2020-02-23 仕える者になりなさい

2020年 2月 23日 礼拝 聖書:マタイ23:1-12

私たち人間は、一度得た特権というのはなかなか手放せないものです。

去年、あたらしいスマートフォンに買い換えた時、お店のスタッフから「このポイントサービスを使うとこれだけの特典が受けられます」と言われ、そうそうかと使い始めました。コンビニやいろいろなお店からもらえるプレゼントや割引クーポンのような慎ましいものではありますが、ちょこちょこと使っていました。

ところが、最近、そういったサービスがかなり少なくなって来て、そのうえ、何かシステムの変更がありました、というアナウンスがあり、前より便利になったのかも良く分からない仕組みになり、ぶーぶー文句を言っています。

懐が小さいと言われるかもしれませんが、そんな、ほんとちょっとしたサービスが下がった程度で文句を言いたくなるものです。

今日の箇所は先週までの続きです。エルサレムでの最後の一週、その火曜日の朝から続いたパリサイ人や祭司長、律法の専門家などとの議論に引き続いて、周りにた群衆と弟子たちに語り始めます。内容は気が滅入るような中身で、宗教指導者たちに対するたたみかけるような非難です。意識的にか無意識的にか、ある種の特権的な立場にあった人々に対する警告であり、人々に対する警告です。

1.モーセの座に着く人々

第一に、へりくだることを忘れると、自分の立場について大きな勘違いをしてしまいます。

イエス様は律法学者やパリサイ人たちについて「モーセの座に着いています」とおっしゃっています。この言い方自体は当時のユダヤ人たちが、聖書を解釈し、教える権威を公に認められた人たちを指しています。しかし、彼らは自分達の権威について大きな勘違いをしていました。

イエス様の周りには多くの群衆が残っていました。イエス様の最後の一週間の火曜日。イエス様への「ダビデの子にホサナ」という称賛が叫ばれ、期待が集まっている事に我慢がならなかった人たちは、何とかイエス様を訴える口実を見つけようとしました。朝からずっとパリサイ人や律法の専門家たちが次々とイエス様のもとを訪ねては、議論をふっかけて来ましたが、かえってイエス様はそれを真理を解き明かす機会とし、人々を教え、パリサイ人たちの過ちと高慢さを暴露しました。そして、イエス様がダビデの子であるどころか、もっと権威ある者であることを証明してしまったのです。

しかし、自分達こそ権威ある者だと思っていた人たちは、それを認めたくありません。でもどんなに頭をひねってもイエス様と律法について論争しても勝てません。それはそうです。ホンモノの権威を前に、張りぼての権威がかなうハズがないのです。しかし、自分達の権威が張りぼてであることを認めたくない律法の専門家やパリサイ人たちは、それ以上論戦を続けることができず尻尾を巻いて逃げて行きます。

権威を与えられているのは、神様から責任を委ねられているということであって、人間として偉くなったとか、上等になったということではなかったはずです。そこを勘違いしてしまうと、自分自身と周りの人々大きなわざわい、害悪をもたらしていまいます。

イエス様は残った弟子たちと群衆に対して、さらに厳しく律法学者やパリサイ人たちの問題を非難します。それが2節から始まって、23章の終わりまで続きます。

特に13節から39節までは7回にわたって「わざわいだ、偽善の律法学者、パリサイ人」という出だしで、彼らの大いなる勘違いがどれほど人々と彼ら自身に害となっているかを告発しています。

13~14節には、彼らが自分達だけでなく人々をも天の御国から遠ざけ、閉ざしてしまっていると非難しています。神の恵みではなく自分の正しさに目を向けさせているのです。

15節では、一生懸命伝道し改宗者を作っているが、その人を自分より倍も悪くしてしまう。16~22節では、どんな誓いも神の前で神聖なものであることを無視して、天にかけたら神聖で、地上のものにかけたらそれほどでもないと教えるような、頭はいいかもしれないけれど神への畏れを欠いた愚かさを非難しています。

23~25節には十分の一を献げることには厳密にやっているようだけれども、もっと重要な正義とあわれみ、誠実をおろそかにしている。25~28節でも、外側は清めるのに、内側には強欲と放縦で汚れきっていると非難しています。

29節以下は、彼らのような考え、態度の人たちが歴史を通じてずっと神に遣わされた者たちを拒否し続け、殺し続けて来たことを激しい言葉で責めています。

2.誰でも仕えられたい

第二に、だからそのようなパリサイ人や律法学者たちに倣ってはならないと人々に警告しました。

3節に戻りますが、イエス様は群衆と弟子たちに向かって言われました。「ですから、彼らがあなたがたに言うことはすべて実行し、守りなさい。しかし、彼らの行いをまねてはいけません。彼らは言うだけで実行しないからです。また彼らは、重くて負いきれない荷を束ねて人々の肩に載せるが、それを動かすのに自分は指一本貸そうともしません。」

イエス様がおっしゃったことを真意を読み間違えると、パリサイ人たちの行いは間違っていたが、教えは正しかったというふうに読んでしまいます。

しかし、21章から続いて来た議論ではっきりしていることは、彼ら、パリサイ人たちや律法学者たちの教えは間違っているということです。

では2節で「あなたがたに言うことはすべて実行し、守りなさい。しかし、彼らの行いをまねてはいけません」とおっしゃっているのはどういう意味でしょうか。

おそらく、この言い方には皮肉が混じっています。何しろ彼らは自分達の教えを正統なものとし、人々に守ることを要求していましたから、「だから、彼らが教えることを行っても良いけれど、彼らが行っているように行ってはいけないよ」という意味でおっしゃっているのです。

で、見ならっちゃいけないという彼らの行いはどういうものかというと、4節以下に描かれています。

彼らは言うだけで実行せず、他人には背負いきれない荷物をしょわせるのに自分は指一本触れようとしない。

彼らの行動の根本にある原則は「人に見せるため」というものです。聖句を入れるための箱というのは、聖書のみことばが書かれた羊皮紙の切れ端を小さな箱にいれて身につけるものでした。それを大きくしてこれ見よがしに自分がいかに信仰深いかをアピールしました。民数記と申命記に記された、ユダヤ人男性のたしなみとして、衣の済みにふさを付け、それを見る度に神のことばを想い起こし、神の民として自覚を持って歩むためのアクセサリーです。彼らはそれも、大きくしたり長くすることで、自分がいかに敬虔に歩んでいるかをアピールする道具にしていました。

宴会でも礼拝の場である会堂でも良い席を好み、人から挨拶されたり、先生と呼ばれたり、何か特別な人、偉い人、皆から注目され、重要人物であるかのように扱われるのが大好きでした。

ああ、こういうタイプの人たちっているよなあ、と分かるような行動パターンです。一部の政治家や、組織の中で必要以上に立場が上であることをちらつかせるような人たちです。友達関係の中でもそういう振る舞いをする人は時々います。

ただ、そういう人たちを笑ってばかりもいられません。イエス様は彼らの真似をするなと言っていますから、私たちの中には、彼らの行動を真似してしまうような面が多かれ少なかれあることを自覚しなければならないと思います。

そういう特別扱いや称賛されることに依存しているわけではなくても、そういう誘惑はあるものです。

3.ただ一人の教師

8節から10節は、おそらく弟子たちへの直接的な語りかけです。大勢の群衆はこれから先イエス様の弟子になっていくかどうか、あいまいなところがありましたが、弟子たちは、イエス様にしたがって行くことを決意した人たちであり、イエス様も天にお帰りになった後で教会の指導者として彼らが立って行けるよう訓練していました。

彼らがやがて教会の中で使徒という特別な位置を占め、先生と呼ばれることもあるだろうことをイエス様は承知していました。

「あなたがたは先生と呼ばれてはいけません」とイエス様は弟子たちに教えました。なぜなら、先生と呼ばれるにふさわしい権威は、イエス様だけにあります。イエス様の前では、誰もが兄弟姉妹であって平等です。

日本の諸教会でよく聞く、教会独自の言い方として「牧師先生」というのがあります。丁寧に「牧師先生様」までつける人もいます。口癖のようになっている場合もあるので、私はあまりうるさくは言いませんが、ちょっと重ねすぎかなとは思います。

「父」とか「師」というのも、先生と同じように、当時のユダヤ教の中で宗教的な権威を認められた人たちに対する呼び方でした。

よくこの箇所を根拠に、実際に教会の中で「先生」という言い方をやめようと主張する人がいますが、なかなか一般化はできません。困るのは牧師だった人が退いた時になんて呼んだら良いかです。「もう先生じゃないんだから、○○さんで良いんじゃないか」とか「やっぱり先生と呼びたくなるとか」。どっちでも良いと思うのですが、どうも日本の文化の中では呼び方自体に尊敬の態度が重なっているので重要なことになってしまいます。それが好きか嫌いかは別として、日本という社会の文化としては定着していることなので許容されることだとは思います。それに、本当に謙遜な人は人からの呼び方が変わったくらいで高慢になったりはしないものです。心の中に、高慢な思いやプライドが潜んでいる人が、実際よりも偉い呼び方をされた時には危ないのです。

ですから、イエス様は習慣としての呼び方を完全否定したということではないと思いますが、気をつけなければならないところです。パリサイ人や律法学者たちのように、自分が権威ある者であるかのように振る舞い、人々からそんなふうに扱われることに満足するような、愚かな権威主義を捨てるように弟子たちに厳しく命じています。

福音書を記したマタイは、初代の教会でさえも、指導者たちの間にそうした誘惑が起こりうることを神様に示され、大事な戒めとしてこれらの教えを残したのだと思います。教会がユダヤの小さな世界からローマ帝国中に広がって行く中で、イエス様と共に過ごし、一緒に旅をし、その十字架の死と復活を目撃した人々はやはり特別視されたはずですし、実際に、復活の証人としての特別の役目もありました。彼らから直接救いに導かれ、バプテスマを授けられた人々が「私はペテロからバプテスマを受けた」とか「いや私はパウロからだ」なんてグループ意識を持つことも実際にあったわけですから、先生と呼ばれるような立場の人たちが、任された権威を勘違いして、自分がエライかのような気分になってしまうことは、人間としては大いにあり得たわけです。

適用 仕える者になりなさい

イエス様は、群衆や弟子たちを前に、先生、先生と呼ばれて喜んでいる、人の目ばかり気にするパリサイ人や律法の専門家たちのようではあってはならないと厳しく教えましたが、最後に、ではどうあるべきかということを11~12節でまとめとして教えています。

それはどう呼ばれるかという話しではなく、一人の人としての神と人との前での私たちのありかたです。

イエス様は「一番偉い者は皆に仕える者になりなさい。」と言われます。実はこれは初めて出て来た教えではありません。少し前の、エルサレムに向かう旅の途中でもイエス様は、誰が一番偉いかと言い争っている弟子たちに20:26,27で「皆に仕える者になりなさい。」「皆のしもべになりなさい。」と戒めています。

また12節の格言のような教えも18:4で、やはり「天の御国では、いったい誰が一番偉いのですか」と、詰め寄る弟子たちにイエス様は言われました。「まことに、あなたがたに言います。向きを変えて子どもたちのようにならなければ、決して天の御国に入れません。ですから、だれでもこの子どものように自分を低くする人が、天の御国で一番偉いのです。」

天国で誰が一番偉いかどころの話しではなく、当時の社会の中では半人前扱いされ、決して尊敬される対象ではなかった子供のように、自分を低くする者でなければ天国にさえ入れないとまで言われたのです。

だからイエス様は一番偉い人にだけ、「仕える者になりなさい」」とおっしゃっているのではないのです。

私たちは誰もが、仕えられる者ではなく、仕える者となってくださったイエス様にならって、仕える者になるよう教えているのです。しかし、人の上に立つ者はその行動と態度を通して、率先して仕える者となるべきなのです。

仕える者と言われると、人によっては「自分には何もできない」「若い頃はできたけど今は」「もう少し元気にならないと」「今は霊的に落ち込んでいるから」というような声が聞こえて来そうです。イエス様がおっしゃっているのは、教会で奉仕をする、何か具体的な仕事をするということだけを言っているのではありません。仕える者になる、ということの本質は、へりくだるということです。なぜなら、仕える者になるというのは「しもべのようになる」ということです。パリサイ人や律法の専門家たちが権威をちらつかせて偉そうに振る舞っていたのとは真逆で、どんなに立場があり、また真に能力や賜物に恵まれていたとしても、偉そうにするのではなく、他の人にお仕えする、というへりくだった姿こそを求めています。

出来ないことを出来ると言わない。出来る事を出来ないと言わない。自分のしたことは自慢せず、人のしたことに感謝する。自分のすべきことは当然のこととして行い、他の人を尊敬する。

もし何か自分に能力があり、これは自分に出来ることだと思うなら、それは神様の恵みであり、神様が委ねてくださったものとして、その主にお仕えするつもりで人に仕える。

自分に他の人よりすぐれた能力や技術があっても、それを人間的にでも、信仰や霊的にでも、人よりすぐれていると勘違いしない。

今、具体的に自分にできることがなくても、あるいは気力や余裕がなくても、他の人を羨んだり、ひねくれたりせず、自分をダメだと思わず、他の人の奉仕を感謝し、尊敬し、仕えている人たちのために祝福を祈る。

そんなふうに私たちがそれぞれ、神様と人の前にへりくだるなら、そこに天の御国の素晴らしい交わりの姿が浮かび上がって来ます。それはパリサイ人たちが造り上げた偽善と忌まわしさに満ちた宗教とはまるで違う、恵みと喜びに満ちた天の御国があります。

祈り

「天の父なる神様。

主イエス様が人としておいでになり、仕える者となってくださったことを通して、またその教えを通して、私たちにへりくだる道を指し示してくださり、ありがとうございます。

私たちがそれぞれ神様と兄弟姉妹や隣人の前でへりくだる者となり、仕える者となることができますように。そうして、私たちの交わりが、あなたの恵みと天からの喜びに満ちたものとなりますように導き、助けてください。

人が私たちを見る時、見せかけの立派さではなく、神様の恵みと主イエス様のへりくだりに気付くことができますように。

イエス・キリストの御名によって祈ります。」