2022-07-03 守る翼から迷い出た者を

2022年 7月 3日 礼拝 聖書:申命記32:10-12

 子どもの頃、大自然の中の動物の生態を追いかけるドキュメンタリー番組があり、好きで良く見ていました。

生まれたばかりのライオンの赤ちゃんなんかが、親の保護のもとですくすく育って行くのですが、大抵ひやっとする場面が出て来ます。百獣の王ライオンの子であっても、小さいうちは無力です。親が目を離したり、エサを獲りに行っている間に子どもたちが安全な巣を這い出してジャッカルに見つかり追いかけられます。

自然の営みですから、そのまま天敵の餌食になってしまう場合もありますし、運良く逃げられたり、親が危険を察知して立ち向かい守られるなんて場面もあり、はらはらしながら見ていました。

聖書は、大自然の中での野生動物の厳しい命のやり取りの中で子どもを守ろうとする姿を「生存本能」とか「種の保存」なんてつまらない言い方で終わらせないで、神が私たち人間を守り導こうとする愛のたとえとして用います。

今年度、私たちは「主の回復の年」という主題を掲げ、月一度はこの主題にちなんだテーマでみことばに聞いています。今日はアダムとエバの時以来、神に背を向け、神様の保護を失ってしまった人間のために神様がどのように取り戻し、また保護し導いてくださるのかを申命記の有名なみことばから学んでいきたいと思います。

1.主の御顔を避けた者たち

まずはじめに、エデンの園以来、人間は何を失ったのかに立ち戻らねばなりません。申命記は出エジプトからカナンの地を目指すイスラエルの民に向けて書かれたものですが、そのメッセージはすべての人類が共通して抱える問題を取り扱うものです。

皆さんご存じのとおり、聖書の一番はじめは天地創造とエデンの園を舞台にした最初の人、アダムとエバの物語から始まります。

覚えておられるでしょうか。アダムとエバが禁じられた木の実を食べたときに最初に何が起こったか。

「ふたりの目は開かれ、自分たちが裸であることを知った。そこで彼らは、いちじくの葉をつづり合わせて、自分たちのために腰の覆いを作った」(創世記4:7)「…人とその妻は、神である種の御顔を避けて、園の木の間に身を隠した。」(4:8)

神に背いたときに起こった変化は、へびがほのめかしたような素晴らしい経験ではありませんでした。裸であることに気づいて腰の覆いを作ったということを、恥ずかしさ、羞恥心というふうに解釈する人もいますが、私はむしろ人間の無防備さやもろさ、弱さに気づいてしまったというふうに理解します。彼らは自分たちがどれほど無防備で弱いか。ただ神によって守られていたことを知り、今やそれを失ってしまったことを知りました。そして赦しや助けを求めるのではなく、神様から目をそらし、隠れてしまったのです。

自分たちを守ってくれるものを突然失ってしまったので、代わりに何かで自分たちを守らなければならなくなりました。その恥であれ、無防備さであれ、それを覆い守ってくださるよう神様に素直に願えば良いのですが、罪を犯した直後ですからそれが出来ないのです。だから神の代わりに葉っぱに頼りました。ある意味いちじくの葉っぱで作った「服もどき」は人類最初の偶像でした。

皆さんも経験あるのではないでしょうか。何かしら心にやましいことがあると、いつもなら自然に求めることができる助けを素直に求められません。頼みたいことがあっても「お願いします」と言うことがなかなかできない。それで自分で何とかしようと無理をしてもっと酷い結果になってしまうのです。

神様は後にアダムとエバをエデンの園から追放しなければならなくなりますが、その前に二人のために動物の皮で作った服を与えます。動物のいのちを犠牲にして人の罪の結果を覆うというその行為は、神の保護と導きを失ってしまった人類に神様がこれからなそうとしている壮大な救いと回復の物語がどんなものであるかのヒントでもあり、罪の報いを受けて苦しみを背負うことになった人間をなおも見捨てないという神様の愛のしるしでもありました。

神様の御顔を避けてしまい、神様の守りと導きを失った人間がどれほどの危険にさらされてしまったでしょうか。大自然の猛威にさらされるということもありますが、一番は、私たちのうちにある罪の力に対して本当に無防備になってしまったということです。ローマ1章には神に背を向けた人類について、神様は「彼らをその心の欲望のままに汚れに引き渡された」「彼らを恥ずべき情欲に引き渡された」「彼らを無価値な思いに引き渡された」と記して、実際どんな罪の力に無防備にさらされ、その影響をもろに受け、永遠の滅びに向かっているかを明らかにしています。親ライオンの目と安全な巣を離れ、恐ろしいジャッカルに付け狙われているのです。

2.荒野で見出された民

第二、守ってくださる方の手から離れてしまっていた人々を主は見つけ出し、救い出してくださいました。

10節と11節でモーセはこう記しています。「主は荒野の地で、荒涼とした荒れ地で彼を見つけ、これを抱き、世話をし、ご自分の瞳のように守られた。鷲が巣のひなを呼び覚まし、そのひなの上を覆い、翼を広げてこれを取り、羽に乗せて行くように。」

これは具体的にはエジプトで奴隷となっていたイスラエルの民を脱出させ、過酷な荒野の40年におよぶ旅の間、彼らを守り導いてくださったことを言っています。

神様がイスラエルの民をエジプトから救い出したのは、かつて先祖アブラハムと神様が交わした約束、契約に基づいていることを彼らは知っています。そしてモーセが創世記を通して教え聞かせたとうに、その約束はさらに最初に遡ることに気づいたはずです。アダムとエバが主の御顔を避けるようになってしまった最初の堕落と、その時に示された憐れみと未来への希望に基づくものだということを、彼らは気づいたことでしょう。この申命記が記され、荒野で朗読されている時代、天地創造からアブラハムとその子孫へと続く物語の中で常に中心にあった神の救いの約束と希望の第一歩が、まさに実行に移されていたのです。そして彼らはヨルダン川の向こうに拡がる約束の地に入るための最後の旅をしているのです。

神様がイスラエルの民をどう扱ったかをたとえるために、自分の瞳を守ることや、鷲がひなを覆いまた守る様子を用いたのにはもちろん意味があります。

瞳を守るたとえは身近でわかりやすいですね。私たちはビックリしたり、危険を察知すればぱっと目を閉じたり、顔の前というか目を塞ぐように手をかざします。これはもう本能的な行動で、人間にとって目がどれほど大事なものであるか誰もが知っています。きっとイスラエルの民は荒野を旅する間、度々吹き荒れる乾燥した風でまきあがる砂埃から自分の目を守らなければならなかったでしょう。私も毎年春から秋にかけて花粉から瞳を守るのに四苦八苦します。それほど大切に守ってくださるのです。

11節の鷲のたとえは、鷲がただヒナを保護するだけでなく、自分で飛べるように励まし、助け、また危険から守る様子を描いています。実際に羽の上にヒナを乗せて飛ぶのではなく、ようやく飛ぶことを覚え始めた若い鷲の下を飛んで支え、励ます様子なんだそうです。

驚くべきことは、こんなふうにして荒野で見出し、救い出し、守り導いて来たイスラエルの民は決してかわいいヒナや愛くるしい赤ちゃんライオンのようではなかったということです。エジプトを脱出する時のモーセに対する不満や頑なな態度は、神の奇跡を目の当たりにし、そのまっただ中をくぐり抜けてきたというのに、変わりませんでした。荒野の旅の中の頑固で反抗的な態度は数週間で終わるはずの旅を40年に引き延ばしてしまいました。それでも尚、神様はこの民を瞳のように守り、鷲がそのヒナを守り励ますよう、支え導いて来られました。

そして肝心なことは、同じ愛とお取り扱いを、私たちにも向けてくださっているということです。そして私たちもまた結構頑固で迷い易いものなのですが、それでも見捨てないのです。

3.主だけが私たちの救い

第三に、主だけが私たちの救いだということを確信しましょう。

モーセがこのことを強調するのにはワケがありました。40年の荒野の旅の中で、偶像の問題はいつもついて回りました。イスラエルの民は長い間エジプトという多神教の世界で生活し、すっかり慣れ親しんでいました。先祖アブラハムやヨセフから受け継いだまことの神である主への信仰や、その約束が忘れられたわけではありませんでした。実際に、出エジプト記を見ると、奴隷として苦しみの中にあるイスラエルの民がうめき叫ぶ声を神が聞き届けてくださったとあります。

しかし彼らの信仰はアブラハムやヨセフのような神様と深く人格的に結びついたものではありませんでした。そういう未成熟な信仰ですから、海を真っ二つに分けるというような大きな奇跡を目の当たりにしても、すぐにやって来た日常的な問題、例えば食べ物が足りないとか、水が少ないとか、なんでモーセが大きな顔をしてるんだといったことが重なるとすぐに不満になり、言いがかりとも言えるような文句をモーセと神様にぶつけるようになりました。

最悪なことはイスラエルが神の民となるという契約を結び、代表としてモーセが山の上で律法を受け取っているその時に起こりました。留守を預かっていた兄アロンとイスラエルの民は金の子牛の像を作って、これが自分たちの神だと言い始めるのです。

荒野の旅を続けている最中も、度々他の民族との接触があり、その交流の中で外国の宗教、異教の神々の忌まわしい習慣が取り込まれたりしました。

そして、モーセの旅はここで終わり、これから次の指導者によってヨルダン川の向こうに拡がる約束の地へ向かっていくのですが、そこはカナン人の神々が人々の生活と文化に根強く結びついている世界でした。

ですからモーセは、あなたがたをエジプトで苦しんでいるのを見つけ、救い出、長い荒野の旅路の中で瞳のように守り、ヒナのように見守り励まし、導いてきたのは、ただ主だけだったのだと強く、強く、強調しておきたかったのです。

今日の私たちの歩みの中でも、いろいろと私たちを支えてくれるもの、助けてくれるものはあります。薬は痛みや不安を和らげてくれるでしょう。保険や年金がもしもの時の安心になり、日々の生活の必要を助けてくれることでしょう。遠くにいる親戚より、近くにいる親友が支えになるかもしれない。音楽や小説、映画、様々なアートが私たちの心を豊かにしたり、慰め勇気を与えてくれるかも知れません。夕べ、自分の青春時代を象徴するようなバンドの40年前のライブ映像がテレビで放送されました。ワクワクし、感傷に浸り感動しました。そういうのは素敵な経験です。が、それらは私たちの本当の問題から救い出してくれるものではありません。いちじくの葉っぱで服を作っても守ってはくれないのです。

私たちの人生という荒野にうごめくジャッカルは、痛みや不安、喜びや楽しみ、悲しみや恐れそのものではありません。それらを利用して私たちを死に縛り付け、神の御顔を避けて生きようとさせる罪の力です。それから救い出し、守り、導くのはただ主だけです。それが分かっていれば、いちじくの葉っぱも私たちの心と生活を豊かにし、幸せをもたらしてくれるでしょう。

適用:御翼の陰に

さて、今日は主の回復のご計画の一つの面として、主の御顔を避けて守ってくださる主の翼から迷い出てしまった人間を神様が再び連れ戻し、その御翼の陰に覆ってくださることを学びました。

神様が私たちを守るのは、完全に回りからシャットアウトし、壊れやすいものを安全な場所にそっと保管するような目的ではありません。ですから、現実の世界で私たちは様々な苦難や悲しみにさらされます。なかなか治らない病気があり、気をつけていてもどこからか近づいてくるウイルスがいます。一生懸命働いても、どこかで始まった戦争のために経済がおかしくなり給料は上がらず物価は高騰し、生活が苦しくなったりもします。

けれどもそれらは私たちに忍び寄る本質的な危険ではありません。私たちがそのような中で苛立ちや怒り、悲しみに囚われ、人を疑い、見下し、差別し、攻撃し、あるいは自分を必要以上に責め、後悔や迷いの中に留まり続け、希望を投げ捨ててしまう、そんなふうに誘惑する罪の力こそが問題です。

そしてより大きな問題は、そのような罪の力にさらされているときに、自分たちがいかに無防備で弱いかに気づかなかったり、気づいても神の御顔を避けてしまうことがあるということです。

アダムやエバのように、神に背いたと自分で気づいて、何とか挽回しようともがいているのかもしれないし、イスラエルの民のように心が頑なになっているのかも知れません。

理由はともかく、そうやって神様の御顔を避けているかぎり、私たちは自分の無防備なところを隠すために色んな事をします。何か気を紛らわすことに没頭するかもしれないし、自分は大丈夫なんだと納得させるために過去の成功や人からの称賛を求めるかも知れません。しかし、そんなものはやはりいちじくの葉っぱで作った服もどきに過ぎません。そしてそれは新たな偶像を作ることです。

神様はそのような罪から私たちを救い出し、新しい天の故郷を目指す旅へと導いてくださいました。その旅の中、神様は私たちを御翼の陰で守り導いてくださいます。

神様はこの世界に生きる私たちが無傷で健康なまま一生を終わるようどこにも出さないで囲い込んで守るのではありません。むしろ誰の人生の終わりも傷だらけで、あちこち痛みを抱え、やっと全ての重荷を下ろせる、そんな終わり方をするのかもしれません。そんな人生の中であっても、それでも正しい望みを持ち、生き方を見失わず、行くべきところを目指して歩めるように守って導いてくださるのです。

瞳を守るのは、目を閉じ続けるためではなく、これからもよく見ることができるためです。鷲がヒナを翼の下にかくまい、よろよろ飛び始めた若い鷲を自分の翼で支えるようにするのは、いつまでも世話を焼き続けるためではなく、自分で正しく飛べるようにするためです。

神様が私たちを御翼の陰にかくまい、養い、守り、導くのは、私たちにとってのヨルダン川の向こうの約束の地、新しい天の故郷へと向かう旅路に徘徊する悪しきものたち、罪の力から私たちを守りつつ、成長させ、励まし、正しく歩んでいけるようにするためです。そして、そんな守り方、導き方をなさるのは主なる神様ただ一人だということを確信し、願い求めていきましょう。

祈り

「私たちを瞳のように守り、鷲がその雛を覆うように支え導いてくださる天の父なる神様。

イスラエルの民を荒野の中で見出し救い出してくださったように、私たちを捜し出して救い出してくださりありがとうございます。あなたは私たちをご自身の翼の下にかくまってくださいました。

それなのに、私たちは時としてあなたの御顔をさけ、守ってくださる翼の下から迷い出てしまう者です。しかも、その状態になってもなお愚かであったり、頑なであったりしてしまいます。

このような私たちですが、あなたの愛と恵みが変わりなく、私たちを連れ戻し、引き寄せてくださることを感謝します。

どうぞ、あなただけがこの罪の力から私たちを回復させ、いやすことができることを確信させ、遜った心、素直な心で求めさせてください。

主イエス・キリストの御名によって祈ります。」

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