2021-02-07 地に住み、誠実を養え

2021年 2月 7日 礼拝 聖書:詩篇37:1-6

 「いろはかるた」というのがあります。「いろはにほへと ちりぬるを」という「いろは歌」のそれぞれ一文字から始まる諺なんかでカルタ取りをするものです。「い・犬も歩けば棒に当たる」「ろ・論より証拠」「は・花より団子」といった感じですね。やったことのある人も多いと思いますが、あれの良さはゲームの楽しさもさることながら、言葉を覚えられるということですね。

この詩篇37篇も「いろはかるた」のように、ヘブル語のアルファベット順に始まる詩が順序よく並べられた形になっています。内容としては格言集である箴言にもよく似ていて、人生についての様々な知恵を覚えやすいように工夫したものです。

今月のみことばとして3節の「主に信頼し 善を行え。/地に住み 誠実を養え。」を選びました。37篇全体は神の民としての生き方のイロハを教えるものになっています。先週、サムエル記の中で登場したダビデが書いたものです。羊飼いに過ぎなかったダビデが国の英雄になり、ねたみにかられたサウル王に命を狙われても誠実であり続け、ついにイスラエルの統一を果たし王となったダビデが、その人生の中で出会った様々な人、また人間の罪と悪に向き合う中で、いかに神の前に生きるかを学び取った知恵を惜しげもなく教えてくれているのです。誠実さとはどういうことなのか、いくつかの面から学んでいきましょう。

1.悪の道を妬まない

第一に、聖書は私たちに「悪の道を妬むな」と語りかけます。1~2節です。

「悪を行う者に対して腹を立てるな」とありますが、これはどういう意味でしょうか。

女性に対する差別的な発言をしたり、嘘や誤魔化しを続ける政治家に腹を立てたり、人の弱みにつけ込んで金儲けをしたり、欲望を満たすために犯罪を犯すような人たちに怒りを覚えることがあるでしょう。政治的な弾圧や人種差別に義憤を感じます。もっと個人的な人間関係の中で、例えば職場や学校のクラスの中でいじめや不正を働く人に怒りを覚えることだってあります。そういう場合に、腹を立てたり怒りを感じることを戒めているのでしょうか。

このような詩の特徴として、一行目と2行目は対になっていて同じテーマを言い換えて強調したり、正反対のことを並べて強調するような技法が使われています。それで改めて1節の二行目を見ると「腹を立てるな」とならんで「ねたみを起こすな」とあります。

つまり、ここで言われている悪を行う者への怒りとは、不正に対する正義感から来る義憤ではありません。むしろ「ずるい!」という感じの怒りです。不正をして自分の得になるようなことをする人たちのことをうらやんで腹を立てることを戒めている、という意味になります。

なぜ不正を働く者や悪を行う者を羨んではならないのかというと、その成功は一時的なものに過ぎないからです。

聖書の中で時々出てくる、「草が枯れる」というイメージは、日本の自然環境の中とはまるで違うものです。日本のように適度に温暖で水も豊富だと、草というのはそう簡単に枯れたりはしません。真冬でも雪を掘り出せば冬の間でも地面に青い葉っぱが元気に息づいているのを見つけることができます。しかし、聖書の世界は乾燥した気候で、熱い日差しが続いたり、熱風のような風が吹き付けたりすると、あっという間に青々としていた草が枯れてしまいます。それほどに、悪を行う者、不正を行う者の繁栄や成功はつかの間のものだということです。

私たちの生活の中で、そういう場面はあるでしょうか。最近、腹が立ったこと、ずるいなと思った出来事をちょっと振り返ってみてください。あることについて、確かに正義感から腹が立った事はあるかも知れませんが、「ずるいな」と感じた心の奥に、うらやむ気持ちがあったかも知れません。

ダビデの心の中には、命を狙うサウルや、自分の窮地とは裏腹にのうのうと暮らしている敵の顔が思い浮かんだかもしれません。「憎まれっ子世にはばかる」と言われるように、不正を働く輩が幅を効かせるようなことを国の中で見ていたのかも知れません。

こっちはこれだけ苦しんで悩んでいるのに、悩ませている相手は、平気で生きている姿に、怒りや「なんだよ、ずるいな」と思います。その時の自分の心の深い井戸をのぞき込むと、そこに、ねたみともまだ言えないような暗い感情の固まりがあることに気づいたこともあります。

不正や罪に対して怒りを覚えることは、正義を信じる者として大切な感覚ですが、心の奥に潜むものに気をつけなければなりません。

2.信頼し善を求める

第二に、聖書は私たちに主に信頼して善を追い求めるようにと励まします。

悪や不正に対して怒りを覚えることは正当な事であっても、私たちの心の奥にはねたみが潜んでいる場合があります。今の時代は、そうした感情を簡単にSNSなどで発散させる人が多く見られます。世の中の多くがそのような風潮だとしても、私たちはクリスチャンとしてもっと大切にすべきことがあります。

主に信頼し善なることを求めることです。善を追い求めること、誠実に生きようとすることがなければ、たとえ不正に対する正しい怒りであっても、それは何も生み出しません。逆に、心の奥深くに潜むねたみや悪い感情が力を増して、罪を犯させてしまいます。

最近、印象深く残っている例では、新型コロナの感染拡大の中での「○○警察」と言われるような行動です。マスクの着用が推奨される中で、マスクをしていない人に怒りを向けて詰め寄る人。往来の自粛が求められる中で県外ナンバーの車に乗っている人に文句を言ったり、「出て行け」と張り紙をする人。営業時間の短縮が求められた時に営業を続ける店に「非国民」呼ばわりする人。

こちらはこんなに気をつけて、我慢して、頑張っているのに、なんであの人はちゃんとやらないんだと怒りをぶつける姿が、世の中をピリピリさせます。

正義感からそうしている人もいるでしょうし、ねたみが動機になっている人もいるようにも思えます。もちろん、実際に感染予防や拡大に無頓着で、他人の迷惑を考えない人もいますから、腹が立つのも分からないではありません。

しかし、聖書は神の民に対して「主に信頼し、善を行え。地に住み、誠実を養え」と励まします。

何が善で何が誠実であるかということを詳しくは書いていません。しかし、自分が正しいと思うこと強い言葉で主張することが善なる事か、よくよく考えて行動しなければなりません。例えば、私が時々腹が立つのは、がん治療をしている方々の状況も知らずに抗がん剤治療や放射線療法を体に悪いから止めた方がいいなんて、無責任なことを主張する人に出会う時です。それは悪や不正とはちょっと違いますが、私には不誠実で、無責任に思えました。それで腹が立って、かみつくように反論したこともあるのですが、何もいい結果は産みだしませんでした。そういう思い込みをしている人は、普通は議論で意見を変えたりはしないものです。

4節に「主を自らの喜びとせよ」とありますが、相手に腹を立て自分の正しさを主張しようとするときって、主を喜ぶのではなく、自分の優位や小さな勝利を喜んでいるなあと気づかされます。

では、私が聖書の勧めに従って善を行い、誠実を養うこととは何でしょうか。がんだけでの問題ではありませんが、病気やケガなどで治療に取り組んでいる人たちに寄り添い、祈り、はげますことでしょうし、リレー・フォー・ライフのような今関わっている活動に自分なりに精一杯取り組むことだろうと考えています。それが正解かは分からないけれど、少なくとも誰かと論争するよりは、人の助けや励ましになり、仕えることになると思えるからです。もちろん立場が違えば、治療法や薬について正しい知識を伝えること、時には論証することがその人の誠実さという場合もあるはずです。

3.願いは主の御手に

第三に、聖書は私たちに、自分の願いを主に委ねなさいと教えています。

5節と6節は、1~2節での悪や不正を妬むなという教えと、3~4節の主に信頼し誠実を行えという教えの狭間で取り残された問題への解決となっています。

どういうことか、じっくり考えて見ましょう。

悪や不正に対して怒りを覚える時、そこにねたみが混じっていたとしても、確かにそこには、何か間違ったことが行われている、酷いことがなされている、という事実があります。怒りは正義を求める感情です。ところが、あなたのすべきことは腹を立てたり妬んだりせずに、善を行い、誠実を養うことだと言われます。そうすると、私が見た不正や悪は正されるべきじゃないか、という問題を棚上げしたり、ぐっと飲み込まなければならないことがあります。あるいは、自分の方が悪者にされてしまうこともあります。

ダビデはサウルのねたみによって命を狙われました。ダビデ自身にサウルを追い落とそうとする野心はありませんでしたが、神様がダビデを次の王に任命したことを知ったサウルにとっては、ダビデは反逆者の疑いがあるということになります。

そういうサウルに対して、ダビデはたとえチャンスがあっても命を取ろうとはせず、家臣の一人だという立場を通しました。もちろん、そこには、ダビデは反逆者だといういわれ無きレッテルが貼られてしまったことは解決していませんし、いつか神が自分を王にするという約束が本当に実現するか、何の保証もなく、見通しも立つわけでもありません。

しかし、彼は、主がなしてくださると信じて、誠実であろうとしました。

悪や不正に腹を立てず、誠実であろうとするときに放置されてしまう自分の願いや、自分の正しさの証明を、自分で何とかしようとするのではなく、神様がいずれ明らかにしてくださる。叶えてくださる。そう信頼して、主の御手に委ねなさいと私たちに励ましておられるのです。

私たちが自分の願いを追い求めたり、目標に向かって努力することは大切なことですし、時には自分の無実を証明するために戦うべき時があるかも知れません。

そうしつつも、悪に腹を立てるのではなく、誠実であろうとし、結果を主の御手に委ねて信頼しなさいと言われているのです。

そうすれば、主が私たちの道を導き、成し遂げさせ、私たちの義を、正しさを真昼のように輝かされると約束なさっています。確かにサウルに狙われていたダビデでしたが、主がダビデのほうが誠実で、真実であったことを誰の目にも明らかにしてくださいました。

殺されそうになる経験なんて、そうそうあるものではありませんが、自分の正当性を訴えても通らない、誤解されたまま不当に扱われる、自分の願いや目標を我慢して望んでいないことをせざるを得ない、そういう時ってあると思います。私もそういう経験がいくつかあります。腹を立てて怒りをまき散らしたこともありますが、ある時から思いとどまり、神様にお任せし、今自分に出来ること、すべきと分かっていることを誠実にやり始めたら、いらいらも減り、そして確かにある時神様がことを為してくださいました。

適用 誠実であれ

あんまり個人的な経験を話すと、他人も関わっていることですから、いろいろと差し障りもあるのでそれくらいにします。

しかし確信をもって言えることは、確かに今日の聖書の箇所にあるとおり、悪や不正に苛立ち腹を立て、妬むより、自分の歩みについて神様の前に誠実であることが、私たちの歩みを確かにするということです。自分でもがくよりもずっとよい形で神様がうまくことを運んでくれるのです。

聖書が教えていることは、神様に全部任せて何もしなくて良いということではありません。神様の御手に委ねて、自分のすべきことを誠実にやりなさい、ということです。

「地に住み、誠実を養え」とあるように、地に足を付けた生き方の中で、神様にも周りの人にも誠実であろうと努力し続けることは、それ自体、忍耐と努力の必要なことです。

神様が新しい道を開いてくださったり、封印していた願いに応えてくださったり、相手の悪が明らかにされるまで、私が期待する以上に時間がかかる場合も多いかもしれません。しかし、それまで主に任せて何もしない、なんてことではなく、やるべきことはちゃんと日々の暮らしの中に十分にあるのです。

あなたの歩んでいる地はどこですか。家庭、職場、学校、地域社会、親戚づきあい、友人関係、様々あるでしょう。一つだけでなく、様々な関わりの中で生きています。そうした場所や関わりの中で、仕事をしたり、学んだり、遊んだり、趣味にいそしんだり、家事をしたり、育児をしたり、介護をしたり、治療を受けたり、様々な人生があります。それらがまさに歩むべき道がある地です。そして同時に、それらの地こそが腹の立つことが起こる場所です。ねたみが置きやすい場所です。そしてまた、そここそが善を追い求め、誠実であろうと務めるべき場でもあるのです。

そして、この誠実さの拠り所。悪に腹を立てず、善を求め、主に期待することの拠り所は、主なる神様に対する信頼です。言葉としても3節や5節でくり返されます。主を信じることは、私たちを救い、新しい生き方へと導いてくれるのです。

今日、聖書が教えている生き方のイロハは、私たちが救われて神の子どもとされるためのテストではありません。イエス様を信じて救われ、神様の子どもとされた私たちが、この地で生き続けるうえで、主に信頼して生きる生き方を教えてくれています。

人間は何と言っても感情のある生き物ですから、悪や不正を見れば大小の違いはあれ、怒りを覚えます。それが世の中を良くしていく力にもなります。人が傷つけられるのを目の前にしたら、ためらわず行動しなければならないでしょう。そういう緊急事態であっても、怒りに駆られたままでは良い結果には結びつかないものです。

もちろん、腹を立てるな、ねたむなと言われて、なくなるなら、これほど簡単なことはありません。しかし、実際の私たちは、特にその悪や不正が自分に向けられたり、利用されたときなんかは、なんだよずるいなとついつい思うもの。

私たちは何度も聖書の言葉に帰って、怒りに捕らわれたままにせず、私がいましなければならなかったことは何だっけと立ち止まらなければなりません。主に信頼して、今すべきことに誠実でありましょう。神様が成し遂げて、良いものをもたらしてくださいます。

祈り

「天の父なる神様。

詩篇を通して、私たちの生き方について教えてくださったことを感謝します。

悪や不正に腹を立てず、妬まず、ということは容易なことでない場合があり、主に自分の道をおゆだねして今を誠実に生きるということもまた、忍耐と信仰を試されることです。

しかしまた、この誠実さが、この罪深い世にあってなお神に信頼して善を追い求めることが、やがて大きな報いをもたらすものであることを信じます。

どうぞ心がなえそうになる私たちを励まし、主に信頼することで私たちの道のりがより良く、確かなものになることを味わわせ、確信を強めてください。

今週も、あなたを信頼し、誠実に歩むことができますように。

主イエス・キリストの御名によって祈ります。」

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