2021-09-05 地上では旅人

2021年 9月 5日 礼拝 聖書:ヘブル11:13-16

 先日、東京にいる友人牧師から一冊の本が送られて来ました。毎年夏には秋田にある小さな無牧の教会のために車で奉仕に来られ、帰りには必ず北上によってくださって一緒にお昼ごはんを食べるのが習慣になっていましたが、去年も今年もそれが叶わず、寂しいなあと思っていましたが、慰められる思いでした。

いただいた本は、その友人牧師の教会で長年奉仕された名誉牧師で95歳になる宣教師が教会の60周年を記念して使徒信条について書いたものです。

その本の序文にこんな一文がありました。「人生は長い旅路。キリスト者にとって、それは、御国の故郷に向かう、巡礼の旅です。「信仰こそ旅路を導く杖」私たちは、賛美歌270版でそう歌います。旅路の終わりに近づいた今、振り返ってみますと、私の人生も、私自身も、信仰によって築かれてきたと言うことができます。私の信仰は多くの方々の信仰によって育まれてきました。その方々に、心から感謝いたします。同時に、信仰は神様からの賜物(ギフト)です。そして、その土台が神様のみことばです。」

95歳にして、日本宣教のために長い間労してくださった方のことばとして聞くととても重みがあります。

今日は、信仰の歩みがまさに旅のようであると記しているヘブル書から学んで行きましょう。

1.見えなかったものが

第一に、信仰の旅路においては、見えていなかったものが信仰によって見えるようになります。

13節前半にこのように記されています。「これらの人たちはみな、信仰の人として死にました。約束のものを手に入れることはありませんでしたが、はるか遠くにそれを見て喜び迎え、」

「これらの人たち」というのは、ここまで出て来た信仰の先達たちのことです。おそらくこの後に出てくる人々のことも含めて言っているのでしょう。

この人たちの人生を考える時、それぞれの時代、状況の中で神を信頼し、神に望みを置いて生きてきたという共通点がありますがそのほかにもあります。

まず「信仰の人として死に」「約束のものを手に入れることはなりませんでした」。

これらの人々に共通するのは、神の約束を信じる、信仰の人として生きたが、彼らが生きている間に約束のものを得ることはなかったということです。それでも、彼らは約束のもとを「はるか遠くにそれを見て喜び迎え」たとあります。

ここに信仰によって生きる人の大きな特徴、ヘブル書11章全体を通して強調されている事がはっきりと表れています。何もいつも夢幻を見ていたということではありません。11:1には「信仰は、望んでいることを保証し、目にみえないものを確信させるものです」とありました。神の約束は具体的には目に見えないものでした。しかし、信じる者にはそれがまるで目で見ているかのように確信できるのです。

では、これらの人々に対して神様が具体的にどんな約束をしたのでしょうか。神様がアベルに対して直接語られた言葉はありませんが、アダムとエバに対する造られた世界の良き管理者であるようにという命令と祝福の約束があります。そしてまた罪に落ちた後も、エバの子孫から彼らに罪を犯させた敵である悪魔の頭を打ち砕く者が起こされるという約束はありました。

エノクは、その約束を受け継ぎ、まことの神を敬う信仰がありましたので、アダムへの約束の中にあることを信じてたということができるでしょう。

ノアに対しては裁きの警告と救いの方法を備え、それを信じたノアの家族は動物たちとともに大洪水から救い出されました。その後、神様はノアに対してアダムに与えた祝福を繰り返し、契約の印として虹を見せてくださいます。

しかしノアに至るまでの神の約束は具体的とは言えません。その後登場したアブラハムの時に、ようやく具体的な内容が明かされるようになります。アブラハムに約束の地を与え子孫は増え広がり、アブラハムの子孫を通して全世界に祝福がもたらされるというものです。しかし、ご存知の通りアブラハムが存命中に約束の地を手にすることはありませんでした。そして、この約束が実は救い主キリストによってもたらされる救いという形で成就することをアブラハムはまだ知りません。

それでも彼らは、はるか遠くに目指す都を望み見るように、神が備えてくださる素晴らしい事柄がそこにあることを確信したのです。目で見ていないものを信仰の目を通して見たのです。

2.地上では旅人

第二に、信仰によって歩む人は、この地上での人生が旅であること、私たちは地上では旅人であるという新しい人生観を得ました。

今は見ていないけれども、ずっと先に神様が備えてくださる約束の果たされた世界がある、祝福があると信じる信仰は、人生には目指すゴールがあること、そしてそのゴールはこの地上ではなく、死の向こう側にあり、人生とはそれを目指す旅だという人生観をもたらします。そして、自分は何者かという問題について、私自身は約束を目指して旅をする旅人だという理解をもたらします。それで13節後で「地上では旅人であり、寄留者であることを告白していました。」と記されているのです。

もう30年以上も前のことですが、1985年に『歌う旅人』というアルバムがカセットテープで発売されました。当時はようやく日本のキリスト教界ではクリスチャン・コンテンポラリー・ミュージックと呼ばれるジャンルの新しい賛美が広く受け入れられるようになったころです。

岩渕まことさんが作った作品ですが、そのタイトル曲の歌詞と音楽にとても衝撃を感じました。「地上では旅人、天のふるさとへと 歩き続ける 心は空 歌う旅人 砂漠に水がわき 荒れ地に花が咲く 天使の声に合わせて 歌う旅人」と、聖書の馴染みのあることばを巧みに歌にしたその賛美は、本当に自分が天の御国を目指して天使の歌に合わせて賛美しながら旅をする者なんだと思えました。当時はクリスチャンの仲間とバンドをやっていてベースを弾いたりしていましたから、余計に響いたのかもしれません。

今は残念ながらそういう機会はほとんどなくなりましたが、それでも「天の故郷を目指して歩く旅人なのだ」という感覚ははっきりと残っています。それは歌の力というより、御言葉を通して与えられた信仰による新しい人生観として心に定着したのだと思います。

アブラハムたちが信仰の人として死に、天の故郷を目指す旅人、寄留者である告白したということは、彼らの人生に大きな変化があったことを示しています。

というのも前回見た8節を見ると、「どこに行くのかを知らずに出て行きました」とあります。出発するときは目的地がわかりませんでした。途中で後にイスラエルの王国が建設される土地を約束の地として示されますが、16節には「彼らが憧れていたのは、…天の故郷でした」とあります。最初はどこに行くのかわからないけれど、神様に信頼して歩み始め、長い旅のような人生の中で地上の約束の土地は示されたけれど、自分たちが目指しているのはそえさえも超えた、まったく新しい世界、新約聖書のことばで言うなら天の故郷なのだということが分かるようになったということなのです。

アブラハムは文字通り旅人として生きました。いくつかの土地に長くとどまる事はありましたが、自分と家族の生活のために土地を買ったり家を建てる事はありませんでした。彼が買い求めた唯一の土地は、妻サラが召された時に、お墓にするために手に入れた畑だった土地です。

アブラハムの生き方は一種のたとえとして私たちに示さています。同じことをするよう求めているのではありませんが、信仰や心構えにおいては同じものを目指すよう励ましています。つまり現代のクリスチャンの人生も本質的には旅人として生き方なのです。

3.天の故郷にあこがれて

第3に天の故郷を目指す者を神は喜んでくださいます。

旅人、寄留者であるということは、ここではないどこかを目指すという途中にあるということです。しかしその目指しているのがどこかによって旅の意味はだいぶ変わります。

聖書はアブラハムは自分の故郷を求めていたけれどそれは生まれ故郷のことではなかったことを指摘します。「出て来た故郷だったなら、帰る機会はあったでしょう。」

私たちの感覚では「故郷」といったら生まれ育った土地や家族のことを指しています。アブラハムにとってはメソポタミア文明の真っ只中にあるウルの町がそれにあたらいます。アブラハムがたどりついたカナンの地よりも故郷のウルははるかに文明が進んだ町であり、暴力と邪悪な宗教が支配するカナンよりもずっと文化的な生活ができる場所であったはずです。

ここで「故郷」と訳された言葉は、新約聖書の中でも珍しい言葉で、生まれた町や土地よりももっと広い「祖国」「ホームランド」という意味があります。土地のことではなく、自分が結びついている場所、所属している居場所です。

ウルの町はアブラハムにとっては誕生し、成長した町ではありますが、もっと深く結びついた場所があり、自分のいるべき場所がある。それはもうカナンの地でさえなく、いつか訪れる天の御国こそが本当に自分が結びついている場所であり、最後にたどり着くべき居場所なのだと理解していたということです。

もちろん地上の土地に価値や愛着がないということではないでしょう。けれども、その生まれや育ちの結びつきよりももっと重要な結びつきができました。ウルやメソポタミア地域は帰ろうと思えばすぐにでも帰れる場所でした。距離的には離れていますが、私たちが想像する以上に、普通に人の行き来がある地域ですし、何よりいい暮らしができたはずです。それでも、アブラハムも、その子どもたちも、出て来た故郷より、主が約束された、まだ見ぬ新たな祖国の方を彼らは自分たちの居場所、目指すべき場所としていたのです。

ですから、神様はそのようなアブラハムを、アブラハムだけでなく同じ信仰に立つ人々を喜んでくださいます。16節「ですから神は、彼らの神と呼ばれることを恥となさいませんでした。神が彼らのために都を用意されたのです。」

私たちがこの箇所を読む時に気をつけならないことは、自分の生まれ育った町を捨てるように教えられているのではないということです。そこには家族や友人たちがおり、救われるべき人々がいますから、故郷が好きかどうかは関係なく、なお一層大切にすべきです。聖書が意図しているのは、実際に故郷を離れたり捨てたりすることではなく、私たちの霊的なつながりがどこにあるかです。クリスチャンになる以前の、キリストを知らない、神に背を向けた生き方に戻りたいという欲求や、戻ればいいという誘惑は常にあります。しかし私たちはもはやそういう世界に繋がれているのではなく、まだ目に見えてはいなけれども確かに神が約束された天の御国に結ばれている者です。そこにこそ、私の大切にすべき深いつながりがあり、私の居場所があるのだという確信を持って、そこを目指して歩むのが、旅人である私たちの旅です。

適用 新しい人生観

信仰によってクリスチャンの人生観、自己理解が新たにされるというのが、今日の箇所が私たちに伝えようとしている大事な主題です。

最初に紹介した老宣教師の言葉の通り「人生は長い旅路。キリスト者にとって、それは、御国の故郷に向かう、巡礼の旅」そして私たちは主に感謝し賛美しつつ歩む歌う旅人なのです。

ただしアブラハムの生涯から学ぶことができる旅のあり方の大事な面は、旅立つ時と地上での旅を終えた時では大きな違いがあったということです。旅の始まりはどこに行くかを知りませんでしたが、終わりの時には地上の土地ではなく天の御国を目指しているのだということを理解していました。確かにアブラハムの言葉として、創世記の中にも「天の御国」という言葉は出て来ません。

しかし、神様が伝えた壮大なビジョン、海の砂や星の数ほどに増え広がった子孫を通して世界中の民が祝福されるというのは、明らかに一つの国や土地を超えた話でした。また、創世記15章12節以下で大いなる暗闇の恐怖とともに示された神様のご計画にはアブラハムの子孫たちが自分たちのものではない地で寄留者となり、400年間奴隷となって苦しめられ、その後その国を脱出し、約束の地に帰ってくるということが含まれていました。

カナンの地に到着したから終わりということではなく、神様のご計画の中には自分の知らないことがまだまだあることを思い知らされるような話でした。

そのようにして、神様が招いてくださった旅路が、約束の土地の祝福を超えたもっと先にあるものを目指していることを彼らは理解していたし、信じていたのです。

私たちクリスチャンは、信仰によって旅立った時のまんま、早く天国に行けたらいいなあと思いながらただ漫然と歩いているのではありません。最初は知らなかったこともみことばを通して理解が深められ、新しい発見をし、自分が何者かの確信を得、自分の居場所を知り、何を目指しているかを分かって生きるように変えられながら生きるのです。天の故郷を目指して歩みながら、私たちの魂も旅をし取り扱われ、育まれて行くのです。

「出て来た故郷」のことを思うように、クリスチャンになる前の生き方、聖なるまことの神様を知る前の生き方のほうが楽に思えたり、楽しみも多いように思え、そっちに戻ることを考えたり、そういう誘惑がやってくることもあるでしょう。

故郷に帰る、田舎に引っ込むのは別に悪い事じゃないし、故郷への思いを新たにして、何か町のためにやりたいというのもこれはいい事です。何かや成し遂げようと都会に出てのはいいけれど失敗してしまい、その傷を癒やすため、あるいはただ生き延びるために実家に帰るのも、かっこ悪いと思うかもしれませんが、それだってありです。

ですが、私たちはキリストに出会う前の生き方に戻ることはできません。すでに神の子供とされ、神の御国、天の御国の者とされ、天の故郷を目指して歩む者とされたのです。それさえしっかりと確信しているなら、アブラハムやその子孫がたちがたどったように、たとえどんな境遇になろうとも御国の民としての誇りを持って生きて行けます。私たちは天の故郷を目指して歩む旅人なのです。

祈り

「天の父なる神様。

アブラハムのように私たちは天の故郷を目指して歩む旅人です。私たちはすでに御国の民とされた者として、あなたのもとにある者です。主に出会う前の生き方に戻るのではなく、私たちのいるべき天の故郷を望み見て歩めるように、私たちの信仰を強め、私たちの歩む道と足をお守りください。

主イエス様のお名前によって祈ります。」

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