2020-11-22 きよい神の前で

2021年 11月 22日 礼拝 聖書:レビ記1:1-2

旧約聖書から聖書通読をはじめた人の多くが足踏みし、脱落してしまう箇所の一つがこのレビ記です。あまり人気があるとは言えず、「私、レビ記が一番好きです」という人は滅多にいません。

しかも、キリスト教の実際の生活では、レビ記に記されている様々な決まりごと、礼拝の中での献げものや食べ物の規定、汚れに関する規定や、それらを聖めるための手順などは不要とされています。それでもレビ記が聖書の一部であることに変わりはありません。極端な考えを持つ異端やカルト的な人たちの主張と別にすれば、2000年のキリスト教の歴史で、レビ記を聖書から外すべきだと言われたことはありません。

レビ記を昔々の古い規則集として読むと何の意味があるのか分からなくなりますが、レビ記を通して神が語ろうとしていることを理解すると、私たちに与えられている恵みがどれほど素晴らしいものかが分かって来ます。

さて、ヘブル語の聖書では、レビ記を「ヴァイックラー」と呼びますが、これはレビ記の最初の言葉「そして主は呼ばれた」から来ています。礼拝のための幕屋の外にいるモーセに、主が幕屋の中から呼びかけられた、というところにレビ記の特徴とメッセージが表れています。レビ記が示しているのは、どうしたら私たちは聖なる神のもとで生きることができるか、という事なのです。

1.聖なる神

第一に神はレビ記を通して、神が「聖なるお方」であることを明確に表しています。そして神が聖なる方だるから、神の民もまた聖なる者でならければならないことをレビ記は教えています。

レビ記は様々な規定が書かれていて、しかもそれらの規定は今の私たちの信仰生活とあまり関係ないようで、どういう意味があるのか、ちょっと分かりにくい感じがします。

しかし、イエス様はレビ記の言葉を意識して「あなたがたの天の父が完全であるように、完全でありなさい」と教えていますし、使徒パウロも、たとえば第一テサロニケ5:23で「平和の神ご自身が、あなたがたを完全に聖なるものとしてくださいますように。あなたがたの霊、たましい、からだのすべてが、私たちの主イエス・キリストの来臨のときに、責められるところのないものとして保たれていますように。」と書いています。

つまりレビ記の規則がそのままクリスチャンに当てはまるわけではないけれど、神様が聖い方であるから、その神と共に歩み民もまた聖くなければならない、というレビ記の大きな原則は今なお健在であるということです。

レビ記の中では聖さについて、二つの部分に分けて教えています。11~15章で儀式的な聖さと言われる内容についての教えがあり、18~20章では道徳的な聖さについて教えられています。そして、両方の教えの中で、それぞれに神が聖い方であるから、あなた方も聖くなければならないとくり返されているのです。

まず前半の11~15章ですが、これは儀式的な聖さについての教えがあります。ここには、聖さを失ってしまう、つまり神の前に出ることができなくなる様々な汚れが挙げられています。精液や血液など身体から命が流れでるようなものに触れた場合や、皮膚病、カビや菌に触れること、死体に触れること、特定の動物を食べることなどは儀式的な汚れとみなされました。それらは死を象徴するものとして、いのちの神と正反対のものとして「汚れ」とみなされました。とても大切なことは、これらは罪ではないということです。生活していればそういうものに触れることは普通にあります。だから何日かすればその汚れは自然になくなるとされました。問題は、汚れたままで軽々しく神の前に立とうとすることでした。この前半の聖さの教えの中で11:44で、神が聖であるから、あなたがたも聖でなければならないと教えられています。

後半の18~20章は道徳的な聖さについて教えています。この箇所の中心的な考えは、周りの偶像礼拝をする民の真似をしたりしないで、違う生き方、聖い神の民に相応しい道徳的な基準をもって生活しなさい、ということです。

たとえば、イスラエルの民は貧しい者や外国人など弱い立場にある人たち思い遣るべきでしたし、他の民族が平気でやっているような近親相姦や性的に自由な関係を避け夫婦関係を大切にし、経済活動や行政、裁判での公平さという社会での正義を求められ、異教の習慣を取り入れることを禁じられました。そして、やはりここでもくり返されます19:2「あなたがたは聖なる者でなければならない…わたしが聖だからである」。

神様は、神の民に、生活のあらゆる面で聖い者となることを求めていることが分かります。

2.赦しと回復

しかし問題は、その神の民が神との契約を破って罪を犯し、異教の神々の真似をして金の子牛の偶像を作って拝み、汚れた者となってしまったことでした。これから先も、この罪や汚れが、聖い神様と共に歩み、祭司の王国として神様の素晴らしさを世界に示して行くという務めをダメにしてしまうことは目に見えています。

そこで神様は、罪や汚れから逃れられない人間のために、罪の赦しと、神様との交わりの回復の道を備えてくださいました。それがレビ記に記されている様々なささげ物や祭についての教えです。

1~10章では、さまざまなささげ物と、それを扱う祭司の務めについて教えられています。ささげ物は罪が赦され、神との交わりを回復するためのものです。後半のほうの21~25章では祭司の資格と年に7回ある例祭について教えられています。これらの例祭は神の救いを思い起こすために、出エジプトのときに体験したことを祭を通して追体験するためのものでした。

ささげ物にはいくつかの種類がありますが、今日はそれら一つ一つを見ていくと細かい話しになって全体が分からなくなってしまいますので、重要なポイントだけをお話します。

これらのささげ物は、穀物のささげ物もあるのですが、多くは牛、羊、山羊、鳥などの動物を捧げます。それらは神様を讃えるため、感謝を捧げるため、罪の赦しをいただくためなど、様々な意味がありました。しかし、いずれも「いけにえ」という言葉が出てくるように、これらの動物を生きたまま連れて行って、捧げるその場で屠殺した上で焼いてささげ物にすることになります。全部を焼き尽くす場合もあれば、一部だけを焼いて残りは祭司の食糧になる場合、また捧げた本人も受け取る分がある場合など、ささげる目的別に扱いも違っていました。しかし、共通しているのは、血が注ぎ出されるということです。ただ血を流すのではなく、ささげる人が頭に手を置いてから殺して血を流す、という手順がありました。

現代の感覚でいうと、神を礼拝するためにいけにえを捧げるなんて言うのは、ちょっと野蛮な感じがするかも知れません。しかし、わざわざ生きたものを連れて行ってその場で血を流すということがとても大切な意味を持っていました。

というのも、血はいのちの象徴で、血を流すということは、ささげ物をする人の罪の身代わりとして動物のいのちを捧げるという意味があったのです。それは残酷に無慈悲に動物を殺すというものではなく、食肉処理のために機械的に屠殺していくのでもありませんでした。むしろ人間をいけにえとして神々に捧げるような邪悪な宗教があった時代においては、ずっと文明的と言えました。しかも、必ず動物の頭に手を置いてから屠るという手順がありました。それによって人々は、何か具体的な罪を犯した場合でなくても、聖い神の前では罪があり汚れのある者であることをくり返し自覚させられ、それでもなお、神の祝福と交わりへと招かれる恵みの中にあることを再確認することになるのです。

こうしたささげ物についての規定から明らかになることは、神は聖なるお方で、その聖さゆえに悪を赦すことができず罪を罰せずにはおかれないけれど、同時に憐れみ深く、赦しを与えたいと願っているということです。神様の願いは人間を滅ぼすことではなく、回復させ祝福することなのです。

3.なだめの日

そして16章には、年に一度の「なだめの日」「贖いの日」、ヘブル語では「ヨム・キプール」と呼ばれている、特別な日についての教えがあります。大祭司が全イスラエルのすべての罪を年に一度清算するための特別な儀式です。

この「なだめの日」が定められたのは、ある事件がきっかけでした。16:1に「アロンの二人の息子の死後」とあります。アロンはモーセに兄にあたりますが、神様から祭司の長である大祭司に任命されていました。そのアロンの一族は祭司や礼拝の奉仕のために特別な務めを与えられていました。そしてアロンの二人の息子も祭司として任命されていたのです。しかし、彼らがある事件を起こしてしまいます。

それはレビ記10章に描かれています。アロンの息子ナダブとアビフは、神様の前に香を焚く務めをいただいていましたが、その日彼らは、定められたものとは違うものを捧げてしまったのです。どうしてそんなことをしたのかというと9節にヒントがあります。どうやら彼らは強い酒を飲んで酔っ払った状態で礼拝の務めにあたり、そのため規定とは違ったものを作ってしまったようなのです。

聖なる神の前でどうやって生きていくか、ということを教えている最中でのこの出来事は、アロンの二人の息子が死の報いを受けるという厳しい結果を招きました。

このことを受けて、16章の「なだめの日」「ヨム・キプール」が定められたのです。つまり、祭司を通して民の罪の赦しと回復が行われるものの、その祭司自身も罪人であるという厳しい現実をどうにかしなければならないということです。この「なだめの日」の教えがレビ記の中心に置かれていることから、これがいかに大切なものであったかが分かります。

年に一度行われる「なだめの日」にだけ、大祭司は幕屋の一番奥にある至聖所に入ることができます。大祭司はそこで神の前にイスラエルの民全体のために罪の告白をします。個人個人の罪だけでなく、民全体として、告白されていない罪や気付かないうちに犯してしまった罪、祭司たちの罪をすべてこの時に赦しを求めます。

そして全ての罪をアザゼルという名前を付けられたやぎに託し、このヤギは荒野に追放されるのです。

このあたりのことは新約聖書の説明を読んだほうがわかりやすいので、ヘブル5:1~3と9:1~9を開いてみましょう。

神様はその聖さゆえに、罪やけがれをそのままにしておくことができません。しかし、神様は人間を滅ぼしたいのではなく、愛しておられ祝福を与えようとしておられます。そのために、罪の赦しと回復、聖さを与えるための道を備えてくださったのがレビ記です。

しかしながら、大祭司もまた人間であり、その弱さゆえに人々を思い遣ることができ、神と人との間に立つことができるのですが、同時に罪人でもあるので、自分の罪もまた赦される必要がありました。そのための「なだめの日」でもありました。

9:9で指摘されている通りレビ記の規定はイエス様による完全な救いまでのつなぎであり、幕屋での礼拝の様々な姿はイエス様が後になさることの比喩です。それでも、このレビ記での規定が神様との交わりとが、レビ記の次の民数記の出だしのところで分かります。

適用 大胆に神のもとへ

民数記1:1「エジプトの地を出て二年目の第二の月の一日に、主は、シナイの荒野の会見の天幕でモーセに告げられた。」

小さな違いですが、レビ記の最初では、モーセが会見の天幕の中に入ることができず、中から語りかける神様の言葉を、天幕の外で聞いていましたが、民数記の最初はモーセが天幕の中に入ることができ、そこで神の言葉を聞くことができたことを記しています。

「天幕から」と「天幕で」という小さな言葉の違いですが、罪が赦され、聖なる神様の前に出ることができ、その御言葉と祝福を受ける道が開かれたことが分かります。

エデンの園で人間が神様に背を向け、その言葉を信頼せず、従わないで自分が決める、という態度を取ったことで、罪と死が人間を支配するようになりました。神から自由になるはずが、罪と死の奴隷になり、神様から約束された豊かな祝福を失ってしまったのです。その象徴的な出来事がエデンの園からの追放です。

この罪と死の支配から解放し、ふたたび本来の祝福に与らせるために、神様はアブラハムとその子孫を選び、モーセによってエジプトから救い出されるという経験を経て、ようやく「罪の赦し」という道筋が示されたのです。

しかし、今私たちはレビ記に記されているような牛や羊のささげ物はしません。罪を犯したからといって毎回動物の血を流すために教会に来たりもしません。年に一度の流しそうめんは楽しみにしていても、「なだめの日」のような非常に重々しい内容の祭を行うこともありません。

神様の聖さに変わりはないのに、イスラエルの民のような、ケガレから身を遠ざけるような注意深い生活もしていません。せいぜい新型コロナやインフルエンザのウイルスに感染しないようにとか、食中毒に気をつけるくらいです。それどころか、神様の聖さをちょっと軽く見すぎているところすらあるかも知れません。

なぜそんなことが可能なのかと言えば、イエス様が動物のいけにえの代わりに十字架の上でご自分の血を流し、いのちを注ぎ出してくださったからです。またイエス様は罪ある人間の大祭司が年に一度の贖いをする代わりに罪のないお方として、しかし人としては人間の罪や苦しみを十分に分かってくださる方として、神様と私たちの間に立って取りなしてくださいます。つまり、イエス様はレビ記に記されている、罪が赦されるためのいけにえの役割と、人々の全ての罪の贖いのために神の前に立つ大祭司の役割を、同時に、お一人で十字架の上で果たしてくださったということです。

だから先ほど開いたヘブル書で、レビ記の規定とイエス様の関係を説明しはじめる時に、このように励ましの言葉を記しています。「さて、私たちには、もろもろの天を通られた、神の子イエスという偉大な大祭司がおられるのですから、信仰の告白を堅く保とうではありませんか。私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯しませんでしたが、すべての点において、私たちと同じように試みにあわれたのです。ですから私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、折にかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。」

私たちの不完全さは残念ながら今も変わりません。それは私たちが日々の生活の中で実感しているところです。イスラエルの民が異教の民とは異なる生き方、より高い道徳的な基準を持って歩む事を期待されたように、私たちもこの世にながされず、何が神のみこころかを考えて歩むよう求められています。それでも、周りにながされたり、自分の心のうちに起こってくる罪深い思いや誘惑にあらがいきれないことがあります。それが私たちの姿です。

それでも、神様のあわれみと恵みの方が上回っています。レビ記を通して、神様の聖さを思い、人の罪深さがあっても何とか汚れを取り除き、祝福を与えようとされる神様の愛とあわれみの大きさ、イエス様によってその思いを完全に遂げて私たちに与えてくださった救いの恵みを感謝して受け取りましょう。そして、今日も、このあわれみと恵みを信頼して、神様の前に近づく者でありましょう。

祈り

「天の父なる神様。

レビ記を通して神様の聖さと、赦しを与え、神の民として養い育てようとする神様の愛の深さを教えられました。人間の罪深さにも拘わらず、滅ぼすのではなく救いの道を備え、交わりを回復させ、祝福を与えようとしてくださる恵みの大きさを心から感謝します。

いま、私たちがキリストによって、あなたの恵みと愛を受け取るために何の隔ても、障害もなく、誰でも大胆に受け取り、御前に出ることができることを感謝します。

どうか、私たちをこの信仰に固く立たせ、あなたの恵みと愛を信頼して歩ませてください。

イエス・キリストの御名によって祈ります」