2022-07-10 ともにおられる神

2022年 7月 10日 礼拝 聖書:マタイ1:18-25

 付き合いの長い友だちや、長年連れ添った夫婦でも、あるとき、全然気づかなかった一面があることを発見して驚くことがあります。家内がこんなにフラにはまるとは思いもしませんでしたし、子どものことは何でも分かっているつもりでも、予想外の趣味や興味を持っていたり、こんなことが得意だったんだ、これは苦手だったんだと気づいて驚いたり、済まないことをしたなあと申し訳ない気持ちになることもあります。

私たちにとって、主イエス様は知っているはずの方ですが、実は知らずにいることは多いかも知れません。長い間信仰生活を送って、長く聖書を学んで来ても、私は未だに発見があり、まだまだ知らないことが多いなあ、そのみこころの深さはどこまで深いのだろうかと思うことがあります。

旧約聖書を一書ずつ読むシリーズが終わり、今日からは新約聖書に移っていきます。例によって一回で一つの書を終えることができない場合もあり、二回、三回に分ける場合もあります。今日はマタイの福音書ですが、早速、前半と後半に分けます。

旧約聖書が指し示してきた神様の救いの約束が具体的にどう実現していくのか、これからどうなっていくのか、新約聖書各巻を開きながら学んでいきます。では、さっそくマタイの福音書を見ることにします。

1.ともにおられる神として

第一に、マタイの福音書はイエス様がダビデの子孫として生まれたメシヤ=キリストであることを明らかにします。そしてキリストは「私たちともにおられる神」として来られました。

マタイの福音書はイエス様の十二弟子の一人、マタイによってまとめられものです。イエス様が天に挙げられてからだいたい30年くらい経ったころに、イエス様の生涯と働き、そして教えをまとめ、整理し、一つの中心的なメッセージを伝えるために記されました。その中心的なメッセージは、イエス様こそ旧約聖書で預言され、約束されてきたメシヤ、私たちとともにおられる神なのだということです。

さて、マタイの福音書を読み始めて最初に面食らうのはやはり系図でしょう。教会に来て聖書を読みたいと言ったら、福音書から読んでみてはとアドバイスされることがありますが、しょっぱなからこの系図に読む気を削がれてしまうなんて話しは良く聞きます。

1:1にはイエス様がアブラハムとダビデの子孫として生まれたとはっきり示されます。2節から16節はそれを裏付けるための系図です。そして、これまで旧約聖書を創世記から順番に見て来た私たちは、この系図の中に、いくつの鍵となる名前と言葉を見つけることができます。

一人一人の名前には見覚え、聞き覚えのあるものもありますが大事なのは各段落の冒頭にある名前です。2節「アブラハム」、6節「ダビデ」、そして12節「バビロン捕囚」です。天地創造の時に人間が神に背を向けた時から世界に増し続ける悪のための苦しみ、そしてすべての人を縛る罪と死の力から救い出し、失ってしまった平和と喜び、祝福を取り戻させるために神はアブラハムを選び、その子孫を通して世界を祝福する契約を結びました。ダビデ王のとき、その契約は更新され、ダビデの子孫から王となる方が生まれ、その方によって新しい神の国が打ち立てられると約束されました。

しかし契約に背き続けたイスラエルの国家は滅ぼされバビロン捕囚を経験します。それでも神様は約束を捨てることなく、彼らを忘れることなく、バビロン捕囚から連れ戻し、約束は果たされる。メシヤは必ず訪れると預言者たちを通して語り、忍耐と悔い改めを呼びかけ続けたのです。

旧約聖書で時間をかけて記し、告げてこられた神様の救いのご計画と準備してきたことが、ベツレヘムで生まれ、ナザレで育ったイエスというお方に成就したのだと、マタイは筋書きを立てているわけです。

今日お読みした箇所はクリスマスの時によく読まれる箇所ですが、この箇所で意図されていることは、聖霊の力によって処女から生まれること、ベツレヘムで生まれること、国々からイエスを拝するために人々が訪ねてくることなどは、イザヤ書やミカ書のメシヤについての預言の成就であることが分かるように、旧約の引用を織り交ぜながら書いています。その中で最も重要なのは、私たちと共におられる神という意味のインマヌエルと呼ばれる預言です。メシヤはダビデの子孫であるだけでなく、私たちとともにおられる神です。どこか異次元の世界にいて触れることのできない存在ではありません。イエス様はこの世界に人として生まれ、私たちとともにおられる神なのだというのが、マタイの強調点です。

2.新しいモーセとして

第二にマタイが福音書で描いていることは、イエス様は「新しいモーセだ」ということです。

ダビデの子、人の子、神の御子などイエス様に当てられた呼び方はいくつかありますが、「新しいモーセ」というのは聞き慣れないかも知れません。

申命記18:18でモーセは荒野のイスラエルの民にこう告げます。「あなたの神、主はあなたのうちから、あなたの同胞の中から、私のような一人の預言者をあなたのために起こされる。あなたがたはその人に聞き従わなければならない。」

一見、これはモーセの後継者であるヨシュアを指しているようにも見えます。しかし申命記34:10以下にはこう記されています。「モーセのような預言者は、もう再びイスラエルには起こらなかった。彼は、主が顔と顔を合わせて選び出したのであった。それは、主が彼をエジプトの地に遣わして、ファラオとそのすべての家臣たち、およびその全土に対して、あらゆるしるしと不思議を行わせるためであり、また、モーセが全イスラエルの目の前で、あらゆる力強い権威と、あらゆる恐るべき威力をふるうためであった。」

それでマタイは、モーセが告げた、モーセのような預言者とはイエス様のことだと明らかにします。マタイの福音書に戻ります。

イエス様は生まれてすぐ両親に連れられてエジプトに逃れます。そしてマタイ2:15でホセア書の預言を引用して、出エジプトを果たしたモーセのように、エジプトから出て来たことを描きます。

さらにマタイ3章で、エジプトから戻って大きくなったイエス様はヨルダン川でバプテスマを受けます。モーセが葦の海を渡ったのと重なります。モーセが葦の海を渡った後は40年荒野を旅して試みを受けたように、イエス様はバプテスマを受けた後すぐに荒野に追いやられるようにして退き、40日断食をして過ごし、悪魔の試みを受けます。

そして荒野の試みの後、4:17でガリラヤに戻ったイエス様は約束された神の国が近づいたから悔い改めて備えなさいと宣言なさいます。イザヤの預言の成就であるとともに、繰り返されて来た新しい神の国の到来がいよいよ実現すると宣言されたのです。

それから5章から7章にかけて、イエス様はモーセが山の上で律法を民に授けたように、山の上に集まった人々に新しい神の国の教えを授けます。有名な「心の貧しい者は幸いです。」で始まる山上の説教です。

実は、マタイの福音書には大きな五つの教えの固まりがありますが、これらもモーセ五書をなぞらえるようにあえてそのような構成で記されました。

二つ目のまとまり、8章から10章には神の国が到来したことを実際の生活の様々な場面であかしするため、病人や危機的な状況にある人々を癒やし、救う奇跡をなさったことが記されます。

こうしてマタイの福音書はイエス様が約束の救い主であり、人として生まれ私たちとともにおられる神、インマヌエルであることに加え、エジプトからの救出を導いたモーセが預言した「新しいモーセ」なのだということを示しているのです。この方こそ、罪と死の奴隷となっている人々を救い出し、新しい約束の御国へと導くまことの救い主であることを描いているのです。

3.神の国が来たけれど

第三に、イエス様によって新しい神の国は到来しましたが、その宣言を聞き、イエス様の権威ある力を目撃してもなお、受け入れた人々と拒絶した人々がいたことが描かれます。

マタイの福音書の二つ目のまとまりの最後、10章でイエス様は弟子たちに権威を授け、イエス様がなさったこと、教えたことを出かけて行って同じようにあちこちの町や村でするようにとお命じになります。

その時、イエス様は大事なことを伝えます。神の国が近づいたという知らせを聞き、神の国の力が病人の癒やしや悪霊に憑かれた人の解放というような奇跡をもたらすのを見て、喜んで受け入れる人々もいるが、悔い改めず、拒絶する人もいるという現実です。

マタイの福音書の三つ目のまとまりは11章から13章です。今日は13章までの前半で終わりますが、この三つ目のまとまりの中でイエス様に対する人々のいろんな反応が描かれます。そしてそれらの反応を説明するためのいくつかの有名なたとえ話が語られます。

イエス様の周りにいた多くの群衆はイエス様を受け入れ、メシヤ=キリスト、すなわち救い主に違いないと考えはじめます。しかし態度を決めかねる人たちもいました。その代表はバプテスマのヨハネです。ヨハネはキリストの前触れとして人々を神の国に備えさせるために遣わされた人ですが、果たしてイエス様が待ち望んでいた方なのか、確信が持てずにいました。

一方、パリサイ人をはじめとする宗教家たちはイエス様を拒絶しました。人々を惑わす偽教師、神を冒涜する人物として抹殺しようと企て始めるのです。

このような人々の代表的な反応を説明するためにイエス様は「種まきのたとえ」や「からし種のたとえ」をお話になります。イエス様のみことばを聞いて受け入れるならその人は豊かな実を刈り取ることができます。拒絶すればもちろん何も得ることができません。

そしてどれほどパリサイ人たちが拒絶し、抹殺しようとも、小さな種が大きく成長するように、イエス様によってもたらされた新しい神の国は決して滅びることなく、世界中の人々に救いをもたらしながら拡がっていくのです。誰もそれを止めることはできません。

ですから、イエス様の真理を見つけたなら、真珠を見つけた商人のように何がなんでもそれを手に入れなさいと教えるのです。

確かに今日でも、はっきりと福音を聞いてもすぐに受け入れる人もいれば、態度を決めるまで時間がかかる人もいますし、拒絶する人もいます。神の国はすでにイエス様とともにこの世界にもたらされましたが、その祝福は信じた人たちにもたらされます。

マタイの福音書で神の国について教えるイエス様のことばに注目すると、後の者が先になり先の者が後になると教えられています。金持ちや宗教的指導者のような神の祝福を受けていると思われていた人達ではなく、むしろ罪人や汚れた者と見下された宗教人らしくない人たち、貧しい人たち、病や困難の中にある人たちが神の恵みを受けるということが繰り返されていることに気づきます。それを可能にするのが信仰です。救い主は、私たちのために、私たちのところに来てくださった神なのだと信じる人に、新しい神の国は訪れ、その救いの恵みと祝福がもたらされるのです。

適用:受け入れと拒絶

今日はマタイの福音書の前半、13章までで終わりにし、残りは次回見ていきたいと思います。

13章の最後はとても印象的な出来事で締めくくられます。ここにもイエス様を拒絶した人たちのことが出てきます。故郷のナザレでの出来事でした。

彼らもイエス様の力と知恵を見ていましたし聞いていました。その町でも病人が癒されるような奇跡がいくらか行われました。

しかし、ナザレの人々は大工の息子であることや、イエス様のお母さんのマリヤや弟たち、妹たちのことをよく知っていたことがかえって妨げになったようです。

イエス様がどのようにお生まれになったか、それが預言の成就であることや、イエス様がこれまでなさって来たことが、単なる人間ではないことは明らかでした。だから彼らは「この人は、こんな知恵と奇跡を行う力をどこから得たのだろう」と驚いたのですが、しかし、それがまことの神に由来するものであること、イエス様が人としてお生まれになった、私たちとともにおられる神だとは認めようとしなかったのです。

その結果、58節にあるようにイエス様は「彼らの不信仰のゆえに、そこでは多くの奇跡をなさらなかった」のです。

このことは、今日、私たちに信仰さえあればたくさんの奇跡が見られるということを言っているわけではありませんが、神の救いがもたらす祝福の多くが、私たちの信仰によって受け取れたり受け取れなかったりするのは間違いありません。

大事なことは、奇跡が起こると信じることよりも、イエス様が、神様の約束された救い主、キリストであり、私たちとともにおられる神であると信じる事です。

イエス様はあわれみのゆえに、また神の国が来たことをお示しになるために病人や悪霊につかれた人を癒やしましたが、人々に求めたことはともにおられる神に信頼し、神とともに歩むことでした。

この世界に来られたイエス様は、天地創造の時のあの美しさや喜びが失われた世界に生きるということがどれほど辛く、悲しく、痛ましいものであるか、身をもって知られました。この世界に生きる人たちが病気や貧しさで苦しんだり、のけ者にされたり、不当な扱いを受けたり、またお金や権力の虜になり空しいものを追いかけ続ける愚かさの中にあることをご覧になりました。

イエス様はそんな彼らとともにいてくださり、愛を示されました。同じ愛をもって、イエス様は今も私とともにいてくださる。この痛み、この苦しみを知っていてくださる。この欲に駆られやすい愚かさや、罪から逃れられない弱さも知っていてくださる。それでも愛し、ここから救い出してくださる。神の御国はすでに、私のこの人生、この生活の中に来ている。そして地上での歩みの中ではすべてが解決しないかもしれないけれど、この旅の先には、すべてが回復され、すべてが報われる天のふるさとが待っている。そこにたどりつくまで、イエス様は一緒にいてくださる。

そのように信じることが、神様の愛に気づき、神様の力を見出し、神様の祝福を味わい、祝福を刈り取る信仰なのです。

皆さんはこのことを受け入れますか。態度を保留しますか。それとも拒絶しますか。祈り

「天の父なる神様。

今日はマタイの福音書を通して、約束された救いと、神の国がイエス様によって成就したことを学びました。イエス様が私たちとともにおられる神であることを感謝します。

眼には見えませんが、今も、この悲惨なことのあふれる世界で私たちとともにおられることを感謝します。私の心の中にある暗闇や汚れや観にくいものを知りながら、私たちの心の中にいてくださることを感謝します。私たちの癒されるべき傷と痛みをご存じで優しく触れてくださることを感謝します。

どんな日々を歩んでいようとも、このイエス様を、その恵みを、拒んだり疑ったりするのではなく、信じる者にしてください。

イエス様のお名前によって祈ります。」

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