2022-01-02 すべての者が帰って来ますように

2022年 1月 2日 新年礼拝 聖書:詩篇22:25-31

 新年を迎え、今年も2022年という年にちなんで詩篇22篇からみことばを味わっていきたいと思います。

さて、皆さんはどのような心境で新しい年を迎えたでしょうか。期待に満ちた出だしであるなら幸いですが、必ずしもそうではないと思います。去年から持ち越した心配ごとがあるかもしれないし、正月明け早々に待ち構えている大きな問題があるかも知れません。

新年だからといってハッピーな気分でいなきゃいけないという事ではないし、楽しく過ごせないから不幸だということではないはずです。そもそも、他の人たちが年末年始の休暇を楽しんでいる間もいつもと変わりなく仕事をしている方もいます。

とはいえ、詩篇22篇のような重苦しいテーマの箇所で新年を迎えるのはどうなんだろうと、実は去年の元旦礼拝の時から考えていました。順番からこの箇所だということは分かっていました。自分で決めた順番なので別に変えたっていいはずですが、せっかくここまで続けて来たことだし、神様はこの箇所から大切なことを教えてくださるはずだと信じて、取り上げることにしました。

詩篇22篇は「わが神 わが神 どうして私をお見捨てになったのですか」という有名なフレーズで始まります。イエス様が十字架の上で叫んだ「エリ、エリ、ラマ、サバクタニ」という言葉そのものです。

1.嘆きと信頼

第一に、苦難の嘆きと神への信頼は私たちの心と生活の中で同居できます。そして、そのような賛美や祈りにはちゃんと意味があります。

まず詩篇22篇の前半、1~18節は「なぜ神は私をお見捨てになったのか」と問うほどの苦難の中で、それでもなお神に信頼を寄せる内容になっています。

表題にはダビデの賛歌とありますが、この苦難の中での祈りが、ダビデのどの経験と重なるか多くの研究者が調べていますが、うまく当てはまるものはないと言われます。そして、この出だしの「わが神 わが神」の部分だけでなく、人々のののしり、「神に助けてもらえばいい、お気に入りなんだから」という台詞、乾ききった口と喉、悪者どもに取り囲まれ暴力を受ける様子、そして着ていたものをくじで分け合う様子。これらはイエス様の十字架の苦しみを思い起こさせます。ですから、この詩篇はダビデの経験と信仰から生まれた詩でありながら預言でもあると言われます。

けれども、ダビデが「暁の雌鹿」の調べに乗せて歌うようにこの詩を書いたとき、救い主の受難を預言するというはっきりとした意図があったか分かりませんが、様々な時代の人々が人生の中で経験する苦難や悩みをこの詩に重ね合わせ、暗闇に光を与えたいと願ってはいたと思います。

私たちも、神に見捨てられたんじゃないかと思うような経験の中で、日曜日に礼拝に集い、心の痛みや思い悩みを持ち、矛盾した気持ちを抱きながらも賛美をするという経験があります。

祈っても答えられない。神様が遠く感じられることがあります。

他の人の、祈りが聞かれ助けられたというような証しを聞いて、ああそうなんだと一瞬思い直しても「でも私にはそういう答えが与えられなかった」とがっかりすることがあります。

神様を賛美しながら、誰かの皮肉や意地悪な言葉、態度を思い出して胸が苦しくなることもありでしょう。

神様は私にいのちを与えた方、私たちは神様に頼って生きていたし、今まさに助けが必要です。神様に「どうか助けてください」という祈りと願いを持ちながらも、苦しみの方がまさって心も身体も疲れ切ってしまうとううこともあるでしょう。

それが私たちの現実です。日曜日教会に来るだけで元気になれるということもありますが、ものごとはそう単純ではなく、主の前に祈り賛美をささげてもなお、心に重苦しいものが残っていることはあるものです。

そうした経験は22:1~18に重ね合わせて読むことができます。そして、そうした私たちの痛みや迷いや疑いや嘆きは、私たちの信仰の弱さや足りなさだけが原因なのではないことを知ります。賛美し祈っても、心を塞ぐものが取り去られないからといって、信仰が無駄であるとか、役に立たないということでもありません。

矛盾しているように感じられたとしても、この詩や礼拝での賛美や誰かの祈りを助けとしながら、嘆きを訴えることのできる方がいること、気に掛けてくださるはずの方がいることを思い起こすことができます。祈りが聞かれない、近くにいるはずの方がいないじゃないかという不満や嘆くこと、あるいは怒りの中に、私がなおも神様に期待し、救いを求めている者であること発見します。

2.救い出してくださる方

第二に、主はやはり私たちを救い出してくださる方です。

22篇の後半は19~21節の祈りを挟んで、全面的な賛美へと詩の雰囲気が大きく変わります。ダビデは、神に見捨てられたかのような嘆きを訴えて来たのに、このように大きく変化したのは21節の最後の一行があるからです。

「あなたは 私に答えてくださいました」

ダビデの経験した苦しみが具体的に何であったか分からないのと同様に、神様がどのような形で答えてくださったのかは明らかにされていません。しかし、嘆き続けながらも、「離れないでください。…早く助けに来てください。救い出してください。…救ってください」とたたみかけるように祈った祈りに、主が答えてくださった。ただ、その一事によって、ダビデの心は嘆きから掛け値なしの賛美へと変わります。

イエス様の受難の場合は、完全に死んで葬られるところまで行って、さらに日曜の朝まで墓の中に埋葬されたままでした。それから、イエス様はよみがえらされ、栄光を受けたのです。

聖書を丁寧に読むと、イエス様は自分の力で生き返ったのではなく、父なる神の力によってよみがえらされたのだということが強調されています。そもそも生き返る力を温存していたのなら、それは死んだとは言えません。復活の力が私たちに与えられるのも、完全に無力な私たちに与えられるものであって、私たちのうちに眠っていた密かな力が活性化するようなものではないのです。

神様はイエス様をよみがえらせたのと同じ力を信じる者たちに与え、新しく生まれさせ、強め、生かしてくださいます。

有名な使徒パウロの祈りを開いてみましょう。エペソ1:19~20です。「また、神の大能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力が、どれほど偉大なものであるかを、知ることができますように。この大能の力を神はキリストのうちに働かせて、キリストを死者の中からよみがえらせ、天上でご自分の右の座に着かせて、」

このように、受難のキリストを死者の中からよみがえらせた力を私たちに働かせてくださいます。

詩篇22篇で「あなたは 私に答えてくださいました」とありましたが、今日の私たちに対する神の答えの一つ、そして最も重要な答えは、死者の中からよみがえらせる力です。どこにも答えがない。どこにも助けがない。どこにも解決の糸口が見つからない。誰も助けてくれない。むしろ責めたてる者たちが苦しめる。まったくの無力です。しかし主は、十字架の苦しみを受けて死なれ、死者の中からよみがえらされたキリストを私たちに指し示し「大丈夫だ」と語りかけます。

また神様の助けは、思いがけないところから与えられます。ある時、なかなか辛い状況にあったときに、具体的な助けの手を延べてくれたのはクリスチャンではなく、未信者の友人たちだったということがありました。「信仰、信仰なんて言いながら、こんなものか」と皮肉っぽくなっていましたが、後でよくよく考えてみたら、それも神様の助け方の一つなんだということに気づきました。そうやって小さなことに神様の御手が見えると、気づかずにいた神様のたくさんの助けが見えるようになるのでした。

3.地の果てのすべての者が

第三に苦難の中の嘆きから賛美へと変えられた歌は、さらに思いがけない発展を見せます。21節までずっと、詩の登場人物は苦しめる敵以外は「私」と「主」だけでしたが、22節でいきなり「兄弟たち」「会衆」という第三者が出てきます。

そして23節からは、もう個人の祈りや賛美ではなく、同じ主を信じ、恐れる人々への賛美の招きに変わっています。

ダビデが賛美を呼びかけている人々もまた、苦難の中や貧しさの中にある人々です。彼らが賛美できるように、主が彼らを助け、満たしてくださるようにと祈ります。ただ、食べものだけの話しではありません。26節の終わりに「あなたがたの心がいつまでも生きるように」とあるように、何より願うのは人々の魂の回復といのちです。

さらにその祈りは27節で「地の果てのすべての者が、思い起こし 主に帰って来ますように。国々のあらゆる部族も あなたの御前にひれ伏しますように。」と拡がります。

前半は、苦難と失意の中で心が神様から遠く離れてしまった兄弟姉妹たち。後半は、今はまことの神様を知らず、聖書の神が助けてくれるなんて思いもしないすべての人たち。そんなふうに読むことができます。

ダビデの詩は、私たちの信仰による生活というものが、励まされるとか慰められるとか、力が湧いてくる、というような内面的なものだけではなく、全世界をすべ治める神のみわざの中に生きることなのだと教えてくれます。

だから、金持ちや裕福なものは満ち足りる中で、この幸いが神から与えられた恵みであることを知って跪きます。嘆きの中でちりに下る者も、助けてくださる神の前にひれ伏します。そして、自分のたましいを生かすことが出来ない者、この地上のどこにも救いや助けを見つけられない者も、主なる神様の助けを信じ求めてひざまずきます。

この信仰と神の救いとは世代から世代へと証しされ、後の時代の人たちも同じような苦難の時に思い出し、主に拠り頼む助けの一つになることを期待して詩は閉じられます。確かに、教会の記念誌や証し集なんかに残された、昔の信仰の先輩たちの苦労の跡から励まされたり教えられることは多いです。

22篇で感動することは、苦難の中で嘆いていた詩人が、神が嘆きの祈りに答えてくださったという経験を通して、自分が満足して終わらずに、同じように嘆きの中で暗闇の中を迷っていたり、心が離れてしまった人たち、さらには助けを求めるべきまことの神を知らない人たちにまで思いを寄せ、彼らのためにとりなす者とされていることです。

それはまさに、この詩を用いる者が、同じように助けや慰めを頂いたら、他の人のために祈り、助ける者になるようにとの励ましです。使徒パウロはコリントの教会に書き送った第二の手紙の中で同じことを言っています。「神は、どのような苦しみのときにも、私たちを慰めてくださいます。それで私たちも、自分たちが神から受ける慰めによって、あらゆる苦しみの中にある人たちを慰めることができます。私たちにキリストの苦難があふれているように、キリストによって私たちの慰めもあふれているからです。」

適用 私たちの祈りとして

2022年の初めに、今日のみことばが与えられた意味はなんだろうかと考えさせられ祈らされて来ました。中でも今月のみことばに選んでいる27節のみことばが強く心に迫ります。

自分自身が経験する苦難の中で、神に見捨てられたとさえ思える嘆きから、遠く離れた人々に思いを至らせることが出来るようにまで変えられるというのは、信仰による歩みの幸いな面であり、力だと思います。

イエス様も、ご自身を三度知らないと予告され動揺するペテロに「…わたしはあなたのために、あなたの信仰がなくならないように祈りました。ですから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」と言われました。それは簡単なことではありませんでしたが、確かに彼はイエス様の愛と恵み、聖霊の慰めと助けによって、そのような者になっていく事ができました。

慰めを必要とする者から、慰めを必要とする者のために祈り、仕える者になること。それが詩篇22篇の描く信仰者の姿です。

この2年のコロナ禍のために、あるいは他の理由で教会に足を運びにくくなった方々がおられます。ここ2年に限らず、信仰の歩みの中で、神様に頼ることや教会の交わりに期待することを諦めた人々、心が離れてしまった方々の顔が思い浮かびます。自分自身に少なからず責任があったのではないかと思う人々もおられます。

ご病気やのっぴきならない事情のため、という場合は、病気から回復したり状況が変化すれば交わりに戻って来られるでしょう。しかし苦難の中で望みを見つけにくいのと同じように、ある人たちが主のもとに帰って来るという可能性について考えるとなかなか難しいなあと思ってもしまいます。実際に私たちに出来ることはほとんどなかったりします。

29節に「自分のたましいを生かすことができない者」という言葉がありましたが、自分はもちろんのこと、他の誰かのたましいをどうこうするなど、私たちにはまったく及ばないことです。

しかし、キリストを死者の中からよみがえらせた方、そして神の民だけでなく全世界に対して主権を持っておられる方が私たちの祈りを聞いていてくださいます。

どういうタイミング、どういうかたちでこの願いに答えが与えられるかは分かりませんが、しかし「すべての者が 思い起こし 主に帰って来ますように」という願いは持ち続けているべきではないでしょうか。

そのような人たちの多くは、神を裏切り捨てた人々、教会に背を向けて好きな道を選んだ人たちというより、答えを見つけられず失意のために心が離れてしまったのかも知れません。彼らは神の助けや慰めが不要な人たちでは決してないのです。

ですから、助けと慰めが今必要なら、望みを失うことなく、やっぱり主が救いを与えてくださる方であるということを確信し、主が祈りに答えてくださることを心から願いましょう。そして、主の助けと慰めを頂いて、遠く離れてしまった方々、救いを求めるべき方を知らない多くの人たちが、主を知り、主を思い出して、主のもとに帰って来ることを祈り願い続ける一年とさせていただきましょう。やがて私たちは自分のためだけでなく、他の人々のために「主が私に答えてくださいました」と言えるようになります。

祈り

「天の父なる神様。

私たちに新しい年を迎えさせてくださり、ありがとうございます。

どうぞこの年も、御前に祈りつつ歩みますので、あなたの救い、助け、慰めが尽きることなく私たちにお与えください。また、私たちも、救いを必要としている方々や、心離れてしまった方々のために祈り続ける者であらせてください。

どうか貧しい人々が食べて満ち足り、主を求める人々が主を賛美しますように。彼らの心がいつまでも生きますように。地の果てのすべての者が 思い起こし、主に帰ってきますように。

主イエス・キリストの御名によって祈ります。」

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