2022-01-30 喜んで与える人は

3回にわたって献金についてまとまったお話をしていますが、今日はその最後の回になります。

これまでカインとアベルのささげ物の物語、アブラハムがメルキゼデクに十分の一を与えたことを中心に、ささげ物の大切な意味、十分の一の精神は何かということを見てきました。ささげ物は神様の恵みと祝福の中にあることへの感謝と、これからも主が支えてくださることへの信頼を表す礼拝そのものでした。また、すべて与えられたものの一部は神のものであり、そのささげ物を通して地上での神のみわざがなされることを見てきました。

十分の一という律法は新約時代は無効になったとはいえ、献金はしてもしなくても良いもの、余裕があればしたらいいようなものではありません。今もなお、私たちは神の恵みの中を生かされているのであり、私たちのささげ物をとおして主はご自身の御わざをなさろうとしているのですから、喜んでそのわざに加わっていきたいものです。続きを読む →

親切

みなさん、おはようございます。
ひいきのクリーニング屋さん閉店のことを書いて思い出したことがあります。神学生だった頃、寮の近くにたまに利用するクリーニング店がありました。学生の分際で、という気もしますが、当時アイロンを持っていなかったので、たまに着るワイシャツはクリーニングに出してたりしました。カーブした坂道の途中にあって、そこもチェーン店の取り次ぎだったわけですが、やはりお店の方が親切でちょっとまけてくれたりして。でも、ある時、久しぶりに行ったら「実はもう店をたたむことになって」と申し訳なさそうな顔をしています。そんなことは知らずに洗濯物を持っていった私を見て「でも特別に最後に預かります」と言ってくれたのでした。ちょっと寂しかったですね。
親切にしてくれた人のことって忘れないものです。親切は愛のしるしであり、御霊の実であり、この世にあって良き証しとなりうるものです。機会のあるごとに互いに、また他の人に親切であるようにしましょう。

“互いに親切にし、優しい心で赦し合いなさい。神も、キリストにおいてあなたがたを赦してくださったのです。” エペソ 4:32

菅原さんのお父様の容体が思わしくありません。どうぞお祈りください。

覚えられている

みなさん、おはようございます。
我が家ではそれほどひんぱんにクリーニング屋さんを使うわけではありませんが、それでもたまにクリーニングを頼む時には決まって「ここ」というところがありました。ですが残念ながらお店をたたんで、建物も解体されはじめました。チェーン店ですからどこで頼んでも違いはないのですが、そのお店の方がとっても良い人で、頼む時にはここという気持ちにさせてくれるのです。我が家のようにそう何度も使うわけではなくても、顔と名前を覚えていてくれて、「佐々木さんだよね」と言って、ささっとタグに書き込んでいきます。すべてのお客さんの名前を覚えているわけじゃないと何かのおりに聞いたことがあります。でも、覚えられているというのは嬉しいですね。
イエス様も私たち一人一人を覚えていてくださいます。それは本当に嬉しいことです。そして、誰かにお会いしたときに自分が覚えられていることも嬉しいですし、励まされます。自分もそのようにありたいと思いながらもどうも不得意で、名前と顔が一致しなかったり、せっかく向こうが覚えていてくれるのにこちらは「どこで会ったんだっけ?」と焦ったりすることが多い始末。クリーニング屋のおばちゃんを思い出しながらしんみりしてます。

“門番は牧者のために門を開き、羊たちはその声を聞き分けます。牧者は自分の羊たちを、それぞれ名を呼んで連れ出します。” ヨハネ 10:3

今日は婦人会と祈祷会があります。午後は神学校の理事会にオンラインで出席します。

佐々木真輝

良い知らせ

みなさん、おはようございます。
ようやく良い知らせが届きました。心配していた利用者さんも陰性ということで、家内も放免ということになりました。そしてもう一つ、良い知らせ。先週末、高校入試を受験したIくん合格の報告がありました。ほんとに良かったです。
良い知らせは安心、喜びをもたらしてくれます。というか、喜びや安心を与える知らせだから良い知らせなんですね。イエス様の福音が良い知らせと呼ばれるのも、私たちに自由を与え、平安と喜びへと至らせてくれるからです。

“神である主の霊がわたしの上にある。
貧しい人に良い知らせを伝えるため、
心の傷ついた者を癒やすため、
主はわたしに油を注ぎ、
わたしを遣わされた。
捕らわれ人には解放を、
囚人には釈放を告げ、” イザヤ 61:1

佐々木真輝

聞く必要のある知らせ

みなさん、おはようございます。
先週後半に家内が「濃厚接触者の可能性がある人の接触者」となり、その後「濃厚接触者の接触者」と立場が変わり、昨日の夜には濃厚接触者の方の検査結果が伝えられるはずでした(ただし直接ではなく関節的に)。今か今かと電話を待っていましたが、結局来ませんでした。職場で検査もしていて異常はないので大丈夫ではないかと思いますが、それでもきちんとした結果が分からないと次の行動を決めにくいですし、どこまで影響が及ぶか計りにくくなります。どちらにしても聞いて嬉しい知らせではありませんが、聞く必要のある知らせです。
聞くべきことと言えば、イエス様のことばもそうです。そのみことばは希望と慰めですが、私たちに後ろめたさや頑なさがあるときには、厳しく、聞きたくないと思えることがあります。そのことば、その真理こそが私たちを自由にしてくれる、聞く必要のあることばです。

“…「あなたがたは、わたしのことばにとどまるなら、本当にわたしの弟子です。
あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。」” ヨハネ 8:31-32

佐々木真輝

2022-01-23 十分の一の精神

2022年 1月 23日 礼拝 聖書:創世記14:17-20

 先週から献金についてお話していますが、今日はよく耳にする「十分の一献金」ということについてお話します。

何のことかと思う方もいると思いますので、まずは言葉の説明からはじめます。「十分の一献金」や「什一献金」という言い方があり、これは毎週の礼拝での感謝の献金とは別に、収入の十分の一を神様のご用のために献金することを云います。

十分の一というのは、わりと大きな額になりますし、収入の少ない人ほど負担感が大きく感じられると思います。そうなると適正な献金額はいくらなのか、考え込んでしまいます。場合によっては喜んで献げるというより、決まりに従っているという感覚のほうが強い場合もあります。あるいは、十分の一という割合の基準をどう考えるのか迷いがあるかもしれません。総収入なのか、手取りなのか、共働きの時はどうするのか、未信者の夫の収入だけで生活している場合はどうなのか。まあまあ細かい話しになりますし、金額に目が行けばいくほど喜びも薄れます。続きを読む →

道幅

みなさん、おはようございます。
昨日、婦人会のときに教会の前の通りではトラック同士のすれ違い事故がありました。道の両側に雪が積み上がった上に段差が出来ていて、お互いに傾いた状態ですれ違おうとしたための接触事故だったようです。たまたま教会の前だったので、とても申し訳ない気持ちもしました。教会の周りや歩道部分だけで精一杯で、道路側の除雪まではできないのでほんとに申し訳ないです(皆さんもどうぞお気を付けて)。
道幅が狭くなると詰まりやすいとなると、車だけでなく血管の狭さくとかもイメージされますが、神様とのつながりもいろんな「あか」がこびりついて細く弱くなって、滞りが起こってしまいます。人間同士の交わりにもそういうことがあります。そういう「詰まり」は自力ではどうしようもなく、誰かの助けが必要な事があります。神様の助け、人の助けを受けながら豊かな流れを味わわせていただきましょう。

“直ぐな人の大路は悪から遠ざかっている。
自分のたましいを守る者は自分の道を見張る。” 箴言 16:17

今日は*****さんの誕生日です。祝福をお祈りいたします。

佐々木真輝

レパートリー

みなさん、おはようございます。
昨日の夕飯のために「きんぴらごぼう」を久しぶりに作りました。七味唐辛子でピリっと仕上げるのが好みです。ほとんど同じ調理方法で、レンコンやウドなんかでも「きんぴら」が作れます。日頃から料理をしている人は、同じ材料からいろんな料理を作ったり、同じ調理法で材料を変えてアレンジしたりと様々なレパートリーを持っているのでしょう。
基本を知っていれば様々な状況に対応しやすいのは料理だけでなく、様々な仕事の技術に言えることです。そして信仰生活にも同じことが言えます。毎回レシピ本通り、マニュアル通りにするのではなく、基本を応用して創意工夫できることが信仰による生活を彩り豊かに、また長続きさせる秘訣です。

“知恵のある者は聞いて洞察を深め、
分別のある者は導きを得る。” 箴言 1:5

今日は*****さんの誕生日です。祝福をお祈りします。
婦人会と祈祷会もあります。午後は神学校の教師会です。

佐々木真輝

私は小さい火

みなさん、おはようございます。
ずっと昔、アメリカの警察官が採用しているという謳い文句の懐中電灯が流行し、その辺のホームセンターでもよく売られていました。大きなものは警棒代わりにもなるという事でしたが、さすがにそこまでの必要はないので、単三電池2本で光るものを購入し、愛用していました。といっても豆電球より小さい麦球と呼ばれる電球の光はLED時代の今となってはいかにも暗く、ここのところ活躍の場がありませんでした。しかし、このライトをLED化できるキットがあると知って、さっそくトライしてみました。オレンジがかった味のある光の色味ではなくなりましたが、確かに明るくなり、たぶん電池の持ちも良くなったのではないかと思います。
子ども讃美歌の「わたしはちいさい火(This Little Light Of Mine)」という歌を思い出しました。イエス様は、クリスチャンは世界の光だと言われましたが、圧倒的に大きな世界で私たちの光はいかにも小さく感じます。隠してしまいたい誘惑にかられ、また吹き消そうとする悪しき風も吹くでしょうが、それでもこの小さな光をかかげ続けていこうと励ましてくれます。

“このように、あなたがたの光を人々の前で輝かせなさい。人々があなたがたの良い行いを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようになるためです。” マタイ 5:16

今日は****さんの誕生日です。祝福を祈ります。
午後からは神学校のオンライン会議があります。良い話し合いとなりますようお祈りください。

佐々木真輝

忘れない

みなさん、おはようございます。
昨日は阪神淡路大震災から27年目という日でした。良い思い出や楽しい記憶ではありませんが、忘れられない、忘れてはならない記憶の一つです。「忘れない」という言葉を何度も目にし、耳にしましたが、果たして何を記憶し、忘れないようにしたらよいのかも大事なポイントですね。犠牲になった方々やあのひどい現場で他者のために行動した人たちのことを忘れないというのも大事ですし、教訓を忘れないことも大事です。人間は忘れやすいもので、津波警報のアラームやサイレンもただうるさい騒音と捉えてしまう人もいたようです。人間には正常性バイアスといって相当の危機の時でも「自分は大丈夫」「今回は大丈夫」「まだ大丈夫」と思いたがる傾向があります。そんなところにも苦い経験でも記憶し、語り継ぐ必要性を感じます。
苦い記憶を忘れないというのは災害だけではありません。私たちの過去の失敗や罪がもたらした結果なども忘れてはいけないものかもしれません。赦されているのですから罪悪感に捕らわれ続ける必要はありませんが、未来への教訓として大切な経験です。

“私が良い教訓をあなたがたに授けるからだ。
私の教えを捨ててはならない。” 箴言 4:2

佐々木真輝