2020-12-13 主はあわれみを忘れず

2020年 12月 13日 礼拝 聖書:ルカ1:39-56

 アドベント3週目となりました。今日は、先週の続きの箇所です。マリアが、救い主を身籠もるという御使いの驚くようなお告げを、信仰をもって受け止めた後の話です。今日も二千年前の聖書の世界に思いを馳せましょう。

御使いが去ってほどなく、マリアは御使いの話しの中に出てきたエリサベツのもとを訪ねることにしました。たぶん、このときにはすでにヨセフにも天使が現れ、事の次第を説明し、恐れないでマリアを妻として迎えなさいという励ましがあり、二人でこの大事な務めを果たすために心を一つにしていたのではないかと思います。

親戚のザカリヤの家に行くと、すぐにマリアはエリサベツに挨拶をします。不妊症の上に年齢的にもすでに子どもを諦めていたエリサベツの長い人生の中で、初めて見るような喜びと誇らしさに満ちた顔が、マリアの声を聞いた途端にいっそう輝きを増しました。お腹の中の赤ちゃんが踊るように動き回るのを感じ、同時に聖霊に満たされる感覚が彼女を満たしました。そして、こう語り始めます。「あなたは女の中で最も祝福された方。あなたの胎の実も祝福されています。」

まるで王様の世継ぎを身籠もった王女を出迎えるかのような挨拶にマリアは一つの歌を返します。今日は特に46節からの「マリアの賛歌/マグニフィカート」と呼ばれる箇所を味わって行きます。

1.主が目を留めてくださった

マリアの賛歌のテーマは何かというと、主がその御力によって貧しい者を引き上げてくださる、それは先祖たちに約束されたあわれみだ、ということが出来ます。

マリアは心の底から主を賛美し、自分の身に起こったことが神の救いであることを確信し、何より、「卑しいはしために目を留めてくださった」ことを喜びました。 エリサベツが「女の中で最も祝福された方」と言えば、マリアは誰もが自分を「幸いな者と呼ぶでしょう」と返し、その喜びのほどを歌っています。

この歌の出だしの部分には、卑しいしもべに過ぎない者に、全能の神が目を留めてくれたという喜びがあふれ出ています。

金メダルをとって来たスポーツ選手が空港に到着した時とか、凱旋パレードをするとき、ファンの皆さんが一生懸命選手の名前を呼んで、ちょっと近づいたり、チラっとでも自分の方を向いた気がしただけでも「羽生君が私を見てくれた!」と大興奮したりします。

かくゆう私も、学生時代、大ファンだったミュージシャンがコンサートに出演すると聞いて、一番安いチケットを買いました。会場の後ろから3列目くらいのシートでした。前のほうの熱心なファンが大騒ぎしながら演奏に熱狂しているのを羨ましくながめていました。休憩時間を挟んで後半に、そのミュージシャンがソロで演奏しながら自分の後ろの方から突然現れたのです。大興奮で、演奏にしびれ、大声でそのミュージシャンの名前を叫んだのですが、周りの人は「迷惑な若者だな」と思ったに違いありません。でも、こっちに来てくれた、というだけで本当に嬉しかったです。

マリアの喜びはそんなものではありません。神様がこっちを見てくれた気がするとか、近くにいたような気がするなんてものではなかったのです。天地を造られ、先祖アブラハムに祝福を約束し、イスラエルを祭司の国として世界に祝福をもたらすものとすると約束された神が、目で見ることができない神様が、ご自身の代理を立て、マリアのもとに遣わし「おめでとう、恵まれた方」と語りかけました。聖書の信仰の偉人たちや預言者たちが誰一人としてかけてもらったことのない言葉です。目を留めてもらえるはずのない方に目を留めていただいたというのがどれほど嬉しいことか、興奮することか、名誉なことか。こんなに素晴らしい経験は人類の歴史の中でただ一度のことに違いありません。確かにどの時代の人も、マリアを幸いな人、祝福された人と呼びます。

マリアが、主が自分に目を留めてくださったと思えたのは、御使いの言葉だけではありません。49節で「力ある方が、私に大いなることをしてくださった」と言っているように、お腹に感じる新しい命のゆえです。ただ妊娠したということなら、結婚前に妊娠したということは倫理的に非常に厳しいユダヤ人社会では不安と恐れと悩みでしかないはずですが、神様がその全能の力によって新しい命を宿させてくださって、救い主の母として生きるというまったく新しい人生に導いてくださったことが分かるので祝福そのものです。

私たちはマリアのようなすごい体験はありません。誰一人ないでしょう。けれども、確かに神様は私たちにも目を留めてくださいました。神様の造られた全宇宙のちっぽけな地球にこれまで何十億人と生きて来た人たちの中から私のことを見落とさずに目を留めてくださったことはどんなにすごいことでしょうか。

2.貧しい者とは誰か

マリアはこの神様の素晴らしい祝福が、自分だけでなく、すべての貧しい者に向けられた祝福であることを、歌の後半で強調しています。「貧しい者」という言葉自体はマリアの賛歌の中に出て来ませんが、「卑しいはしため」「低い者」「飢えた者」というような言葉がくり返されます。神様は自分に目を留めてくださっただけでなくだけでなく、こういう貧しい者、弱い者と言われる人たちに目を留め、祝福と恵みを与えようとしていると言うのです。

このことはルカの福音書全体の大きなテーマの一つなのですが、貧しい者、弱い者とはいったいどういう人たちなのでしょうか。マリアはどのような人たちのことを思い描いていたのでしょうか。

53節で飢えた者と富む者が比較されているように、貧しい者と言えばまずは経済的に困窮している人を思い浮かべます。しかしマリアはただ、経済的に乏しい貧しさのことを言っているわけではありません。52節に「権力のある者」と「低い者」が比べられているように、社会的に力のない人たちのことも指しています。

また、イスラエルに対するあわれみということが言われていますが、これは当時イスラエルの国全体がローマ帝国の支配下にあって、自由と独立を強く求めていた事情を映し出しています。

こうしたことから分かるのは、何であれ欠けや弱さのある人たちをひっくるめて「貧しい者」というふうに捉えているのです。お金持ちで社会的地位があっても、現実を見ればローマの属国で、みんなどこかしら不満や「こんなはずではないのに」という思いを抱いていました。

ユダヤ人社会の中では、貧しさとか病に冒されていることは神の祝福からもれた者、神の恵みを受けていない者と見なされていました。そしてその最たる者が、神の祝福の外にいる人たち、異邦人です。福音書を書いたルカは、神の恵みが貧しい人たち、弱い人たちに向けられ、やがて異邦人に及んで行く姿を描き出しています。

ですから、イエス様の周りにはいつも病気の者、悪霊につかれた者、汚れているとレッテルを貼られた者、罪人の烙印を押された人などが集まっていました。イエス様は、のけ者にされている人たちを受け入れ、癒やし、語りかけ、慰めました。さらには神の祝福の外にいると言われていたサマリア人とか異邦人といった人々にも癒やしと慰めを与えました。このようにして、やがて福音が全ての人に分け隔てなく伝えられ、いろいろな違いを持った人たちが一つの神の家族、教会として結び合わされて行く姿が、ルカの福音書の続きである使徒の働きで描かれて行きます。

マリアはまだそこまでは知るよしもありませんでしたが、それでも彼女は、そういう貧しい者たちが、神の恵みを失った人とか祝福の外にあるなんてもう言われなくなる時代が訪れるのだ、貧しい者、弱い者こそ祝福された者、恵みを受けた者と言われるようになるのだと、自分自身を重ね合わせて歌ったのです。

この視点から言うなら、私たちは皆、貧しい者たちなのです。エペソ2:11~12を開いてみましょう。

私たちはマリアが考えたような意味での貧しさとはちょっと違うかも知れませんが、様々な欠けを持ち、心に満たされない穴があり、何より天地を造られた神様もその愛も知らなかったのです。

3.貧しい者を引き上げて

しかし、神様は生まれてくる救い主を通して、貧しい者を引き上げてくださると、マリアは歌いました。

51~53節に描かれているのは、貧しい者たちに起こる大逆転劇です。

それまで地位の高さ、経済的豊かさ、宗教的なレベルの高さのようなものに高ぶっていた者が追い散らされ、権力のある者が引き下ろされ、富む者が追い返され、逆に主の憐れみが主を恐れる貧しい者に与えられます。低い者が高く引き上げられ、飢えた者が良いもので満ち足りる。それが救い主によってもたらされる大逆転。そして神の祝福です。

ルカの福音書の中にこんな譬えがあります。パリサイ派という律法や伝統を事細かく守り他人の生活にまで口だしして、自分は神に義と認められるはずだと思い込んでいる人たちがいました。そのパリサイ派の人が神殿に祈りにいくと、ちょうど取税人も一緒に並んで祈ることになりました。ローマの手先、売国奴と見下されているような人です。パリサイ人は心の中で祈りました。「神よ、私が罪人でないこと、このとなりにいる取税人のようでないことを感謝します。私は週2で断食してますし、献金もちゃんと十分の一捧げています」。隣の取税人は自分の胸を叩きながら顔を上げようともせず祈ります。「罪人の私をあわれんでください」。イエス様は祈りが聞かれ、義と認められたのはパリサイ人ではなく、取税人のほうだと言われました。

またあるとき、イエス様が神殿で人々が献金箱に献金を入れているのを見ていました。金持ちたちがこれみよがしに献金を投げ入れていましたが、そこに貧しいやもめがやってきて、レプタ銅貨という、当時では一番小さい単位の銅貨を二枚だけ投げ入れたのです。今のお金にしたら100円くらいです。イエス様はそれをご覧になって、この貧しいやもめは他の誰よりも多く献金したんだ。金持ちたちは有り余る中から献金したけれど、彼女は乏しい中から生きる手立てとすべきものさえ捧げたのだからだと称賛しました。

健康で暮らし向きが良く、社会的にも立派な人と認められ、宗教的な義務をしっかり果たせている人が、神に祝福され義とされている人と思われがちだった中で、イエス様はその歪んだ考えに公然と立ち向かいました。病む者、貧しい者、社会からはじき出された者、罪人と呼ばれている人たちの友となり、その人のうちに、神に憐れみを求める心があるなら、その人々をイエス様は癒やし、慰め、きよめ、教えました。

逆に、社会的にどんなに認められていても、その心に偽善や人を見下す態度や、自分を誇る思いがある人たちを容赦なく非難しました。それは「あなたも悔い改めるべき罪人だ」と指摘することに他なりませんから、激しい怒りを買いましたが、そんなことにひるんだりはしません。

神様は私たちが何を持っているか、どう生きているかで私たちの価値を決めたり、義と認めたりなさるわけではありませんし、逆にダメなやつと決めつけるのでもありません。だから、イエス様よる大逆転が起こり得るのです。神の哀れみを信じて求める者には、誰にでも大逆転が起こるのです。

適用 主は恵み深く憐れみ深い

この大逆転は、イエス様の働きを通して非常にわかりやすい形で示されました。たとえば歩けなかった者が歩けるようになったり、見えなかった者が見えるようになり、聞こえなかった人が聞こえるようになりました。悪霊につかれていた人が自由にされ、汚れた病に冒され社会から切り離されていた人が聖められ家族の元に帰って行きました。聖書の預言は、救い主とはまさにそのような方だと告げて来たのです。

しかしイエス様の働きを丁寧に読んで行くと、前半のほうで良く見られた病気の人のいやしのような奇跡は次第に少なくなり、人々の心を取り扱う話しが増えて来ます。

特徴的なのが19章に出てくる取税人ザアカイの話しです。彼は取税人であるうえに、人々から決められた以上のお金を税金だといって巻き上げ至福を肥やしていました。背が小さいというコンプレックスがそういうひねくれた行動に走らせたのかもしれません。しかし当然のことながら彼を尊敬する人はいませんでした。

彼が住むエリコの町にイエス様が来られた時、ザアカイは噂のイエス様をひと目見ようとしましたが、背が低くて前にいる人だかりで全然見えません。誰も彼に場所を譲ってくれる人もおらず、彼は木の上に登り、そこから見物することにしました。「俺って頭良い」と言ったとは書いてませんでしたが、そういう気分だったように思います。ところがイエス様がその木の下を通りかかった時に「ザアカイ下りて来なさい、今日はあなたの家に泊めてもらいたい」と言ってくれたのです。ザアカイは、人から泊めてもらいたいなんて言われたことがなかったかも知れません。イエス様にそんなふうに言われて嬉しくて、大喜びでイエス様を迎えました。そして彼は、今までの悪行を悔い改め、財産の半分を貧しい人に与え、不正に受け取った分は四倍にして返しますとイエス様に約束しました。その時イエス様はこう言うのです。「今日、救いがこの家に来ました。この人もアブラハムの子なのですから。人の子は、失われた者を捜して救うために来たのです。」

ザアカイは金持ちでした。しかし、彼はそのあくどいやり方と取税人であるがゆえに、人から尊敬されたい、尊敬されずとも認めてもらいたいと願っても叶いませんでした。そんな彼にイエス様は目を留め、彼をの心を引き上げてくださったのです。蓄えていたお金はかなり少なくなったかもしれませんが、彼の人生にはもっと良いもので満ちるようになったのです。彼もまた貧しい者でした。

マリヤはその賛歌の最後、54~55節で主があわれみを忘れなかったとくり返しています。

創世記を学んだ時のことを思い出せると思うのですが、神様がアブラハムに約束したのは祝福でした。しかし、彼女はアブラハムとその子孫に対する祝福の本質が「あわれみ」だと見抜いています。受けて当然の祝福ではなく、まったく相応しくなかった者への祝福は憐れみであり、恵みです。そのように思えたのは彼女が神様の前に自分ははしため、しもべに過ぎないというへりくだり、そして主を主として恐れ、敬うがゆえに気づかされたことです。

神様は、恵み深く、憐れみ深い。それゆえにマリアやすべての貧しい者に祝福を与え、そして遠く離れた私たちにも救いをもたらしてくださいました。

私たちがそのような神様の恵み、憐れみの中にあることを改めて感謝しましょう。貧しい者であることを認める謙虚さと、主を恐れる敬う心を持ちつつ、そんな私たちのために救い主イエス様をお与えくださった主を賛美し、その現れであるクリスマスを心待ちにしましょう。

祈り

「天の父なる神様。

クリスマスを待ち望むアドベントの時に、主が独り子イエス様をお与えくださった意味と恵みの深さを思い巡らす時を与えてくださり、ありがとうございます。

マリアに示された深い憐れみと救いが、遠く離れた私たちにも与えられていることを感謝します。

心にある欠けや弱さをどこに救いを求めて良いのか知らなかった私たちに、イエス様にある神様の深い愛とあわれみをお示しくださり、私たちを救ってくださり、ありがとうございます。

どうぞ、これからも自らの貧しさを謙虚に知りつつ、あなたの恵みの深さ、憐れみの大きさに感謝し、信頼して歩む事ができますように。私たちのためにおいでくださったイエス様のご降誕を思い、喜びを増し加えさせてくださいますように。

主イエイス・キリストのお名前によって祈ります。」

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