敵もさるものだけれど

みなさん、おはようございます。
うわさの副反応というやつを味わいましたが、木曜日の夕方、もらっていた薬を飲んで一晩寝たら元気になっていました。ところで最近のコロナ関連か権力闘争のニュースばかりが流れるようなこのところ、気持ちを少し高揚させてくれるのが、我らが岩手出身の大谷翔平選手の活躍です(今年ずっとでしたが)。ただホームラン王は難しそうです。何しろ残り試合の相手は優勝争いに残れる可能性がまだあるチームですから一試合も負けるわけにはいかず、わざわざ大谷選手と勝負することはせず敬遠を選択する可能性が高いのです。実際の試合がどうなるかわかりませんが、最後まで楽しみ、応援したいものです。
敵も賢いので、勝てないとなるとずる賢く振る舞うのは悪魔も同じです。イエス様によって悪魔の敗北は決定付けられていますが、何とか一矢報いようとずる賢く立ち回ります。彼らの常套手段のひとつは間違ったものを恐れさせることです。私たちが恐れるべきは悪魔でも、人でも、自分の失敗でも、死でさえなく、ただおひとりこの世界を造り、治めておられる方だけです。

“あなたの神、主の命令を守って主の道に歩み、主を恐れなさい。” 申命記 8:6

佐々木真輝

カメの歩み

みなさん、おはようございます。
昨日、とある市道を車で走っていると、道路の真ん中になにやら黒い影。「ああ、かわいそうにネコかなにか轢かれちゃったかな」と思いましたが、何やら動いています。「あれ?ゴミ袋か何かかな?」と思いつつ目の前まで来ると、それが一生懸命道路を渡ろうと歩いている亀だということにようやく気づきました。なんのためにわざわざ危険な道路を渡ろうとしていたのはわかりませんし、すぐに通り過ぎてしまったので、無事に渡りきったかも確認できませんでした。ほっこりするような場面でしたが、亀にとっては必死ですね。きっと止むに止まれぬ事情があってなんとしても渡る必要があったのでしょうね。
他人からしたら不格好だったり、つたなかったり、こっけいに見えても、自分はただただ一生懸命、必死にもがいていることがあります。他人の評価なんて気にしている場合ではありません。今与えられている持てる力で道路を渡りきるだけです。

“私たちの心はたじろがず
私たちの歩みはあなたの道からそれませんでした。” 詩篇 44:18

今日は2回目のワクチン接種で、その後、神学校のプロジェクトチームのミーティングです。

佐々木真輝

人気のお店

みなさん、おはようございます。
先日、本当に久しぶりの「講壇交換」を終え、午後の大船渡での礼拝に向かう途中、お昼ごはんにと目星を付けていたお店がありました。コロナでなければ多分、盛岡の教会でお昼ごはんを共にしながらの交わりが合ったのでしょうが、そういう楽しみはもう少し先のことです。なかなかの人気店らしく、いつも混んでいるとの情報もありました。実際、お店に行ってみるとすでに駐車場に空きはなく、店の外で並んで待っている人たちが。「やっぱりか」と思いながら、時間もそれほど余裕はありませんし、このご時世、混み合っている店に入るのもためらわれますので、そのまま店を後にしました。
人気のお店にはそれなりの理由があります。美味しい、安い、雰囲気がいい、接客がいいなどなど。一時的に話題になっているだけのこともありますが、長く支持されていることもあります。神を敬うことは人気があることとはまるで違うことではありますが、価値を認め、大事に思うという点では似ていなくもありません。そして私たちは、やがていつの日か、すべての人が造り主であり、救いである神様の前にひれ伏し、ほめたたえる時が来ることを信じています。

“神よ 諸国の民があなたをほめたたえ
諸国の民がみな あなたをほめたたえますように。” 詩篇 67:3

今日は*****さんの誕生日です。祝福をお祈りします。

佐々木真輝

二年ぶり

みなさん、おはようございます。
今日は本当に久しぶりに「講壇交換」が行われます。私の休暇の時などに何人かの先生においでいただいたことはありましたが、お互いに行き来する講壇交換というかたちで行われたのは2019年の6月以来のこととなります。講壇交換は牧師同士が行き来すればいいだけなので、教会同士の交流としてはいちばん手軽にできるものです。教会にとってはいつもとはちょっと違った視点や語り口でメッセージを聞くことができますし、牧師にとっても他の教会の礼拝から学んだり感じたりすることがたくさんあります。
そんな簡単なことが二年もできなかったのは、これまた新型コロナのためです。県内の感染状況もだいぶ落ち着いてきたおかげで今回、実施する決断をしたわけですが、これから少しずついろいろなことが再開できたら嬉しいですね。油断はできませんが、期待もしたいと思います。

“望みを抱いて喜び、苦難に耐え、ひたすら祈りなさい。” ローマ 12:12

午後はそのまま大船渡に向かいます。

佐々木真輝

2021-09-26 勇気を出して

2021年9月26日 礼拝 聖書ヨハネ16:31-33

盛岡みなみ教会牧師 大塚史明

1.苦難において

今朝、北上のみなさんとご一緒に礼拝をささげられる恵みに感謝します。私たち一人ひとりに用意されたみことばの恵み、力をごいっしょに味わいましょう。この場面は、主イエスが十字架にはりつけにされる前日(過越の祭の前13:1)です。13章から弟子たちの足を洗われ、17章からは祈りに入りますので、これが弟子たちに直接お話になる最後のまとまった言葉とも言えます。「世にあっては苦難があります」。これは「もはやわたしを見なくなる」(10節)ことから来る苦難です。弟子たちの目の前からイエスさまがいなくなり、それも十字架で殺されてしまう。その失望感、絶望はまさに音を立てて心の牙城が崩されるものです。「あなたがたは今は悲しんでいます」(22節)と描き出されているのは、弟子たちの表情にまで、悲しみや弱さがにじみ出ていたことがわかります。私たちにも同様の苦難があります。神の計画がわからないとき、孤独を感じるとき、暗闇に取り残されるとき、はっきりと悲しみが顔色や表情、うつろな返事や気力のなさに出てきます。神さまに不信感を抱いてしまうことだってあります。しかし、その苦難をなかったことにせず、優等生ではなく、悲しみをしっかりと悲しむことをイエスさまは教えてくださっています。「それぞれ散らされて」(32節)という言葉もとても象徴的です。今、コロナによって貧富や階級、環境の違いがはっきりと出てきています。職種や立場の違いによって強いられる生活や背負う重荷も違います。不公平さややるせなさに怒ったり、胸が苦しくなったりします。今朝、その私たちを見ているかのようにして、イエスさまは言われます。「世にあっては苦難があります」。これをしっかりと受け止めて、次に進みましょう。主が導かれる解決の道が見えてきます。

2.勇気を出して

苦難があるから諦めなさいでは救いがありません。だから「苦難」に続いて「しかし、勇気を出しなさい」(33節)とイエスさまは言われます。これは他の箇所では「しっかりしなさい」と訳されてもいます(マタイ9:22、14:27等)。心弱り、悲しんでいる者の目の前に来てかけてくださるのがこの「勇気を出しなさい」という言葉です。あなた自身や周囲、地域や社会の中で、病や混乱に押しつぶされそうな場面、こらえきれない苦境がのしかかっている状況があることを知っています。しかし、私たちはその現実だけではなく、ここに来て「しっかりしなさい」「勇気を出しなさい」と語ってくださるお方がいることも知っています。この方に会うことが、この方の声を聴くことがまさに礼拝です。現状にかき消されることなく、この声を私たちもしっかりと聞き、受け止めます。神を見失い、自分の視野で見えるものに飲み込まれてしまうことがありませんように。

3.世に勝利する

困難にあって勇気を出すことは、私たちを落ち着かせるためだけではありません。それだけなら、世にある書籍でも気晴らしでも、メンタリストの言葉でも取り入れれば済みます。しかし、聖書があなたにもたらすのは「主にある平安」であり「主にある勝利」です。「あなたがたがわたしにあって平安を得るため」(33節)と詳しく言っておられるのはそのためです。私たちの平安や満足は、一時的なものでごまかされそうになります。けれど、それが本物かどうかを見極める必要もあります。たとえば、病気のときにはそれが治ることが平安ですが、自分の人生を考えたときには病気になるかならないかが、重要ではなくなります。もし、あなたが今日死ぬとしたら、自分に対してどんな質問をするでしょうか。「私は世でうまくやっただろうか」「病気にも事故にもあわなくて本当によかった」と満足するものではないはずです。それよりも「自分の人生に本当に意味があったのだろうか」「自分が生きたことが他の人に良い証しになっただろうか」そういうことを考えるのではないでしょうか。イエスさまとお会いするとき、聖書から語られるとき、私たちは普段からこのようなことを考えられる恵みの場に引き出されるのです。そして「世に勝ちました」と主イエスが言われたのは、長寿や富を築いたという意味ではありませんね。世の圧力、誘惑に屈することなく、父なる神のみこころに従い通した栄冠です。この勝利を目指して、私たちも行くのです。

空も飛べるはず

みなさん、おはようございます。
市内の大堤には、白鳥の家族が住み着いています。飛べなくなった親の間に生まれた二羽の子白鳥がいます。友人の話によると、その二羽が、親白鳥に励まされて、ついに飛ぶ練習を始めたのだそうです。そして、SNSにあげられたビデオには、大堤の水面を低く飛ぶ二羽の若い白鳥の姿がしっかりと映っていました。これにはちょっと感動しました。最近は「親ガチャ」なんて言葉が流行っていて、ちょっといやな気分になっていました。ガチャというのはゲームでアイテムをゲットするための運任せのくじのようなもので、良い親に当たればラッキーだけど、悪い親に当たればもう人生終わったも同然くらいの考え方です。ちょっと前の勝ち組、負け組とか毒親といった言葉に通じるものがあります。確かに生まれついた環境や受け継いだ資質みたいなのが成長や性格に大きな影響を与えるのは確かです。
でも、飛べない白鳥の子どもたちが飛び立ったことを思い巡らしながら、親や環境のせいばかりにしないで、自分がどうありたいのかという意志と、神様が助けてくださるなら大丈夫という信仰がもっと大事でなと思わされます。若い人たちや子どもたちには、飛べるように励ましたいですし、大人の皆さんには、自分のせいだと自分を責めてほしくはありません。

“しかし、主を待ち望む者は新しく力を得、
鷲のように、翼を広げて上ることができる。
走っても力衰えず、歩いても疲れない。” イザヤ 40:31

昨日は*****さんの、今日は****さんのの誕生日。祝福を祈ります。

月影を眺めながら

みなさん、おはようございます。
今年の中秋の名月は満月だということで、夕方くらいから時々空を見上げていましたが、残念ながらの曇り空。それでもわりとはやい雲の流れの合間にときどき明るく大きな月が見え隠れしていました。月見団子も、月見バーガーもありませんでしたし、外に出るでもなく家の中から窓越しに眺めるだけですが、ちょっとだけ深まる秋や収穫の喜びに思いをはせました。
もちろん私たちからの見え方が違うだけで、月はいつだって雲のうえにありますし、しかも、いつだって丸いのです。神様も、私たちからの見え方がその時々の状況や心のあり方でだいぶ違うように思えますが、いつも変わらず私たちとともにおられ、いつもかわらず完全なお方です。それは私たちにとって考えも及ばない高みにあるようでもあり、同時に、決して変わらず揺るがされることのない確かさでもあります。

“天が地よりも高いように、
わたしの道は、あなたがたの道よりも高く、
わたしの思いは、あなたがたの思いよりも高い。” イザヤ 55:9

佐々木真輝

隠されていた生産者の名前

みなさん、おはようございます。
昨日、夕飯のときに「なめこ」の缶詰を使いました。味噌汁にしたり、大根おろしと合わせたりして美味しくいただきました。食事の後(というかだいぶ後に)食器を洗い、缶詰の缶を資源ごみにするために洗ったりしているとき、ある発見をしました。商品名や写真が印刷してある紙をはがすと、何やら油性ペンで手書きされたメモが表れました。「ナメコ ○○(町名かな?)○○(名前)」と書かれており、どうやらその缶詰の中のナメコを採取し、加工した人のもののようです。「誰々さんが何缶出したから、売上はいくら」みたいなやりとりがあるのかなあなんて想像したら楽しくなりました。
去年から毎週、創世記から順番に聖書を一書ずつ学んで来ていますが、それぞれの書巻には著者がいます(不明の場合もありますが)。しかし、すべての書巻の真の源泉は神様ご自身です。缶詰の表に印刷されている商品名とシールの下に記されている生産者のように、聖書各巻をもたらした著者の背後には神様ご自身がおられるわけです。こうやって順番に各書の中心的なメッセージを聞きながら、一貫して流れている神様の語りかけを感じ取ることができたら幸いです。

“イスラエルの神、主はこう言われる。「わたしがあなたに語ったことばをみな、書物に書き記せ。」” エレミヤ 30:2

佐々木真輝

2021-09-19 引き抜き、また建てるため

2021年 9月 19日 礼拝 聖書:エレミヤ1:1-10

 私たちが生きている時代は大きな変化の波にもまれているような時代です。わずか30年まえは大変な好景気で、その前にも高度経済成長の時代がありました。みんなが贅沢に暮らせたわけでなくても、ちゃんと働いていればそこそこの暮らしができるし、新しい技術がさらによい生活をもたらしてくれるように思えました。

しかし、バブル経済は崩壊し、リーマンショックは世界経済を大混乱に陥れ、東日本大震災と原発事故があり、新型コロナの世界的パンデミックが今なお収まってはいません。

昔は定年まで働いたら、あとは贅沢さえしなければ年金でまあまあやっていけると、なんとなく安心できましたが、今は年金だけでは当てにならない。老後に必要な資金が何千万とか言われても、考えることすら諦めてしまいそうな時代です。

私たちは戦後繁栄し続けて来た国が、ゆっくり衰退していく時代に生きているのかもしれません。続きを読む →

多趣味の効用

みなさん、おはようございます。
ここのところ、あれだけ夢中になっていた写真を撮ることがめっきり少なくなってしまいました。7月から8月にかけて趣味を生かした映像作品にだいぶ時間を使ったせいで、いっきに熱が冷めてしまったかのようです。その代わりに、今楽しんでいるのがアウトドア料理です。と言っても、実際に外でできることは少ないのですが、キャンプ用品を使ってご飯を炊いたり、簡単な料理をしたりと、これまた興味のない人には何が楽しいのかよくわからないようなことですが、よい気分転換になります。そのうちまたカメラをいじりだしたい気分になることでしょう。
多趣味さの効用は、のめり込み過ぎて逆にストレスになったりしないことです。仕事や使命は極めていく姿勢が大切ですが、気分転換の趣味の目的は極めることではなくあくまで気晴らしですから。皆さんに多趣味を勧めるわけではないので、一つの趣味を長くやっているのも、その人に合っていれば良いことです。神様が与えてくださった良いものは楽しみ、喜びとしましょう。

“に神は、すべての人間に富と財を与えてこれを楽しむことを許し、各自が受ける分を受けて自分の労苦を喜ぶようにされた。これこそが神の賜物である。” 伝道 5:19

佐々木真輝