2020年 3月 8日 礼拝 聖書:ローマ12:9-21
本来であれば、今日の午後、第9回3.11集会が開かれる予定でしたが、ここのところの新型コロナウイルスの拡がりを受けて、残念ながら中止ということになりました。その決定をした後、続々と震災関連の記念礼拝や追悼集会、記念コンサートなどが中止となり、今年はなんだか「それどころでない」といった雰囲気になってしまいました。
過去の出来事よりも目の前の脅威にどう対処するかが優先されるのは仕方がないとしても、復興工事がほぼ終わり、綺麗になった被災地の街並みや道路とは裏腹に、戻る人は少なく、町が元気を取り戻すのは容易なことではありません。
教会の支援も、被災者への支援活動というよりは、被災を経験した人たちに寄り添い、一緒に歩みながら福音をお伝えし希望を持ってもらいたいと開拓伝道を中心とした働きになっています。
最近は、災害支援をする各ネットワークをつなぐ全国的なネットワークを作る動きがあり、私もその中にいるので、これまでの9年の歩みの中でみことばから教えられたことを分かち合っているのですが、今日はそうしたことを紹介させていただきたいと思います。
示されたのはパウロが神の恵みによって救いをいただいた者は、それに相応しい新しい生き方をしないさいと教え始めた箇所です。
1.恵み受けたのだから
第一に、神様の恵みを受けた者はその恵みをほかの人に分かち合うべきです。
「恩送り」という言葉があります。「恩返し」は受けた恩を、相手に別な形で返すことですが、恩送りは、受けた恩を別の人に向けていくという意味です。日本語としては江戸時代からあったそうですが、最近また見直されてきているようです。英語圏でも「Pay it forword」という言い方が昔からあるそうですが、2000年に公開された「ペイ・フォワード」という映画によって、大事だよねと再認識されはじめているそうです。
パウロはローマ書の前半、1章から11章で、私たちに与えられた救いが、神の恵みにより、キリストを通して与えられるものだということを詳しく教えています。ローマ3:24には「神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いを通して、価なしに義と認められるからです。」とあります。
そんな素晴らしい神の恵みを受けた私たちがどう生きるべきなのかを12章以下で教えているわけです。その出だしはこうです。
12:1~2「ですから、兄弟たち、私は神のあわれみによって、あなたがたに勧めます。あなたがたのからだを、神に喜ばれる、聖なる生きたささげ物として献げなさい。それこそ、あなたがたにふさわしい礼拝です。この世と調子を合わせてはいけません。むしろ、心を新たにすることで、自分を変えていただきなさい。そうすれば、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に喜ばれ、完全であるのかを見分けるようになります。」
私たちは、この世の考え方とかやり方とは違う、新しい生き方をしなければならないし、そのためには神様がどう願っているかを知なければならないのです。しかしそれは宗教的な戒律を知るということではありません。毎日様々な事が起こり、大災害だとか、新型ウィルスだとか聖書に書かれていないような事も起こって来ます。そういう中で神様のみこころを知るためには、新しい心をもって、自分を変えていく必要があります。
そこで神様はパウロを通して私たちの心が新たになるようにと、新しい生活の指針を与えてくださっているのです。12章以下の教えは、いろんな決まり事ということではなく、私たちの心を新たにするための基本的な原則です。こういう考え方で、こういうことを大事にしてものごとを判断し、行動するようにと教えています。
それらの土台となっているのが、隣人を愛するということなのです。人との関わりの中に表れて来る様々な罪や肉の欲に支配された行動・生き方ではなく、神様から頂いた愛と恵み、救いという素晴らしい恩を、周りの人たちに送っていく「恩送り」、恵みを分かち合い、愛を与える新しい生き方です。
9年前の東日本大震災があった時の最初の日曜日、私は皆さんが教会に来られるのだろうかと少し心配していました。実際にはいつもと変わらずおいでになったことに本当に感動していました。そして亡くなった方や安否の分からない方々のために嘆きつつ、ただただ恵みによって生かされていることを感謝しました。
その感謝の中で、受けている恵みを再確認し、大災害という新しい状況から始まって、私は改めて恵みに相応しい新しい生き方、教会のあり方、ということをこの9年間教えられてきたと思います。
2.兄弟姉妹、隣人に
第二に、新しい生き方、神の恵みに応えるあり方としての愛は、当たり前のことですが、主にある兄弟姉妹や隣人に向けられます。
9節から16節は一見、信仰生活や兄弟姉妹との交わりについての様々な教えが入り乱れているように見えますが、基本的には互いに愛し合う方法、愛を与える時に求められる心構え教えています。
愛は偽善であってはなりません。自分の評価を上げるためとか、恩を売るためではなく、善意から与えるものです。そこには相手に対する尊敬があります。
勤勉さ、熱心さ、仕える心、希望、忍耐、祈りは助けが必要な人への具体的な助けやもてなしのために欠かせません。迫害する人がいると、ついつい恨み節や文句、怒りが先立ちますが、そんなことに時間を割くよりは、兄弟姉妹と喜びも悲しみもともにすべきです。思い上がりを捨て、自分を偉そうに見せるよりは、ないがしろにされがちな人とともにあることを喜びとします。
災害支援が始まって最初に感じていたことは、沿岸は大変だというこは良く分かるけれど、自分達に何かできるなどとは考えられなかったということです。自分の教会の方々のことはやはり心配ですし、沿岸のほうにいる親戚や友人たちのことは気がかりで、安否確認したりもしましたが、具体的に被災した地域や教会のために何かできるとは考えもしていませんでした。ある意味で、気にはなるけれど、隣人としては関われずにいたのです。しかし、すぐにそれは改めさせられることになりました。もっと遠くから、様々な障害を乗り越えて支援の手を差し伸べる人たちがいることに気付かされ、同じ岩手にある教会として、主にある教会同士のこととして何かすべきだと気付かされたのです。もちろん出来る事には限界があるし、優先順位もあるはずですが、手を差し伸べることを最初から手控えるのは違うということだなあと思わされたのです。
さらに、多くのクリスチャンたち、様々なグループや国籍の兄弟姉妹たちと協力して奉仕する中で、それまで持っていた他の教派やグループに対する偏見が取り除かれ、自分達が大事にしてきたことが何ともちっぽけなこだわりに見えるようになって来たことです。
考えが違っても、価値観に多少の違いがあっても、主にある兄弟姉妹として尊敬し、すぐれたところを認めることを学びました。
またそうした取り組みが本当に勤勉さや熱心さ、忍耐と希望が必要で、祈りが必要だということを実感しました。
教会と教会同士の助け合いだけでなく、教会が置かれた地域の人たちにお仕えすることが、神の愛を具体的に表す道であることを教えられました。生まれた赤ん坊が親や周りの世界の愛を知っていくのは理屈ではないですよね。日々のお世話や語りかけ、声の出し方、表情、抱っこするときの筋肉の使い方などとても具体的な事を通してです。神の愛を知らなかった人たちが、神の愛を知っていくためには同じように、文字や言葉で説明される理屈以上に、神の愛を受けた私たちの態度や行動を通して知っていくものです。
また、愛には偽りが混じっていることもある、という現実も見ることになりました。支援金目当てにやっているんじゃないかと疑わせる人、自己満足やそれまでの働きの失敗の埋め合わせのために被災地にやって来る人たちを何人も見たのは辛いことでしたが、だから聖書は愛に偽りがあってはならないと教えるのです。
3.敵であっても
第三にこの隣人へ愛は、敵と思えるような人々にも向けられなければならないということです。
14節に「迫害する者たち」を呪うのではなく、祝福するようにと言われていますが、17節~21節にはもっと詳しく、かなりの分量を割いて敵対する人たちへの態度が教えられています。やはりここでも貫かれているのは、この世の流れ・この世のやり方に従うのではなく、新しいキリストにある愛に根ざした行動が教えられています。
悪に対して報いず、できる限り平和を保ち、自分で復讐せず、悪に負けないで、善の力によって悪に打ち勝つように。
ローマ書が書かれた時代、クリスチャンたちは迫害に直面していました。いまだに教会憎しで攻撃してくるユダヤ人たちがおり、ローマ帝国内に広がって行くキリスト教を警戒し、排除しようとする人たちがいました。
初代教会はローマの総人口に対しては1%か2%と言われ、日本と同じような割合です。信仰の自由はある程度認められていましたが、ローマ政府によって承認されたもの以外は認められず、また皇帝崇拝や昔からの様々な宗教的な習慣が残っていました。奴隷制、兵役などもあり、現代の日本より相当厳しい状況にあったのは間違いありません。
色んな人が敵に見えたはずです。信仰上の理由で迫害する人、嫌がらせをする人、奴隷と主人といった関係性の中で理不尽なしうちをする人。「悪を返さず」「復讐してはいけません」と具体的に言われていますから、やっぱりやり返したくなったり、恨み辛みが募ってしまうのは当然のことだったでしょう。
そして、この世の流れ、この世のあり方としては、本気でやり返すこともあれば、バレない程度にちょっと仕返しをするとか、相手の失敗を喜ぶというようなことになるかもしれません。
災害支援の場で、あまり敵というほどの人はいなかったように思っていましたが、思い返してみれば、ある人たちの行動や態度に見られる悪意や意地悪な態度に悩んだり、こちらが勝手にイライラしている場面はあったなあと思います。そういうことは私たちの暮らしの中の様々な場面でもしょっちゅう出くわす事柄です。
また、教会とこの世、クリスチャンとこの世の関わり方、と言うことで言うなら、欧米を通してキリスト教が入ってきた経緯もあり、信仰上の本質的な事柄以上に、文化的な対立があったのも事実です。かつては、教会の中でも日本的なものは何でも悪いもの、というほどの風潮がありました。そういうことが余計に「キリスト教は外国の宗教」と思わせるようなことになり、ますますキリスト教に興味や関心はあっても、実際に信仰を持ち教会に加わるのを難しくしている面がありました。
しかし、聖書は「迫害する者の祝福を祈り」「悪を返すのではなく、良いと思うことを行うようにし」「神の怒りにゆだね」「善をもって悪に打ち勝て」と教えます。日本の文化や宗教、伝統には信仰的に妥協できないこと、認められないことがありますが、だからといって憎しみや怒りをぶつけるべきではないのです。相手の善悪、信仰の違いに関わらず、敬意をもって善を行うことが、愛の表し方のもう一つの大事な面です。
適用 何を学んだか
あの大震災が起こった時、悲しみや混乱の中で私たちの心にあった問いは「神様、どうしてこのようなことをお許しになるのですか」と言うものだったかも知れません。
災害そのものを神様がなぜお許しになるのか、その答えは私たちの知性や容量を超えたもので、分からないのかも知れません。しかし、大きな災害や悲しい出来事を通して何かを学びとれたとしたら、それは私たちの疑問に対するひとつの答えと言えるかも知れません。
災害から学んだことはたくさんあります。大震災の後も、広島での豪雨災害があり、九州熊本での震災、北海道での震災、台風による大きな災害と、日本のどこにいても災害が起こると言われるようになりました。ついこの間まで心配されていたのは首都圏直下型の地震や南海トラフ地震です。しかし、その前にこの新型コロナウイルスという別なかたちでの予想外の災害がやってきました。
こういうことがあるたびに、教会はどういう風に対応したら良いか悩まされ、こういう準備があったらどうかとか、こういうやり方が良いなんて話しが出てきます。
もちろん、いざという時のための備えがあったらある程度助かるかも知れませんが、大事なことは災害に対応することそのものではありません。教会は災害や困難に対応しますが、支援団体ではなく、神の恵みに応えて生きる神の家族です。困難への対応のまっただ中で、支援の中で、そして災害支援が終わった後で、クリスチャン同士が、教会同士が、また地域の方々と、付き合いが面倒な人たちや教会に好意的でない人も含め、その関係の中に愛があるか、ということの方が大事だし、人間の知恵や力の及ばない所で本当に力を発揮したり、希望をもたらし、慰めになるのは、思いやりや相手への敬意だったりしたと思うのです。
新型コロナへの対応でも同じです。このまだ正体の良く分からないものに対してどんな対応をしたら良いのか議論はつきません。
先日、東京で番組収録があったときに対談した先生は、ユーチューバーになったと言います。礼拝に来られない人のために礼拝の様子をユーチューブで配信しているというだけのことです。でも、その先生との話でとても共感したことは、大事なことはそういう技術的な事ではなく、兄弟姉妹一人一人がどう守られ、色んなうわさや説が飛び交う中で、教会の意見が割れたりしないようにするにはどうしたら良いかと悩んでいる姿でした。
行政の取り組みや医療機関の対応にいろいろ不満や不安、疑いがあるかもしれませんし、私もテレビやネットのニュースを見ながらそれに文句を言い、不満を垂れ流すことがありますが、そんなことは何をも解決しません。
私たちはこのような状況の時も、主にあって新しい歩みへと招かれている者であることを思い出さねばなりません。この世の流れにそって行動するのではなく、兄弟姉妹や隣人を愛する故に、思いやりや親切、尊敬、寛容をどう表していくかを考えるべきです。
不安や恐れの中にある隣人のために、何ができるか。手に入りにくいマスクや消毒液を見つけた時にごまかしてちょっとでも人より多く手に入れようとズルするのではなく、買い物に並んでいる他の人と分け合うことを考えられるか。腹が立つ人たちに怒りを向けるよりは、どういう態度をとるのが相応しいのかを祈り求める方が、私たちの魂を高め、平安とゆとりをもたらしてくれます。
震災から9年経って、生々しい記憶から薄れていくことは悪い事ではありません。しかし、あの経験を通して学んだ事をどう生かすかは、過去の問題ではなく、日々のことです。
あの災害から、今日の日まで守ってくださった神様の大きな恵みを受けたものとして、何よりもキリストを通して救いを与えてくださった神様の愛を受けた者として、新しい生き方、受けた恵み、愛を誰かに贈る、そんな新しい生き方をして行きましょう。そして災害や困難から学んだことを、より良く隣人を愛することに生かして行きましょう。
祈り
「天の父なる神様。
あの大震災から9年が経ちました。あの年、小学校に入学した子供たちが高校生になるほどの年月です。ここまで守り導いてくださりありがとうございます。
私たちは多くの恵みをいただきました。大きな愛を受け取りました。その恵みにふさわしい者として、キリストにある新しい生き方をしていく者としてください。
今日の、不安や恐れのとりまく状況の中でも、私たちがこの世の流れに飲み込まれず、隣人を愛する者としていてください。
主イエス様の御名によって祈ります。」