2025-02-02 ともに築き上げられる

2025年 2月 2日 礼拝 聖書:エペソ2:11-22

 「根無し草」とは、もともとは浮き草のように、根が地中に下りていない草のことだそうですが、一般的な使い方としては、住所や職業、また考え方の土台に定まった所がないような生き方をしている人を喩えて言うことが殆どです。

イエス・キリストを信じて、その信仰の告白としてバプテスマを受けた人は教会に加えられますが、時折、そうやって加えられた教会と深い関わりを持たずに歩もうとするクリスチャンがいます。いろいろな事情がありますから、一概には言えませんが、かなり多くの場合、そうした生き方は根無し草のようになってしまいます。植物としての根無し草はそういう習性の生物ですからそれで健康なのですが、信仰の根無し草は、クリスチャンの本来のあり方ではないので、弱く、不健全になりがちです。

今日は、エペソ書の続きの箇所から、私たちが根を張るべき場所としての教会について学んでいきましょう。続きを読む →

2025-01-19 新しいいのち、新しい生き方

2025年 1月 19日 礼拝 聖書:エペソ2:1-10

 「救い」とは何でしょうか。ある人は、今まさに苦しんでいる事柄、悩みから解放されることを救いと捉えます。ある人は死んだ後に地獄に行って苦しむのではなく天国にいってハッピーになれることを救いと捉えます。またある人は、この世の限られた人生で終わりではなく、永遠のいのちが与えられていることを救いと捉えます。実際の問題が解決しなくても、気持ちが晴れるなら、それで救われたという人もいます。それら一つ一つはイエス様によって与えられる救いのある面を表していると言えますが、それが全てではありません。一部だけで満足するなら、これからフルコースの料理が待っているのに、前菜だけ食べて「こんなに美味しいの食べたことない」といって満足して帰ってしまうようなものです。

聖書は救いについて何を教えているでしょうか。今日はエペソ書の続きから、イエス・キリストによって与えられる救いがどのようなものなのかをご一緒に学びましょう。すでにイエス様を信じている人も、何が与えられているのか、あらためて学びましょう。続きを読む →

2025-01-12 すべての祝福がここに

2025年 1月 12日 礼拝 聖書:エペソ1:15-23

 私はいろいろなことに興味をもってわりと直ぐ手を出してしまいます。好奇心旺盛と言えば良く聞こえますが、飽きっぽさもあるので、何かを極めるということはほとんどありません。

もっと続けていたら、もっとすごいこと、もっと素晴らしい世界が見られたかもしれませんが、ある程度出来るようになったり、一通り経験したら満足してしまうので、残念ながら多くのことが、気ままな趣味のレベルで留まっています。生き抜きのためにやっていることなので、それくらいで良いのだと思っています。

しかし私たちの人生や、次の世代に受け継がれていくようなことがかかっている場合には、そんなふうに適当に済ませるわけにはいきません。

先週に引き続きエペソ書の導入部分を開いていますが、今日の箇所でパウロは祈りを捧げています。時々、祈りながら説教になってしまう牧師がいますが、ちょっとそんな感じもする祈りです。パウロは、教会はもっと凄いはずだということを祈り、語っています。続きを読む →

2025-01-05 世界の基が置かれる前から

2025年 1月 5日 礼拝 聖書:エペソ1:1-14

 まだ完成はしていないのですが、昨年70周年記念誌のまとめをしながら、教会について考えさせられていました。私たちの教会が71年前に始まり、辿って来た道のりには、様々なことがあり、神様の真実さをありありと感じることができますが、同時に、教会や教会の重要な使命である宣教について、十分に理解できていなかったことや失敗がいくつかあったなあとも思わされています。

そして、2024年度の年間主題は「教会再発見」ということでしたが、このテーマでは十分に語って来ませんでした。基本原則の学びをしている方々は教会についてよく考える機会があると思いますが、礼拝ではまとまった取り上げ方をしていませんでした。そこで今年はまず、教会とは何か、ということについてエペソ書を通して教えられていきたいと思います。すでに何度も開いたことのある手紙かもしれませんが、イエス様が「わたしの教会を建てる」と言われたとき、どんな姿を想い描いていたのかをご一緒に学んでいきましょう。続きを読む →

2025-01-01 あなたのあわれみと恵みを

2025年 1月 1日 元旦礼拝 聖書:詩篇25篇1-7節

 新しい一年が始まりましたが、皆さんはどのような一年になることを期待しているでしょうか。何か、具体的な目標を立てた方はおられるでしょうか。

私は一年の初めだからといってあまり計画を立てたりはしないのですが、今年についてはいくつか目標があります。神様から与えられた一年ですから、自分が今の生活や働きを委ねられた意味を考えて、それに相応しくありたいと思います。しかし、皆さんも経験があると思いますが、目標を立てても、計画を立ててもなかなかうまくいかないことがあります。自分自身の怠け根性が出てしまうこともありますし、思いがけない困難に直面することがあります。自分や家族が大きな病気をしてそれどころじゃないということもあります。成功すること自体が人生の目的でないとしても、私たちは与えられた年月をできるだけ誠実にありたいと思います。いのちを与えてくださった神様に対する誠実さであるからです。続きを読む →

2024-12-29 共に生きてくださる神

2024年 12月 29日 礼拝 聖書:マタイ2:13-23

 先週はクリスマス礼拝で、24日にはイブ礼拝を終えたところで、年末でもありますし、「一年が終わったあ」という感じがします。ですが、クリスマスはゴールではなくスタートです。当たり前のことですが、生まれたばかりの幼子イエス様の人としての歩みは始まったばかりです。

今日開いている箇所は、イエス様の誕生を祝うために東の国から訪ねて来た博士たちが帰った後の出来事をいくつかまとめています。その後3章では、いきなりイエス様が30代の頃までスキップしますので、この箇所は子供時代の貴重な記録でもあるわけです。ここから受け取る印象は、王様として生まれたはずの方にしては、ずいぶんと大変な目にあったのだなあということです。

世界を救う方、神の国の王として来られる方の子供時代のすごい奇跡とか、ただ者ではないことを予感させるエピソードではなく、逃げ回り、落ちのびた王というイメージが描かれているのはいったいどういうわけでしょうか。人を救う力はあるのでしょうか。続きを読む →

2024-12-24 慰めの神

2024年 12月 24日 クリスマスイブ礼拝 聖書:イザヤ40:1-2,26-31

 もうすぐ一年の終わりを迎えます。この一年を振り返って何を思いだし、どんな感情がよみがえって来るでしょうか。昨年は12月24日が日曜日で、私の体調も考慮していただいて、クリスマスイブ礼拝のないクリスマスになりました。そのほぼ1週間後の1月1日は能登半島での大きな地震と災害があり、信じがたい思いと悲しみで2024年がはじまりました。この一年、喜ばしいことも、楽しいこともありましたし、悲しいこと、つらいこともありました。いつも誰かが病気であったり、怪我をしたり、手術をしたりして、多くの方々の癒やしのために祈りました。地上での生涯を終えた方々もおられました。

世の中でも様々な動きがあり、令和の米騒動の話題も記憶に新しいところですが、否が応でも、私たちは大きな地球村の一員であることを意識させられます。しかもこの地球村は様々な問題を抱えています。そんな私たちに、神様が聖書を通して「慰めよ、慰めよ」と語りかけていることばに、今日は耳を傾けてみましょう。続きを読む →

2024-12-22 祝福された方

2024年12 月 22日 クリスマス礼拝 聖書:ルカ1:39-56

 イエス様がお生まれになるおよそ10ヶ月前、イエス様の母となるマリアは親戚のエリサベツのもとを尋ねていました。マリアが暮らしていたナザレも小さな田舎町でしたが、エリサベツが暮らすのは、さらに山地のほうの小さな町でした。

マリアがエリサベツを尋ねたのは、エリサベツが長い間子どもが出来ないまま年老いてしまったのに、神の力によって子どもを身籠もることができたと天使から聞いたからでした。それを聞いたのは、その天使によってマリアが救い主、キリストとなる男の子を身籠もるという、これまたあり得ないことを告げられた時でした。天使は、人間には不可能なことだけれど、神には出来るのだという一つの確証として、エリサベツが身籠もったことを挙げたのです。

今日は、二人が顔を合わせた時の、それぞれの歌に注目し、本当に祝福された人とはどういう人なのか、考えてみましょう。続きを読む →

2024-12-15 どうか希望の神が

2024年 12月 15日 礼拝 聖書:ローマ15:4-13

 知り合いの臨床心理の先生が、第一線を退くことになったベテランの心理学者に質問しました。「人は人生の最後に何をすべきですか」。そのベテラン先生は何と答えたでしょうか。その先生は迷うことなく「それは和解です」と答えたのだそうです。続きを読む →

2024-12-01 この人は誰なのか

2024年 12月 1日 礼拝 聖書:マタイ21:1-11

 今日からクリスマスまでの4週間、クリスマスを待ち望むアドベントの期間になります。先週、掃除の後でクリスマスの飾り付けもして、ちょっとずつ、クリスマスモードになって来ました。

言うまでもなく、クリスマスはイエス・キリストのお生まれを祝う時なわけですが、新約時代の教会にはそういう習慣はありませんでした。続きを読む →