2022-06-19 神への口ごたえ

2022年 6月 19日 礼拝 聖書:マラキ4:1-6

 上下二巻に分かれている物語は長いですけれど、読み応えがあります。上巻の終わりは、物語の小さなクライマックスとなりますが、次の下巻に続く物語への期待をいだかせるような場面やセリフで締めくくられます。次はどうなるだろう、あの謎はどのように解かれるのだろう、あの登場人物の運命はどうなるのか。前編と後編に分かれている映画にもそういう面があります。映画の場合はとくに何ヶ月も、時には一年をおいて後編が上映されます。そのようなワクワクがあるとき、上巻だけ読んで終わるということはありません。逆に、下巻から読み始める人はまずいません。そんなことをしたら、上巻を読んでいないと分からない登場人物や背景となっている出来事に気づけず、物語の世界に入り込むことができません。

聖書全体は、旧約聖書という上巻と新約聖書という下巻からなる一続きの物語です。もちろん物語といっても神話や空想物語ではなく、歴史の中で確かに神様が語りかけ、働きかけ、それらに人々が応答した物語です。

創世記から始まった長い長い上巻である旧約聖書は場面としては天地創造の時から紀元前400年ごろまでを描いています。その締めくくりであるマラキ書を今日はご一緒に見ていきます。新約聖書につながる旧約最後の書物らしく、ここには緊張と未来への期待が詰まっています。そして内容の大半が神への口ごたえです。

1.期待と現実

第一にマラキ書は期待と現実の間で歩むべき道を見失っていた民に語られました。

預言者マラキの時代は、紀元前400年~450年頃とされます。イスラエルの民が捕囚の地からエルサレムに帰還して100年くらいたっていました。正確な年代は分かっていませんが、ひょっとしたらネヘミヤによる城壁再建工事の前だったかもしれません。

マラキの時代から遡ること数十年前、バビロン捕囚となって約70年後に支配者はバビロン帝国からペルシャに変わりました。そのとき人々はエルサレムに帰って神殿を再建するというワクワクするような仕事を始めました。

ところが邪魔が入って工事が進まず、諦めムードが漂っているところで預言者ハガイやゼカリヤが彼らを激励し、当時の指導者であった総督ゼルバベルと大祭司ヨシュアのリーダーシップにより神殿はついに再建されます。

それから数十年。イスラエルの民はいよいよ神様が約束された新しい王による新しい王国が築かれ、待ち望んだ生活が到来すると期待しました。しかし、思い描いたような新しい王国、メシヤによる救いが実現しているようには思えませんでした。人々の生活は相変わらず苦しく、国の独立も果たされず、世の中は道徳的にも乱れ、再び偶像礼拝が持ち込まれていました。

私たちもクリスチャンとなって、約束された平安と喜びに満ちた生活。神様がそばちかくいてくださっていつも私たちの祈りを聞き、私たちも日々新たに変えられていくそんな生活を期待していたかもしれません。しかしほどなくそう簡単ではないことを思い知らされます。そのような時に、私たちならどんな反応を示すでしょうか。

高校を卒業してデザインの勉強をするために仙台に行くことを決めた時、学校案内に掲載された写真や愉しそうに学ぶ学生たちの姿にワクワクしました。が、実際に行ってみると写真には写っていない現実があることに気づきます。何のためにやっているのか分からない授業もあったし、課題の多さに寝る間も惜しんでがんばらなければならない、学食は美味しかったですが、地下でちょっとジメジメした感じがありました。まあ、でも受け入れ、楽しめば得ることも多かったですし、何より今の妻と出会う場ともなりました。

そうしたことは誰でも経験し得ることです。多少不満はあってもその現実を受け入れ慣れていけば愉しくやっていけますし得るものも多いものです。ところが、こと信仰に関しては「話が違うじゃないか」と簡単には受け入れられないことがあります。

イスラエルの民は、そのような現実の中で神様に文句を言い、背を向け、再び心を頑なにしてしまいました。神様がああ言えば民はこう言う、そんなやりとりがマラキ書には記されています。

イスラエルの民が知らなければならない二つの面が預言者マラキによって教えられています。それは、今日の私たちにとっても大事な教えです。

一つ目は、約束と違うじゃないかといって口答えし好き勝手な歩みをすることが受け取れるはずの祝福さえ逃してしまうということ。もう一つは、神様が約束しておられることについて、私たちが誤解しているところがあるということです。

2.神への口答え

第二に、マラキ書では神様の愛と民の口答えが何度も繰り返されます。それによって、口答えし好き勝手な歩みをすることが受け取れるはずの祝福さえ逃してしまう現実を描き出しています。

1章から3章まで、神様がお示しになる愛や語りかけに反抗的な民の口答えが繰り返され、それぞれに神様が根気強くお答えになっています。そんなやり取りが6回繰り返されています。それらを見ていくと、どこかで聞いたような、また思い当たる節のあるやりとりだと気づかされます。

まず、1:2で主は言われました「わたしはあなたがたを愛している」。これに対して民は答えます「どのように、あなたは私たちを愛してくださったのですか」。自分たちの暮らしの中に愛されていることを証明するような良い目を見せられていないという不満があるのかもしれません。主は「あなたがたを選んでわたしの民としたことで、それが分からないのか?」とお応えになります。

次に1:6で「どこに、わたしへの恐れがあるのか」と問います。神さまを軽んじているのではないかという非難です。これに対して民は「どのようにして、あなたの名を蔑みましたか」と口答えします。口では神様を主とし、礼拝を捧げてはいたかもしれませんが、彼らのささげる礼拝とささげものは吟味されておらず、心のこもったものではなく、適当なものをいい加減な気持ちで捧げるものになり、祭司たちもそれを見過ごし、助長していました。

さらに2:10~16で、神様はイスラエルの民が唯一の神を裏切り、自分たちの妻を裏切っていると非難します。人間の現実の生活の中では結婚関係が破綻し続かないことはあるでしょう。しかし、彼らは正当な理由もなく、ただ新しい妻を欲しがって裏切り、しかもその新しい妻が持ち込む偶像礼拝にまで心を寄せて行きました。愛と誠実さを誓ったはずの神様と妻をどちらも裏切ってしまっていたのです。

2:17では「あなたがたは、自分のことばで主を疲れさせた」と言われ、民は「どのようにして、私たちが疲れさせたのか」と応えます。彼らは自分たちのことは棚にあげて、この世界に神の正義が見られない、神は何をしているのかと文句を言っていました。しかしもちろん、神様にはすべての悪をさばく主の日を備えておられます。

3:7では「わたしに帰れ。そうすれば、わたしもあなたがたに帰る」と主は言われますが、この期に及んでも「どのようにして、私たちは帰ろうか」と反抗します。神様があげたのは一つの例として、神殿を支えるための十分の一のささげ物をちゃんとしなさい。それを怠ることは神のものを盗むことだと応えます。ささげ物を惜しむことで、受け取れるはずの祝福と豊かさを受け取り損ねてしまいました。神様はあふれるばかりの祝福を注ぐかどうか「わたしを試してみよ」とさえ言われます。

そして最後、3:13で神様は民の「ことばは、わたしに対して度を超している」と非難します。彼らは「私たちが何と言ったというのですか」と口答えします。彼らは、神様に従っても無駄だ。何もいいことがない。悪いことをしてたって良い思いをするやつはいるじゃないかと言い合っているのです。

いかがでしょうか。何か思い当たるところがあるでしょうか。

3.希望といやし

第三に、神様は最後にもういちど希望といやしを告げます。自分たちの不幸を神様のせいにして文句を垂れるイスラエルの民に対して、改めて希望を告げるのですが、これが彼らの誤解を正す内容になっています。

旧約最後のまとめの言葉は4:1の「見よ、その日が来る」で始まります。人々は、捕囚からエルサレムに帰って来ることで神の約束が果たされるものと思っていたかも知れませんが、「その日」はもう少し未来にありました。

「かまどのように燃えながら」。最近、かまどを見ることは滅多にありませんが、私は焚き火が好きで、たまに焚き火をしに出かけます。やたらに火を焚くわけにはいかないので、焚き火台を使うのですが、昔のカマドを思い起こさせるような作りのものもあります。大きな口があいたところから薪やその辺で拾った木の枝をポキポキ折って放り込むと小さくてもかなりの勢いで燃えます。

焚き火は癒やし効果がありますが、マラキ書の告げるかまどは癒やし効果ではなく、すべての悪と悪を行う者への裁きを象徴します。ごうごう燃える火の中に放り込まれるなんて考えるだけで恐ろしいです。

しかし「あなたがた、主の名を恐れる者」、つまり神様を神として敬い、神の前にへりくだる者にとってその日は「義の太陽が昇る日」です。ここでマラキは彼の時代のイスラエルの民も含めて「あなたがた、主の名を恐れる者」としています。

実際にこの預言が成就するのは、マラキ書からページをめくって、次の新約聖書の時代になります。約束の救い主がお生まれになるまでに、およそ400年の空白期間があります。しかし、この約束といやしの希望は、「今はまだその時ではない」そんな時代を生きる人々にとっても希望であり続け、主を待ち望む信仰を励まし続けたということです。悪者どもを踏みつけるというような、ちょっと現代人の感覚からは「うーん」と思うような表現もありますが、これらは悪者どもに踏みにじられ忍耐していた人々との逆転劇をイメージさせるものです。イエス様が「後の者が先になり、先の者が後になる」と言われたり「高ぶる者が低くされ、虐げられた者が高くされる」とおっしゃったりするのと同じことを行っています。決して私たちが正義の側に立ち、それ以外の人たちを迫害したり、苦しめていいという話しではありません。約束の中心は、罪と悪の力の前で打ちのめされ、苦しんでいた人々のうえに義の太陽が昇るとき、いやしがあり、子牛のように跳ね回るという、回復と喜びを約束しているのです。

そして、この希望に基づいて4~6節で最後の勧めが語られます。この三つの節にはモーセとエリヤの名前が出て来ます。

モーセは律法を代表する人であり、エリヤは預言者を代表します。新しい時代には、新しいモーセ、新しいエリヤが登場します。それまでの間、律法と預言者、つまり聖書を大切にし、そのことばに聞くようにと教えているのです。そして私たちはこの預言が、新しいモーセとして登場する救い主イエス様と、その先触れとして荒野で叫ぶバプテスマのヨハネとして成就することを知っています。

こうして創世記から始まった神様の救いの物前編は、いよいよ救い主到来がそこまで来ているというところで一旦閉じられます。

適用 太陽が昇る日

マラキ書が告げる「義の太陽」はすでに昇りました。神である方が人としてお生まれくださったイエス・キリストです。マラキが告げた「その日」はすでに来ています。

イエス様は新しいモーセの歩みを辿るかのように、40日の荒野での断食の後に試みを受けてその働きを始めました。何度も何度も民のために神に執り成しの祈りを捧げ、自分のいのちを差し出しても良いと神に訴えたモーセのようにご自身のいのちを代価に私たちの罪を贖ってくださり、取りなしてくださいました。海を渡ったモーセのように、湖を渡りました。そしてシナイ山で神との契約を結び律法をもたらしように、イエス様は新しい契約を結び、新しい戒めを与えてくださいました。

一方で、この世界にも私たちの心にも悪や罪はまだ残っています。そのせいで私たちの心や生活には暗い影が差し、間違ったことをしてしまったり、心に迷いや悩みがあふれて来たりして、心の平安と喜びは失われ、人間関係や生活、果ては国際的な大問題にさえも発展してしまいます。どれだけ多くの問題が、一握りの権力者や経営者の強欲な判断で引き起こされているでしょうか。そして、そういう問題を知ってか知らずか、それらの恩恵に与っている私たちもその責任に一部を負っています。

しかしながら、イエス様の十字架によって私たちの罪は赦され、新しい歩みへと招かれました。そこに私たちの喜びがあり、欠けや間違いがあっても揺るぎない赦しのゆえに平安を得ることができます。すべては与えられていますが、今すべてを持っているわけではないという、ある種緊張の中にあります。

ですから、マラキの最後の勧めはすでに成就した言葉でありながら、今なお私たちに語りかけている言葉として耳を傾けるべき言葉なのです。

私たちは今なお、聖書のことばに耳を傾け、主イエス様の教えと戒め従うべきです。神を愛し、隣人を愛し、互いに愛し合う者となっていきましょう。そして主の前にへりくだり、悔い改めよいう呼びかけに応えて、自分の弱さや足りなさを認め、主の赦しと聖霊の助けを心から求めましょう。

私たちの心の中には、今なお、こうした聖書を通して語りかけてくださる神様に口ごたえしてしまう面があるかも知れません。マラキ書で描かれていた6つの口論、神様は本当に私を愛しているのか、私がいったいどうやって神を軽んじているというのか、神様は何もしてくれない、神様に従ったって良いことがない、そんなことをつぶやいたり、心の中で密かに言いつのったりするかも知れません。心に刺さるみことばがあっても、ぐずぐずと応答するのをしぶり、時に反発する。そんなときに、私たちの心に何があるでしょうか。

しかし神様はそのような私たちを愛してくださり、子としてくださいました。神様の救いのご計画が最終的に完成するとき、私たちはイエス様に似た者に変えられますが、それまでの歩みはこれからも紆余曲折。曲がりくねった山道を揺さぶられながら上り続けるようなものです。しかし、私たちには歩むべき道を示してくださる方がおられ、みことばがあります。信じて歩んでいきましょう。

祈り

「天の父なる神様。

一昨年の10月からおよそ1年半かけて、創世記から始まりマラキ書に至るまでの、大きな流れをともに辿ってきました。読み慣れない書物もあり、分かりにくいところもありましたが、神様が私たちを愛しておられ、救いを与えようとしてくださっていることははっきり分かります。そして人間がいかに頑なで、反抗的であるか。それでもなおあきらめない神様の深い愛と恵みを心から感謝します。

マラキ書を通して預言された義の太陽はすでに上っています。しかし、今なお私たちの心には神様に口ごたえし、心が固くなってしまう面があることも分かっています。

この地上で受け取る分としてあなたが備えてくださった良きものを味わい、楽しむことができるように、あなたのみことばによって私たちを導き教えてください。あなたの前にへりくだることを教えてくださり、悔い改める心を与えてください。

私たちの主イエス様のお名前によって祈ります。」

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