2021-07-11 私を心に留めてください

2021年 7月 11日 礼拝 聖書:詩篇106:1-12

 先週は、2年ぶりに墓前での召天者記念礼拝を捧げることができて本当に感謝でした。

遺族にとっては自分の家族、そして教会にとっては主にある兄弟姉妹であったり、教会家族のつながりの中にある大事な一人一人です。そうした方々が生きた証しやイエス様を信じて生きた姿を思い起こす機会にもなりますし、私たちが何を信じ、どんな望みを持って生きるのかを確かめたり、証しする機会にもなります。葬儀や記念会は、生きている者にとってこそ大事な意味があるものです。

さて、葬儀といえば、今回取り上げる詩篇の第四巻は、詩篇90篇の「モーセの祈り」から始まります。大抵の葬儀で、どこかのタイミングで読む詩篇の一つです。死にあらがうことのできない、決定的な弱さ、限界を持つ私たちが神のあわれみゆえの慰めを望み、与えられている限りある日々をよりよく生きる力を願うのです。

モーセの祈りから今日開いている106篇までの詩篇第四巻は、神に憐れみを求め、私たちの王である神様に救いを願い、讃える歌が続きます。そして、今日の106篇はそれらのまとめの歌になっています。

この詩篇の鍵となる言葉は主の慈しみ深さです。わりと長い歌ですので、今日は一部分だけお読みしましたが、106篇全体を味わって行きたいと思います。

1.慈しみ深い主に

第一に、詩人は「私に心を留めてください」と祈ります。

詩篇106篇の出だしは主のいつくしみ深さへの賛美で始まります。90篇のモーセの祈りが神の憐れみを求める祈りで始まった第四巻が、まとめの言葉として主の慈しみ深さへの賛美で閉じようとしているのはとても印象深いものです。

私たちの祈りもまた、主の憐れみを求め、助けを求めながら、最後には主の恵みや慈しみ深さを賛美して終わる、そんな祈りが出来たら良いなと思います。

しかし詩のテーマは「私を心に留めてください」ということなのです。106篇をよく見て行くと、その賛美は詩人の願いを主が聞いてくださったから賛美しているのではないことが分かります。彼の願いはまだかなえられないまま、手元に残されたままです。

四節「主よ あなたが御民を受け入れてくださるときに/私を心に留め/あなたの御救いのときに/私を顧みてください。」

詩人は、主の慈しみ深さを賛美しつつも、私は今、神様に心を留めていただかなければならないと訴えているのです。

では、主は慈しみ深いという賛美は何について、何を根拠に賛美しているのでしょうか。

6節から詩人は自分自身の罪や不忠実さと重ね合わせながら、先祖たちがかつてエジプトを脱出したときから始まった神の救いの御わざとその豊かな恵み、力を描きます。そして12節にあるように、エジプトから脱出したイスラエルの民が主のことばを信じ、主への賛美を歌ったことを思い起こしています。

しかし話しはそれで終わりません。主の慈しみ深さは、一度だけ彼らを救ったことにあるのではなく、先祖の民が繰り返しくり返し主に背を向けたにも拘わらず、主が何度も何度も救ってくださったところにあります。106篇は様々な例を挙げて歌っています。

13節「しかし、彼らはすぐに みわざを忘れ 主のさとしを待ち望まなかった」。これがイスラエルの民がくり返して来た過ちです。主の救いと恵みを忘れてしまうのです。それが13節からこれでもかというほどにくり返されます。

荒野を旅している時に、肉が欲しい、ニンニク懐かしいと文句をいい、モーセやアロンを妬んで反乱を起こし、金の子牛を作って拝み始め、モーセの執り成しがなかったイスラエルが全滅する瀬戸際でした。旅の途中、周辺の偶像崇拝の習慣を取り入れたり、水の事で文句を言い、異教の邪悪な習慣である子どもを生け贄にするような宗教を取り入れてしまったり。

43節で「主は幾たびとなく彼らを救い出されたが/彼らは相謀って逆らい/自分たちの不義の中におぼれた。」と言われている通りです。それでも主の慈しみ深さの方が勝っているのです。44節。「それでも 彼らの叫びを聞いたとき/主は彼らの苦しみに目を留められた。主は彼らのためにご自分の契約を思い起こし/豊かな恵みにしたがって 彼らをあわれまれた。」

46節なんかは、捕囚時代に異教の地で生活を余儀なくされた時にも、神様が彼らを顧みていたくださったことを記しているようです。詩人はそのように、かつて主に対して罪を犯した先祖たちを御名の故に救いだした、これまでの主の恵み深さを賛美し、その主に「今、私たちに心を留めてください」と祈っているのです。

2.王である主の救い

第二に、詩人が期待し待ち望んでいる救いは、王としての主による救いです。

主が王であるという言葉そのものは106篇の中に直接出てきませんが、詩篇の第四巻全体でも106篇でも重要なテーマです。

詩篇93篇には「主こそ王です」という言葉が出てきます。ここからしばらく続く詩篇には「主は王であり、王である主が私たちを救ってくださるのだ」という主題がくり返されています。

そして今日の106篇でも、例えば4節には「主よ、あなたが御民を受け入れてくださるように」、5節「あなたに選ばれた者たち」「あなたの国民」「あなたのゆずりの民」という具合に、神様と民の関係を王様と王国の民の関係になぞらえています。

古代の王と国民の関係は、契約によって成り立っていました。王は民を的から守り、繁栄を約束します。民は王に貢ぎ物を納め、命令に従うことを約束します。この契約自体が民にとっては安全と繁栄の約束であり、有り難いものでしたが、破った場合には王の怒りをかって手ひどい目に遭う、罰則もつくのが普通です。

弱い者が強い者に簡単に飲み込まれてしまう世界で、自分たちを守ってくれる強い王がいるということはそれ自体が民にとって大きな安心であり、祝福でした。ですから士師記の時代の終わりに霊的にも政治的にも混乱し弱体したイスラエルの民が王を求めたのも良く分かります。このままでは周りの民族や国々に飲み込まれると危機感を抱いたのです。預言者サムエルがその要求に嫌な顔をしたのも、自分たちの王は神様ご自身だという意識があったからです。

神様は、イスラエルの民と、そうした当時の世界でよく知られた契約の仕方で、彼らを守り、祝福することを約束し、民は神様に従うことを約束したのです。それがモーセに率いられてエジプトを脱出し、シナイ山のふもとで結んだ契約の中心です。

人間の王の時代を経て、その王たち自身が神に背を向け、民を偶像礼拝に引き連れてしまい、結果として国が滅び捕囚となってしまった中で、詩篇の詩人たちは、自分たちの王は神ご自身であるという信仰に立ち戻り、待ち望むようになっていったのです。

主が王であり、私たちが民である、という関係は、主に助けを求め、救いを求める権利があり、主の命令に従うべき義務があるということを表しています。ですから40節で神に背を向けた時の神様の怒りは、王として神のご自分の民に対する怒りとして書かれているのです。

神様は天地の創造主ですから、私たちは神様を敬うべきですし、神様が造られたときのお考えを大きくはみ出すようなことをしてはいけません。しかし、神様はさらに王となってくださり、私たちを民としてくださる、より一段と深い関係を結んでくださいました。

誰も味方がおらず、明日の食べ物もあるか何の保証もない荒野の旅で、敵の手から守り、養い、導く王としての務めを主ご自身が担ってくださいました。それゆえ民は神様のみことばに聞き従うべきでした。

それでも不従順で、王である神様に背を向け続けたのがイスラエルの歴史、人間の王たちの姿でした。それでも神様は契約を破り捨てたりはしませんでした。ですから詩人は、私たちは今もあなたの民なのですから、どうぞ救い出してくださいと祈るのです。

3.豊かな恵みによって

第三に、私たちが神様に救いと助けを祈り求めるのは、神様の豊かな恵みによります。

詩人の先祖たちが契約を破り、神に背を向け、自分たちも同じ罪の中にあるにも拘わらず、今一度、神様に救いを求めるのは、神様の豊かな恵みに頼ってのことです。

何度も何度も神に背を向けて来た民が、今さらまた救いを求めるのは虫が良すぎるでしょうか。図々しいでしょうか。

国を失い、外国に捕らわれ、散り散りになってしまった同胞を覚えながら、詩人はこれまでの先祖たちの歩みを振り返って来ました。それは過去を批判するためではなく告白のためです。6節に「私たちは、先祖たちと同じように罪を犯し、不義を行い 悪を行ってきました。」と、自分も同じ罪があると告白しています。

しかし、これらの歌の中心点は、先祖たちの罪や自分たちの罪ではありません。44~46節を見ましょう。それらの罪にも拘わらず、彼らの叫びに耳を傾け、目を留め、契約を思い出して、豊かな恵みによって憐れんでくださったということです。一度ならず、何度でも。それは過去のことだけでなく、捕囚となっている詩人たちが経験していることでもありました。「彼らを捕らえ移したすべての者たちから/彼らがあわれまれるようにしてくださった。」 

捕囚となった先でも、神様はそれぞれの生活の場で、酷い目にあったりしないよう守ったり、ある者は国の重要なポストに就くよう導かれたりしました。例えば、前に出て来たエステルやネヘミヤもそうです。詩人は捕囚という苦難の時でも神のあわれみが途絶えていないことを感じ取っていました。だから、先祖と同じ罪があるとしても、自分たちが今、このとき、もう一度神に救いを求めても良いのだという信仰に立てたのです。

詩人の願いは、外国に捕らえ移された状況で何とか守られ、いくらかでも良い生活ができるようにという小さなものではありませんでした。散らされた民が、ふたたび王である主の前に集められ、主の聖なる御名を勝ち誇ることです。

詩人もその時代の人たちと同じように、毎日の暮らしの中で悩んだり悲しんだり喜んだりしながら生きていて、きっと日々の必要があり、助けを求める場面があったに違いありません。私たちが「主の祈り」の中で「日々の糧を今日も与えたまえ」と祈るように、そうした個人的な必要を神様に訴えることはもちろん正しいことです。そして、案外そうした小さい個人的なことが、私たちの心を不安にさせたり、喜びを失わせたりもします。

しかし、詩人はより根本的な救いを願いました。それは日々の小さな、個人的な困りごとや嘆きのずっと底の方にいつも流れている大きな課題です。様々な国に散らされた神の民がもう一度集められ、神の民として生きられるように、という神様がかつて約束してくださったことを、今果たしてくださいと願っているのです。

私たちも、いろいろと日々の暮らしの中での必要や悩みに心を揺さぶられ、そのことについて祈り、願います。もちろんいいのです。けれど、その悩みの根底にある、いつも奥深いところを黒々と流れている、罪と死の力から真に解放され、自由な神の子どもとして喜びの中に生きられるようにという祈りにと向かって行きたいものです。

適用 恵みとまこと

さて106篇を軸に、詩篇90篇から始まる第四巻を合わせて、ざっとですが見て来ました。

すでにお気づきかも知れませんが、詩人の祈りの根底には、神様が与えた契約があります。

かつてメソポタミア側のほとりの町で月の神に仕えていたアブラハムを選び、その子孫であるイスラエルの民をエジプトの奴隷状態から救い出して神の民とすると契約を結び、民もまた主と主のことばに従うと約束しました。

その視点に立つときに見えて来ることは、神様に背を向けた故に報いを受けるということ自体が、今なお神様が最初に結んでくださった契約の中にあるということです。この契約に基づいて、背を向けた民に裁きがくだりました。しかしまた同じ契約に基づいて、彼らを見捨てず、何度も救い出してくだり、今なお、その契約の中にある。この契約を私たちは「旧約」と呼んでいます。

詩人が待ち望んだ王なる主による救いは、ただイスラエルの民が集められるというだけでなく、イエス・キリストによって新しい契約に更新されました。イスラエル以外の人々も、神の御国の民として御前に集められるという新しい契約に更新されました。それを私たちは「新約」と呼びます。

アパートの家契約は、だいたい値上げがあったりして借りてる方に不利になりがちですが、神様の新しい契約は、ますます神の民とされる私たちに有利なものになりました。私たちはこの新しい契約の中にいます。そして、神様が私たちの祈りに答えてくださると期待できるのは、新しい契約のもとでイエス様が私たちの王となってくださったからです。王様について具体的なイメージはなくても、その役割、民を守り、癒し、養い、導くことは私たちがこの荒野のような、あるいは荒波のような人生で何よりも必要しています。

この新しい契約によって、私たちは二度と失われることはありません。古い契約では、神の民として生きるために律法が与えられましたが、彼らは神様に背を向け、律法をないがしろにし、その報いを受けることになりました。しかし、イエス様はすべての罪の報いを受けてくださいましたから、私たちがみことばに従いきれなかったからといって罰を受けることはありません。

旧約の民が経験したような裁きや捕囚はありませんが、それでも同じように罪に捕らわれ、クリスチャンとなった後も旧約の民と変わりない罪人であることを告白しなければならない場面をたびたび経験します。

けれども主は今も恵みと真実の方です。イエス様にあって約束されたことを決して忘れず、覆すこともありません。だから身体的なことであれ、内面的なことであれ日々の必要について祈り求めましょう。また、それらの願いの奥底に、私たちやこの世界の罪と死の大きな課題を見出すとき、すべてに勝利を与えてくださる神様に、私に心を留め、約束の通りに癒し、きよめ、慰め、力を与えてくださいと祈りましょう。

そして詩篇106篇が教えてくれたように、私たちは何度も失敗するけれど、主の慈しみ深さ、恵み深さは、私たちの罪深さや弱さよりもずっと大きく、深く、強いということです。この神様に恵み深さにお頼りして、祈り求めつつ歩んで行きましょう。

祈り

「天の父なる神様。

今朝も詩篇を通して祈ることを教えてくださり、ありがとうございます。

今も昔も変わらずに恵み深く、真実な神様。キリストによって約束されたとおりに、私たちを神の子どもとして、御国の民として歩ませてください。私たちの王として、私たちを守り、癒し、養い、導いていてください。

私たちが過ちを犯し、弱さに沈む時も、何度でも救いの御手を差し伸べてください。私たちが日々の暮らしの中で、あなたの恵みの御手を感じ取り、安らぎ、喜ぶことができるようにしてください。

そうして、私たちとこの世界に闇をもたらす罪と死に完全な勝利を得る時まで、私たちと共に歩んでくださいますように。

主イエス・キリストの御名によって祈ります」

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