2020年 2月 16日 礼拝 聖書:マタイ22:34-46
聖書には様々な教えがあり、その中には「命令」として書かれているものもかなりあります。旧約時代のイスラエルに対して与えられた命令の中には、イエス様の後では無効になったものもありますが、それでも、そうした命令には、神様が人に求めておられることについて学べる大切な原則が含まれています。
ネット上に出て来たニュースなので、本当かどうか気をつけなければなりませんが、最近の新型コロナウイルスに関連したマスク騒動でこんなのがありました。
お母さんたちが子供のために必死でマスクを探していますが、あるお母さんがやっとの思いで見つけたマスクはアニメかなにかの柄が入ったマスクだったそうです。
その日学校から電話があって、柄ものは避け、無地のマスクをつけてきてくださいと指導されたそうです。通常なら子供同士のトラブルになりかねないから、分からないでもないですが、マスク自体が手に入らない状況で、そういった指導が本当にあったとするなら、どこを向いているのかちょっと首をかしげてしまいます。
聖書の様々な命令も、使い方を間違うと、本来の神様のみこころとは無関係な意味の無い規則になってしまうことがあります。今日は全ての命令の根底にある大切な動機を学びましょう。
1.まちがった律法の扱い
第一に、私たち人間は神様のことば、命令をまちがった使い方をしていまうことがあります。
イエス様がサドカイ人を黙らせたと聞いてパリサイ人たちが集まりました。対策会議を開いたわけです。どうすればイエス様を言葉のワナにかけ、訴える口実を見つけられるか話し合ったのです。
そこで立ちあがったのが「律法の専門家」です。パリサイ人やサドカイ人と言っても、所詮素人集団だ。ここは専門家である私の番だということで、一人の専門家が名乗りを挙げました。もちろん、彼もパリサイ派に属する専門家ということになります。
彼の目的もイエス様を試すためでした。
34節の終わり「試そうとして尋ねた」。ここに、パリサイ派やサドカイ人たちの間違った律法の使い方の本質が現れています。
特にイエス様をわなにはめたいという動機が強かったからという面もありますが、彼らにとって今や律法は人を試し、貶めるための道具になりさがっていました。
彼らが律法を持ち出すときは、自分達がいかに神に対して敬虔であるかを証明し、ひけらかすため。取税人や律法をなかなか守れない人たちを罪人とレッテルを貼り、さげすむため。律法の外にいる人々を見下し、自分達のプライドを守るため。
彼らはいつも神のことばを、人を試すための道具として使っていました。律法の専門家の質問を見て見ましょう。
「先生、律法の中でどの戒めが一番重要ですか」
先生なんて呼んでいますが、イエス様を敬う気持ちなんかこれっぽっちもありません。その呼びかけには「答えられるなら答えてみろ」という上から目線の挑戦が潜んでいます。
律法の中で何が重要か、という質問自体はとても大切なものです。殺してはならないという命令と、異教徒の真似をしてもみあげを剃ってはならないという命令を同列で語ることはできません。
律法の専門家たちは、旧約聖書を詳しく調べ、律法には613の戒めがあり、重要度に違いはあっても、平等に拘束力があり、どれも同じように守られる必要があると考えていました。殺人の禁止ともみあげを剃ることを禁止するのは、重要さに違いはあるが、同じように守られるべきだ、というのです。
イエス様が不注意な答え方をすれば、ある戒めを最も重要だと言うことで、他の戒めを否定する可能性も出て来て、それを律法学者が「先生、それではあなたはこちらの戒めを否定することになります。律法を無効にしているのですね」と告発するわけです。
私たちは、聖書の教えを時々そんなふうに、自分自身がどう生きるかの道標として使うのではなく、人を批判したり、評価するための道具として用いることがあります。
「妻たちよ、主に従うように夫に従いなさい。」「夫たちよ、キリストが教会を愛したように妻を愛しなさい。」夫婦が自分の相手への態度を改めるために使うならいいのですが、真っ先に思い浮かぶのは相手が私をうやまってくれない、愛してくれないということだったりします。
互いに赦し合いなさいと言われていますが、私が人を赦すことより、人が私に赦しを求めたり、赦しを与えてくれないことが気に掛かります。
2.神が求めておられること
イエス様は、意地悪な律法の専門家の質問を、またしてもみことばの真理を解き明かすための機会として用いることにしました。
ルカの福音書10章に同じような場面が出てきます。今日の出来事よりちょっと前の話ですが、実はそのときにあの有名な「良きサマリヤ人」のたとえが語られています。少し開いて見ましょうか。
このときの律法の専門家の質問は「何をしたら、永遠のいのちを受け継ぐことができるでしょうか」というものでしたが、やはりこれも求道心から出たものではなく、「イエスを試みようとして」なされた質問でした。
イエス様はその対して逆に「律法には何と書いてありますか。あなたはどう読んでいますか」と質問します。質問された律法の専門家は答えました。「『あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、力を尽くし、知性を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい』、また『あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい』とあります。」
イエス様はそれが正しい答えであり、「いのちを得る」道だから、それを実行しなさいと言われます。律法の専門家は自分はちゃんとやっていると主張したのですが、それに対してイェス様はあの良きサマリ人のたとえを語り始めるのです。
それでは今日の箇所、マタイの福音書に戻ってみましょう。ここでもイエス様を試そうと律法の専門家が質問に立ったわけですが、イエス様が答えたのは、以前、例の律法の専門家が答えたのと全く同じ聖書箇所の引用です。
37節は申命記6:5からの引用です。『あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、知性を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。』これは、ユダヤ人ならだれでも子供の頃からたたき込まれ、暗唱しているみことばです。イエス様はこれを第一のものとして挙げました。
そして第二のものとしてレビ記19:19を引用しています。『あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい』ただし、これは第一の神を愛せよという命令と同じように重要です。つまり、神を愛することと隣人を愛することには、順序はあるけれど、重要さという点では違いはないということです。
そして、注目すべきことは、この二つの命令が律法の要であることを、イエス様が指摘する前から、律法の専門家たちも知っていたということです。しかし、彼らの問題は、自分達はそれらの戒めを良く知っていて、ちゃんと守っていると言ってはばからなかったのですが、彼らがしていることは、神様が求めているあり方ではなく、自分の正しさを証明し、他人の罪をつるし上げることでしかありませんでした。
しかし神様が求めていることは、心から神を畏れ敬い、愛すること。おなじように、他人を尊重し、自分を愛するかのように大切にし、愛することです。この二つは私たちが神様や他の人たちとの関わりを考え、行動するときに第一に求めるべきことです。それ以外のすべての命令は、この二つを実行するための場面場面に応じた道標です。従って、どんなに神のことばをたくさん知っていたり、正しく知っているとしても、それによって神や人をより深く愛し、敬意を払うようにならなかったら正しいコースは走っていても、ゴールとは反対方向に走っているようなもので、全く無意味なのです。
3.神の御子キリスト
さて、最後に41節から46節を見て終わりにします。この箇所は21章12節から始まったエルサレムでの宗教的な指導者たちとの一連の議論の結論部分になります。
神殿に仕える人たちを代表する祭司長、民を代表する長老、当時のユダヤ教の二大宗派であるパリサイ人とサドカイ人、そして、それらに学問的な裏付けを与える律法の専門家。そうした人々との議論の結論として、イエス様が問いかけたのは、イエス様を神から遣わされた者として権威を認めるか、という問いかけです。
なぜこんな話しで締めくくられなければならなかったかというと、彼らがイエス様に議論をふっかけてきたのが、そもそも、人々がイエス様「ダビデの子にホサナ」と叫んでいたことにあります。ロバの子の背に乗ったイエス様がエルサレムに入場するとき、人々は自分の上着やしゅろの枝を道に敷き詰め、「ホサナ、ダビデの子に」と叫んで歓迎します。イエス様は神殿で売り買いしている人々を追い出し、病のために祈りの家である神殿に入れてもらえなかった人々を癒されます。そして神殿の中で子どもたちが大人の真似をして「ダビデの子にホサナ」と叫んでいるのを聞いて腹を立てます。実際、彼らは21:23で「何の権威によって、これらのことをしているのですか。だれがあなたにその権威を授けたのですか」とイエス様の権威について問いただしているのです。
彼らは一般の民衆がイエス様をキリストとして期待し、ほめ讃えているのが気に食わなかったのです。それで朝から次々とイエス様を訴える口実を探すために議論をふっかけて来たのです。
人々がキリストについて「ダビデの子」と呼ぶのは、当時としては当たり前のことになっていました。ダビデ王家の家系に生まれ、王位を受け継ぎ、ふたたび神の国を打ち立てる、そういう意味での救世主を待ち望んでいたのです。そんなの当たり前だとばかりに、パリサイ人たちはイエス様の質問に答えています。
しかし、イエス様は詩篇110篇を引用して彼らに問いかけます。この箇所もキリストについて預言されていると理解されていました。しかし、この中でダビデがキリストを主と呼んでいる。はっきり神とまでは書いていないけれど、少なくとも、ダビデは約束のキリストが自分の主であると分かっていた。だとしたら、キリストをダビデの子と呼ぶのはおかしくないか、キリストはダビデよりすぐれた者であるはずではないか、ということです。
ユダヤ人にとって、王より権威のある者は神のほかありません。したがってイエス様の話しを受け入れることは、イエス様をダビデ王よりも権威のある方、神によってメシヤ、キリストとしての選ばれた者と認めることに他なりません。その話しの流れは、イエス様が神の御子であることを認めなければならないという方に向いています。そのことを察知した人々は、それ以上話しを先に進めることを恐れ、ひと言も答えませんでした。議論を避け、質問をかわしたのです。自分達の過ちを認めることができなかったのです。
その時以来、誰もイエス様に質問しなくなりました。それは決して喜ばしい勝利などではありませんでした。彼らが悔い改め、へりくだることを完全に拒否してしまったということです。本当に神を愛し、隣人を愛することより、形ばかり律法を守って自分は正しいと自己満足と他人をさばくことに居座り続けることにしたのです。
適用 すべての土台
私たちの歩みの土台となるのは、「主イエス様の権威を認め、神を愛し、人を愛すること」と言えます。
神様の権威を認め、信じるとか、聖書の権威を認めるといのはもちろん大切なことなのですが、人としてお生まれになった神の御子イエス様を信じ、その権威を認めることが、何より重要なのです。
だから、クリスチャンになってバプテスマを受けたい、と希望する人にはしつこく、「神を信じるか」だけでなく「イエス様を信じるか」と聞きます。
父なる神様が私たちの救い主、キリストとしてお遣わしになったイエス様を信じ、その権威をそのまま認めて、イエス様の前にへりくだらなければなりません。そうでなければ、たとえ神を信じ、聖書を信じますと言っても、パリサイ人やサドカイ人のように、自分なりの聖書理解にこだわり、時に自分に都合良く解釈し、自分を正当化し、他人をさばくためにみことばを使うようになってしまいます。
イエス様を信神の御子、救い主と信じ、その権威を認めるなら、イエス様が、すべての教え、戒めの要は神を愛し、人を愛することだと言われた言葉をまじめに受け止めなければなりません。そして、具体的に、日々の暮らしの中で、神を愛し人を愛そうと務めるべきです。
しかし、私たちは、パリサイ人や律法の専門家たちが口では神を敬い、律法を守っていると言いながら、自分達の生活やあり方にイエス様が権威を持って語り出すと、とたんに守りに入り、口出ししないでくれという態度をとったのと同じ抵抗が心の中に起こることを知っています。
「心を尽くし、いのちを尽くし、知性を尽くして」というのは、全身全霊で、全力で、人生のあらゆる状況で、神を愛し、神を畏れ敬い、神を第一にするということです。それと自分の考え、自分のこだわり、自分のプライド、内なる闇や秘密、そういったものを計りにかけ、どうしようとかと迷います。
隣人を自分のように愛せと言われていることを知っていますが、他人のことを構っていられない、そんな余裕がない、ということもあります。自分の中に受け入れがたい面があり、そのために人に厳しくなったり、ギスギスした関係になることがあります。
ストレスが高くなると、他の人の親切ややさしさにイライラしてしまいます。
赤の他人には親切になれるのに、もっとも身近な家族、夫や妻には、ほんの小さな思いやりさえ欠いてしまったり、相手の気持ちに耳を傾けることを忘れてしまいがちです。
キリストを敬い、神を愛し、隣人を愛することは、気持ちの問題でも、頭で理解することでもなく、具体的に私の神様や周りの人に対する態度、言葉、関わり方を変えていくことです。
そう思って聖書の教え、戒めをあらためて見直していくと、それらが、単に私たちを縛るための戒律ではなく、どうすれば神を愛することになるのか、この場面でどう行動することが他人を尊重し、愛することになるのか、そういう道標として与えられていることに気付きます。
やってみてうまく出来ないこともあります。それは仕方がありません。しかしもし、それらの戒めによって自分の心が責められたり、また人を責めるために使っているようなところがあるなら、基本に立ち返り、私は神を愛し、人を愛そうとしているのかと、自分自身に問いなおしてみましょう。イエス様は私たちを縛るために来たのではなく、神と人を愛することのできる者にしてくださったのですから。
祈り
「天の父なる神様。
イエス様を通して、最も大切な戒め、神を愛し、隣人を愛することをもう一度教えてくださり、ありがとうございます。
私たちは自分自身が王様になって、イエス様を敬うことを忘れ、神様や隣人を敬い、愛する事をなおざりにしてしまっていることがあることを告白します。
イエス様は愛することをどれほど真剣にしなければならないか、ご自身の生涯を通して、十字架を通して教えてくださいました。そして、あなたのみことばが私たちの枷や鎖ではなく、光であり道標であることを感謝します。
あなたの道を歩む者として、その御跡をたどらせてください。
主イエス様のお名前によってお祈りします。」