は18節で動物たちを「ほどく」と言っているのと同じ言葉です。家畜が一息つくために安息日でもほどいて貰えるなら、アブラハムの娘である女性が18年の苦しみから解放されて安息を得るために、サタンの支配から解放されるのは当然のことです。
そして「安息日に、この束縛を解いてやるべきではありませんか」と、安息日こそが解放に相応しい日ではないかと強調しています。イエス様はこの言葉をもって、安息日についての人々の考え方をぐるっと変えてしまいました。
安息日は働いてはならない日ではなく、安息が与えられるべき日だというのです。週に一度労働から解放され、神との交わりの中で安息を得ることは義務というより権利です。そして肉体的にも心理的にも限りのある人間に休息は必要ですが、病に苦しんでいる人こそその安息を受けられるべきです。
そしてイエス様は、この安息を与えるためにこそ地上に来られた方です。
先ほど「病から解放されました」というのがかなり珍しい言い方だと話したことを覚えておられるでしょうか。
ルカ4:18でイエス様はイザヤ書を引用してご自分が地上に来られた目的について語っています。イエス様は解放し、自由の身とし、主の恵みをもたらすために来られました。究極的には罪と死の支配から解放ですが、それにはサタンの支配から世界を取り戻すことや、人を苦しめるあらゆる苦しみ、弱さ、抑圧から解き放つことをも含んでいます。18年病に捕らわれていた女性が経験したことは特別なことではありましたが、これはイエス様がすべての人に与えようとしている癒やし、安息は確かに与えられるというしるしなのです。
イエス様の簡潔で説得力のある説明に、反対していた人たちは恥じ入り、多くの群衆は逆にイエス様の御わざ、今日の出来事だけでなく、「そういえばあんなことも、こんなこともあった」と口々に挙げながら、輝かしいみわざの数々を喜びました。
適用:主イエスのもとへ
さて、この出来事はどのような教訓を与えているでしょうか。そして私たちにとってどのような意味があるのでしょうか。
続きの18節を見ると「そこで」とつないで「からし種のたとえ」が語られています。どんな種よりも小さいからし種であっても、成長して大きな木になり、鳥が巣をかけるほどになるというたとえは、神の御国がはじめはすごく小さく見え、会堂での人々の反応のように反対する人たちのほうが多く見えたとしても、拡大が止まることはなく、大きく拡がり、あらゆる国の人々が御国に憩うようになるのです。
18年間病で苦しんでいた女性が安息日に解放され、本当の安息を得たことは全体から見たら小さな出来事です。しかし、イエス様がサタンの支配から世界を解放し、御国が拡がっていくことは止められません。ですから、主イエス様のもとに来て安息を得たいと願う人を誰も邪魔したり、止めてはなりません。とくに人間が勝手に考えた正義や宗教的な規則、常識といったものを振りかざして邪魔してはいけないのです。これがどれほどの毒であるかは初代教会が経験したことを見ても明らかです。
初代教会は何度も、異邦人であっても律法を守るべきだと主張する人々の教えと戦わなければなりませんでした。それは新しい人がクリスチャンになることを妨げるだけでなく、自由とされたはずのクリスチャンを再び律法の奴隷にし、恵みから遠ざけ、与えられるはずの癒やし、回復、平安を奪い去ってしまうのです。
もちろん私たちは律法を守るべきだとは誰も主張しません。ですが、もしかしたら、神の安息を得たいという願い、必要のある人たちの邪魔をしていないかと考えてみるべきかも知れません。
おそらく会堂司は自分がそんなひどい事をしているという自覚はなかったのでしょう。自分の領域が荒らされたというイエス様に対する憤りも、律法を持ちだして「明日にすればいいのに」という言葉がどれほどひどいものか自覚していなかったかも知れません。
フィリピンのある牧師は、世界的に著名なビジネスマンや思想家が「自分は文化的クリスチャンだ」つまり、信仰心はないけれど文化的にはキリスト教であると言っているのに対して「彼らは正しい一歩に向かっている」と言って彼らのために祈ろうとSNSに書いていました。私は、そこに挙げられた人たちの顔を知っていて、まあ、正直嫌いな人たちばっかりでしたので、そんなふうに考えたことがありませんでした。
ロケットや電気自動車を作っている億万長者が心の底で何を求めているか知るよしもありませんが、問題は私のほうにあります。私たちがもしかしたら無意識にしている差別や正義や常識の押しつけ、気付かぬうちに聖書を誤解したまま造り上げた道徳についての考え方や習慣が、本当に安息を、救いを求めている人の妨げになっているとしたら恐ろしいことです。私たちの周りにいる人たちの多くは、救いと安息を求めるべき本当の相手がイエス様であることすら知らない人たちですが、心の内にある求めは真実なはずです。
その一人ひとりに福音がちゃんと届き、イエス様のもとに近づけるように、私たちは福音を語るとともに、自分たちが作ってしまう壁について無自覚でいてはいけません。むしろ、安息を求めてイエス様のもとに行きたい人たちを手助けする者になりましょう。
祈り
「天の父なる神様。
イエス様は、私たちに神の平安を、救いを、解放を与えるためにおいでくださいました。その良い知らせを伝えるために私たちは召されています。
この救いは求める人には誰にでも与えられるのですが、時として私たちの考え方、習慣、常識、正義感などが、かえってその邪魔をしていることがあるということを気付かされました。
私たちが正しいと確信していることが、正しすぎるがゆえに誰かを傷つけたり、求める人を妨げたりすることが有り得るという戒めを受け取りました。
どうか、今一度、あなたから私たちが受けた無償の愛と、尽きることのない恵みについて正しく理解し、イエス様と同じ心、同じ思いで、人と関わり、愛と恵みを表していくことができますように。
イエス様の御名によって祈ります。」