2020年 6月 14日 礼拝 聖書:マタイ26:36-46
さて、3週間ぶりにマタイの福音書に戻って来ました。いよいよ、受難週がクライマックスを迎えます。今日の箇所は「ゲッセマネの祈り」と呼ばれています。イエス様が捕らえられ、裁判に掛けられ、十字架につけられる前夜のことです。エルサレムを見渡す小高いオリーブ山にあった、お気に入りの祈りの場所、ゲッセマネの園と呼ばれる場所で、イエス様は長い間祈っていました。
有名な絵も何枚か描かれていますが、岩場にもたれるように跪き、天を見上げて祈る姿を思い浮かべながら、一つの疑問が湧き上がってきました。なぜイエス様は祈らねばならなかったのだろうか、そして、なぜその祈りの場に、三人の弟子たちを連れて行ったのでしょうか。
「祈り」というテーマは、人によって喜びを感じる場合と、苦手意識を感じる場合があります。イエス様は人前でわざわざ見えるところで大げさに祈るパリサイ人を叱りました、うちの教会では余りその点で心配することはないと思っています。しかし人前で祈ったり、祈り続けたり、熱心に祈る、という点では、ちょっと苦手な人が多いかも知れません。
今日は、イエス様の祈りの姿と、その中で弟子たちに語った言葉を通して、教えられていることを一緒に学んでいきましょう。
1.主とともにあるように
第一に、イエス様は私たちに「一緒にいるように」と語っておられます。
イエス様が祈ったのは、これから待ち受ける十字架のためでした。その祈りの場に、イエス様はペテロとゼベダイの二人の子、つまりヤコブとヨハネの三人を伴ってゲッセマネの園に行かれました。この三人は12弟子の中でもリーダー格と言えます。特にペテロは弟子たちの先頭を切って「たとえ、あなたと一緒に死ななければならいとしても、あなたを知らないなどとは決して申しません」と命をかけてイエス様に従うことを誓いました。
ヤコブとヨハネも、少し前の箇所でイエス様が御国の王座に着いたときには右と左に座らせてくださいと頼んだのですが、その時イエス様が「あなたがたは自分が何を求めているのか分かっていません。わたしが飲もうとしている杯を飲むことができますか。」と問いかけ、それに対して彼らは「できます」と応えています。
つまり、この三人はイエス様と運命を共にするとはっきり宣言していたのです。それでイエス様は、ではその時がもう来るから、あなたがたも共に備えなさいと呼びかけたのです。
しかし、イエス様が三人に最初に求めたことは、36節にあるように「わたしがあそこに行って祈っている間、ここに座っていなさい」ということだったのです。これはどういうことでしょうか。
イエス様が十字架の苦しみを前にし、神でありながら、完全な人間であるがゆえに、大きな悲しみに身をよじるようにして祈りました。その近くでただ座っていれば良いのではなく、よく見なさいということではないでしょうか。あなたがたは一緒に行くと言っているが、私がどこに行こうとしているかよく見ておきなさい。何を引き受けようとしているのか、その先に何を見てこの苦しみを引き受けようとしているのか、しっかり見ておきなさいということです。
弟子たちはこれまでイエス様が祈る場面を何度も見て来ましたが、これほどに悲しみ苦しんで祈る姿を見たことがありませんでした。弟子たちは、イエス様に従う者には、祝福だけでなく苦難が伴うということを教えて来られましたが、実際にイエス様が苦しむ姿を初めて目の当たりにしました。「あなたがたも自分の十字架を負ってついて来なさい」という言葉は、今目の前におられるイエス様のお姿が自分のものとなるという覚悟を求めるのです。
しかし、それらは私たちの救いのためでした。ヘブル12:2「信仰の創始者であり完成者であるイエスから、目を離さないでいなさい。この方は、ご自分の前に置かれた喜びのために、辱めをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されたのです。」
私たちは、ゲッセマネの祈りの場面を味わいながら、十字架の先にある喜び、私たちの救いと御国の完成という喜びを見て、目の前にある苦しみを引き受けたのです。このイエス様から目を離さないでいなさいと聖書は私たちに語りかけます。
私たちの歩みがどこに向かっているか、それを見失わせ、忘れさせるものがあまりにたくさんあります。イエス様に似た者に変えられて行くこと、神の愛をもって人々にお仕えし、福音をお伝えする大切な努め、それらはどれをとっても苦労が伴うけれど、それだけの価値があることを、イエス様の前で静かに見つめることが、まず必要です。
2.目を覚まして祈るように
第二に、イエス様は私たちに「一緒に目を覚まして祈っていなさい」と言われます。
ゲッセマネの祈りで印象深いのは、汗が血のようにしたたり落ちるほどに苦しみ祈る姿と、そのそばで起きていられずに何度も寝落ちしてしまう三人の弟子の姿です。
イエス様がこの祈りの中で現している心の状態は悲しみです。罪のない方がすべての人の罪を背負わなければならないという途方もない重荷はイエス様を苦しめました。しかも完全に一つに結ばれていた父なる神と死によって引き離され呪われた者となるなんてことは想像もつかない恐怖だったのではないでしょうか。
「わたしといっしょにいなさい」という言葉は、そんな中で精神的な支えを必要とし、それを友でもある弟子たちに求めたように見えます。イエス様は一緒にいることからさらに、一緒に祈るように求めます。皆さんも経験されていると思いますが、一人で祈るより、伴に祈る祈りには力があります。
ところが弟子たちは、ひれ伏し、身をよじりながら必死に祈りイエス様をよそに、眠りこけてしまうのです。
弟子たちの状況も分からないではありません。その日は朝から過越の食事の準備をし、夕方からは長く濃密な食事の交わりがありました。イエス様がまるで奴隷になったように膝をかがめ、手ぬぐい片手に弟子たちの足を洗って、過越の食事は始まりました。その食卓の席で、イエス様は様々なことを教え、またユダの裏切りを予告し、主の晩餐をお定めになりました。
何時頃になっていたか分かりませんが、かなり遅い時間だったと思います。賛美の歌を歌いながらオリーブ山に登り、三人の弟子たちとともにゲッセマネに着いた頃には、シュロの日曜日からイベント盛りだくさんの連日の疲れが出たとしてもおかしくありません。お腹もいっぱいで、眠くなるのも当然です。
しかし、イエス様は言われます「霊は燃えていても肉は弱いのです」。彼らがどんなに「たとえ命を失うことになっても」と息巻いて、強い決意を持っていたとして、肉体は弱いものです。疲れと満腹感という、ごくごく当たり前の事で、私たち人間の意志や決意は揺らいでしまいます。
もちろんイエス様は、クリスチャン皆が眠るのを我慢して祈ることを求めているわけではありません。「誘惑に陥らないように」とおっしゃっていますが、睡魔に打ち勝って祈ることだけを言っているのではありません。むしろイエス様とともに生きよう、みこころに従おう、委ねられた務めを果たそうと決意し、心が燃えていたとしても、私たちを疲れさせ、弱らせ、気を逸らさせるものが、この世界にはたくさんあります。そして私たちは、そういうものにすごく弱いのです。そのことを自覚して、イエス様から目を離さないでいるために、祈ることが必要なのです。
イエス様はお祈りしている時に眠気が襲って来ることを非難しているのではありません。祈らずにいるために、私たちの心をイエス様からそらさせるもの、様々な誘惑に無防備であることを戒めているのです。
礼拝中や祈りの場で眠くなるのを心配するより、私たちの生活の中から祈りがなくなることを恐れるべきです。
3.主とともに立ちあがる
第三に、イエス様は祈りを終えた後で「立ちなさい、さあ、行こう」と呼びかけます。
イエス様は祈りの中で、悲しみ、苦しみ、もがき、その中で励ましと力をいただきました。マタイは省略していますが、ルカは同じ場面を描くとき、御使いが来てイエス様を力づけた様子を記録しています。祈りはただ、私たちの思いを言葉にして神に訴えるだけのものではなく、祈りのただ中で励ましや力を頂けるものなのです。
そうしてイエス様は十字架の苦しみを受け入れ、父なる神様のみこころを行ってくださいと、明け渡すことができました。
その上で、イエス様はまた弟子たちの処に戻りました。彼らはどうしても重いまぶたを開けて置くことができませんでしたが、「時が来ました。…立ちなさい。さあ、行こう」と、イエス様は祈りから、使命を果たすための行動へと切り替えました。
こうしてみると、ゲッセマネの祈りがどういうものであったかが良く分かります。
イエス様はご自分がなすべき事が何であるか分かっていました。十字架の苦しみと死です。しかし、それは苦しく、悲しいことであり、飲み込みがたい苦い杯のようなものです。けれども、その先には、愛する者たちの救いがあり、エデンの園以来の、罪と死からの解放、回復が待っています。苦しみや死への恐れや悲しみではなく、その先にある喜びに目を向けて十字架の苦しみを耐え忍ぶために祈り、力をいただく必要がありました。
そういう意味で、イエス様にとっての戦いは、祭司長たちとの対決や十字架の苦しみ以前に、このゲッセマネの祈りの中にこそ戦いがあったのです。そして、「あなたのみこころがなりますように」と完全に父なる神様にお任せすることが出来たとき、その戦いの決着はすでについていました。あとは使命を果たすために行動するだけす。大勢の武装した群衆がやって来て、ユダが裏切りの口づけをしても、慈しみ深く対応できたのも、この祈りがあったからです。
私たちの祈りは時々、出前を注文する電話のようになってしまいます。あれとこれをお願いします、みたいな。もちろん、私たちの健康や生活は大事です。ほんとにギリギリな時があります。けれど、イエス様が最初に祈りについて教えた時に言われたことを思い出しましょう。「あなたがたの父は、あなたがたが求める前から、あなたがたに必要なものを知っておられるのです。ですから、あなたがたはこう祈りなさい。『天にいます私たちの父よ。御名が聖なるものとされますように。御国が来ますように。みこころが天で行われるように、地でも行われますように。」(6:8-10)
イエス様はそのとおりに、「あなたが望まれるままに、なさってください」「あなたのみこころがなりますように」と祈ったのです。私たちはもちろん、自分の必要のために祈っていいし、祈るべきです。けれども39節で「できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしが望むようにではなく」と祈られたイエス様の姿を見る時、どれほど、私たちの祈りがこの前半で終わってしまいがちか思い知らされます。主のみこころがなされるように、というのは、神様お願いしますね、ではなく、私を通してみこころを行ってください、という祈りです。だからイエス様は祈り終えてから十字架に向かって行ったのです。
適用 一緒に目を覚まして
ゲッセマネの祈りは、私たちに「お祈り」という一つの宗教的というか、信仰的な習慣を身につけるようにという教えではありません。もちろん、初めは食事の感謝のお祈りとか、夜寝る前の祈りとか、願いごとがあるときの祈りなど、何でもお祈りする、という習慣を身につけることはすごく大事です。けれども困難の多い人生の中では、祈りも成長する必要があります。試練や難しい状況の中で、あるいはなかなか希望を見出せない時に、いかに私たちが神様の子どもとしての生きる道を見出し、確信し、力を得て歩み出していくか、その時鍵を握るのが祈りです。そのような祈りの模範としてイエス様は、私の祈る姿を見ていなさいと、三人の弟子たちを呼び寄せ、また私たちに学ぶようにと聖書に記されているのではないでしょうか。
第一に、静かに心と頭をイエス様に集中させましょう。大きな苦難や試練の中にある時ほど、祈る前のこの静まる時が大事です。イエス様の目の前に十字架の苦しみがあったように、私たちの生活、人生にも様々な困難や恐れの原因となるものが立ちはだかります。しかし、苦しみを乗り越えることが人生の目的ではありません。
神様が私たちの人生を通して与えてくださる祝福、現してくださる神様の栄光は、その先にあります。イエス様に心と思いを向けて静まる時、自分が何のために生かされているのか、どこに向かうべきなのか、何が約束されているのか、大事にし守らなければならないことは何なのかが少しずつ見えて来ます。それは嵐の中で灯台の灯りや港のかすかな灯りを見つけるために目を凝らすようなものです。その灯りが見えるまでは、闇雲に舟を漕いでも翻弄されるだけです。まず、静かに心と頭をイエス様に集中させましょう。
第二に、目を覚まして祈りましょう。目を覚ましてとは、イエス様から目をそらさせる様々な誘惑、恐れ、悲しみに捕らわれてしまわないように、この波風の向こうにある灯りのもとに向かって行けるように祈ることです。苦難の向こう側にある目的、祝福の約束を見つけられたとしても、目の前の苦難がなくなるわけではありません。それは乗り越えて行かなければならないものとしてそこにあります。しかし、私たちは一人で戦うのではありません。一緒に祈ってくれる友がおり、祈りに応えてくださる主がおられます。乗り越える力、立ち向かう勇気、脱出の道までも備えてくださいます。
目の前の荒波を一つ一つ乗り越えて向こう側にある港に着く確信と力を頂くために、目を覚まして祈りましょう。
第三に、私がすべきことをやり始めましょう。「立ちなさい。さあ、行こう」というイエス様の呼びかけに応えて、私たちは立ち上がり、自分のなすべきことをし始めるのです。
私たちの生活は、どんな時でも、イエス様に似た者に変えられるという目的、神様と人を愛し仕え、福音を証ししていくという使命に結びついています。
香港にいる友人達のことが気がかりですが、できることがほとんどありません。それでも私が今日すべきことがあります。新型コロナのために教会で出来る活動には制約がありますが、神と隣人を愛すること、キリストの証人として生きることは変わることなく続きます。体調が優れなかったり、疲れて動けない時もありますが、その中にあっても、私たちが神様の子どもであることに変わりはありません。内なる人が新たにされていく歩みは続いているのです。
私たちはどんな時でも、イエス様を見つめるために心を静め、目の前の苦難を越えて行くべき道に確信を持ち、励ましと力を頂くために祈り、立ちあがってまた歩み始めるのです。そのために、祈りにおいても成長させていただきましょう。
祈り
「天の父なる神様。
今日私たちは、イエス様がゲッセマネで祈られたそのお姿から、また弟子たちに語られた言葉を通して、祈りについて教えられました。
どうか、私たちに祈ることを教えてください。祈りにおいて成長させてください。
迷わすものや、困難の多い人生、そして教会の歩みの中で、目指すべきところ、なすべきことを見失わず、確信を持ち、勇敢であることができるように、祈らさせてください。
主イエス様が、さあ立ちあがろうと励ましてくださるとき、小さな歩みであっても力強く歩みだすことができるように助けてください。
主イエス様のお名前によって祈ります」