2021-05-02 信仰が語るもの

2021年 5月 2日 礼拝 聖書:ヘブル11:1-4

 今年度の主題は詩篇37:5の「あなたの道を主にゆだねよ。主に信頼せよ。主が成し遂げてくださる。」というみことばによって『主に信頼して』となりました。しかし、主に信頼して生きるとか、信仰によって生きるとはどういうことなのでしょうか。

「信仰によって生きる」と聞いて、皆さんはどのようなことが心に浮かぶでしょうか。何事も心配しないで神にゆだねて精一杯生きることだと考える人もいるでしょうし、信じていればなんでもできるというふうに思う人もいるでしょう。私たちの周りには浮世離れした宗教者の生き方を想像する人もいるかもしれませんし、ちょっと批判的に、自分では努力しない無責任な生き方を思う人もいるかもしれません。

今日開いているヘブル書11章全体には、信仰によって生きた旧約聖書に登場する様々な人たちが描かれています。そこで月一度、第一の礼拝ではヘブル書11章に登場する、それぞれの時代、それぞれの状況の中で主に信頼して、信仰によって生きた人々のことが取り上げられていますので、それらの人物、出来事を手がかりに、私たちの生活や状況と照らし合わせながら考えて行きたいと考えています。「主に信頼する」とはどのようなことなのかをご一緒にみことばから学び思い巡らしていきましょう。

 1.信じていのちを保つ者

第一に、私たちの心と生活に豊かないのちを満たすのは信仰です。

ヘブル人への手紙の著者は11章でいきなり「信仰」について語り始めたのではなく。10:39のことばを繋いで、具体的な例として旧約時代の様々な信仰に生きた人たちを描いています。

10:39で著者は「しかし私たちは、恐れ退いて滅びる者ではなく、信じていのちを保つ者です」と記していますが、この困難の多い人生の中で、私たちは恐れに捕らわれ、退き、滅びてしまう者ではなく、信仰によっていのちを保つ者ではないか、ということを思い出させようとしているのです。

ヘブル書全体のメッセージについては、いずれ順番が来た時に取り上げますが、今日は、ヘブル書の著者はこの書を読むクリスチャンたちの人生が喜びだけではなく、様々な苦難に直面していることを知っていたということを強調しておきたいと思います。

聖書は私たちに、イエス・キリストによって与えられる救いが人生から苦難を取り去ってくれるものというより、苦難の多い人生の中でも、豊かないのちの祝福の中を歩ませるものだということを教えています。それは苦難によっても奪われることのない愛、喜び、希望に根ざすものです。

しかしながら、私たちは日々の暮らしや人生の中で、苦難に会い続けたり、その痛み、苦しみが長すぎたり、大きすぎたりすると、恐れや失意に負けそうになるのが現実です。

その現実といのちの約束を結びつけ、目に見えないいのちの豊かさを現実世界に引き寄せるものが信仰です。

そこで11:1では「信仰は、望んでいることを保証し、目に見えないものを確信させるものです。」と続けています。

この「目で見えないものを確信させる」というのは幽霊やUFOの存在を信じるようなこととは違います。ここでヘブル書の著者が言っている目に見えないものとは、苦難の多い人生、クリスチャン生活のなかで見えなくなっている希望、豊かないのちの祝福です。

信仰というのは目に見ている現実と、聖書が教える神の存在やその御業の間にある大きな溝を跳び越えるものです。

聖書はこの世界が神のことばで造られたと教えます。科学の説明は目に見えること、観察でき、同じ条件で同じことをすれば同じ結果が得られることに徹底して根拠を置いて物事を説明しようとします。それはそれで良いのですが、しかし問題は目に見えないこと、説明できないことを無視するか、否定してしまいがちなことです。人間には説明できないこと、見えないものがあるのです。神のことばによる天地創造もその一つです。しかし私たちはそのことを信仰によって真実として受け取りました。同じ信仰によって、実際には目で見てはいないイエス様の存在、その働き、十字架の死と復活を事実として信じ、私のためであったと確信したのです。

私たちは、イエス様によってその祝福がすでに約束ではなく現実の祝福になっていることを知っていますが、しかし様々な苦難が続く中でそれを見失ったり、見つけ憎くなったりします。けれども、旧約時代の人たちにとってはまさに、約束であってまだ見ていないもの、見る事のできないものでした。それでもその信仰によってその希望を生きる力としました。

2.カインとアベルの物語

目に見えない豊かないのちの約束を信仰によって生き抜いた旧約時代の様々な実例が4節から11章の終わり近くまで続きます。

今日私たちが目を向けるのはアベルです。ヘブル書の著者は4節でアベルの信仰についてごく簡単にこうまとめています。

「信仰によって、アベルはカインよりもすぐれたいけにえを神に献げ、そのいけにえによって、彼が正しい人であることが証しされました。神が、彼のささげ物を良いささげ物だと証ししてくださったからです。彼は死にましたが、その信仰によって今もなお語っています。」

ヘブル書の著者は、この手紙を読む読者が旧約聖書、特に創世記や出エジプト記をよく知っていると考えていました。現代の私たちは必ずしもそうではないので、少し説明が必要になります。そこで、カインとアベルの物語を創世記に戻って少しおさらいしてみましょう。

カインとアベルが登場するのは創世記4章です。

最初の人アダムとエバが神様から命じられていたたった一つの戒め、エデンの園の中央に生えている「善悪の知識の木」の実を食べてはならない、というシンプルな命令を破ってしまい、その報いとして人間の世界に罪と死が入ってしまった後の話です。彼らはエデンの東へと追放されました。それでもなお神の恵みと哀れみの中で彼らは守られ、二人の子供が与えられました。兄のカインと弟のアベルです。カインは農業をするようになり、様々な作物を育て収穫します。アベルは羊を飼う者になり、たくさんの羊の世話をして暮らしていました。

3節にあるように、カインは「大地の実りを主へのささげ物として」神様の前に持って来ました。同じようにアベルも、自分の飼っている羊たちの中から、その年初めて出産した羊の子どもたちの中から一番良いのを持って来て神様への捧げものとしました。

そしてここである意味では悲劇といえる事が起こります。神様はアベルのささげ物には目を留めてくださいましたが、カインのささげ物に目を留めなかったのです。

カインとアベルを比べて、カインのほうが悪い人だったというような単純な話しではなかったと思います。というのも、創世記では神様がカインに対して「戸口で罪が待ち伏せている。罪はあなたを恋い慕うが、あなたはそれを治めなければならない」と言っておられます。

カインには何か足りないところか間違いがあったのでしょう。しかし、まだ罪に支配されていたとは言われていません。自分のささげ物が受け入れられなかったことにがっかりしたり、不公平じゃないか!ひどい!と怒りを感じるのも、ある意味当たりまえの反応です。しかし、そこに大きな隙が生まれ、罪が彼の心を完全に支配して大きな罪へと引きずり込もうと待ち構えています。

結果的には、カインは心の戸口の外で待ち構えている罪を心の中に招き入れてしまい、彼の心の思いと行動は罪に支配されてしまいます。そのため彼は弟アベルをおびき出し、殺してしまうという恐ろしい行動に至ります。

そしてカインは家族のもとから引き離され、さすらう者になってしまいます。

3.神がお認めになる者

先日、妻の誕生日に久しぶりにプレゼントを買いました。選ぶ時には、相手が喜んでくれるだろうか、気に入るだろうかということを考えるわけですが、それは相手にも伝わります。金額の高さとか、結果的に気に入る物かは別として、雑に選んだか、一生懸命考えて選んだかは分かります。そんなふうに、神様も二人のささげ物から、二人のうちにあるものの違いが分かったのです。

何が神様の扱いの違いの原因になったのか、ここでは何の説明もありません。ささげたものの質に違いがあったとか、カインのささげ物には心がこもっていなかったのだとか、作物のささげ物より、血を流してささげる物のほうが優れていたのだとか、様々な説明がありますが、聖書が書いていない以上それらは想像に過ぎません。

しかし、拒絶されたことで激しく怒っているカインに対する神様の言葉の中に「もしあなたが良いことをしているのなら、受け入れられる」とあります。作物から捧げたのが悪かったわけではないのです。彼の心、態度次第で、カインのささげ物だって受け入れられた可能性はあったのです。

ヘブル書でも、アベルの捧げたささげ物によって、「彼が正しい人であることが証しされました」とあります。具体的に何が問題だったのかは分かりませんが、二人のささげた物には、彼らの心の内にあったものが表れており、一方には罪が、一方には正しさが見えていたということなのです。

そしてヘブル書は、二人の正しさと、そうでないことを分けていたものの鍵として「信仰」を挙げています。

「信仰によって、アベルはカインよりもすぐれたいけにえを神にささげ」ました。

カインとアベルの間にあった大きな差はこの「信仰」だったと言うことができます。しかし、どんな信仰だったのでしょうか。アダムの時代、今日のキリスト教信仰やあるいは聖書の時代のユダヤ教の信仰のように、整理され、論理的に組み立てられた信仰内容が確立していたわけでもありませんし、律法が与えられたモーセの時代のように、具体的に神を信じる者がどのように礼拝し、どのような生活を築き、どんな社会にするか、はっきりした規範があったわけではありません。

何かもっともっと基本的な信仰ではなかったかと思うのです。私たち人間は神の前で生きることこそ人間らしくあることができる。たとえ罪を犯してしまい、その結果の中を生きる者だとしても、神のあわれみと約束ゆえに神とともにあることに希望が持って生きられるのだ、という信仰です。なぜなら、その時代、神様が人間に示してくださったことは、人間の子孫から生まれ出る者が人を罪にさそいこんだ者を打ち砕くという約束であり、恐れと恥の中にありエデンの東へと追放された人間に、動物の毛皮で作って衣を着せてくださった神様の深い憐れみだけだったからです。

目に見える現実は、作物を耕す畑は雑草や茨と格闘しなければならず、羊の世話をするために食べ物を求めてあちことさまよわなければならない厳しさがあります。その中で目に見えない神に信頼し、神と共に生きようとするか、自分の才覚と経験にたよって生きるか。どんな時代でも問われる信仰のあり方が、カインとアベルの時も問われていたのではないでしょうか。

適用 私たちへのメッセージ

ヘブル書の著者はアベルの話しのまとめとして4節の終わりでこう記しています。「彼は死にましたが、その信仰によって今もなお語っています。」アベルが死んだのは、寿命が尽きたり、病気や事故などではありません。ねたみと怒りに駆られた兄カインの手にかけられたためです。それは、神のことばをないがしろにしために、死を宣告され、人生の様々な苦しみを背負う運命を宣告され、それでもなお救いの希望と憐れみをいただいた人間のかすかな希望を打ち砕くような出来事でした。結局、人間は罪の力からは逃れられない、その深い闇は兄弟同士の間にさえ殺人という恐ろしい罪を招いてしまうのか。そんなふうに思わされる出来事でした。

しかし、聖書は「彼は死にましたが、その信仰によって今もなお語っています」と力強く宣言します。カインの殺人や希望を打ち砕くような人間の悪意によってアベルの信仰の語るものが壊されり、かき消されたりすることなく、何千年経とうとも、響き渡り、今なお私たちに語っています。

人がどう評価するかは関係なく、神様が私たちのうちに、神様とともに歩もうとする信仰を認めるなら、神様は私たちを正しい者とみてくださいます。それは私たちの行いが道徳的に間違いがないとか、私たちの判断が常に的を得て間違いがないということではありません。それよりも、神様が私たちを、ご自身の豊かないのちの祝福に相応しいものとみてくださり、実際にその祝福を与えてくださるということです。

アベルはその希望が実現するのを見る事なく死にましたが、私たちは、イエス様によって彼らに示された救いの望みが果たされたことを知っています。

しかし、ここに「信仰」がどうしても必要なことが明らかにされます。なぜなら、アベルの信仰を否定し、その希望を打ち砕く圧倒的な悪が現実にあったように、私たちの生きているこの世界でも、イエス様を信じていったいどうなるのか、何の助けになるのか、天地を創造された神がいるなら私や私の家族のこの病や苦しみはなぜ癒されないのか、神が正義であるなら、なぜこんなひどい事を放って置くのか。そんなことがあるのがこの世界だからです。

私たちはこの世界が神の言葉によって創られたと信じても、うまく説明できないように、どのようにしてこの世界の現実の中でイエス様を信じることが救いになるのか、うまく説明出来ない事もあるでしょう。だからこそ信仰が必要ですし、また、それでも信頼するのが信仰です。

ヘブル書の著者が最初に書き送った手紙の受け取り手である人々も、激しい迫害や困難に直面していました。それは自然災害とは違って人間の悪意や敵意がむき出しになった、容赦のない言葉や態度、暴力です。カインのように、人間だれでもそっち側に簡単に転んでしまいます。

だから私たちは、信仰によってそっちじゃない方、神と共に生きる方を選びましょう。目で見えるところに万事上手く行くような解決の道やかすかな希望が見えないような時でも、見えないものから見えるものを創られた創造主なる神様を信頼し、独り子イエス様の十字架の死と復活をもって、救いといのちの豊かさを備えてくださった神様の愛に信頼しましょう。

祈り

「天の父なる神様。

私たちは今年度、『主に信頼して生きる』という主題を掲げて、みことばに聞きつつ共に歩み始めました。

コロナ禍の収束がまだ見えない不確かな状況の中で私たちは暮らしていかなければなりませんし、コロナとは関係なく、人生の様々な労苦を背負って歩んでいます。

時にはそうした苦難や、あるいは人の悪意が、神の祝福や希望を奪い去り、見失わせ、元から無かったんじゃないだろうかと感じるほどに見えなくなってしまいます。

けれども、確かにあなたは約束を果たし、キリストによってその愛と正義を確かに示してくださいました。救いを備え、私たちに豊かないのちの恵みで満たしてくださる方です。

どうか、そのようなお方として信頼し、あなたと共に生きることを選ばせてください。そのような信仰を与え、励ましと慰めとともに導いていてください。

苦難や痛みの中にある者を特に覚えてくださり、支えてくださいますように。

愛と恵みに満ちた、私たちの主イエス・キリストの御名によって祈ります。」

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