2020-06-07 あなたは高価で尊い

2020年 6月 7日 礼拝 聖書:イザヤ43:1-7

 今年度の主題である「みことばの宝物」に従って、6月に覚えたいみことばは、イザヤ43:4です。この聖句が日本のクリスチャンの間で大人気になったのはいつの頃か正確には分かりませんが、私の記憶の中では、上原令子さんというクリスチャンアーティストの『あなたはわたしの目には』という曲が人気に火をつけたように思います。もう40年も前のことになります。

その後も、人形を主人公にした絵本『大切なきみ』や韓流ブームに乗っかって、ヨン様が好きだということで一般にも知られるようになったワーシップソング『君は愛されるため生まれた』など、私たちが神に愛されている、大切にされていることを中心的なメッセージにした作品が時々登場し、好まれています。

こうしたテーマが好まれるのは、私たちが置かれた状況、世界の中では、「自分は誰かに大切にされているだろうか」「自分は愛されているだろうか」「必要とされているか」「自分の居場所はあるのか」そういった不安が強いせいかもしれません。

それらが全体的な傾向かどうか別としても、神に愛され、大切にされているという確信があれば、信仰の歩みが前向きになり、喜びを持ち、他の人を愛することがより良くできるようになります。そこで今日は、「あなたは高価で尊い」という御言葉に注目します。

1.私たちの造り主

第一に、神様が私たちを愛し、大切になさるのは、まず私たちの存在そのものが神様によって形造られたものだからです。神様は私たちの造り主であるので、神様にとっては私たちが大切なのです。

1節は「だが今、主はこう言われる」という言葉で始まります。これから語る、「あなたは高価で尊い」というメッセージの前に、そうは思えないような事柄があったということです。

イザヤ書は、北イスラエル王国が滅亡に突き進んでいる時代に預言者イザヤが神様から託された言葉を記したものです。南ユダ王国のウジヤ王、ヨタム王、アハズ王、ヒゼキヤ王という4代にわたる王の時代で、人々はアッシリヤ帝国という恐ろしいほどの勢力で周辺の国々の飲み込んで近づく脅威をピリピリと感じながら生きていました。そういう時代の中で、まことの神様から離れ、他の神々に頼ろうとしたり、エジプトなどとの外交や軍事同盟などで身を守ろうとしている王たちや民に、神に立ち返り、神を信頼せよと語り続けたのです。

そのため、神様はたびたびイスラエルの民を懲らしめ、悔い改めを促すのです。そんな様子を現す一文が、たとえば直前の42:23~25です。私たちも経験することですが、人生の中にキツイこと、辛いことが続くと、神様に愛されているというより、捨てられたんじゃないかとか、忘れられたんじゃないか、信じたって仕方が無いんじゃないかと思いがちです。

作家の三浦綾子さんは、多くの病気と闘いましたが、その病の中で、病気をすればするほど神様に特別に愛されているだと感謝したそうです。が、なかなかそう思えるものではありません。

イスラエルの民はそうやって、43:35にあるように、主の怒りの炎が「あたりを焼き尽くしても彼は悟らず、自分に燃えついても心に留めなかった」のです。

何度口を酸っぱくして諭しても、やり方を変え、工夫して、何とか分からせようとしても、全然聞こうとしないなら、もしかしたら私たちならさじを投げ、もう勝手にしろと、投げ出してしまうかもしれません。

しかし「今、主はこう言われる」のです。「ヤコブよ、あなたを創造した方、イスラエルよ、あなたを形造った方が。」

ここでいう創造は、イスラエルという神の民が、神のみこころによって作り出され、この世界に置かれたということです。まことの神を全く知らずに他の神々に仕えていたアブラハムに現れ、彼を召し、その子孫を神の祝福の器にするとおっしゃってくださった神様が、粘土をゆっくり捏ねて器に仕立て上げていくように、アブラハムの子孫たちを育み、導き、神の民としてくださいました。それはイスラエルに留まらず、イエス様によって神の民とされた私たちのことも含んでいます。エペソ1:4「すなわち神は、世界の基が据えられる前から、この方にあって私たちを選び、御前に聖なる、傷のない者にしようとされたのです。」2:10「実に、私たちは神の作品であって、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。」

神様は私たちに命を与え、神の子ども=クリスチャンとしただけでなく、神の民=教会として結び合わせてくださった方なのです。だから私たちを愛し、大切にしてくださるのです。

2.私たちの贖い主

第二に、神様が私たちを愛し、大切になさるのは、神様ご自身が犠牲を払って私たちを贖ってくださったからです。犠牲を払った分、私たちの存在は神様にとってますます大切になったのです。

1節の後半「恐れるな。わたしがあたなを贖ったからだ。」

「贖う」とは、もともとの言葉の意味は「おおう」とか「買い戻す」という意味で、現代のヘブル語では「赦す」という意味で使われるのだそうです。

野球の守備で誰かが取りこぼしたボールを他の選手がカバーしてアウトにするとか、傷口を絆創膏でカバーするとか、そんな意味合いから、身内の借金を肩代わりして財産を守る、買い戻しという意味で使われるようになり、さらには、神様の前に罪ある者が、その報いを動物のいのちで肩代わりしてもらう、という宗教的な意味で使われるようになった言葉です。そもそも、贖いは愛の行いであり、弱り傷つき、無力になった者を保護し、救い出すことです。

神様は神の民の罪を赦し、その失敗をカバーし、彼らの払いきれない罪や反逆の報いを代わりに肩代わりし、何をやらせてもまったくダメだった民を敵の手から取り戻し、再び神の民として歩ませようとなさいます。その執念とも、親の愛とも言えるその愛が、続く聖書のことばに現れています。

「わたしはあなたの名を呼んだ。あなたは、わたしのもの。

あなたが水の中を過ぎるときも、わたしは、あなたとともにいる。

川を渡るときも、あなたは押し流されず、火の中を歩いても、あなたは焼かれず、炎はあなたに燃えつかない。

わたしはあなたの神、主、イスラエルの聖なる者、あなたの救い主であるからだ。

わたしはエジプトをあなたの身代金とし、クシュとセバをあなたの代わりとする。」

度重なる苦難や悩みのために、神に捨てられたと思っていた人々を神様は、そうではなく、あなたを造り、贖った私にとって、あなたはわたしのものだ。私が呼び出し、火の中、水の中を歩くような時も共にいるし、たとえあなたが失敗しても守り、たとえ他の者たちを犠牲にしてでも、全力であなたを救い出すのだとおっしゃってくださるのです。

この箇所で神様が民の贖いのために犠牲にするものとして、エジプト、クシュとセバが挙げられています。クシュとセバはエジプトよりさらに南にあった民族です。実際には、イスラエルの民を救うためにエジプトが滅ぼされたということではありませんから、これは神の計画というより、何が何でも救い出すというお気持ちの詩的な表現と言っていいと思います。

実際に神様が神の民を贖うために犠牲にしたのは、エジプトでも他の国でもなく、神の御子イエス・キリストです。イエス様のいのちの代価による贖いは、イスラエルだけでなくエジプト人も、クシュ人も、セバ人も、私たち日本人をも救うのです。神様の救いは、天地創造の初めから、イスラエルの人々だけでなく、全人類を救うためのものでした。人間だけでなく、人間の罪によって傷つけられてしまったこの自然界も含め、この世界全体の救いです。そのために犠牲を払いましたから、神様の目には私たちが高価で尊いのです。

3.変わることのない愛

第三に、神様は私たちを変わることのなく愛してくださる方です。

神様にとって神の民は、ご自身の手で形造った民であり、彼らの失敗に拘わらずその罪を赦すために、独り子イエス様のいのちによって贖うほどの民ですから、神様はその民を特別に愛し、特別に大切にしてくださいます。

神の民はもはやイスラエルだけのことではありません。イエス様にあって神の民とされたすべての人々を、神様はもう一度神の民として新たに造り上げてくださいました。そのためにイエス様はそのいのちを献げくださったのです。

先週エペソ書を開きましたが、そのエペソ書の最初の祈りのテーマも共通しています。

1:4~5「すなわち神は、世界の基が据えられる前から、この方にあって私たちを選び、御前に聖なる、傷のない者にしようとされたのです。神は、みこころの良しとするところにしたがって、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられました。」飛んで1:7「このキリストにあって、私たちはその血による贖い、背きの罪の赦しを受けています。これは神の豊かな恵みによることです。」

さらに1:10「時が満ちて計画が実行に移され、天にあるものも地にあるものも、一切のものが、キリストにあって、一つに集められることです。」

天地の基が置かれる前から私たちをご自身の子、民としてお選びになり、独り子イエス様のいのちの代価によって、人種や地位や能力に関係なく、すべてを一つにしてくださったのです。

ですから4節にあるように、神様は私たちにこう語りかけるのです。「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。」

後半は、先ほども説明した通りです。だれを犠牲にしてもあなたを救うと言われた主は、実際にはご自分の独り子イエス様のいのちを代価としてくださいました。

神様の愛と、私たちのための贖いの関係は、今年の4月に「今月のみことば」としたヨハネ3:16でも同じように語られていたことを思い出すことができるでしょう。「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」

子どもは誰でも可愛いし、大切な存在ですが、我が子となれば特別です。神様にとって人間は、ご自身がいのちを与えた存在ですから誰もが大切なのです。その愛のゆえに、イエス様のいのちの代価という犠牲を払ったのですから、ますます大切な存在です。

私たちは、大人であろうが子どもであろうが関係なく、「愛されていること」「大切にされていること」「居場所があること」がとても重要です。それに加え、というかそれら以上に、神に愛されていること、大丈夫だと思えることが大切です。そういうことを心配したり、悩んだことの無い人は、本当に幸せなのだと思います。しかし、人生の様々な経験を通して、人間関係の難しさや試練を通して、愛されているか、大丈夫か悩みます。ところが、神様のほうでは、まったく揺らぐことなく、私たちを愛し、何を犠牲にしても私たちを救い出し、支え守ろうとし続けてくださるのです。

適用 恐れるな

最後に、5節から7節は今日の適用の箇所になりますが、1節に出て来た「恐れるな」という慰めの言葉がくり返されます。

神様は、私たちを見捨てたり、離れて行ったり、無視したり、隠れたりはなさいません。「恐れる。わたしがあなたとともにいるからだ。」

その神様が愛する者たちとともにあるために、ご自分のみもとに集めるのを、誰も邪魔することができません。

東からも西からも、北から南から、すべての神様の子どもたちが実際に集められるのは、イエス様がもう一度帰って来られる時に実現しますが、今も、部分的に実現しています。

神のもとに集められる姿を、私たちは各地にある教会や、教会同士やクリスチャン同士が交わりを持ったり、協力したり、違いを超えて受け入れ合ったり、赦し合ったりする姿の中に見ることができるのです。

先週見たように、私たちは同じ信仰に立ち、同じ主を信じ、同じ御霊によって神様の子ども、一つの神の民、神の家族とされています。その具体的な表れが、教会であり、様々な違いを超えて、謙遜と柔和、寛容と愛をもって共に歩む姿なのです。今、こうしてここに集まれる人も、自宅で礼拝を守らざるを得ない人も、この一致から、そして神の愛から引き離されることはありません。

しかし、私たちが神と共にある事を忘れたり、恐れる原因は、何も外側の状況や試練の問題だけではありません。自分自身の中にある罪や失敗の多さ、人と比べて抱いてしまう劣等感など様々です。

けれども、それらでさえ、神の愛から私たちを引き離すことはできません。ローマ8:38~39にある通りです。「私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いたちも、支配者たちも、今あるものも、後に来るものも、力あるものも、高いところにあるものも、深いところにあるものも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。」

今日、いくつかの聖書箇所を開いて来ましたが、どれもしっかりつながっていて、非常に強い私たちへのメッセージとなっていることが分かると思います。神様は、私たちを愛していて、本当に大切にしてくださっている。だから、恐れることはない、と私たちに一貫して語りかけてくださっているのです。

だからもし、信仰者として確信が持てずにいたり、喜びを失ったり、困難の中で孤独を感じたり、神様から忘れられたり、祈りも聞かれないし背を向けられているような気がしているなら、この神様の熱い語りかけにぜひ耳を傾けてください。

もし、人生の中で、あるいは社会の中で、自分の価値がないような気がしたり、居場所がないように感じたり、自信を失っているなら、この神様の愛に満ちた語りかけに耳を傾けてください。

自分の罪深さや弱さ、失敗の多さにがっかりしたり、責めを感じているなら、自分を責める前に、神様の慰めに満ちたこの語りかけに耳を傾けてください。

「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

恐れることはありません。祈りましょう。

祈り

「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛していると、私たちに語りかけてくださりありがとうございます。

私たちにいのちを与え、神様の子としてくださり、神の民、神の家族として結びつけ形造ってくださった神様。その愛のゆえに、私たちの贖いのために独り子イエス様をお与えくださった神様。

あなたの変わらない愛を心から感謝します。こんなに足りない者、弱い者、汚れているとさえ言える私たちを、高価で尊いとおっしゃってくださりありがとうございます。

どうかあなたのその慰めと愛に満ちたことばを私たちの魂に深く刻んでくださり、愛されている者として、恐れることなく、大丈夫だと確信を持って歩ませてください。

喜びのうちに、あなたと共にある歩み、キリストにあって一つとされた兄弟姉妹と神の家族として共にある歩みを楽しみ、またこの世にあっては仕えることができますように。

イエス・キリストの御名によって祈ります。」