2024-09-15 わたしの喜び

2024年 9月 15日 礼拝 聖書:詩篇16:1-11

 ちょうど一年前、1か月の入院を終えて退院することができました。入院の終わり頃になってようやく許可が下り届けてもらった手帳に、倒れてからの事をメモしていたので、改めてそれをながめるとき、どれほど奇跡的だったことかが、今さらになってよく分かり、驚き、また感動させられています。

今日は休暇中ということで、どなたか他の先生にメッセージをお願いする事も考えたのですが、感謝の気持ちもお伝えしたいと思い、事前収録した動画でお話しすることにしました。それならなおさら動画じゃないほうが良いのかも知れませんが、タイミング的には今日が一番ということでお許しください。

さて、今日の聖書箇所は詩篇16篇です。イエス様の復活に関する新約聖書の教えの中で引用されることの多い詩ですが、もともとは王であるダビデが何か助けを求めたい事情があり祈っているのですが、その困った状況がありながらも幸せと喜びを告白している、とても興味深い詩になっています。

1.私の幸いはどこに

ダビデはまず、主に憐れみを求めています。

詩篇に「ダビデのミクタム」という表題が6回出てくるのですが、「ミクタム」という言葉の意味はよく分かりません。「主よ、私をお守りください」「憐れんでください」という祈りと関連があるようですが、言葉自体の意味ははっきり分からないのです。

しかし、ダビデが詩の中で祈っている事は明確です。

「神よ 私をお守りください。 

私はあなたに身を避けています。

  私は主に申し上げます。 

「あなたこそ 私の主。 

私の幸いは あなたのほかにはありません。」

具体的な状況は分かりませんが、ダビデには、神様に守って欲しいという願いがありました。4節に「ほかの神に走った者」という表現が出てきますので、まことの神様に背を向けた人たちによる何らかの攻撃か策略があったのかも知れません。

しかし、2節ではすぐに「あなたこそ 私の主。/私の幸いは あなたのほかにはありません」と告白しています。神様の守り、助けが必要だと思うような難しい状況にはあっても、ダビデは自分が不幸だとは考えていませんでした。身を避けることのできる主がおられ、主がともにいてくださることこそが自分の幸せです、と告白しているのです。

ここにダビデの信仰の優れた点が表れていますし、ダビデの子孫としてお生まれになる救い主の特徴が重なってきます。

私たちはどうでしょう。

神様に助けて欲しい、守って欲しいという状況の時、神様に祈るは祈るでしょう。状況によっては必死に祈り、昨年皆さんがしてくださったように、他の人たちにも呼びかけ心を合わせて祈ることでしょう。

しかし、そんな状況な時、なかなか「私は幸いです」という言葉は出てきません。

ダビデがこのように告白できたのは、これまでの歩みの中で、神様に助けられ、慰められ、励まされ、戒められ、導かれて来た実体験の積み重ねがあったからに違いありません。

ダビデの時代、手にすることのできる聖書と言ったら、創世記から申命記までもモーセ五書と私たちが呼んでいる部分、ユダヤ人は単に「律法」と呼んでいたものだけです。そこにあるアブラハム、イサク、ヤコブ、ヨセフ、イスラエルの十二部族の物語、エジプトを脱出し、神の民とされた先祖たちに与えられた契約と律法です。それらの物語を通して神様が創造主であり、助け主であり、民を導く方であることを知識として得ることは出来たでしょう。しかし、それだけでなく、彼の人生に突然預言者サムエルが登場し、あなたが次の王に選ばれたと宣言された時から始まった、冒険といえる人生の中で、何度も危うい目に合い、先の見えない状況に置かれ、裏切りに合い、友情を引き裂かれながらも、その都度、いつも変わらずにダビデの支えとなり、助けとなってくださった神様がいてくださったという実体験がこの告白を生み出したに違いないのです。

2.聖徒たちと主と

ダビデの祈りは、神様への信頼と幸いの告白から、目の前にあって、手で触れることのできる今まさにここにある幸いへと視点がうつります。それが3節から8節です。

ダビデがいつでも幸いだと感じている二つの存在があります。それは「聖徒たち」の存在と、主が共におられることです。

王として立てられ、その地位を確立したダビデにとって、「地にある聖徒たち」とは、イスラエルの国民のことです。しかし彼にとってその一人ひとりは、単に税金を払い、自分に仕える者たちではなく、何よりも、同じ神をあがめる「聖徒たち」なのです。

彼らの多くは農夫、羊飼い、商人、技術者、漁師などです。戦いがあれば兵士になる者もいたでしょうが、普段はそれぞれの場で生活している普通の人たちです。しかし、そんな彼らがダビデの目から見るなら「威厳があり」、彼らの存在はダビデにとって大きな喜びなのです。

私もダビデの気持ちが少し分かるような気がしています。

ともに歩ませていただいている方々の顔とその暮らしを思い巡らす時、職業も立場も様々です。工場務め、農業、パンを焼く人、厨房で働く人、建設現場、ホテルの客室、郵便局、福士や医療、介護、教育。家庭で名前のない様々な仕事をこなす人、引退して年金暮らしをする人、病気と付き合いながら静かに過ごして居る人。そのそれぞれが置かれた状況の中で神様に信頼し、従って歩もうと、その人なりに頑張っておられるのが分かります。皆さんの信仰の強さ、成長の度合い、聖書の理解、それぞれですし、自分で思ったように出来てないと感じている人もいるかもし、自分はダメなクリスチャンだと感じている人がいるかもれませんが、それでも、私はとても誇らしく思っています。他の誰かと比べることなしに、ただただ尊いなあと感じています。特に、昨年の今頃、教会に戻って来られた時からその気持ちは一層強くなりました。

そしてダビデは自分の「受ける分」「割り当ての地」について、ちょうど良い分を神様が与えてくださっていることを感謝しています。この「割り当ての地」というのは、神様から与えられ、永遠に保たれる祝福の取り分と言って良いと思います。ダビデにとっての「割り当て地」とは一体何でしょう。エルサレムの宮殿ではないし、私的に購入した別荘地でもありません。5節にあるように、「主」ご自身がともにいてくださるということが、ダビデにとっての割り当て地であり、祝福でした。

主はいつも彼とともにあり、助言をくださり、励まし支えてくれるので揺らぐことがありませんでした。

最初に言ったように、ダビデは神様の助けや守りが必要な状況でした。それでも、今の自分が不幸だとは全然思っていないし、むしろ、神様が自分に与えてくださっているものが全く不満なく、素晴らしいものを与えてくださっていると感謝しています。主にある聖徒たちたちが共におり、主がともにいてくださるからです。

いろいろ問題があると、現状に不満を言いたくなるのが人間ですが、神様は自分にとって最善のものをくださっていると確信できるなら、問題のあるなしに関わらず幸せでいられます。

3.神の御前にあること

さて、9節からはこの詩のまとめの部分です。歌でいうならサビにあたります。

主の助けを求めつつも、主の聖徒たちと主ご自身の存在が喜びであり、幸いであることを告白したダビデは、「それゆえ」と言って、心に喜びがあふれ、安心して過ごせると改めて告白します。

その信頼は10節にあるように、たとえ自分のたましいがよみに下るようなことがあっても、つまり、死ぬようなことがあっても、そのまま滅びしてまうようなことにはなさらないという確信に根ざしています。

この信頼と告白は、やがてダビデの子孫としてお生まれになるイエス・キリストの十字架と復活によって再現されます。新約時代の使徒ペテロは、使徒の働き2章で、ペンテコステの朝、周りに集まった人たちにこの箇所はダビデや約束のキリストについて語ったことだと説明し、その方こそイエス様だと証しています。

使徒の働き13章では、使徒パウロがもうちょっと詳しく説明しています。ダビデはこのように告白していますが、彼自身は地上での生涯を終えることになったけれども、神がよみがえらせたイエス・キリストは朽ちて滅びることはなかった。それによって、ダビデが告白し、希望として信じているように本当にいのちの道が知らされることになりました。パウロはいのちの道が単に肉体の復活のことを言っているだけでなく、罪が赦され、真の神の民とされることであって、アブラハムの子孫だけでなく、すべての人に開かれた救いであることを力強く宣べ伝えています。

つまり、ダビデがこのとき祈った確信は、ダビデ自身が死んだ時にはかないませんでしたが、イエス様によって成就され、信じる全ての人々の確かな希望としてもう一度示されたのです。

ですから、私たちは今これを読むとき、10節の言葉がイエス様の復活を指し示しているだけでなく、私たちに与えられた希望でもあり、それゆえに今この時私たちが心に喜びと平安を持ち続けられる理由になるのです。

素晴らしい聖徒たちと共に歩ませてくださる幸いと、主ご自身のともにいてくださる幸いの中にある私たちは、助けが必要な困難や問題の中にあっても、神様の御前で満ち足りた喜びと楽しみを味わえるのだと、ダビデとともに告白できるのです。

適用:平安と喜び

はじめに、ちょうど一年前の退院の頃の話しをして始めましたが、今日の詩篇を読むときに、この一年間感じて来た幸いの源がなんであったかが明かされるような思いがしています。

病院から家に戻って、まず最初に階段の上り下りができるか試してみました。病院ではそこまでのトレーニングが出来なかったからです。

そこから始まって、家の周りを歩き始め、少しずつ距離を伸ばしました。少しずつ教会の奉仕や神学校での奉仕も再開し、10月に説教を再開しましたが、最初の数回は座ったままでしたね。

車の運転再開に向けたリハビリも始まり、12月には運転ができるようになりました。近場から初めて、走る距離も少しずつ伸ばしていきました。

一歩一歩回復の道のりを安心して歩めたのは、間違いなく、教会の皆さんが祈りつつ支えて、待っていてくださったからです。そして、主がともにいてくださったからです。もっとも、通常、この病気から生還した人たちのリハビリのプロセスから考えたら、やっぱり奇跡的なスピードでの回復だったのだと、振り返って見ると良く分かります。

ですから「あなたは 私のたましいをよみに捨て置かず/あなたにある敬虔な者に/滅びをお見せにならないからです」という御言葉は「そうだったなあ」と思わせられます。しかし反面、「敬虔な者」と呼ばれるに相応しいと言えるんだろうかという疑いもありました。今もやはり同じように感じています。

また、同じような病気で倒れて召される人も入れば、いろいろな障害が残ったり、リハビリに長い時間がかかったり、薬の副作用で苦しんでいる人もいて、自分だけ順調なことにちょっと罪悪感を感じたりもしています。いろんな人が「神様からまだやることがあると言われているんだ」と言われていますが、「まだ足りない」と言われているような気もして、気持ちが晴れるわけではありません。

それでも、「私の喜びはすべて 彼らの中にあります」「主は私への割り当て分」という御言葉のとおりに、家族を含めて主にある皆さんの存在が、そして主が共にいてくださることとが、いつも平安と喜びを取り戻させてくれます。「たましいをよみに捨て置かず…滅びをお見せにならない…あなたは私に いのちの道を知らせてくださいます」というみことばを経験させてもらっているような気がします。

ですから、皆さんにもお願いしたいのです。教会家族の一人ひとりには様々な人がおります。それぞれに違いがあり、時にはお互いのことが良く分からないとか、ちょっと合わないなあということがあるかも知れませんが、キリストにあって聖徒とされた一人ひとりとしてその存在を喜び、どんな状況にあっても主がともにいてくださることを何よりの祝福として受け止めましょう。それが私たちの喜びです。助けや支えが必要なことの多い、歩みの中で、私たちの支えとなるのはその喜びです。

祈り

「天の父なる神様。

私たちはダビデと心を合わせて、あなたこそ私の主、私の幸いはあなたのほかにありませんと告白します。

あなたは私たちに主にある兄弟姉妹たちと共に歩ませてくださり、主ご自身がいつも私たちと共にいてくださいます。それが私たちの喜びです。そんな主の御前にあるとき、私たちは困難な時も平安と喜びを取り戻すことができます。

どうぞ、お互いの存在を喜び、共にいてくださる主を近くに感じながら歩ませてください。

イエス・キリストのお名前によって祈ります。」

2024-09-22 あなたがたはみな一つ

2024年 9月 22日 礼拝 聖書:ガラテヤ3:26-29

 現代は「キリストにあって私たちは一つである」という信仰の意味合いは何であるかが大きく問われている時代です。

今日世界は様々な課題に直面しています。課題の大きさを考えると、教会が意見の違いで対立したり反目している場合ではないと思うのですが、残念ながら現状は心が痛む事柄が見られます。

しかし、私たちは一つであるという意味が問われるのは社会的に大きな課題だけでなく、日常的な教会の交わりでも常に問われるものでもあります。事実、今日開いているガラテヤ書が最初に書き送られたガラテヤ地方の諸教会でもそうでした。続きを読む →

2024-09-08 今日のことを誠実に

2024年 9月 8日 礼拝 聖書:マタイ6:25-34

 聖書は私たちに理想の正義や道徳を押しつけるものではありませんが、この世界をお造りになり、治めておられる神様の権威を認め敬って、神様の聖さと正義が行われることを願い、求めるよう教えています。ただし、神様は私たちが不完全な世界で生きる、罪の性質が残った存在であることもちゃんと分かっています。

そういう意味で聖書は、誰も到達できない悟りの境地に導くものではなく、現実の世界でどうやって生きていくのか、そこに信仰はどう働き、神様はどのように助けてくれるのかを教えています。続きを読む →

2024-09-01 あなたがどこへ行っても

2024年 9月 1日 礼拝 聖書:創世記28:10-19

 先週は、私たちにとってつらい一週間でした。それぞれのご遺族の悲しみは当然のこととして、血のつながっていなくても、キリストにあって神の家族とされた私たちにとっても大きな痛みと衝撃を受けることになりました。

よく、クリスチャンの人生は「信仰の旅路」として表現されますが、新幹線や飛行機でほぼ一直線に寝ていても目的地に着いてしまう現代の旅行とは違って、昔ながらの歩いての旅のように、何が待ち受けているか分からない旅路です。もう、思っても見なかった出逢いや出来事に驚かされ、喜ぶこともあれば落胆し奈落の底に落ちるようなこともあります。続きを読む →

2024-08-25 あなたもかつては

2024年 8月 25日 礼拝 聖書:レビ記19:33-34

 聖書は私たちに「新しい生き方をしなさい」「そのためにあなたがたは召されたのだから」と教えます。

新しい生き方とはどういうものでしょうか。常に新しいライフスタイルを取り入れるということではありませんが、考えるヒントにはなります。

ある働きを通して知り合いになったクリスチャンの方でヴィーガンの方がいます。ヴィーガンというライフスタイルは完全菜食主義者とも言われ、動物由来の食品や食べない、動物由来の衣類を身につけない、というものです。そのライフスタイルを取り入れるには、まずその人の考え方や心の中で、何かしら大きく変わるものがあったはずです。続きを読む →

2024-08-18 本当の安息のために

2024年 8月 18日 礼拝 聖書:ルカ 13:10-17

 伝道者の書にある有名な格言にこうあります(7:16)。

「あなたは正しすぎてはならない。

自分を知恵のありすぎる者としてはならない。

なぜ、あなたは自分を滅ぼそうとするのか。」

ちょっと皮肉の混じった口調で、自分の正しさや知恵深さをことさら強調したり、過信すること、また自分の正義を他人に押しつけるようなことを戒める言葉です。

神様が聖いお方であるように、あなたがたも聖い者でありなさいとか、愚か者にならないで知恵深くありなさいと教えられている私たちですが、時として人は自分の正しさや知恵を優れたものと勘違いしてかえって人を傷つけ、ブーメランが帰って来るように、自分自身のつまずきとなることがあります。

これは私も経験があって、とても苦い思い出となっています。こういう場合はこうするべきだ、という思い込みが強くて、誠実にやったつもりなのですが、結果としては関わった人たちを傷つけ誰の救いにもならなかったということがあります。そんな記憶と重ね合わせながら今日の箇所を読むと、イエス様は私たちに何を与えようとしているのか、どうあって欲しいと願っておられるのかを考えさせられます。

1.安息を求めて

イエス様が安息日に会堂で教えているとき、そこに18年もの間、腰の曲がって全く伸ばすことのできない病気にかかっている女性がいました。ルカは彼女が「病の霊につかれ」ていたとあります。またイエス様は16節で「サタンが縛っていた」と言います。

いったい彼女はどういう人なのでしょうか。「病の霊につかれ」と訳されていますが、悪霊に憑依されていたという意味ではありません。より正しく訳すと、「霊によって病に冒されていた」ということです。またイエス様は後で彼女に手を置いていますが、他のケースで悪霊につかれた人から悪霊を追い出す際には、イエス様が手を触れることはありませんでした。ですから、悪霊に取り憑かれて墓場で暴れていた人のようなイメージではなく、悪霊の仕業で病に苦しめられていただけの女性です。しかし間違いなく彼女は、そのような病によってサタンの支配下に置かれてはいたわけです。

この病気については、現代の医学なら変形性腰椎症とか後弯症といった診断をするかもしれませんが、どちらも高齢者が掛かりやすい病気だそうです。ただ、福音書の女性がそこまで高齢だったかは分かりません。実際、何の病気だったかというのはそこまで大きな問題ではありません。

問題は、彼女が病の霊の仕業によってそのような症状に18年も苦しめられていたということです。しかし、悪霊によってこのように支配されていたことが、彼女の罪深さとか、悪霊に心を開いていたというようなことではありません。彼女は、ほかのユダヤ人と同様、安息日には会堂に集い、礼拝を捧げともに御言葉を聴くことを習慣としていました。何なら他の人よりも、より真剣に、真実に神を求め、神がくださる安息を求めていたのではないでしょうか。

ただ、彼女のように健康を損ねていることはユダヤ人からしたら神の祝福から外れた人として見られ、「あの人が何か罪を犯したからだ」とか「そこまで酷い病気に長い間かかっているということは、親か先祖のよほどの罪のために違いない」という見方がされがちでした。そのうえ、病の霊につかれているといった噂がまとわりつけば、皆と一緒に会堂で礼拝を捧げていたとしても、会堂の隅のほうになるべく目立たないよう座っていたのではないかと想像されます。

イエス様の時代の状況と私たちの状況は違いますが、それでも苦しみ、心の中で本当の安息を求めていながら、なかなか得られずによけいに辛い思いをしたり、本人に責任はないのに偏見にさらされている人は案外身近なところにいるのかもしれません。

しかし、そんな彼女にイエス様は目を留めてくださいました。

2.奇跡と偽善

この箇所にはイエス様による奇跡と、それに対する会堂司たちの偽善が見事に対比されています。

イエス様が呼びかけると、腰の曲がったままの女性がなんとか近づいてきます。そしてイエス様は言われました。「女の方、あなたは病から解放されました。」

「女の方」というのは、ユダヤ人の間では成人女性に対する丁寧な呼びかけなので、腰の曲がったこの女性に対するイエス様の敬意が表れています。そして、イエス様はちょっと不思議な言い方をしています。普通は病気に関しては「癒す」という言葉を使いますし、悪霊の場合は「追い出す」という言い方をします。病から解放するという言い方はここにしか出て来ないのです。

イエス様が手を置くとすぐに腰が真っ直ぐに伸びました。彼女は自分の体に起こった変化をすぐに感じ取り、18年間ずっと腰をかがめ、地面を見ながら生きてきましたが、今は腰を伸ばし真っ直ぐ立ち、天を仰ぐことができます。彼女はイエス様を通してこのような奇跡をもたらしてくださった神を崇めました。

しかし、この場面に憤りを感じる人がいました。会堂司という立場の人です。以前の訳では会堂管理人と訳されていましたが、ちょっと誤解のある訳でしたのでより相応しい訳に直されました。

会堂司は単に建物の管理をするのではなく、礼拝や律法教育、地域全体のための行事など、会堂で行われるすべてに責任を負っていました。その会堂司が、イエス様のした病気を癒す行為は安息日の律法に違反しているんじゃないかと会堂にいた人たちに問いかけたのです。しかもその言い方が結構意地悪ですね。「働くべき日は六日ある。だから、その間に来て直してもらいなさい。安息日はいけない。」まるで癒された彼女に非があるような言い方です。明らかに病を癒す力を持っておられるイエス様に面と向かって非難することができず、弱い女性を非難し、イエス様ではなく会衆に同調を求める問いかけをしたのです。

イエス様は会堂司と彼に同調する人たちに向かって「偽善者たち」という厳しい言葉を向けました。ユダヤ人にとって6日間働いて安息日はいっさいの仕事をしないというのは、神の民としての生活リズムを支える土台のようなものです。十戒の中で命じられているもので、非常に尊ばれました。彼らはのこの戒めを完全に守るために、安息日に許される行動、移動距離などを細々と決めて守っていました。それらの規則は律法そのものではなく、律法を解釈し、ユダヤ人の生活に合わせて規則化し伝統的に守ってきたものです。あくまで人間の考えた取り決めです。しかしさすがに喉を渇かせた家畜に我慢させるわけにもいかず、つないでいたロープを外し、あるいは小屋から出して水飲み場に連れて行って上げるのです。命を守ることは規則や伝統を守ることより重要だからです。それが分からないはずがありません。会堂司の憤りには、律法に反しているということより、会堂での事柄に責任を負っている自分がないがしろにされたという怒りのほうが大きかったのではないでしょうか。

3.安息を与えるために

イエス様は安息日でも水を飲ませるために家畜をほどいてあげることを引き合いに、病の女性を安息日に癒すことが相応しい行いであることを説明します。

まず、彼女は「アブラハムの娘です」。神の祝福を約束されたアブラハムの子孫であり、神の平和、安息を受け取るに相応しい人です。彼女は「病気の女」「病の霊につかれた女」である以前に、神の民であり、恵み与る権利のある人です。

そんな彼女が自分の落ち度や罪のためではないのにサタンが悪霊を使って18年も縛っていたのです。その束縛は解かれるべきだとイエス様は主張します。この「解く」という言葉は18節で動物たちを「ほどく」と言っているのと同じ言葉です。家畜が一息つくために安息日でもほどいて貰えるなら、アブラハムの娘である女性が18年の苦しみから解放されて安息を得るために、サタンの支配から解放されるのは当然のことです。

そして「安息日に、この束縛を解いてやるべきではありませんか」と、安息日こそが解放に相応しい日ではないかと強調しています。イエス様はこの言葉をもって、安息日についての人々の考え方をぐるっと変えてしまいました。

安息日は働いてはならない日ではなく、安息が与えられるべき日だというのです。週に一度労働から解放され、神との交わりの中で安息を得ることは義務というより権利です。そして肉体的にも心理的にも限りのある人間に休息は必要ですが、病に苦しんでいる人こそその安息を受けられるべきです。

そしてイエス様は、この安息を与えるためにこそ地上に来られた方です。

先ほど「病から解放されました」というのがかなり珍しい言い方だと話したことを覚えておられるでしょうか。

ルカ4:18でイエス様はイザヤ書を引用してご自分が地上に来られた目的について語っています。イエス様は解放し、自由の身とし、主の恵みをもたらすために来られました。究極的には罪と死の支配から解放ですが、それにはサタンの支配から世界を取り戻すことや、人を苦しめるあらゆる苦しみ、弱さ、抑圧から解き放つことをも含んでいます。18年病に捕らわれていた女性が経験したことは特別なことではありましたが、これはイエス様がすべての人に与えようとしている癒やし、安息は確かに与えられるというしるしなのです。

イエス様の簡潔で説得力のある説明に、反対していた人たちは恥じ入り、多くの群衆は逆にイエス様の御わざ、今日の出来事だけでなく、「そういえばあんなことも、こんなこともあった」と口々に挙げながら、輝かしいみわざの数々を喜びました。

適用:主イエスのもとへ

さて、この出来事はどのような教訓を与えているでしょうか。そして私たちにとってどのような意味があるのでしょうか。

続きの18節を見ると「そこで」とつないで「からし種のたとえ」が語られています。どんな種よりも小さいからし種であっても、成長して大きな木になり、鳥が巣をかけるほどになるというたとえは、神の御国がはじめはすごく小さく見え、会堂での人々の反応のように反対する人たちのほうが多く見えたとしても、拡大が止まることはなく、大きく拡がり、あらゆる国の人々が御国に憩うようになるのです。

18年間病で苦しんでいた女性が安息日に解放され、本当の安息を得たことは全体から見たら小さな出来事です。しかし、イエス様がサタンの支配から世界を解放し、御国が拡がっていくことは止められません。ですから、主イエス様のもとに来て安息を得たいと願う人を誰も邪魔したり、止めてはなりません。とくに人間が勝手に考えた正義や宗教的な規則、常識といったものを振りかざして邪魔してはいけないのです。これがどれほどの毒であるかは初代教会が経験したことを見ても明らかです。

初代教会は何度も、異邦人であっても律法を守るべきだと主張する人々の教えと戦わなければなりませんでした。それは新しい人がクリスチャンになることを妨げるだけでなく、自由とされたはずのクリスチャンを再び律法の奴隷にし、恵みから遠ざけ、与えられるはずの癒やし、回復、平安を奪い去ってしまうのです。

もちろん私たちは律法を守るべきだとは誰も主張しません。ですが、もしかしたら、神の安息を得たいという願い、必要のある人たちの邪魔をしていないかと考えてみるべきかも知れません。

おそらく会堂司は自分がそんなひどい事をしているという自覚はなかったのでしょう。自分の領域が荒らされたというイエス様に対する憤りも、律法を持ちだして「明日にすればいいのに」という言葉がどれほどひどいものか自覚していなかったかも知れません。

フィリピンのある牧師は、世界的に著名なビジネスマンや思想家が「自分は文化的クリスチャンだ」つまり、信仰心はないけれど文化的にはキリスト教であると言っているのに対して「彼らは正しい一歩に向かっている」と言って彼らのために祈ろうとSNSに書いていました。私は、そこに挙げられた人たちの顔を知っていて、まあ、正直嫌いな人たちばっかりでしたので、そんなふうに考えたことがありませんでした。

ロケットや電気自動車を作っている億万長者が心の底で何を求めているか知るよしもありませんが、問題は私のほうにあります。私たちがもしかしたら無意識にしている差別や正義や常識の押しつけ、気付かぬうちに聖書を誤解したまま造り上げた道徳についての考え方や習慣が、本当に安息を、救いを求めている人の妨げになっているとしたら恐ろしいことです。私たちの周りにいる人たちの多くは、救いと安息を求めるべき本当の相手がイエス様であることすら知らない人たちですが、心の内にある求めは真実なはずです。

その一人ひとりに福音がちゃんと届き、イエス様のもとに近づけるように、私たちは福音を語るとともに、自分たちが作ってしまう壁について無自覚でいてはいけません。むしろ、安息を求めてイエス様のもとに行きたい人たちを手助けする者になりましょう。

祈り

「天の父なる神様。

イエス様は、私たちに神の平安を、救いを、解放を与えるためにおいでくださいました。その良い知らせを伝えるために私たちは召されています。

この救いは求める人には誰にでも与えられるのですが、時として私たちの考え方、習慣、常識、正義感などが、かえってその邪魔をしていることがあるということを気付かされました。

私たちが正しいと確信していることが、正しすぎるがゆえに誰かを傷つけたり、求める人を妨げたりすることが有り得るという戒めを受け取りました。

どうか、今一度、あなたから私たちが受けた無償の愛と、尽きることのない恵みについて正しく理解し、イエス様と同じ心、同じ思いで、人と関わり、愛と恵みを表していくことができますように。

イエス様の御名によって祈ります。」

2024-08-11 信仰によって生まれ、生きる

2024年 8月 11日 礼拝 聖書:ガラテヤ2:16-21

 私たちクリスチャンは、イエス様を信じるだけで救われると信じています。誰であれ罪ある人間がイエス様を救い主と信じるだけで罪赦され、神の子どもとされ、神の家族である教会に加えられ、さらに永遠の御国の民とされると理解しています。正しい生き方が出来ていなくても、失敗が多くても、なかなか直せない悪い習慣があったとしても、そのままで救いを受け取ることができます。

しかし、ガラテヤ地方の諸教会には、あるユダヤ人クリスチャンたちが、本当に神に義とされるためには、つまり救いを受けるためには、信じた後で律法に従う必要があると教え始めたのです。続きを読む →

2024-08-04 私たちも一緒に

2024年 8月 4日 礼拝 聖書:ゼカリヤ8:18-23

 『舟の右側』というキリスト教月刊誌の今月号に「健全な弟子訓練とは」という特集があり、その中で不健全な弟子訓練の特徴について興味深いコメントがありました。私たちの神学校が提供し、教会でも取り組んでいる基本原則の学びの最初は「主の弟子となる」というテキストを用いていますので、とても興味深く読みました。

私も若い頃経験したので注意しなければならないと思っています。記事を書いた先生は「牧師が弟子訓練を教会の数的成長に役立つ【手段】と思っていることが元凶になると」と指摘します。そして本来の弟子訓練は「主イエスのからだに属する信徒一人ひとりが、恵みの中で癒されて成長し、自ら主の御声を聴いて従い、人生の中で結ぶべき実を豊かに結べるように助ける営みのことです」と書いていました。まったくその通りだと思います。続きを読む →

2024-07-28 宝を見つけたら

2024年 7月 28日 礼拝 聖書:マタイ13:44-46

最近はみかけないですが、昔テレビで「徳川埋蔵金」を探すという番組をよくやっていたと思います。江戸時代の終わり、徳川将軍が天皇に権力を明け渡す「大政奉還」の際に、いずれ徳川幕府を再興するときのための資金を密かに隠したという伝説を頼りに、いろいろ推理し、あちこちの山を掘り返す様子を面白く見ていました。

たぶん、実際には徳川埋蔵金は実在しなかったのだと思うのですが、まあそれはそれとして、ロマンのある話ではあったなあと思います。続きを読む →

2024-07-14 荒野で幸せは得られるか

2024年 7月 14日 礼拝 聖書:出エジプト記16:2-18

 住み慣れたところからいきなり知らない土地に放り出されて、それでも幸福でいられるでしょうか。物理的な引っ越しというだけでなく、予期していなかった全く新しい状況に置かれたり、突然困難に直面したとき、私たちはそれでも幸せでいられるでしょうか。続きを読む →