2021-11-28 乾いた牧場

2021年 11月 28日 アドベント礼拝 聖書:アモス 1:1-2

 今日からクリスマスに備えるアドベントの期間に入りました。

クリスマスの物語に欠かせない登場人物に羊飼いがいます。ベツレヘムの郊外で野宿をしていた羊飼いたちが、救い主が生まれたという知らせと、御使いの大軍勢の賛美を目撃し、その言葉を確かめるためにベツレヘムの馬小屋に走ったのです。

羊飼いが救い主誕生の知らせの最初の受け手になったことには大切な意味がありますが、今日開いているアモス書も、そんな羊飼いが神の民への大切な知らせを受け取りました。

どこにでもいるような羊飼いに過ぎなかったアモスが預言者として立てられた時、神様は普段から羊の群を導いたり、畑仕事をしているから分かるような喩えや幻を通して語ってくださいました。

ベツレヘムの郊外にいた羊飼いたちは待ち望んでいた約束が果たされたことを目撃しましたが、分裂王国時代に預言者とされた羊飼いアモスは、その待ち望むべき救いの希望を託されたのです。しかし、アモス書に目を通すときに私たちが受ける印象は、厳しい非難と裁きの宣告の繰り返しです。こんな厳しい預言の言葉のどこに希望や慰めを見いだせるでしょうか。けれども、神様が預言者を遣わすのはいつでも、愛する者たちが何も知らずに滅びに向かうことなく、悔い改めの機会を与え、希望を持たせるためであるはずです。

1.神の義

アモス書の最初の2章は、イスラエルについての幻とされていますが、実際は様々な国の名前が挙げられ、それぞれに対する神様の厳しい宣告が告げられます。ここでは神様の義が全世界に及ぶことが特に強調されています。

今日、読んでいただいたのはアモス書の冒頭、預言者アモスの紹介とアモス書が訴えるイスラエルの現状が記されています。

アモスはテコアという南北に分かれたイスラエルの境界線近くの南ユダ王国にあった町です。時代は南王国をウジヤ王が、北王国がヤロブアム二世が治めていた時代です。同時代の預言者としてはイザヤ、ホセアがいます。「あの地震の二年前」と書いてありますが、ウジヤ王の時代に大きな地震があって多くの人たちが避難したらしいことをゼカリヤ書も書いています。

彼のもともとの職業は羊飼いであり、いちじくの木を栽培している農夫でもありました。彼はもともと預言者ではなかったし、何の関わりもありませんでした。しかし、主は羊の群を世話していたアモスをを預言者として召し上げ、北王国に遣わしました。

そのアモスが見た幻について2節でこう語っています。

「主はシオンからほえ、エルサレムからの声をあげられる。羊飼いの牧場は乾き、カルメルの頂きは枯れる」

あえて「シオンからほえ」つまりエルサレムから声をあげると言われているのは北イスラエル王国に対する非難を込めたものです。彼らは主が聖所として定めた場所以外のところに勝手に神殿を建設し、あげく偶像礼拝を持ち込みました。主が大きな声で吼えるように言葉を発すると、羊飼いが羊の群を養っていた牧場が干からび、大きな丘陵地帯であるカルメル山も干上がってしまいます。

羊飼いであるアモスにとって、羊たちが憩い、満ち足りるはずの牧場が枯れてしまうというのは、田んぼの用水路が干上がってしまうのに似て、致命的で恐ろしい光景です。

アモスは、今にもライオンが恐ろしい声をあげるように、主が怒りを持ってほえるとき、地が干上がるぞと警告を与えました。

3節から2章の終わりまで、アモスは周辺の様々な国の名前を挙げながら、それらの罪深さに対して義なる神様の裁きが下されることを宣告し、最後にその中心にあるイスラエルに対して、同じ裁きが下されることを告げています。「○○の三つの背き、四つの背きのゆえに、わたしは彼らを顧みない。」という言い回しが繰り返されているのが特徴です。それぞれの国の罪とそれに対する報いが次々と記されて行きます。

彼らは暴力的で、敵に対して情けを掛けず、捕虜になった人たちを囚人として扱い、弱い者に憐れみをかけず、借金のかたに人々を売り買いし、預言者の声に耳を塞ぎました。こうした神の非難は、今の世界がかかえる様々な罪深さをも告発しているようです。

神の民であったイスラエルの罪は、周辺の神に背を向けた国々と何も変わらない、罪深く、限度を超えていました。そして神様の我慢の限度も超え、ついに怒りが下ろうとしているのです。その裁きはやがてアッシリヤの軍勢によって、ちょうど前回ヨエル書で見たように、まるでイナゴの大群が襲いかかってくるようで、誰も逃れることはできません。2:13~16に、神様の怒りの恐ろしさが記され、アモス書の最初の部分は閉じられます。

2.召しと責任

アモス書の2つめのテーマはイスラエルの召しと責任です。3~6章が二番目のまとまりになっていますが、ここでは特にイスラエルの指導者たちに対する非難が主な内容になっています。指導者たちはしばしば羊飼いに喩えられますが、良い牧者であるべき彼らが厳しく責められなければならなかったのは、イスラエルに与えられた召しと責任の故です。3:1~2を見てみましょう。

「イスラエルの子らよ、聞け。主があなたがたについて告げた、このことばを。わたしがエジプトの地から連れ上った、あなたがたすべての部族についてのことばを。わたしは、地のすべての種族の中から、あなたがただけを選び出した。それゆえ、あなたがたのすべての咎のゆえに わたしはあなたがたを罰する。」

主がイスラエルを罰する理由は「地のすべての種族の中から、あなたがたを選び出した」ことにあると明言されています。

これは、神様がウルにいたアブラハムを召し、彼の子孫を大きな一つの民として祝福し、さらにその子孫たちによって全世界は祝福されるという選び、召命を意味しています。それは大きな祝福であり、特権でした。しかし祝福や特権には同時に責任も伴います。

その祝福の素晴らしさと責任の大きさ、責任を放棄してしまった場合の重大な結果を契約という形で明らかにしたのが律法でした。

だから、預言者たちがイスラエルの民や王たちが律法を投げ捨て、契約を破ったと批判するのは、単に、ルールを破ったという話しではなく、結婚関係にもたとえられるような神との固い絆を裏切り、自ら断ち切ってしまったという重大なものだったのです。

では、どういうことが神様から問われ、非難されているのでしょうか。繰り返されているのは、表面的には神を礼拝し、熱心に宗教的な行事を行っていましたが、人間関係や社会の中には、不正や不道徳が満ちていたことです。特に民の指導者や社会的に地位のある人たち、裕福な人たちにそうした罪が目立っていました。

北イスラエル王国が南ユダのエルサレム神殿に対抗して金の子牛を安置した祭壇を二つの町に作って以来、偶像礼拝に陥って行きました。彼らは金の子牛が安置された神殿でまことの神に献げ物をささげ、賛美を献げていましたが、一方でカナン人が昔から拝んで来たアシェラやバアルといった偶像を取り込み、それらに仕えていました。まことの神様は、神の民に、神様がそうであるように隣人に対して公正であることや、相手が誰であれ誠実に関わるよう求めましたが、そうしたカナンの神々にはそのような正義も公正もありません。それどころか、戦争と暴力を賛美し、性的にも乱れ、強欲な神々です。人間は、心であがめているものに似ていくものです。偶像礼拝はイスラエルの指導者や民の心をまことの神様から引き離すだけでなく、神の民として大切にすべき正義や公正からも引き離してしまうのです。ですから5:21~24にあるように、形だけの偽善的な礼拝ではなく、本当の善を求め、公義と正義がよどみなく流れる水の川のように流れさせるべきだと訴えているのです。

これは今日の私たちにとっても大切な教訓です。私たちの神様に対する本当の態度は、目に見える礼拝や奉仕の姿などにあるのではなく、家族や隣人との人間関係の中に映し出されます。神を愛し、人を愛する者とされた私たちにとって、よくよく注意しなければならないポイントです。

3.アモスの見た未来

アモス書の3つめのまとまりは7章から最後の9章までになっています。ここではアモスが神様から示された幻と対話が続きます。いなごや燃える火、下げ振り、熟し切った果物など、神のさばきの日である「主の日」を象徴するものが次々と登場します。

最初は神が下そうとしている裁きについて、アモスが祈り「神、主よ。どうぞお赦しください」と訴えると、主は「わかったやめよう」と言ってくださるのですが、やがて果物が熟してしまうように、イスラエルの罪も熟し、もはや裁きは逃れようもなくなってしまいます。

8:11「見よ。その時代が来る」。これは、イスラエルに裁きが訪れる主の日が避けられないことを告げています。

「見よ、その時代が来る。──神である主のことば──そのとき、わたしはこの地に飢饉を送る。パンに飢えるのではない。水に渇くのでもない。実に、主のことばを聞くことの飢饉である。」

これまで何度も遣わされた預言者たちの言葉に耳を貸さなかった人々が、裁きの中で主を呼び求め、主のことばを聞こうと探し求めてももう手遅れになる時が来るのです。

さらに9章でアモスはもう一つの幻を見ます。「祭壇の傍らに主が立っておられるのを見た」。この幻の中で、主は偶像の神殿の柱を打ち砕いてしまいます。彼らが頼った神々は取り除かれ、ついに終わりの日が来ます。誰もそれから逃れることはできず、イスラエルの王国は滅びることになるのです。

これは、直接的にはアッシリアによって北イスラエル王国が滅ぼされ、人々が捕囚となる時代を指しています。確かに、アモスの時代からおよそ40年後にその預言は成就します。

しかし、アモスの預言はそれでは終わりませんでした。アモス書の最後の部分、9:11~15では、これまでとは全く違った雰囲気になります。最後の5節は主の裁きによって完全に滅ぼされたかに見えた主の民イスラエルが回復されることを告げているのです。

「倒れているダビデの仮庵を起こす」とは、ダビデ王の子孫から再び王となる者が起こされるという意味です。つまり、約束の救い主が起こされ、廃墟となった町を建て直し、荒廃した土地を回復する。そして失った栄光は取り戻され、与えられるはずだった祝福が与えられます。この約束が、暗闇に覆われた世界で遠くかすかに見える灯りのように希望として与えられているのです。

注目すべきは13節です。アモス書の最初で見た、乾いてしまった羊飼いの牧場、枯れてしまったカルメルの山々の光景が再び登場します。枯れてしまった牧場はいやされ、畑は作物を豊かに実らせ、山々には潤いが取り戻されます。人間の罪がもたらした主の裁きによる荒廃が主ご自身によって癒され、祝福が取り戻されるのです。そしてこう約束されます。「彼らは、わたしが与えたその土地から、もう引き抜かれることはない。──あなたの神、主は言われる。」

アモスの見た幻は、ダビデの子孫としてお生まれになった主イエス・キリストによって実現されていきます。その様子は、目に見える国の回復というより、罪によって損なわれた私たちの魂と人間関係、神様との関係の回復として実現されていきます。私たちの日々の歩みこそが、この約束が果たされて行く乾いた牧場なのです。

適用 枯れた牧場のようでも

アブラハムとイスラエルの民が経験したことは、私たちの救いの経験と重なります。

諸国の中から名も無い一人の人物が選ばれ、大きな祝福を約束されたように、私たちも何か特別に神の祝福に値する相応しい何かがあったわけではありません。しかし、なぜか神様は私たちを選んでくださいました。

イスラエルの民はエジプトで奴隷となっていましたが、神様はモーセによって救い出し、自由を与えてくださいました。私たちはエジプトではなく、罪と死の奴隷となっていましたが、イエス様によって救い出され、自由とされました。

救い出された民は神の民となる契約を結び、神と共に歩むことを学び、神を愛し人を愛する者となるための道筋として律法が与えられました。同じように、私たちはイエス様による新しい契約のもと、神様の民、神様の家族の一員となり、神を愛し、人を愛する生き方を学ぶ者とされました。そして、文字の律法ではなく、聖霊によって心が新しくされることによって、新しい人とされました。私たちの経験するところでは、非常にゆっくりではありますが、新しくされ続けています。

そして、やはり私たちのキリストにある歩みには責任もあるのですが、希望があります。

私たちが今この地上で経験していることは、アモスが幻の中で見た、救い主による建て直しと回復がまさに今、現在進行形で行われつつあることなのです。たとえ今、自分の心の中や人との関係が、まだ枯れた牧場、みずみずしさとはほど遠い荒れ果てた山々のようであっても、あるいは廃墟になった町のようにあちこちくすぶって混乱していても、主はやがて私たちを建て直し、癒し、回復させ、喜びと豊かな実りを回復させてくださるのです。

アモスが警告した乾いた牧場や枯れ果てた山々の姿は、罪に対する神の怒りの結果、裁きによるものです。しかし、罪に対する神の怒りはすべてイエス様が引き受けてくださいました。ですから、今私たちが、枯れた牧場や山々のような光景を自分の魂や生活の中に見出すとしたら、それは罪がもたらす直接の結果です。罪は私たちの心や人間関係を傷つけ壊します。自分の罪のためかもしれないし、誰かの悪意や考えなしにやった酷いことのせいかもしれないし、この社会が抱えている矛盾や不公正のためかも知れません。

原因が何であれ、その結果がどれほど私の心や対人関係に影を落とし、そのために連鎖反応のように、また傷付く人が射るかも知れません。

昨日の朝メールで、見た夢の話しを書きました。実際にあった出来事ではないのですがとてもリアルでした。まだ中学生くらいの娘が学校で受けた嫌な気持ちを話してくれたのに、私はそれを聞いて自分が子ども時代に受けた嫌な経験を思い出してしまいました。心に残った傷が痛み、娘の話を最後までちゃんと聞いてあげられなかったのです。そのことに気づき、自己嫌悪になったというところで目が覚めるという、なかなか辛い夢でした。そういうことを私たちはしてしまうし、誰であれ、多かれ少なかれ、そうした回復途中であるが故の痛みを持ち、また誰かに痛みを与えてしまうのが私たちの現実です。

私たちは解決仕切れていない様々な問題や悩みがあり、その影響が心や身体や人間関係に出てしまう辛さも味わいます。まさに私たちはまだ緑を取り戻しきれていない牧場のようです。

それでも私は希望を失っていません。なぜなら主の救いは確かに私にも与えられ、こういう自分が赦されたことを知っており、少しずつではあっても、悔い改めがあり、やり直したり、ほんのちょっとずつでも成長したり、変えられているのも現実だと分かっているからです。まるで干からびた牧場に、ぱやぱやと小さい草が生えたくらいかもしれませんが、それはやがて訪れる緑豊かな牧場の景色の始まりなのです。

主は、私たちの魂と生活を回復させてくださいます。

祈り

「天の父なる神様。

アモス書を通して、あなたの正義と罪に対する裁きにまさる、あなたの愛とあわれみを今日も私たちに表してくださり、ありがとうございます。

乾いた牧場や、枯れ果てた畑、荒れ果てた廃墟のようでさえある私たちの魂と生活を、あなたが建て直し、約束された祝福で満たそうと、今日も私たちに親しく臨んでくださる神様。どうか私たちの疑いやすく、諦めやすい心を聖霊によって新しくし、希望を持って歩めるように、恵みに気づき、大いなる祝福の中にすでにあることを思い出して歩めるように、どうぞお助けください。

私たちの主イエス・キリストの御名によって祈ります。」

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