2021年 月 日 礼拝 聖書:ヨエル2:25-32
「温故知新」という言葉があります。「古きをたずねて新しきを知る」という論語に由来する言葉ですが、それ自体、大分古い言葉ですね。古い知恵や過去の経験を学び直して新しい視点、新しい知恵を得るということは、情報化時代の現代でも大事なことです。
ヨエル書は温故知新を地で行くような書物で、おそらくエズラやネヘミヤの時代に活躍した預言者です。ヨエルは過去の預言者たちの書物に精通していて、それらの預言のことばを自在に引用しています。そうやって彼の時代や後の時代のために、今置かれている状況を正しく見て、正しい応答をすることができるようにとこの書を書くよう主に導かれました。
私たちはヨエルの時代からさらに、およそ2500年後の時代を生きています。神様は私たちがヨエル書を通して古きをたずね、今の時代を生きるための新しい知恵を得るようにと、このヨエル書を与えてくださいました。
私たちが聖書を読むのは、人間の深い知恵が集められた論語のようなものを読むのとはまるで意味が違います。私たちがヨエルとともに、またヨエルを通してやろうとしていることは、神様が、神の民と人類全体にそれぞれの時代に語ったことを通して、現代の私たちに何を語っているかを聞こうとすることです。聖書を読む時は、いつも神様が私たちに何事かを語りかけておられます。
1.人の罪がもたらす荒廃
第一にヨエル書は人の罪が荒廃をもたらすことを警告しています。人の心や社会が病んでいくだけでなく神の裁きをも招きます。
ヨエルは捕囚から帰ってエルサレムの神殿と城壁を再建した時代以後の預言者だと考えられています。しかし、国を失い捕囚となる経験を経て、さらに神殿と城壁の再建を成し遂げた後でも、イスラエルの中には大きな問題がありました。ヨエルは、そのイスラエルの問題が、過去の預言者たち、イザヤやエゼキエル、また他の何人かの預言者たちが、様々な時代、状況で警告を発してきたのと根本的には変わらないことを見抜いています。
1章から2章11節までは、恐ろしい裁きとしての「主の日」が来ようとしていることを警告し、長老たちや祭司たちといった指導者たちに悔い改めを呼びかけています。
「主の日」はこれまでの預言者たちが、神のさばきと救いをなさる時として何度も使って来た言葉です。神の正義が果たされる時、神ではないものを神とし、罪と暴力、不公正な社会を野放しにして来た民族や国に厳しい裁きがもたらされ、悔い改め神に立ち返る者には救いが与えられる、ということで何度も語られて来ました。
ヨエルは、今までにないほどの厳しい裁きが訪れ、地には荒廃がもたらされると警告します。
1:4ではイナゴとバッタの大軍による災害が描かれています。ヨエルはこれが神による警告であって、長老や祭司たちに民に悔い改めを呼びかけるよう促します。そして16~20節でヨエル自身の悔い改めの告白が祈られています。
昨年だったでしょうか、中東から中国に向かってバッタの大軍が移動しながら作物を食い荒らし、日本まで来るんじゃないかと心配されたことがありました。私たちが田んぼで捕まえて佃煮にするような可愛いサイズではなく、大きくて風に乗れば何キロも飛んで移動できるようなバッタの大軍による被害は、イスラエルや中東世界、アフリカなどではたびたび起こりました。それが来るともう手の施しようがないのです。
2章ではバッタの大軍が押し寄せるように、強大な軍隊が主ご自身に率いられてイスラエルに向かうと警告されます。主の日はイスラエルにとって非常に恐ろしい日となります。バッタの大軍による災害はやがて来る裁きを思い出し、悔い改めるるべきことを気づかせるためのしるしでした。しかし、今や主の日が近づいています。
ヨエル書はいきなりこんな恐ろしい警告で始まるわけです。ここまでのところ、一体イスラエルにどんな罪があるからといって恐ろしい主の日が来ると警告されているのか、説明がありません。まるであちこちの家の壁に黒地に黄色の文字で目立つように書かれた看板が張り出され、「さばきが来る」「悔い改めよ」と呼びかけているようです。普通の日本人はその意味を十分に理解できません。
けれどもヨエル書を読んだ人たちは、どうしてそのような裁きがもたらされるのか、古い預言者たちの言葉から理解していたはずなのです。前回ホセア書で見たように、イスラエルは何度も何度も主に背を向け、契約を破り、伴侶を裏切る者のように主の愛を拒絶し続けて来たのです。今、まさに自分たちが同じ状態にあり、このままではかつてエルサレムが破壊され、国が滅びたように、また、それ以上の破壊と荒廃が近づいていることに気づくべきでした。
2.ねたむほどの愛とあわれみ
第二に、主はねたむほどに私たちを愛し、あわれんでくださいます。この事も、過去の預言者たちがくり返して来た事です。
2:12~17で来るべき恐ろしい主の日を前に、悔い改めるよう促します。13節では「衣ではなく、あなたがたの心を引き裂け」とあります。衣を引き裂くというのは悔い改めや嘆きを表すものでしたが、ヨエルは人々が表面的な悔い改めで誤魔化そうとするのを知っていました。だから衣ではなく心を引き裂けと、心からの悔い改め、ほんものの回心を求めたのです。13節の続きにあるように「主は情け深く、あわれみ深い。怒るのに遅く、恵み豊かで、わざわいを思い直してくださる」からです。
これはすごく大事なことです。やさしく大目に見てくれるから、とりえあえず謝っておけばいいとか、形だけでも謝罪すればいいという話しではないのです。
神の怒りは、恐ろしいイナゴの大群のように現実的で、逃れようがないものです。神の正義、罪に対する裁きに曖昧なところも、容赦もありません。適当にとりつくろった聖さや見せかけの悔い改めなんてものは通用しないんです。
しかし神は心から悔い改める者に対しては、災いを思い直し、その運命から逃れさせてくださいます。
なぜなら18節に「主はご自分の地をねたむほど愛し、 ご自分の民を深くあわれまれた。」とあるように、神は正義の神、聖なる神であるだけでなく、愛とあわれみの神でもあるからです。新約聖書のヨハネの手紙の有名なことばを借りるなら、まさに「神は愛」なのです。ですから、罪に対する裁きは確実に下されるのだけれど、常に、そこには赦しの可能性、救いの道があるのです。
そして、今日も私たちには常に神様の愛とあわれみが向けられています。ここまで世の中が悪くなっても、私たちが繰り返し神様に背を向けたり、弱さに捕らわれたり、決意したことを続けられない飽きっぽさがあったとしても、神様はすぐに私たちに裁きをもたらしたり、この世界を滅ぼしたりしないで、忍耐して待っていてくださるのです。
ヨエルはこの神の深い憐れみと愛のゆえに、角笛を吹き鳴らして悔い改めのための集会を招集せよと呼びかけます。老人も幼子も、喜びとお祝いの中にある新郎新婦でさえも、この悔い改めに呼び出し、祭司たちは涙を流して神の前にへりくだり、悔い改めるべきだと訴えます。
新約聖書のヤコブの手紙4:8~10にこういう言葉がります。「神に近づきなさい。そうすれば、神はあなたがたに近づいてくださいます。罪人たち、手をきよめなさい。二心の者たち、心を清めなさい。嘆きなさい。悲しみなさい。泣きなさい。あなたがたの笑いを悲しみに、喜びを憂いに変えなさい。主の御前でへりくだりなさい。そうすれば、主があなたがたを高く上げてくださいます。」
神様の愛とあわれみ深さに気づいたなら、最初にすべきことは喜んで飛び上がることではなく、へりくだって悔い改めることです。それなしに、救いの喜びとか、感謝とか、平安とか、癒しや回復といった救いの実の素晴らしさを本当に味わうことなんてありません。真剣に謝ったことのある人でなければ赦されることの本当の有り難さを知ることなんてないのです。
3.癒しと回復
第三に、主は私たちに癒しと回復を与えてくださいます。
司会者の方に読んでいただいた2:25~32はその回復の約束の一部分です。
イスラエルに襲いかかったイナゴやバッタの被害を償うと言われていますが、もちろんこれは災害復旧の話しだけではなく、イスラエルの罪がもたらしたすべての荒廃を主ご自身が癒し、回復してくださるという意味です。
それがはっきり表れているのは28節と29節です。この聖句は、ペンテコステの日に使徒ペテロが引用したことで有名です。イエス様の約束を待って集まっていた弟子たちに聖霊が下り、教会が誕生した時に成就した預言とされています。
使徒の働き2:14を開いてみましょう。いきなり聖霊に満たされ、外国語で話し出した弟子たちの様子を見て、エルサレムに集まっていた多くの人たちは「昼真っから酔っ払っているんじゃないら」と怪しみましたが、ペテロはこれがヨエルの預言した癒しと回復の始まりなのだと説明しています。
興味深いことに、ペテロは「わたしの霊を注ぐ」というところだけでなく、32節までまとめて引用していることです。つまり、まだ到来していない未来の「主の日」があり、最終的な裁きの日はまだ残っていて、それまでの間に主の御名を呼び求める者は救われるのだという約束になっているのです。聖霊が与えられることは、その警告が本物であり、真面目に受け止めなければならないことをペテロは告げています。同時に、聖霊が与えられることによって、罪がもたらしたすべての損害、荒廃を主が癒し回復させてくださるという約束もまた真実であることを証言していたのです。ですから、「私たちはどうしたら良いか」という群衆の問いかけに、ペテロはやはりこう答えました。「それぞれ罪を赦していただくために、悔い改めて、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。」
聖霊が与えられることは主による癒しと回復の始まりを告げるものです。
3章では、私たちにとって救いの日である「主の日」は、神の愛と聖さに背を向け、傲慢と暴力、あらゆる不正と不道徳にまみれたすべての国々に対してさばきを下すことが宣言されています。
この罪に対する神の裁きが現実ものとしてあるからこそ、私たちを妬むほどに愛する神のあわれみを信じて、真剣に悔い改めるべきなのです。そうすれば、聖霊によって新しい心に変えられ、罪によって傷付いた私たちの心、生活、人間関係が少しずつ癒され、回復されていきます。やがて社会全体をも回復させるだけの力があります。教会はそのことを証しする世の光となるのです。
ペテロたち、イエス様の弟子たちが最初にエルサレムで聖霊をいただいたことで全部が終わったのではなく、それは始まりに過ぎませんでした。そこから教会とクリスチャン一人一人が、聖霊とみことばに教えられ、励まされて変えられ続け、様々な失敗や弱さを経験しながら成長していったように、私たちもまた悔い改めてイエス様を信じ、聖霊をいただいて終わりではありません。新しいいのちが、私たちの生活と人生のすみずみまで及び、癒され回復されていくための長い道のりがあるのです。
適用 主を呼び求めて
預言者ヨエルが自分と同じ時代の人たちに語るよう導かれ、神様がそれを通して私たちに語っておられることは何でしょうか。
ヨエル書の最初のポイントは、人間の罪が自分たちを傷つけたり苦しめる荒廃をもたらすということでした。それは神の裁きによるものだけでなく、罪そのものがもたらす苦しみです。
私たちが経験する苦しみや痛み、悩みを思い出してみると、その多くに人間の罪深さが絡んでいることに気づきます。もちろん、心や身体の病気などが常に罪と直接関係があるとは言えません。どんなに気をつけて生活していても新型コロナに感染してしまうようなことは起こり得ることです。
しかし、自分自身の罪や誰かの罪によって、心が傷付いたり、人間関係が難しくなったり、不正や悪に手を染めてしまい、それが生活をめちゃくちゃにすることはあります。私たちをいつも悩ませるのは自分や他人の不誠実や偽り、プライド、頑固さ、寛容やあわれみの足りなさなどです。
もちろん他人によって深く傷つけられ、そのために不幸に感じることがあるのは確かですが、私たちが問われているのは人の罪ではなく自分の罪です。私の問題として神様の前に悔い改めるべきことがあるのではないでしょうか。
ヨエルの2つめのポイントは心から悔い改めなさいということです。
あなたがたの衣ではなく、心を引き裂けと言われていたように、表面的な謝罪で誤魔化すなということです。時々家の中で繰り広げられる光景ですが、妻に謝るべきことがあっても「ああ、ごめんね」と簡単に済ませてしまい、余計怒らせるなんてことがあります。もちろん逆の時もあります。
私たちは様々な失敗をします。単に仕事上のミスという意味ではなく、道義的、道徳的に間違ったことです。そういうとき、もちろん人に対しては謝るかも知れません。けれど、神様にはどうでしょうか。人に対して形だけの謝罪をするときは、神様に対しても真剣な悔い改めはしません。神様に対する真剣な悔い改めは、人に対する態度にも表れるものです。私たちの悔い改めが本物か、よくよく問いかける必要があります。
第三のポイントは、神様は憐れみ深く、私たちを癒し、回復させようとしておられるということです。
こんなに罪深く、過ちの多い私たちであっても、イエス様を救い主として信じる者には聖霊が与えられ、新しい心が与えられます。しかしそれは癒しと回復の道のりの最初の一歩です。
クリスチャン生活が嬉しいことばかりでないのは当たり前のことです。私たちの心を神様から引き離そうとする悪魔の働きがあり、私たち自身にもまだ癒されいない傷があり、回復途上の問題があるからです。病気が発覚する前よりリハビリ中のほうがしんどいことがあるように、罪を自覚する前より、クリスチャンになってからのほうが自分の罪や人の罪の問題に悩まされる面があるものです。
しかし私には罪があるという自覚は聖霊による癒しと回復の最初の一歩です。そして、そうした問題に悩まされつつも、忍耐したり、希望を持ったり、何かほかのことで神様の恵みやあわれみに気づくことで慰められたり励まされたりしながら、回復への道のりを歩んでいるのです。
このような救いをいただくために、ヨエルの勧めに従って表面的なものではなく主の名を呼び求め、心からの悔い改めによって、主の癒しと回復をいただきましょう。
祈り
「天の父なる神様。
今日はご一緒にヨエル書から学びました。少し分かりにくいところもありますが、人の罪が何をもたらすか、神様の罪に対する裁きと怒り、それにもまさる神様の愛とあわれみを知りました。また救われ、癒されるために、心から悔い改めるべきことをもう一度教えてくださり、ありがとうございます。どうか、私たちを主を呼び求める者としてください。
イエス様のお名前によって祈ります。」