2021年10 月 10日 礼拝 聖書:哀歌3:19-24
最近、皆さんは何かについて嘆いたことがあるでしょうか。
自分の不幸や不運を嘆く事もあれば、世の中の救いがたい不公平や理不尽さを嘆くことがあったかもしれません。
しばしばそれらはただの不平不満やグチとなり、周りの人たちを困らせたり、へんな空気にしてしまったりもします。かといってそうした嘆きをどこにも出さずに心のなかに押し込めてしまうと、こんどは自分が参ってしまいます。よりよい嘆き方、健全な嘆き方があるなら、ぜひとも身につけたいものです。
今日開いているのは「哀歌」です。5つの嘆きの歌からなる哀歌は、心にある嘆きをただ吐き出しているだけのものではないことがすぐに分かります。哀歌の4つの詩、1章、2章、4章、5章は22節からなっています。3章だけは22の倍数である66節からなっていることがわかります。それだけでも緻密に構成された詩で嘆きを表現していることがわかります。
まあ、私たちが嘆く時は、悲しさや苛立ちの感情をそのまま爆発させたり溢れ出させるだけで、緻密に構成して言葉を並べたりなんてできませんが、哀歌を味わうことで、詩人が何をどのように嘆き、その祈りの中でどんな望みや信仰を持っていたかを学ぶことは、私たちにとっても有益に違いありません。
1.世界の終わり
第一に、哀歌の詩人は自分たちの世界が終わるのを嘆いています。
誰が哀歌を書いたかについて、哀歌の中には何も書かれていません。長い間、預言者エレミヤによって記されたと信じられており、多分一番可能性が高いのですが、決定的な証拠はありません。ただし、哀歌の著者がエレミヤと同時代を生き、エルサレムとユダ王国が滅びる悲劇を目のあたりにし、その戦争の時代を生き延びた人物であるのは間違いありません。詠み人知らずという方が良いかもしれませんが、エレミヤだとしてもおかしくはありません。
ともかく、詩人が何を嘆いているのかといえば、イスラエルの破滅と捕囚です。自分たちの世界そのものが終わっていくのを嘆いているのです。
1:1を開いてみましょう。
「ああ、ひとり寂しく座っている。/人で満ちていた都が。/彼女はやもめのようになった。/国々の間で力に満ちていた者、/もろもろの州の女王が、/苦役に服することになった。」
「彼女」と擬人化されているのはエルサレムの都です。神がお選びになり、そこに御名を置くと言われた街です。ダビデとその子孫が王として治める王国は崩壊し、祭司やレビ人たちが仕え礼拝が捧げられて来た500年に渡ってアブラハムの子孫たちに約束の地として与えられた土地が、バビロン帝国によって奪い去られ、神の民であったはずの人々が捕囚となってバビロンに引かれて行ったことを著者は悲しみながら目撃していました。
哀歌の1章では愛する者を失った女性になぞらえて、エルサレムの破壊と王国の崩壊を嘆き、主に対してこの苦しみを顧みてくださいと訴えている内容になります。その嘆き、悲しみ、苦しみによってもたらされた心の傷は、愛する者を失った痛みに似ていました。
9節には「主よ、私の苦しみを顧みてください」、11節でも「主よ、よく見てください」、また20節でも「主よ、ご覧ください」と、神が自分たちの嘆きに目をとめてくださるよう訴えています。
しかし、この苦しみは神の怒りによってもたらされたものです。2章ではエルサレムの陥落が神の怒りによるものであることに焦点を当てています。2章のほとんどどの節を見ても、主の怒り、憤りが見られます。けれども、この怒りは神様の気まぐれではありません。
2章の13節と14節を見てみましょう。
詩人はエルサレムの負った癒しがたい深い傷について嘆いていますが、実はその傷が他人によってつけられたものというより、自ら招いたものであったことが14節で指摘されています。預言者たちは、本来はイスラエルの民の過ちに気づかせ、悔い改めを促すべきでした。もちろんエレミヤのように、そのようにした預言者たちもいたのです。しかし人々はエレミヤのような主の預言者たちの厳しい言葉に聞くよりも、自分たちが神との契約をやぶり、主に背を向け、自分たちの社会の中で不公平がまかり通り弱い者が虐げられるようなあり方を、適当にごまかし、目を向けさせず、偽りの安心と期待を抱かせる言葉を好みました。主は何度も忍耐しながら警告を発し続けましたが、イスラエルはそれを拒み続けたのです。そうして神は正義を行うために怒りを発しなければならないところまで来てしまったのでした。
2.嘆きを注ぎ出す
第二に、哀歌は私たちに「嘆き」の感情を注ぎ出すことを主が許しておられ、大事にしてくださっていることを教えています。
今日、司会者の方に読んでいただいた箇所は、ちょうど哀歌の真ん中になります。哀歌の詩人は、心に溢れてくる苦味、苦しみ、悲しみを注ぎ出していますが、同じような詩は、詩篇の中にも結構な数がありました。
詩篇は、私たちの様々な感情を題材にしていますが、哀歌のような、嘆きの歌だけを集め、一つの書として残されたことには大きな意味があるように思います。ヨブ記が個人的な苦難と苦悩を取り扱い、雅歌では結婚の喜びを扱ったように、哀歌は嘆きを信仰者の直面する現実、そして大切な面として取り扱っているのです。
哀歌を通して描かれる嘆きについて特徴的な点を2つ紹介したいと思います。
まず、嘆きは言葉にして表現するということです。
哀歌の最初の4つの章は、非常に整えられた詩の形になっています。1節ずつの最初の文字がヘブル語のアルファベット順になる、アルファベット詩、いろは歌になっているのです。ただし、完全ではなく、少し順番が違っている事があります。もちろん、日本語で読むとそのへんのことはなかなかわかりません。ただ、詩人が嘆きを言葉にするために苦労しながら工夫したことはなんとなく伝わります。少し大げさとも思える表現やたとえを用いながら心にある思いを言葉にしようとしています。例えば1章では、エルサレムと王国が滅びる悲しみを、愛する者を失い葬式をあげる時の悲しみと喪失にたとえています。まるで、言葉にならない混乱した気持ちを何とか整理して表現したかのようです。
悲しみや心の痛みとして感じる感情は、心に秘めておくのではなく言葉にして表現することが大事です。悲しみや痛みの感情は、心の中に隠しておくと混乱し、自分自身を傷つけ続けます。そうした感情を言葉にして表現することで、気持ちを整理することの助けになります。
また、嘆きを主の前に注ぎ出すことは、それ自体が神様への信頼のひとつの形だということです。
哀歌の詩人は、自分の気持ちを表現するだけでなく、それを神様に向かって訴えています。例えば、最後の5章を開いてみましょう。ここも22節にまとめられていますが、これはアルファベット順ではありません。が、何とかこれまでと同じ体裁で言葉にまとめています。そして、「主よ」という呼びかけで始まり、最後も「主よ」という呼び掛けで終えています。
この主への呼びかけ、主が聞いていてくださるという前提の詩の書き方は哀歌全体を通じて見られます。悲しい気持ちだけでなく、エルサレムの崩壊がたとえ自分たちの背きへの裁きだとしても、それでも怒りを向ける神様に対して、辛いですと訴えているのです。
私たちが心にある嘆きを言葉にするとき、ただ、感情を表現し、整理するために言葉にするのではなく、神様に聞いていただくつもりで、主に訴えることが大事です。私たちが祈る時「天の父なる神様」と呼びかけて祈り始めますが、そのように、自分が主の前にいるということを思い浮かべながら、言葉にすることは主への信頼ひとつのあり方として受け入れられるのです。
3.私たちは待ち望む
そうした主への信頼ゆえに、嘆きを注ぎ出した詩人は、第三に、主の救いを待ち望んでいます。
今日読んでいただいた3:19~24には、詩人の嘆きとともに、非常にはっきりとした主の恵み、救いへの期待が歌われています。
19~21節は一つの塊で、そこでは苦しいと苦味を思い出して心が沈んでますが、その中で「私は待ち望む」と宣言します。本来であれば、21節と22節の間は一行あけて、22~24節で次の塊になっています。
何を待ち望むのかと言うなら、「主の恵み」です。それは主の尽きないあわれみであり、朝ごとに新たに与えられるもの。暗い夜があっても毎朝、太陽が昇るように、これまでのイスラエルの歩みの中で、暗い時代、さばきによる苦しみがあっても、その後には赦しと回復が与えられ続けて来ました。そこからわかる神様のご性質は「真実」です。
そして24節で「主こそ、私への割り当てです」とありますが、これは神の民のそれぞれの部族、それぞれの家族に割り当てられた相続地を表す言葉です。つまり、詩人は地上ですべてを失った後でも、恵み深く、あわれみ深く、真実な主がともにいてくださることこそが、自分に与えられた祝福なのだと告白しているのです。
哀歌の詩人は、主の失われた恵みを思い起こしては嘆いていますが、しかし、主のあわれみは尽きないという信仰が、もう一度主の恵みを待ち望み、暗闇に向かっていくこの時も、主にある希望があり、やがて夜明けが来ると告白させているのです。
しかし皆さん。皆さんも経験あると思いますが、そのようにして一度信仰の視点から見つめ直して希望を持てても、あまりの嘆きの大きさ、直面していることの大きさに心が揺さぶられるのが私たち人間です。哀歌はそうした面も表しています。
それは嘆きの中で希望が歌われたかと思えば再び嘆きの歌に変わるような構成からもわかりますし、主よ聞いてくださいと訴えながらも、いっこうに涙が止まらないという描き方からもわかります。
そうした揺れ動く心を最も印象的に表しているのは、哀歌の最後の4つの節かもしれません。5:19~22を開いてみましょう。
最後の最後で、詩人は主の揺るぎない主権を断言しつつも、自分は忘れられていると訴えます。そして、「あなたのみもとに帰られせてください」と懇願しますが、その願いは22節にあるように「あなたが本当に、私たちを退け、極みまで私たちを怒っておられるのでなければ。」と、なんだか心もとない根拠に立っています。
もちろん私たちは、主がイスラエルの民を完全に退け、極みまで怒って滅ぼしたのではなく、残された民を守り、捕囚となった人々を連れていかれた地でも支え、祝福し、そして約束されたとおり、しかもすべての世界情勢をコントロールしてエルサレムに連れ戻し、祖国の再建をさせてくださった歴史を知っています。その救いの御業はキリストによる究極的な救いとして成就し、私たちにまで及んでいることを私たちは知っています。詩人の心配は杞憂に過ぎなかったのです。しかし、嘆きの只中にある時はこの詩人のように揺れ動き、迷い、心配するものです。それでも希望があることを私たちは哀歌と聖書全体からはっきりと教えられています。
適用 日々を新たにしてください
さて、今日は旧約聖書の25番目の書である哀歌を、ほんのさわりだけですが味わって来ました。
ダビデの王座があり、ソロモンが建設した神殿があり、500年に渡って、神の民として礼拝が捧げられ、途中いろいろあったけれど、それでも主の特別な守りと祝福があった都が陥落し、神がアブラハムとその子孫に与えると約束された地を奪われ、追い出され、すべてを失った人々がうなだれながらバビロンへと捕囚として連れ去られて行くのを目撃した哀歌の詩人は、これでもかという程、ことばの限りを尽くしてその嘆きを主に向かって歌いました。
その歌の中にはかすかな希望も告白されていましたが、しかし完全に心が晴れたわけでなく、その解決、回復は未来へと託されているのが哀歌です。
国が滅びる、自分たちの生きて来た世界が終わるという経験は、昭和20年の敗戦以来、日本では経験していませんが、最近、海外の友人たちを通して、もしかしたら似たような心境なのかもしれないと思うことが続きました。アジアの国々で、自由が失われ、不当な権力と暴力が人々を支配し、その中でクリスチャンたちも明日をもしれぬ日々を過ごしていることを考えると本当に胸が痛みます。あの人はどうしているだろうか、あの先生は無事だろうかと、顔が思い浮かびます。
しかし、世界が終わると感じるのは何も国のあり方が変わる時だけのことではありません。
思いがけない病気や、考えもしなかった状況の変化で、これまでの当たり前の日常が突然失われるときも、私たちは世界が終わるような感覚になります。
何度も繰り返していますが、それは神様からの私たちへの罰やさばきではありません。しかし、私たちが感じる嘆き、そして、神様が私をこんな目に合わせているという感覚はよく似ています。
そのような時、哀歌の詩人がしたように、私たちも主に向かってこの嘆きをいのり、訴えましょう。詩人のように言葉巧みにはできないかもしれませんが、主の前に立っていること、あるいは主の前にへたり込んでいることを想像しながら、この気持、この思いを聞いていただきましょう。それもまた神様への信頼のかたちですから、神様に文句を言うなんてだめなんじゃないかと思う必要はありません。親に言いたいことを遠慮して言わない子どもより、多少言葉は乱暴になったとしてもちゃんと気持ちを伝えれる子どもであるほうが幸せです。
そして、私たちには真実で恵み深い神様ですから、そこにいつも希望があることを思い出しましょう。5:21に「昔のように、私たちの日々を新しくしてください」と哀歌の詩人は歌っています。
この苦難や嘆きを味わう前に、日々注がれていた恵みと祝福をまた味わえるように。真っ暗な闇が覆っている夜もいつか開け、太陽が昇るように、主の恵みが私を新たにしてくれることを信じましょう。「あなたが本当に、怒っておられるのでなければ」なんて気弱になる詩人の心も、主は受け止めてくださっています。そんなこと言っちゃいけないと思わず、むしろ、主は私たちの嘆きを尊び、もがいている私たちを受け入れてくださっていることを信じましょう。
祈り
「天の父なる神様。
哀歌を通して主の前に嘆くことを教えてくださり、ありがとうございます。
自分の愛した都、自分たちの生きた世界が終わっていく嘆きを、私たちも自分自身の小さな歩みの中で経験することがあります。
嘆くことは決して不信仰なことでも、罪でもなく、その思いを主の前に打ち明け、注ぎ出すことをあなたが良しとしてくださっていることを感謝します。
不安で惨めな私たちであっても愛して、尊んでくださることを感謝します。
どうか、そうした思いを心に封じ込めるのではなく、主の前でことばにし、その中でもう一度希望を取り戻せるように助けて、哀れんでください。あなたの恵みは尽きることなく、必ず夜を明けさせ、新しい日々を与えてくださることを信じます。
主イエス・キリストの御名によって祈ります。」