2021-10-24 良い羊飼い

2021年 10月 24日 礼拝 聖書:エゼキエル34:11-16

 「羊飼い」はクリスチャンにとってはとても馴染み深い象徴です。実際に羊飼いに会う機会はほとんどありませんし、彼らの生活や仕事について詳しいことは知りませんが、それでも馴染み深い感じのする不思議な存在です。

聖書の中には多くの羊飼いが登場します。アダムとエバの二人の息子のうち、弟は羊を飼う者でした。アブラハム、イサク、ヤコブの生活にも羊は必需品で彼らの信仰の物語にもよく登場します。イスラエルをエジプトから救い出したモーセも、王となったダビデも羊飼いでした。預言者たちは国の指導者たちを羊飼いになぞらえ、ダビデは主こそ私の羊飼いと詩篇の中で歌っています。もちろん、クリスマスの物語の登場人物として羊飼いは欠かせません。

このように聖書の世界、イスラエルの人々にとって羊は衣食住に欠かせないものであり、また礼拝のときの献げものとしてもっとも一般的でした。そうした羊とその世話をする羊飼いは馴染み深いものでしたし、聖書に触れていれば私たちも何となく馴染み深い気になって来るというものです。そうした背景の中で語られたイエス様の有名な譬え話のひとつが「良い羊飼い」のたとえです。今日開いている箇所は、イエス様がそのたとえを話す時に思い描いていただろう箇所です。そして、ここは34章からのエゼキエル書後半の鍵となる箇所でもあります。

1.悪しき羊飼いたち

第一に、悪い羊飼いに導かれることは最悪です。

今開いている34章の直前、33章の最後、33節にはこう書かれています。「しかし、あのことは起こり、もう来ている。彼らは、自分たちの間に一人の預言者がいたことを知る。」

人々はエゼキエルの預言を耳にしてはいましたし、「主はなんと言っておられるか」と聞くポーズは見せていましたが、実際にはまるで耳を貸しませんでした。そしてついに、警告されていたエルサレムの滅亡と神殿の破壊の時が来たことを告げられているのです。

すでに捕囚となってバビロンにいた人々も、一回目の捕囚を逃れてエルサレムにとどまっていた人々も、押し寄せるバビロン軍によって国が滅び、エルサレムの都も神殿も破壊され、多くの人々が捕囚となって東へ東へと歩くことになって、ようやく「自分たちの間に一人の預言者がいた」ことを思い出し、エゼキエルの警告に耳を傾けるべきだったと後悔したのです。

しかしエゼキエルの預言は続きます。なぜならば主がエゼキエルを通して語りかけるのは、滅びを予告するだけでなく、希望を与えるためだからです。

けれども、希望の前に彼らは自分たちの問題を知る必要がありました。

イスラエルの一般の人たちも、もちろんまことの神様に背を向け偶像礼拝に向かい、世の中の不正や暴力の犠牲になりながらも目をそむけ、時には自分自身が悪に加担する、そんな社会になってしまっていました。

しかし民がそのようになってしまったことの大きな責任は指導者たちにありました。

エゼキエル書後半が始まる34章では、そうした指導者たちを悪い羊飼いにたとえて非難しています。この箇所は世界中の牧師たちが自らを省みる言葉として緊張感を持って聞いていると思います。牧師という言葉は牧者、羊飼いに由来する名前だからです。

この言葉は、直接はイスラエルを養い、守り、導く務めを委ねられた王たちのことを指しています。もともと外敵に対して無力な羊の群れを守り導く羊飼いには優しい導き手、守り手というイメージがありますが、実際にそのような理想的な王はなかなかいませんでした。特にイスラエルが滅亡に向かう直前の王たちは、自分勝手で、貪欲で、民の飢えや困難に無関心で、利用するだけ利用し過酷に支配しました。

そうなると国はバビロンのような強敵から身を守るすべがありません。8節には現代の様々なリーダーにも当てはまる非難の言葉があります。「わたしは生きている──神である主のことば──。わたしの羊はかすめ奪われ、牧者がいないために、あらゆる野の獣の餌食となってきた。それなのに、わたしの牧者たちはわたしの羊を捜し求めず、かえって自分自身を養って、わたしの羊を養ってこなかった。」

現代の政治家、国家権力に当てはめるより、私は自分自身に向けられた戒めの言葉として受け取ることが多いです。しかしエゼキエルの時代、国民を守り養うことより貪欲で自分勝手な王のために国は滅びに向かいました。そして主は、迷子になり、散り散りになった羊たちを悪い羊飼いたちから取り返し、救い出すと言われます。

2.羊たちを救い出す方

第二に、悪しき羊飼いに替えて、主は自ら羊飼いとなり、羊たちを救い出すと約束してくださいました。

今日読んでいただいた箇所になりますが、33:11です。「まことに、神である主はこう言われる。「見よ。わたしは自分でわたしの羊の群れを捜し求め、これを捜し出す。」

イエス様が「良い羊飼いのたとえ」をお話になり、ご自身を羊飼いとして人々に示したのは、明らかにこの箇所を意識してのことです。神様は罪に対する厳しい裁きをなさる方であるだけでなく、あわれみ深い愛に満ちた方でもあることをこの箇所は教えて暮れます。事実、神様は捕囚となった民を再び集め、エルサレムに神殿と都を再建させ、そのためにゼルバベル、ヨシュア、ネヘミヤ、エズラといった信仰と熱意、そして忍耐力に満ちた指導者たちを起こしてくださったのです。

しかし、バビロン捕囚から人々を帰還させ、都の再建を指導した人々は、素晴らしい人達ではありましたが、それでもここで預言されているほどの大牧者と言えるほどではありませんでした。また、先週、エゼキエル書前半の中心的な箇所で示されていたように、イスラエルの人々が石の心にかえて新しい柔らかい肉の心を与えられたとは言えるほどの様子は見られません。

バビロンからのエルサレムへの帰還は、神様の約束が成就に向かっていることをはっきりと示していましたが、完成した姿というわけではなかったのです。

では、主が羊飼いとなるとはどういうことなのか。そのことがもう少し詳しく説明されているのが23~25節です。

「わたしは、彼らを牧する一人の牧者、わたしのしもべダビデを起こす。彼は彼らを養い、その牧者となる。主であるわたしが彼らの神となり、わたしのしもべダビデが彼らのただ中で君主となる。わたしは主である。わたしが語る。わたしは彼らと平和の契約を結び、悪い獣をその地から取り除く。彼らは安らかに荒野に住み、森の中で眠る。」

エゼキエル書が指摘している重要なポイントは、羊に喩えられているイスラエルの民が迷子になり、散り散りになってしまったのは、神の裁きとしての捕囚のためではなく、実はその前から、羊飼いであったはずの王たちの無責任で自分勝手な振る舞いによって、すでに失われ、散らされ、偶像礼拝や悪という野の獣の餌食になってしまっていたということなのです。本来であれば、王たちはそうした民を偶像から引き戻し、悪の餌食になって罪深い行いをしている状態から連れ戻すべきだったのです。

ですから、主ご自身が羊飼いの役割を担うということは、捕囚によって祖国から散らされた人々をただ連れ戻すということではなく、人々が主を主と認め、その御教えにへりくだった柔らかな心で耳を傾け、恐れうやまう心で従うこと。その神への愛と尊敬を他の人々にも向けることで失われた社会の正義やあわれみを取り戻すまでになることが肝心なのです。

その地に襲いかかった悪い獣はアッシリヤやバビロンというよりも、その裁きをもたらした、神を敬わず恐れず他人を顧みない罪深さ、頑なさのほうがよほどたちの悪い悪い獣であったわけです。

3.養い、守り、いやす方

第三に、主はそのような民を養い、守り、いやす方として救い主である羊飼いを送ってくださいました。

23節にあるように主は一人の牧者を起こします。「ダビデを起こす」とありますが、「牧者」そのものが王の喩えとして用いられていますから、ダビデの子孫の中から、王となる方を起こすということです。そして24節ではイザヤ書にも出てきた「わたしのしもべ」という呼び方が出てきます。さらに25節では新しい「平和の契約」が結ばれ、民には平安が約束されます。26節以降には羊の群れや畑の実りにたとえながら祝福を約束しています。

少し戻りますが、11~16節には良い羊飼いがどのような働きをなさるかが記されています。

主はご自分の群れの羊を探し出します。散らされ暗黒の中に置かれた羊たちを一匹一匹探し出して救います。

そして安心して過ごせる場所へと導き、養い、ほっとさせてくださいます。傷ついた者があれば介抱し、病気のものを励まします。自分を太らせるようなもの、力にものを言わせるようなものを退けます。

そのようにして救い出した民に主は新しい命を吹き込みます。前回見た通り、固い石の心に替えて、柔かな肉の心を与えるのです。エゼキエル書の後半でもそれは繰り返されます。36:26です。そしてこのことが実に不思議な、一見不気味にも思える幻を通して描かれます。37章に出て来る、谷いっぱいに広がる数え切れない干からびた骨をエゼキエルに見せて「これは生き返るだろうか?」と問いかけます。そして、この骨の山に向かって語れと命じます。主がそれらに息を吹き入れる時、それらは生き返るというのです。天地創造の時に、土のちりから形作られた人間に神様が息を吹き込んで生きる者となったのと同じです。エゼキエルが見ていると、骨がみるみるうちに筋や筋肉をまとい、皮膚がおおい、見た目は人間に戻りましたが生きてはいませんでした。そこに主が息を吹き込まれると彼らは生き返り、自分の足で立つようになりました。

そのようにして霊的に回復し、新しい命、新しい心を与えられて主の民として、主の牧場の羊としてもう一度歩みだすことができるというのが主のお約束です。

しかし問題はまだあります。この世界に存在する悪の問題は残ったままです。38~39章では「マゴグの地のゴグ」という悪の象徴に向かってさばきを宣告します。創世記に出てくる古代の王の名前ですが、これは神様に対する人間の反逆を象徴しています。このゴグに対して神様はさばきを宣告することで、神様が地上のすべての悪に対して勝利されることを約束しておられるのです。

そのことは、イスラエルの民だけでなく全世界の人々の希望となります。40~48章で、新しい神殿や新しいエルサレムについての幻が続きます。それらは、実際の地理的な場所や建物の設計図というより、罪と悪によって踏みにじられた世界を主が取り戻し、主がそこにおられる場所として新たに創造し、回復してくださることを言っているというふうに理解できます。

エゼキエル書の最後の言葉を見てみましょう。48:35「この町の名は、その日から『主はそこにおられる』となる」。主はご自分の民と共におられ、もう離れることはないのです。

適用 主はわが牧者

このようなスケールの大きい救いのご計画の中心におられるのが、主のしもべである良い羊飼いです。

私たちは約束された姿を確かに主イエス様のうちに見出します。福音書の中でイエス様は、ご自身を羊飼いに喩えただけでなく、実際にそのように行動されました。

イエス様は弟子たちをひとりひとり声をかけて呼び寄せ、病んでいる者、弱っている者をいやし、罪人や汚れた者とみなされていた人たち、おかしなやつらとみなされていた人たち、よそ者とみなされた人たちのそばに行き、手で触れ、慈しんでくださいました。

人々の上に立って罪に定め、自分たちのうちにある傲慢さや貪欲さを白く上塗りし、さも立派であるかのように振る舞う人々を批判し、さばきを宣告しました。そのようにして、人々を探し出し、救い出してくださるのです。福音書の時代にそうしてくださったという単なる記録ではなく、聖書を読むすべての時代のすべての人に、イエス様はあなたのことも名前で呼んで、その傷と病を癒やし、手を置き、慈しんでくださるのだと語りかけているのです。もし、私たちのうちにパリサイ人や律法学者たちのような傲慢さや貪欲さがあるなら、イエス様の厳しく鋭い言葉の方が私たちに刺さるでしょう。それもまた、私たちに対する語りかけです。

そしてイエス様は私たちの中にある、そしてこの世界を支配している罪と死の力に打ち勝つために、十字架で死なれよみがえってくださいました。その救いを旧約のイスラエルの民だけでなく、すべての国々までもたらしてくださいました。

エゼキエルが預言した新しい都、新しい神殿が、具体的に何を表し、どういう姿で現れるのか私たちにはわからない面は多いですが、間違いなく言えることがあります。

私たちに与えられた救いが完全な姿を表す時、私たちはもはや恐れることも涙することもなく、罪と悪の力に悩まされたり振り回されることもないということです。この地上で受けたすべての傷と痛みは癒やされます。エデンの園で人間が失った喜びと幸いを取り戻すのです。

主を羊飼いになぞらえた有名な詩篇があります。詩篇23篇ですね。羊飼いであったダビデが王として歩む中で、主こそが大牧者であることを実感した歌です。この詩篇の中でも、羊飼いは緑の牧場、いこいのほとりに導かれ、魂を生き返らせ、義の道に導く方として描かれています。

そして、私たちが経験するように、死の陰の谷を歩むようなこともありますが、主がともにいてくださり、杖をもって私たちを守り導いてくださるので恐れることないとダビデは歌います。やがて訪れる祝の席で思う存分喜びを味わい楽しむ日を思い描いて、いつまでも主の家にいようと願いと決意を語ります。

私たちにとっても主は羊飼いです。先週、朝メールをぜんぜん書けないほど、気持ちに余裕がまったくないような日々でしたし、そういう時はエゼキエルが描いたあの悪い羊飼いがまさに自分のことのように、いつにも増して思えたりするのです。それでも、主の牧場、いこいの汀に行く道のりにはこんな日もあるけれど、主は今日も私の羊飼いでいてくださることに励まされながら歩んでいます。

主は、まったく耳を貸さないような心の状態の人々に、あえてエゼキエルを通してこの預言のことばを与えました。これから待ち受けるより過酷な状況の中で、主のことばが真実であり、預言者の言葉に聞くべきだと気づいた時に、主が羊飼いとなってくださるという希望を見出すためです。まことの羊飼いなる主はすでにおいでくださいました。

たとえ私たちの心が固く、深い悩みや迷いの中にあったとしても羊飼いなる主は私たちとともにいてくださいます。どうか、この希望を取り戻し、死の影の谷の先にある緑の牧場、いこいの汀へと向かう道を主とともに歩みましょう。

祈り

「天の父なる神様。

預言者エゼキエルを通して語られたことばの後半を今日学ばせてくださり、ありがとうございます。

特に主ご自身が羊飼いの役割を担われ、私たちを救うために探し出し、導き、守り、いやす方でいてくださることを心から感謝します。

今この時も、私たちの大牧者だである主イェス様は私たちの羊飼いです。たとえ死の陰の谷を歩む時も主にある希望を告白しながら歩む事ができるように、力と慰めを与えてください。

主イエス・キリストの御名によって祈ります。」

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