2022-04-10 三度の否定

2022年 4月 10日 礼拝 聖書:ルカ22:54-62

 今関わっている人たちには知られたくない過去の失敗、やらかし経験を「黒歴史」と言うことがあります。歴史的な忌まわしい記憶だけでなく、個人の人生にも、忘れたいこと、人に知られたくないこと、なかったことにしたい経験というものはあります。必ずしも自分の引き起こしたことだけでなく、酷い目にあわされたこともあるでしょう。

今日開いている箇所には使徒ペテロにとっての黒歴史とも言える有名な出来事が描かれます。印象的な出来事で、人によってはペテロと聞けばこの箇所を思い出す人がいるかもしれません。

このペテロの裏切りは、実は、イエス様の十字架刑にはこれっぽっちも影響していません。彼がイエス様の弟子であることを認めようが認めまいが、どっちでも本筋には関係なかったのです。しかし、ルカはイエス様の受難物語の重要な部分としてこの場面を描きました。ルカの時代、もちろんペテロも存命ですし、彼はよく調べて福音書を書いたと言いますから、直接インタビューしたかも知れません。それでもこの黒歴史を当時の教会のクリスチャンたちが読むべき物語として書くよう導いた神様の意図があるはずです。

今週は受難週となりますので、イエス様の受難の時にペテロが犯してしまった失敗から私たちは何を学ぶべきか、ご一緒に考えていきたいと思います。

1.決意と恐れ

第一にペテロの強い決意と恐れという、相反する心の動きがこれ以上ないくらいはっきりと描かれています。

ペテロはイエス様がまもなく祭司長たちに捕らわれると聞かされた時、絶対にそんなことはさせない。たとえ自分のいのちが奪われようともイエス様についていくという、強い覚悟を示しました。その腰には最後まで抵抗するためにと用意した短刀がありました。

しかし、それからほんの数時間後、裏切り者のイスカリオテのユダに導かれた祭司長の手下たちが現れ、イエス様が無抵抗で捕らわれると、ペテロも他の弟子たちもイエス様を捨てて蜘蛛の子を散らすように逃げていったのです。

イエス様はペテロに対して「今日、鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしを知らないと言います」と予告しました。

しかしルカはイエス様逮捕の場面で弟子たちが逃げ出したことには触れず、いきなり大祭司の家での取り調べの場面に読者を導きます。ペテロは、一度は逃げ出したものの、おそらくイエス様のことが心配で結局舞い戻り、こっそり後を付けていったということなのでしょう。そういうペテロのイエス様を慕う人間的な気持ちはあっても、彼を捕らえた恐れから逃れることは出来ませんでした。

大祭司は回廊で囲まれた中庭のある立派な家に住んでいました。ただの住居というだけでなく、様々な会合を開いて多くの人を迎えることができる、首相官邸のような大きな家だったわけです。

人々は、家の奥で行われている取り調べがされている間、中庭で焚き火を焚いて次の動きが分かるまで座り込んでお喋りしながら待っていたました。ペテロもそこに紛れ込みました。

そこに三人の人々が次々と通りかかり、ペテロに声を掛けていきます。みな一様にペテロがイエス様と一緒にいたと言います。

召使いの女と別の男が、焚き火の明かりに照らされたペテロの顔をじっと見て、確信をもって周りの人たちに言いました。「この人も、イエスと一緒にいました」「あなたも彼らの仲間だ」。

ペテロは「知らない」「いや、違う」と否定しますが、それから1時間後、三人目の人は「強く主張した」とあります。絶対間違えるはずがない、そんな確信を強く持ったのはペテロのガリラヤなまりからでした。ヨハネの福音書によれば、最後の人は大祭司のしもべで、イエス様が捕らえられる時にペテロが立ち向かって耳を切り落としてしまった人の親類ということです。だから彼は強い確信を持って、おそらく責めるような口調で指摘したのだと思います。

それでもペテロは「何のことかわからない」と言って三度目の否定をします。すると、ペテロの発言が終わるまえに鶏が鳴き始めました。勝手な想像ですが、まるでスローモーションのように鶏の鳴き声が長く響く中で、イエス様の言葉を思い出しつつ、自分がまさにその通りのことをしているということをはっきり意識しながら、「あなたの言っていることはわからない」と最後まで言い切ってしまったのでしょう。

あれほどの強い決意を示し、実際、イエス様を捕らえに来た人たちに立ち向かっていく勇気さえ示したのに、武器ももたない女中やしもべたちを恐れてイエス様を否定してしまう、そんなペテロの矛盾した心と態度は、決して理解不可能なことではなく、むしろ誰にでも身に覚えのありそうな人間の残念な姿です。

2.使徒時代の教会

第二に、ペテロの姿は教会やクリスチャンの現実を映し出す鏡であるということです。

神様が医者でありパウロの同労者であったルカを通して教会に語ろうとしていることがありました。ルカはテオピロという一人の人物を念頭に、福音書と使徒の働きの二巻一セットで書きました。ルカが聖霊に導かれてやろうとしたことは、教会が宣べ伝えている福音がちゃんとイエス・キリストに根ざしたものであることを確信させ、イエス様が教会を通してどのように神の御国を広げようとしておられるかを明らかにすることです。

そのような意図があって福音書を書く中で、ペテロの黒歴史を書かなければならなかったのはなぜでしょう。

当時の教会の指導的な役割を果たしていたペテロの失敗を暴き、貶めるためではありませんでした。むしろ、ペテロの経験は、強大なローマ社会の中でちっぽけな存在でしかないクリスチャンたちが経験する様々なプレッシャーと重なるところがあったのです。

使徒の働きを見ると、エルサレムから始まった教会が世界に拡がっていく時、そこには絶えず反対する勢力があり、その中で苦闘しながら福音が宣べ伝えられ、クリスチャンが誕生し、その群である教会が築き上げられていったことが分かります。

またその時代にパウロを始めとする使徒たちが教会に向けて書いたほとんど全ての手紙を通して、教会が直面する苦難、迫害、プレッシャーがあったことが分かります。

初期の教会がそうやって絶えず励まされ、慰められる必要があったのは、そうしたプレッシャーの中で勇敢に立ち向かい、信仰による勝利するというのが、必ずしもいつものパターンというわけではなかったからです。

確かに迫害を通して教会は強められ、拡がっていった面はあります。しかし、上手くいったことだけでなく「お前もクリスチャンなのか」「イエスの弟子なのか」「教会の仲間なのか」と問われるときに、ペテロのように恐れが先立って否定してしまったり、口ごもったり、逃げ出したりするということが少なからずあったのではないかと思われるのです。少なくとも、そのような誘惑にかられ、弱さを感じ、勇敢さというより、びびりながら生きていることがあるというのは同じ人間として、起こり得る、ごく普通の姿です。

実際、教会に宛てて書かれた手紙や福音書には、イエス様の言葉として、また使徒たちから励ましの言葉として、主が共におられるから恐れるな、勇気を持ちなさいといった言葉が繰り返されています。

ペテロがどんなに強い気持ちを持って決意しても、恐れによって簡単に揺らいでしまったように、私たちの信仰が揺らぎ、勇気が消え失せ、恐れに捕らわれて、実際にイエス様を知らないと言ってしまう。そういうことがあるのが私たちの現実です。それはイエス様もよく分かっていました。

しかし大事なことは、福音書が示すのはそういう人間の弱さをあばくことではありません。そういう弱さのある弟子たち、私たちクリスチャンに対してイエス様が大きな心で理解を示し、さばくのではなくむしろ赦し、慰め、もう一度立ちあがらせてくださることにこそ注目しているのです。

3.恐れを越える主の恵み

そういうわけで、第三に、主の恵みは私たち人間の恐れを越えていき、おおってくださいます。

主の恵みの素晴らしさ、恵みの恵みたるゆえんは、人が恐れて失敗してしまったから「もう仕方がないなあ」とやむを得ず対応したようなものではなく、ペテロがイエス様を知らないと言うことを承知の上で、先に差し伸べられたものだというところにあります。

ページを一枚めくっていただき、22:25あたりをみていただきましょう。ここも最後の晩餐の席でのやりとりです。

弟子たちはこの期に及んでもまだ、誰が一番偉いかという議論をしていました。それは弟子たちの中で裏切る者がある、というイエス様の予告によって火がついた話しです。そんな弟子たちに、イエス様は人の上に立ちたいと思うなら仕える者になりなさいという戒めとともに、イエス様は弟子たちにこの地上における権威を授けるとも言われます。

それがペテロの心に何かを引き起こしたのか分かりませんが、イエス様はまさにその直後、31節で「シモン、シモン。見なさい。サタンがあなたがたを麦のようにふるいにかけることを願って、聞き届けられました。」と驚くようなことをおっしゃいます。

ペテロはびっくりしたいに違いありません。麦をふるいにかけるというのは、脱穀したあとの麦を目の粗いふるいにかけて麦の実と殻をより分けることです。必要なものは残り、カスはふるい落とされるのです。天の上での具体的なやりとりは記されていませんが、サタンは神様に対してヨブのことで挑戦したように、「ペテロの信仰も勇気も忠実さも見せかけものに違いない。私に試させてみなさい。そうすればペテロの正体を暴いてみせるから。」と挑戦したのです。

しかし神様はその挑戦に受けて立ちました。ヨブにはそのことが告げられませんでしたが、ペテロには告げられました。

そしてイエス様は続けてこう語りかけます。32節。「しかし、わたしはあなたのために、あなたの信仰がなくならないように祈りました。ですから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」

ペテロとヨブの状況は異なります。ヨブは分けも分からない中で突然試練に放り込まれ、どうして良いか分からずただただ神に訴え嘆きました。しかしペテロのためにあらかじめ語り、イエス様ご自身が執り成し、力を与え、立ち直らせようとしてくださり、そのうえ、イエス様を裏切るという黒歴史を抱えてもなお、他の人たちを励まし、慰める者にしようとしておられるのです。

イエス様はペテロが失敗することをご存じでした。神だからというだけでなく、人として三年半、日夜共に過ごして来た仲です。ペテロの人となり、強さと弱さをちゃんと分かっていました。その上で、彼が立ち直り、そこから主の恵みと憐れみを学び、慰める者になってくれると信じて務めを委ねたのです。

確かにペテロはこの後、これまで見て来たように、この試練で失敗します。恐れに負け、イエス様が予告したとおりに「イエス様を知らない」と言ってしまいます。けれども彼はちゃんと立ち直り、仲間たちのリーダーとなり、迫害の中にあったクリスチャンたちに慰めの手紙を書き送る者となっていくのです。

適用:弱さを越えて

ペテロがどのようにして立ち直っていったかは次週のイースター礼拝で見ていきます。今日はペテロの黒歴史が記された意図から、私たちにどんなことが語られているかを最後に考えてみましょう。

ペテロの失敗を書き記すようルカを導いた神様は、私たちが信仰の試練に直面したときにどうすれば失敗しないかを教えようとしたのではありません。信仰が強ければ失敗しない、誘惑に負けないなんてことはないのです。失敗する私たちをどのように受け止め、その上でなお用いようとしてくださることを教えようとしておられるのです。残念ながら観たことはありませんが、「私、失敗しませんから」という決め台詞の医者のドラマがありました。私たちの場合は「私、失敗しますから」です。それでも主は私たちを赦し、慰め、立ち直らせてくださいます。そして、人を力づける者にさえしてくださいますし、そうなって欲しいと願っておられます。

イエス様がペテロに言った通り、私たちは他の人々を励まし、慰め、力づける者になるでしょうが、その前に失敗し、挫折を味わい、打ちのめされる者なのです。そして主の恵みと愛の大きさを知り、人を力づける者となるために、その挫折から立ち直るという経験が必要です。

何度かお話していることなので、覚えておられる方もいると思いますが、私の子ども時代の話しをしたいと思います。それは私にとっての黒歴史です。小学生のとき、学校の校長先生が急死されました。今では考えられませんが、小学校の体育館に大きな仏壇が築かれ、何人ものお坊さんが呼ばれて大きな葬儀が行われました。学校の先生がたはじめ、子どもたちも順番に前に出て焼香をするという流れになりました。その時、小さいながらも自分はクリスチャンだと思っていた私は、それはすべきではないとすぐに分かりました。しかし圧倒的な雰囲気の中で周りの友達や先生方と違うように振る舞うことは出来ませんでした。心臓が飛び出しそうになるくらいバクバクしながら、恥ずかしさと惨めさを感じながら、そそくさと焼香をして自分の席に戻っていきました。ペテロの物語を読むたびにあの出来事を思い出します。人によっては、焼香なんて日本の文化にすぎず、儀礼的なものだから気にしなくていいという人もいます。けれどもポイントはそこではありません。私にとって、その行為がイエス様への信仰を自ら否定するものとして自分が感じていたのに、そうしてしまったということです。現代の踏み絵のようなものです。

もちろん、人によってはこういう失敗はしないかもしれません。人それぞれ、弱さのポイントは違います。大事なのはどんな種類の弱さがあるか、どれくらいの失敗をしたかではなく、そこから自分の弱さとともに、それを越える主の愛と恵みに気づかされるかです。弱さを認めず、いろいろと理屈をこねては否定し続けるなら、自分がへりくだることを学べないだけでなく、他人の弱さも認めることができず、受け入れることのできない者になります。また、主の愛と恵みに気づけなければ、いつまでも恥と後悔の中に捕らわれたままになり、確信をもって誰かを励ましたり慰めたりすることはできなくなります。

これから先も、弱さゆえに、恐れゆえに失敗し、信仰においてつまずくことがあるでしょう。その時、がっかりし、打ちのめされるでしょう。「しかたがない」とへらへら笑ってすませず、落ち込むべきです。それだけのことをしてしまったのですから。しかし、同時にイエス様が「わたしはあなたのために、あなたの信仰がなくならないように祈りました。ですから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」と自分にも語りかけておられることを思い出しましょう。そしてその経験によって、人に優しく寛容で慰め深い者とさせていただきましょう。

祈り

「天の父なる神様。受難週の始まる日曜の朝、ペテロの経験を通して私たちに語りかけ、教えてくださりありがとうございます。

私たちはそれぞれに弱さがあり、恐れがあります。どうか、そのような経験を通して、自らの弱さを深く知ってへりくだる者としてください。それ以上に大きな愛と恵みを注いでくださる主によって慰めと助けをいただけますように。そしていつの日か、人を思いやり力づける者となることができるようにしてください。

主イエス様の御名によって祈ります。」

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