2021-05-09 生活の建て直し

2021年 5月 9日 礼拝 聖書:ネヘミヤ8:1-12

 私の好きな小説に、壁で囲まれた不思議な町を舞台にした物語があります。それは実在する町ではなく、主人公の無意識の心の中を描いたものなのですが、実際のところ、私たちは誰でもそうした壁を持っています。誰も寄せ付けないような壁になってしまう事もありますが、たいていは自分と他人を区別し、自分の心の中にある大切なものを守るために周りを一線を引くようなものです。

子どもの頃、兄弟と同じ部屋で生活していた人は、部屋の真ん中に仕切りを決めて、こっから先に入るなよ的なことをしたことがあるかもしれませんが、それもまた自分と他人を区別し、自分を守ろうとする心理的な壁を目に見えるかたちにしたものです。あまりそれを強くするとお互いにいろいろと不都合な事が出て来るので、わりと適当なゆるさをもった状態に落ち着いて行くものですが、そうした自分と他人の区別がないことは逆に大きなストレスや問題を招くことになります。

さて、エルサレムはかつては城壁で囲まれた街でした。エルサレムに限らず、古代には、外敵から住民や財産を守るために城壁で囲まれている町がたくさんありました。城壁のない町というのはむしろ、大したものがないところ、襲撃する価値のないところというふうにみなされました。ネヘミヤ記は一度破壊された城壁の再建が大きなテーマになっていますが、中心的メッセージは何でしょうか。

1.みことばを求めて

第一に、捕囚から帰還した民は、みことばを求めて自発的に集まりました。

ネヘミヤ記がどういう時代かは、皆さんにお配りした「捕囚~中間時代早わかり」のチャートを見ていただけると、だいたい真ん中あたり、紀元前450年くらいのところにネヘミヤの帰還という項目が出て来ます。

ネヘミヤはペルシャでペルシャの王に直接使える高級官僚になっていました。そんなネヘミヤのもとにエルサレムから訪問者がやって来ました。今風に言うなら陳情にやって来たという感じでしょう。エルサレム神殿が再建され、続けて城壁の再建工事が行われていたはずなのに、実は中断していて、最初にエルサレムに帰還した民がそうとう困っているという話しでした。城壁は再建されるどころか、今なお壊されたままになって、まったく無防備な状態です。

そんな窮状を聞いたネヘミヤは心痛め、神様にみこころを求めて祈ります。そしてペルシャ王の許可を受けて、ユダヤに総督として帰還することになりました。

彼より数年早く、祭司エズラがエルサレムに帰還していました。エズラ記の後半には、彼がエルサレムで仕事を始めた時に、民の中に異教の民との結婚関係を通して偶像礼拝が持ち込まれていることが明らかにになり、大きな痛みをもって悔い改めと改革がなされたことが記されていました。

しかし、状況はあまり良くはならなかったようです。城壁が壊れたままでは簡単に周囲の敵に攻め込まれる不安がありました。

そこでネヘミヤはエルサレムに帰還を果たし、敵の邪魔を退けながら、民を励まし、相当短期間で城壁を再建します。そうした一連の出来事が1章から6章まで続きます。7章で城壁の中の町の様子が描かれますが、住民はまだ少なく、家も足りていませんでした。

そうした中、7:72から8:1にかけて書かれているように「第七の月が来たとき、民全体が一斉に門の前の広場に集まって来」ました。「一斉に」とありますが、直訳すると「一人の人のように」という言い方がされていて、この時の民の心が一つになっていたことが伝わって来ます。

バビロンによって国が滅ぼされ、捕囚となってから50年。それからイスラエルの民が祖国に帰り、神殿再建まで20年。さらに城壁再建まで70年。大変長い道のりです。しかもその間に、様々な敵対する勢力の邪魔が入り、偶像礼拝が忍び込み、礼拝が形式的になったり、ふたたび神のことばを軽んじるような風潮が現れたりもしました。当然、神殿や城壁の再建に対する情熱や信仰が揺らぐ場面もありました。

しかし、今一度イスラエルの民は、神のことばを求めました。彼らは神殿や城壁さえ再建されればそれで安心して暮らせるとは考えませんでした。住む家もまだ十分に整っていませんでしたが、彼らはこれからの新しい生活の建て直しのために、何より神の教えが必要だと信じ、求めたのです。

私たちが生活を立て直したい、より良くしたいと思ったら、もっと給料の良い仕事を探すかも知れないし、より高度な資格や技術を身につけるために学び直すかも知れません。しかし、人間として、神の民として生活を立て直そうとするなら聖書が必要です。

2.理解と悔い改め

第二に、みことばを聞いた人々はそれを理解し、悔い改めました。

エズラのために人々は特製の演壇を作って準備していました。エズラが壇に登ると、目の前には男女を問わず、また大人だけでなく子どもも含め、聞いて理解できるあらゆる人々が、みことばを聞こうと集まり、自分に目を注いでいるのが見えました。

エズラの両側には、この集会の助手をする人たちが並んでいます。彼らは、エズラが朗読した聖書を人々にくり返したり、説明したりして理解するのを助ける役割がありました。

エズラは皆が注目する中、聖書を開きました。形としては本ではなく巻物で、何巻かに分けられていたはずですが、とにかくエズラが聖書を開くと、人々はより一層真剣になり、みな立ちあがりました。エズラの賛美と祈りに、人々は「アーメン」と応え、跪いて神様を礼拝しました。

そうやって聖書の朗読が始まります。ユダヤ人の伝統的な理解では、旧約時代に記された律法や預言書を整理してまとめたのがエズラだとされています。今のように一冊の本になっていたわけでなく、何世代にもわたって各書巻が書き写され、巻物として保管されて来ましたが、王国時代にこれらの巻物が紛失したり、放置されたりしましたし、捕囚時代以後に書かれた預言書や詩などもあります。祭司であり学者でもあったエズラが中心となって、それらを整理し、どれが神のことばと呼べる正当なものであるかをまとめたというのは確かにありそうな話しです。

いずれにしろ、8節にあるようにエズラと助手たちはこの聖書を朗読し、解き明かしました。そして「民は読まれたことを理解」したのです。

人々が、聖書が語っていることを理解したというのは、単に内容が分かったというだけでなく、自分たちが神の前にどんな状態なのか、今どうすべきなのかまで分かったということです。ですから9節の終わりにあるように、人々は悲しみのために泣いていたのです。それは悔い改めの涙でした。昔の先祖たちの過ちではありましたが、それが自分たちの罪でもあると分かった人々は悔い改めの涙を流しました。

彼らの先祖たちは、王国時代の王や祭司、一般の人々までもが神様との契約を破り、神様に背を向け、それでもなお神様は彼らを憐れんで預言者を遣わし、警告と悔い改めの機会を何度も与えて来たのに、ついにその反逆は取り返しのつかないところまで行ってしまいました。王国の滅亡と捕囚はその罪の結果であり、捕囚からの帰還は、なおも契約を果たそうとしてくださる神のあわみれの故であることをはっきりと理解しました。

帰還した民も、最初の熱意が様々な困難や敵の攻撃によって薄れ、神殿にしても城壁にしても、再建に長い時間を費やすことになり、その間に、自分たちの間に再び偶像礼拝や神のことばを軽視する風潮を招いてしまったことに気づかされたのです。

神殿と城壁が再建されて、これで新しい国作りが出来たということではなく、ここで生活を立て直していくためにまず最初にしなければならなかったのは、自分たちが神の赦しと救いを必要とする罪ある者なのだという自覚、悔い改めでした。

3.贖いと祝祭への招き

第三に、ネヘミヤとエズラは、悔い改めて涙を流している民に、今日は「聖なる日」だと言って、ご馳走を用意して喜ぶようにと促します。

これはいったいどういうことなのでしょうか。「聖なる日」というのは第七の月、今のカレンダーなら9月半ばですが、第七の月に行われる「贖罪の日」新しい訳だと「宥めの日」のことを指しています。

レビ記23:24に第七の月の一日に「聖なる会合を開くように」と記されています。10日間続くこの祭は、個人の罪のためというより、民全体、国としての悔い改め、また知らずに犯してしまった罪のために神に赦しを求めて礼拝を捧げるものでした。つまり、ネヘミヤとエズラは、今日は城壁が再建されたことをお祝いする日だから、涙を拭いて、過去の事を忘れてお祝いしようと言っているわけではないのです。

今日は聖なる日、神様が私たちの大いなる罪の赦しを与えてくださる日だから、今故告白されたこれまでのイスラエルの民の罪の数々が赦される日だからお祝いしよう、ということなのです。

このことについてもまた12節にあるように、教えられたことを理解した民は、各自家に帰って、普段の食事を少し豪華にしてお祝いしました。ご馳走を準備できない人のためには食べ物を送り、共に喜びを分かち合えるようにしました。

8章の残りは、同じ第七の月の15日から始まる「仮庵の祭」を祝ったことを記しています。彼らは祭のために準備し始め、想い思いに準備した木の枝や葉っぱを組み合わせて仮小屋を作り、楽しく祭の帰還を過ごしながら、神の救いと導きとを喜びました。

私たちが、聖書の教える救いについて考える時、決して忘れてはいけないことがあります。私たちはいったい何から救われるのか、何によって救われるのか、そして何のために救われるのか、です。

イスラエルの民は、神に背を向け、好き勝手に生き始め、罪に溺れ、神以外のものを神のようにし始めるなら、神様からの怒りがくだり、そうした罪の報いを受けなければならないことを、先祖たちの辿った道のりとその結末から学び直しました。それは今日の私たちにとっても同じであることを忘れてはいけません。私たちには罪があり、罪に対しては大きな報いがあるのです。その怒りと裁きから救われなければ、たとえこの人生で金持ちになろうが、長寿を全うしようが、すべてを失うことになります。

そのような私たちを救うのはイエス様の十字架です。ネヘミヤの時代の人々を始め旧約聖書の時代の人々は「なだめの日」に罪の贖いのために祈り、犠牲を捧げましたが、イエス・キリストはすべての人の罪に帯する神の怒りを代わりに背負ってくださいました。

そして私たちが救われたのは、新しい生き方をしていくためです。エズラ記9章から12章は、神の民として生き直して行くための様々な悩みや問題にいかに取り組んだかが記されています。ネヘミヤはかなり過激とも思えるやり方で改革を断行して行きますが新しい生き方を定着させていくのはかなり大変だったということです。私たちも、イエス様を信じて罪から救われ、罪に対する神の怒りから救われましたが、神様の子どもとして新しい生き方をしていくためだということを忘れないようにしたいと思います。

適用 違う生き方

さて、ここまで創世記からネヘミヤ記まで順番に見てきました。皆さんにお配りした「早わかり」を見て頂くと分かると思いますが、ネヘミヤ記に記されている出来事は、旧約聖書の最後のマラキ書よりも後の時代だという事が分かります。これは旧約時代の、聖書に記されている神の民の最後の姿ということができます。聖書の並びではこのあともまだまだ続きますが、すべてネヘミヤ以前の預言者や詩人たちを通して書かれたものです。

言い換えるなら、旧約時代を通して神様が人間に語るべきことは、ネヘミヤの時代までで言い尽くされているということです。

そのネヘミヤ記で描かれていることは、城壁の再建が目立ってはいますが、実は城壁再建そのものよりも、そこで生きる人たちが何を願い、何を目指したかです。

彼らは、先祖たちの過ちや自分たちの弱さを振り返りながら、今間でとは違う生き方を求めました。また周りの敵や偶像礼拝との関わりからなかなか抜け出せない中で、周りとも違う生き方をしたいと願いました。城壁再建はその象徴です。かつて神に背を向けたために破壊された城壁を再び建て直すことによって、もう一度神様と共に歩む者になる。だれもが好き勝手に入り込める瓦礫の広がる町に城壁を築いて周りとは一線を画し、その中で人々の暮らしを再建していく。しかし、本当の意味で生活を建て直していくのは城壁や家ではなく、神のみことばに聞くこと、悔い改める事から始まったのです。そして、建て直しの働きは、まだまだ続く、そんな余韻を残してネヘミヤ記は閉じられます。

今日の私たちも、実はネヘミヤの時代の人たちと同じ課題を持っていることに気づかされます。罪の問題や、自分自身に対する不満、決別したい過去、みたされない思いなど、今までとは違う生き方をしたいという願いが私たちにはあるからこそ、キリストの救いを求めました。クリスチャンとして生きることは、周りの人たちは違った生き方をすることでもあるからです。

私は子どもの頃、早くこの町を飛び出したいと思っていました。今までとは違う生き方をしたかったのです。違う町に住んで、違う人間関係の中に身を置いたら違う生き方ができるんじゃないかと思いました。しかし、どこに行っても変わらない自分があります。またクリスチャンとしての歩みは絶えず周りの人たちと違う生き方を強いられるようで、そこに息苦しさも感じていました。それもまたどこか場所を変えたから、環境を変えたからどうなるというものでもありませんでした。

一体、何が私を変えて、新しい生き方へと導いてくれたのか、考えてみたら、やっぱり神のことばである聖書に聞くことでした。聖書が教えてくれる、私という人間の足りなさや罪深さを、ありのまま認めて、それでも赦し、愛して、受け入れてくださっている神様の恵みに感謝することから始める以外にありませんでした。

聖書は私たちに、私という人間の罪深さや愚かさを、容赦なく明らかにする、という意味ではとても手厳しく、遠慮がありません。罪に対する神の怒りがあることも隠しません。しかしまた、この罪深い私たちに対して、やり直すチャンスを与え、建て直させてくださる赦しと恵みは、大きく深く、そして愛に満ちています。そのことに気づくなら、ネヘミヤが人々に語ったように「今日は、私たちの主にとって聖なる日である。悲しんではならない。主を喜ぶことは、あなたがたの力だからだ」と、私たちにも希望と励ましが差し出されています。

祈り

「天の父なる神様。

捕囚から帰った人々がいかに生活を建て直そうとしたか、ネヘミヤ記を通して学ばせてくださり、ありがとうございます。

城壁の再建は大きな事業でしたが、それ以上に、主のことばに聞こうとした民の姿、また引き続き、神のことばに従って生きようとしたネヘミヤの時代の人々の労苦を覚えます。

私たちが、今までとは違った生き方を願い、クリスチャンとして周りの人たちとは違った生き方をするために、主のみことばである聖書に聞くことがどれほど大切なことでしょうか。

どうぞ、私たちも神様のみことばに聞き、へりくだって悔い改め、教えられながら歩んでいけますように。ネヘミヤの時代の人たちが完成できなかった、信仰の歩みを、今イエス様の完全な救いと聖霊の力によって最後まで歩き通すことができますように、支えて、助けていてください。

主イエス・キリストの御名によって祈ります。」

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