2025-01-12 すべての祝福がここに

2025年 1月 12日 礼拝 聖書:エペソ1:15-23

 私はいろいろなことに興味をもってわりと直ぐ手を出してしまいます。好奇心旺盛と言えば良く聞こえますが、飽きっぽさもあるので、何かを極めるということはほとんどありません。

もっと続けていたら、もっとすごいこと、もっと素晴らしい世界が見られたかもしれませんが、ある程度出来るようになったり、一通り経験したら満足してしまうので、残念ながら多くのことが、気ままな趣味のレベルで留まっています。生き抜きのためにやっていることなので、それくらいで良いのだと思っています。

しかし私たちの人生や、次の世代に受け継がれていくようなことがかかっている場合には、そんなふうに適当に済ませるわけにはいきません。

先週に引き続きエペソ書の導入部分を開いていますが、今日の箇所でパウロは祈りを捧げています。時々、祈りながら説教になってしまう牧師がいますが、ちょっとそんな感じもする祈りです。パウロは、教会はもっと凄いはずだということを祈り、語っています。続きを読む →

2025-01-05 世界の基が置かれる前から

2025年 1月 5日 礼拝 聖書:エペソ1:1-14

 まだ完成はしていないのですが、昨年70周年記念誌のまとめをしながら、教会について考えさせられていました。私たちの教会が71年前に始まり、辿って来た道のりには、様々なことがあり、神様の真実さをありありと感じることができますが、同時に、教会や教会の重要な使命である宣教について、十分に理解できていなかったことや失敗がいくつかあったなあとも思わされています。

そして、2024年度の年間主題は「教会再発見」ということでしたが、このテーマでは十分に語って来ませんでした。基本原則の学びをしている方々は教会についてよく考える機会があると思いますが、礼拝ではまとまった取り上げ方をしていませんでした。そこで今年はまず、教会とは何か、ということについてエペソ書を通して教えられていきたいと思います。すでに何度も開いたことのある手紙かもしれませんが、イエス様が「わたしの教会を建てる」と言われたとき、どんな姿を想い描いていたのかをご一緒に学んでいきましょう。続きを読む →

2025-01-01 あなたのあわれみと恵みを

2025年 1月 1日 元旦礼拝 聖書:詩篇25篇1-7節

 新しい一年が始まりましたが、皆さんはどのような一年になることを期待しているでしょうか。何か、具体的な目標を立てた方はおられるでしょうか。

私は一年の初めだからといってあまり計画を立てたりはしないのですが、今年についてはいくつか目標があります。神様から与えられた一年ですから、自分が今の生活や働きを委ねられた意味を考えて、それに相応しくありたいと思います。しかし、皆さんも経験があると思いますが、目標を立てても、計画を立ててもなかなかうまくいかないことがあります。自分自身の怠け根性が出てしまうこともありますし、思いがけない困難に直面することがあります。自分や家族が大きな病気をしてそれどころじゃないということもあります。成功すること自体が人生の目的でないとしても、私たちは与えられた年月をできるだけ誠実にありたいと思います。いのちを与えてくださった神様に対する誠実さであるからです。続きを読む →

2024-12-29 共に生きてくださる神

2024年 12月 29日 礼拝 聖書:マタイ2:13-23

 先週はクリスマス礼拝で、24日にはイブ礼拝を終えたところで、年末でもありますし、「一年が終わったあ」という感じがします。ですが、クリスマスはゴールではなくスタートです。当たり前のことですが、生まれたばかりの幼子イエス様の人としての歩みは始まったばかりです。

今日開いている箇所は、イエス様の誕生を祝うために東の国から訪ねて来た博士たちが帰った後の出来事をいくつかまとめています。その後3章では、いきなりイエス様が30代の頃までスキップしますので、この箇所は子供時代の貴重な記録でもあるわけです。ここから受け取る印象は、王様として生まれたはずの方にしては、ずいぶんと大変な目にあったのだなあということです。

世界を救う方、神の国の王として来られる方の子供時代のすごい奇跡とか、ただ者ではないことを予感させるエピソードではなく、逃げ回り、落ちのびた王というイメージが描かれているのはいったいどういうわけでしょうか。人を救う力はあるのでしょうか。続きを読む →

2024-12-24 慰めの神

2024年 12月 24日 クリスマスイブ礼拝 聖書:イザヤ40:1-2,26-31

 もうすぐ一年の終わりを迎えます。この一年を振り返って何を思いだし、どんな感情がよみがえって来るでしょうか。昨年は12月24日が日曜日で、私の体調も考慮していただいて、クリスマスイブ礼拝のないクリスマスになりました。そのほぼ1週間後の1月1日は能登半島での大きな地震と災害があり、信じがたい思いと悲しみで2024年がはじまりました。この一年、喜ばしいことも、楽しいこともありましたし、悲しいこと、つらいこともありました。いつも誰かが病気であったり、怪我をしたり、手術をしたりして、多くの方々の癒やしのために祈りました。地上での生涯を終えた方々もおられました。

世の中でも様々な動きがあり、令和の米騒動の話題も記憶に新しいところですが、否が応でも、私たちは大きな地球村の一員であることを意識させられます。しかもこの地球村は様々な問題を抱えています。そんな私たちに、神様が聖書を通して「慰めよ、慰めよ」と語りかけていることばに、今日は耳を傾けてみましょう。続きを読む →

2024-12-22 祝福された方

2024年12 月 22日 クリスマス礼拝 聖書:ルカ1:39-56

 イエス様がお生まれになるおよそ10ヶ月前、イエス様の母となるマリアは親戚のエリサベツのもとを尋ねていました。マリアが暮らしていたナザレも小さな田舎町でしたが、エリサベツが暮らすのは、さらに山地のほうの小さな町でした。

マリアがエリサベツを尋ねたのは、エリサベツが長い間子どもが出来ないまま年老いてしまったのに、神の力によって子どもを身籠もることができたと天使から聞いたからでした。それを聞いたのは、その天使によってマリアが救い主、キリストとなる男の子を身籠もるという、これまたあり得ないことを告げられた時でした。天使は、人間には不可能なことだけれど、神には出来るのだという一つの確証として、エリサベツが身籠もったことを挙げたのです。

今日は、二人が顔を合わせた時の、それぞれの歌に注目し、本当に祝福された人とはどういう人なのか、考えてみましょう。続きを読む →

2024-12-15 どうか希望の神が

2024年 12月 15日 礼拝 聖書:ローマ15:4-13

 知り合いの臨床心理の先生が、第一線を退くことになったベテランの心理学者に質問しました。「人は人生の最後に何をすべきですか」。そのベテラン先生は何と答えたでしょうか。その先生は迷うことなく「それは和解です」と答えたのだそうです。続きを読む →

2024-12-01 この人は誰なのか

2024年 12月 1日 礼拝 聖書:マタイ21:1-11

 今日からクリスマスまでの4週間、クリスマスを待ち望むアドベントの期間になります。先週、掃除の後でクリスマスの飾り付けもして、ちょっとずつ、クリスマスモードになって来ました。

言うまでもなく、クリスマスはイエス・キリストのお生まれを祝う時なわけですが、新約時代の教会にはそういう習慣はありませんでした。続きを読む →

2024-11-24 涙とともに蒔く者は

2024年 11月 24日 礼拝 聖書:詩篇126:1-6

 多くの人は努力すれば、頑張れば報われるはずだと信じ、期待していますが、往々にしてその期待は外れます。

日米で野球選手として成功したイチローさんが「努力したら報われるって思ってる人は見返りを求めてる。これだけのやったから、必ず報われるはずだ、その見返りを求める姿勢がダメ」また、「努力してるかどうかは第三者が決めること」と何かのインタビューで話していて話題になったことがあります。ただ、そんなイチローさんも高校野球児たちへの指導の中で「野球に手品、マジックはない、とにかく積み重ねてモノにするしかない」と“継続”の大切さを語っています。がんばったから成果が出るはずだと期待するのと努力によってしか実力や自信は身につかないということは別なことだという何とも禅問答のような話しです。続きを読む →

2024-11-17 私たちの生き方

2024年 11月 17日 礼拝 聖書:ローマ14:7-13

 今日、クリスチャンの生き方と一口に言っても、様々なスタイルがあり、いったい何が正しいのかよく分からなくなります。私が青年時代を過ごした頃は、自分たちの教会グループの人たちと知り合う機会が殆どなく、まさに井の中の蛙でした。様々な伝統や考え方があるのを知ったときは本当に驚きでした。自分たちが当たり前だと思っていたことが当たり前ではありませんでした。自分たちよりもずっと砕けた、自由な感じのクリスチャンの生き方もあれば、風呂から上がったらまたネクタイを締め直すようなお堅い生き方もありました。

それ以来、それぞれの考え方に従ってやればいいのだと思うようになりましたが、現代の教会が問われているのは、それぞれが確信しているライフスタイルはそもそも、本当に聖書に根ざしているのか、ということです。続きを読む →