2021年 12月 20日 クリスマス礼拝 聖書:ルカ2:1^20
ご存じのとおり、クリスマスはイエス・キリストがお生まれになったことを祝う記念の日です。
この日にイエス様の降誕をお祝いするというのが長い間の伝統となっています。けれども実際の誕生日は分かりません。しかしながら、イエス様の誕生の時に起こったいくつかの印象的な出来事は聖書から読み取ることができます。
今日、ご一緒に注目したいのは、天使たちが羊飼いに告げたことば、「今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。」という言葉です。キリストとしてお生まれになった救い主イエスは、私たちのための救い主だということです。
1.救い主の誕生
聖書には救い主についての様々な預言があちらこちらに記されています。ミカ書5:2もその一つです。「ベツレヘム・エフラテよ、/あなたはユダの氏族の中で、あまりにも小さい。/だが、あなたからわたしのために/イスラエルを治める者が出る。/その出現は昔から、/永遠の昔から定まっている。」
これは救い主がベツレヘムという町で生まれることを預言したものと理解されていました。ベツレヘムは首都エルサレムから南に10kmくらいくだった所にある小さな町で、旧約時代の名君ダビデ王の出身地でした。しかも救い主はダビデの子孫として生まれるとされていましたので、これ以上ぴったりの場所はありません。
しかし、ここに問題が一つありました。イエス様の両親となるヨセフとマリアは北の方の田舎町ナザレに住んでいたのです。ヨセフにとってベツレヘムは先祖の町ではあっても、そこに実家や頼れる親戚がいるわけでもなく、ナザレで出産するほうがずっと安全でした。しかもベツレヘムとナザレでは160kmくらい離れていますので、健康な足で歩いても数日かかります。そんな道をわざわざ身重の妻を連れて行くなんてことは考えもしなかったでしょう。
しかし、ここでどうしてもベツレヘムに行かなければならない用事が出来ました。ローマ皇帝が税金取り立ての基礎資料にするために人口調査をせよと命じたのです。ローマの属国であったユダヤに暮らす人々もそれに従わなければなりませんでした。ユダヤでは人口調査のためには自分の先祖の土地に帰って登録する必要がありました。そのためにそれぞれの出身地へ帰るために旅費を工面し、自力で行って手続きしなければなりませんでした。ヨセフもこれには従わざるを得ません。一人行っても良かったのですが、妻マリアを一人残しておけば、彼女が結婚前にすでに身籠もっていたことは知られていましたから、聖霊によって身籠もったという説明を信じようとしない人たちからどんな酷い目に会わされるか心配したのかもしれません。お腹の大きいマリアを気遣いながらの旅、普通より倍も時間をかけてでも一緒に行くことになったのです。
権力者たちの都合で庶民が振り回されるというのはいつの時代も、どの国でもよくある話しです。仕方がないので、とにかくヨセフとマリアはベツレヘムに向かいました。
身重の妻も一緒となれば、いくらロバに乗せてあげたとしても、どうしても旅はゆっくりになります。一緒に歩き始めた人たちがいたとしてもどんどん距離があき、後から来たたくさんの旅人に追い越され、ようやくベツレヘムにたどりついた時には宿が一杯で、ようやく見つけた寝床は家畜小屋でした。こういうことでブツブツ文句を言うヨセフとマリアの姿はイメージに合いませんが、私なら不平が出てしまいそうです。
しかし、このことが最初のクリスマスの意味を私たちはっきりと指し示すものにしました。馬小屋で羊や牛に囲まれてひっそり生まれた姿は現代人からはちょっとファンタジーな感じがして温かい雰囲気ですが、現実は逆でした。王として来られると約束された救い主は皆に期待され、喜ばれ、温かく豪華で安全な場所に高貴な人として生まれたのではなく、薄暗く、汚い場所、人々の冷淡な扱いの中にお生まれになったのです。それは救い主がどういう世界に暮らす人々のために来られたかを指し示しているのです。
2.羊飼いたち
救い主がそういう世界の人々のためにお生まれになったことを私たちに指し示すもう一つの場面は、その素晴らしい知らせの最初の受け手として羊飼いが選ばれたところです。
神の使いである天使は、羊飼いのもとに遣わされました。天使が地上に降り立ったら、たまたまそこが草原で、羊飼いしか聴衆がいなかった、ということではないのです。
天使は、ユダヤ王ヘロデのもとではなく、大祭司や神に仕える多くの人々が集まっているエルサレムの神殿でもなく、ローマ総督の官邸でもなく、ショッピングで賑わう大通りでもなく、羊飼いしかいないベツレヘム郊外の荒野に向かったのです。
羊飼いは、ユダヤ人社会の中では不当な扱いを受けていました。彼らの境遇は、現代の私たちも含めて、人間の真の姿を表すような存在といえます。
羊飼いは聖書の中では群を導くリーダーのイメージで、ある箇所では、役割を果たさない王や支配者を悪い羊飼いとし、その代わりに遣わされる良い羊飼いとして救い主を描いているほどです。
しかし、現実の羊飼いはけっこうひどい扱いを受けていました。羊飼いが世話をしている羊は、人々の生活を支えるもの、特に礼拝の時にささげものとして最もよく用いられた動物です。それを世話をする羊飼いには、ふさわしい尊敬が与えられていませんでした。当然収入も少なく、社会的には底辺に属する人たちです。自然の中を放牧して歩くので、時々、ワシやオオカミに狙われますが、羊の所有者たちは、羊飼いが小遣い稼ぎのためにちょろまかしているのではないかと疑いをかけました。草原や荒野を歩き回っている間に、知らずに他人の土地に入り込んで草を食べさせてしまうこともあって評判が悪くなりました。羊飼いとは信用ならない者たちだと言われ、羊飼いは裁判での証言が許可されないほどでした。ひどいですよね。当然羊飼いも世間を信用しません。
その上、羊の世話は平日だろうが安息日だろうが関係ありません。宗教的な義務を守れないということで、祭司やパリサイ人、律法学者などユダヤ教の指導的な立場の人たちからは評判も悪かったのです。羊飼いは恐れ、疑い、将来に希望を持てない人々でした。
いや、私はそこまでひどい境遇ではないと思われるかも知れません。けれども、イエス様が生まれた家畜小屋のように、この世界は人間に相応しいとは言えない環境になり、罪と死のために暗く、汚れています。そしてこの世界に生きる私たち人間は羊飼いたちのように恐れ、疑い、不安を抱えて生きる者です。
新型コロナの中で人間の弱さ、隠されている不安や人間社会が持っている冷淡さをあぶり出しました。私たちは健康被害を恐れ、経済の低迷を恐れ、万が一感染した場合のご近所の目や社会からのバッシングを恐れます。万が一教会から感染者が出たり、クラスターを発生した場合の健康被害より地域社会での悪い評判が立つことを恐れていた面もあります。社会も国も弱者に対してそんなに優しくはなかったし、一番苦労している人たちがなかなか報われない不公平さと他人を気にせず自己中心に振る舞う人たちの傲慢さが目に付きます。しかしそれらは今に始まったことではなく、普段は隠されていた不安や恐れ不公正、自己中心が、こういう状況ではっきり顔を出しただけのことです。
3.良い知らせ
しかしながら、そんな私たちの姿を映し出すような羊飼いのもとに、天使によって良い知らせが届けられました。
救い主についての預言の中にこういうのがあります。「闇の中を歩んでいた民は/大きな光を見る。/死の陰の地に住んでいた者たちの上に/光が輝く。」(イザヤ9:2)
律法学者たちは、貧しい者や羊飼いのように律法を守れない人々を「地の民」と呼んで軽蔑しました。しかし神様は預言者を通して、闇の中を歩んでいるような地の民が大きな光を見るとあらかじめお告げになり、その言葉どおりに、野宿をしていた羊飼いたちは辺り一面を明るく照らす光を見ました。
羊飼いたちは突然のことにものすごく怖がりました。そこで御使いがその光の中から語りかけます。10~12節です。
「恐れることはありません。見なさい。私は、この民全体に与えられる、大きな喜びを告げ知らせます。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。あなたがたは、布にくるまって飼葉桶に寝ているみどりごを見つけます。それが、あなたがたのためのしるしです。」
この良い知らせ、大きな喜びを告げる知らせは、すべての人のためのものです。ちゃんと羊飼いたちもその中に入っていることを強調するために、天使は言いました。「あなたがたのために救い主がお生まれになりました」。
これはかなりの大ニュースです。当時の人たちは神の約束された救いは、律法を厳格に守り神に義と認められた人たちに与えられるもので、羊飼いたち、地の民と蔑まれてきた人たちにはあまりチャンスはないと教えられて来ました。しかし、実際のところ、救いを必要とし切実に待ち望んでいたのでは、地の民、希望の持てない人たちのほうだったに違いないのです。
その代表のような羊飼いたちに「あなたがたのために救い主がお生まれになりました」と御使いがはっきり告げたのです。
それから羊飼いたちに、生まれたばかりの赤ん坊を探すよう命じます。目印は「布にくるまって飼葉桶に寝ている」赤ん坊です。
すべての人の救い主となる方が、神の民の王となるはずの方が、神の御子が、家畜小屋の飼い葉桶に寝ているなんて、ちょっと信じがたい話しですが、羊飼いたちは天使の言葉を信じて出かけて行き、ついに探し当てました。
話しを聞いた人たちは不思議がりましたが、羊飼いたちはすべてが御使いの告げた通りだったので、神を賛美しながら家に帰って行きました。
聖書が私たちに告げていることは、この良い知らせは羊飼いや、2000年前の貧しい人たち、のけ者にされていた人たちだけのためのものではなく、これを読む全ての人、現代の私たちのためにも語られているということです。救い主は私たちのためにお生まれくださったのです。
私たちのための救い主がおられると聞いてどうするか。会いに行くか、自分には関係ないと聞き流すか、それぞれが決めねばなりません。
適用 私たちのために
今年のクリスマスはコロナのお陰で特別なクリスマスになりました。もちろんクリスマスだけでなく、今年一年のあらゆることが、誰も想像していなかった状況になりました。
毎年、一年の終わりに撮りためた写真やビデオを一本の思い出の動画にまとめ、皆さんに見ていただくのが楽しみなのですが、ほとんどイベントらしいイベントはありませんでした。いろいろな機会に人が集まると集合写真を撮るのですが、今年はオンラインの集まりばかりで、パソコンの画面に顔が並んだものばかりがどんどん溜まりました。
年末もほんとに静かで、お店に行けばなんとなくクリスマスっぽいですが、いつものような華やかさや楽しさまでが自粛ムードです。クリスマス会と称した集まりもほとんど開かれません。
どことなく、皆健康不安と重苦しさ、来年はどうなるだろうかという不安を抱きながら過ごしています。
けれども、元々のクリスマス、イエス・キリストの誕生とはそういう中でのことだったということを、今日、想い起こしたいと思うのです。そういう世界に救い主はお生まれになりました。そういう中で息を潜め、半ば諦めながら、日々を過ごしていた羊飼いたちのもとに、最初の素晴らしい知らせが届けられました。
「今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。」この知らせは、今日の私たちにも届けられた知らせです。
もちろん、私たちが馬小屋に向かって会いに行くということはありません。むしろ、イエス様の方が私たちを探し出して、心の扉のすぐ外に立って、私たちがイエス様を迎え入れるのを待っていてくださいます。
「見よ、わたしは戸の外に立ってたたいている。だれでも、わたしの声を聞いて戸を開けるなら、わたしはその人のところに入って彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。」
三密で誰かと一緒に食事をするなんて、相当な贅沢になってしまいましたが、イエス様を私たちの救い主としてお迎えするとき、食卓の交わりに感じられる、あの満足感、安心、喜びが私たちの心に失われることのない祝福として満ちて行くということです。
すでにイエス様を信じた人も、まだその決心をなさっていない方も、今日、主イエス様が心の戸を叩いているのに気づいたなら、ぜひあの羊飼いたちが出かけて行ったように、私たちは、心の扉を開いて、イエス様を信頼し、受け入れましょう。
祈り
「天の父なる神様。
救い主イエス様を私たちのためにお与えくださり、ありがとうございます。
他でもない、私たちのためにおいでくださったイエス様を、おひとりお一人が、拒むことなく、無視することなく、心にお迎えし、あなたが与えようとされた豊かな祝福を恵みで満たしてくださいますように。
コロナばかりでなく、様々な災害、人間の罪がもたらすあらゆる災いと、悲しみ、恐れ、不安、孤独の中にいるすべての人に、このクリスマスの恵みを注いでくださいますように。また私たちが受け取った恵みを他の人に分け与える者となれますように。
主イエス・キリストのお名前によって祈ります。」