2022-07-31 いのちを与えるために

2022年 7月 31日 礼拝 聖書:ヨハネ12:12-26

 岩橋姉のご主人が突然亡くなられて、未だに驚きに包まれています。このようなタイミングで、私たちにいのちを与えるために来られたキリストを思い巡らす時が与えられたのは、とても意味のあることだと感じています。

今日取り上げるヨハネの福音書は好みの分かれる書物かも知れません。好みで聖書を読んだり読まなかったりするのは問題かもしれませんが、実際この独特な雰囲気のある福音書が読みにくいと感じる人もいますし、味わい深いと感じる人もいます。

順番からいうとマルコの次はルカの福音書なのですが、ルカは福音書と使徒の働きをセットで書いていますので、連続して取り上げたいと思います。それで今日は四つある福音書の最後のひとつ、ヨハネの福音書を先に見ていきたいと思います。今回も前半と後半の二回に分けます。

前半、後半を通してヨハネが福音書で伝えるもっとも大切なポイントはイエス様がいのちを与えるために来られた方だということです。肉体的に死に行く者である私たち。それだけでなく、神との関係が壊れているという意味で霊的に死んでいる私たち人間にいのちを与えるために来られたイエス様とはどういう方なのか。イエス様が与えるいのちとは何なのか、ヨハネの福音書を通して学んでいきましょう。

1.神の小羊

第一にヨハネの福音書ではイエス様が「神の小羊」として紹介されます。神の小羊であることが示されるのは福音書全体の導入部分である1章の中です。まずこの導入部分を見ていきます。

ヨハネの福音書の出だし1:1~18は、創世記の天地創造を思わせる導入で始まります。

「初めにことばがあった」は明らかに創世記1:1の「はじめに神が天と地を創造された」を意識しています。他の福音書と違って、イエス様が人としてお生まれになる出来事よりもずっと前の、永遠の昔から存在される神としての性質にヨハネは注目します。

私たちの言葉が頭の中にあっても目に見えない思いを他の人が聞き、知る事ができるようにするものが言葉であるように、ヨハネがイエス様を「ことば」と呼ぶのは、イエス様が隠された神の思いを具体的に人に届く形で表された方だからです。

そしてヨハネは、この方のうちに「いのち」があり、この方を信じる者は「神によって生まれた」者であると記して、イエス様がいのちを与える方であることを明らかにします。この事がヨハネの福音書全体のテーマになります。永遠の神なるイエス様はご自身のうちにあるいのちを私たちに与えるために来られたのです。

1:19からはバプテスマのヨハネと人々の対話が取り上げられます。神の国が近づいたから悔い改めよと神のメッセージを語り、悔い改めた人々にバプテスマを授けていたヨハネについて、彼はいったい何者かということで人々の間で話題になっていました。マラキが預言したエリヤの再来とか、モーセが預言したモーセのような預言者、ということを人々は考えましたが、ヨハネ自身は、自分はイザヤが預言した「荒野で叫ぶ者の声」だと言いました。そして、自分の後に来る方こそが待ち望むべき方なのだと証言します。その翌日、29節でヨハネのもとにイエス様が近づいて来るのを見たヨハネは、こう言いました。「見よ。世の罪を取り除く神の子羊。」つまり、天地が創造される前から神として存在された方が世の罪を取り除くために神の小羊として来られたのがイエス様なのだと、ヨハネの福音書は語るわけです。

「神の小羊」とは、旧約時代の律法で定められた罪の贖いのための献げ物です。イエス様が私たちの罪が赦されるために犠牲の小羊としてささげられるのです。それは同時に、私たちを「死んだ者」としているのは、肉体の衰えや寿命や病気などではなく、罪なのだということを言っています。たとえ肉体的には何の問題がなかったとしても、神の前に罪があるなら死んだ者であるというのが聖書の告げる人間の真理です。神との関係が上手くいっていないうえに、やがて罪の報いである永遠の死から逃れられないからです。

しかしそんな私たちを救うため、罪を赦し取り除くために、いのちそのものである神が、いのちを捨て死に従うことで犠牲の小羊となるために人となって生まれてくださいました。それがナザレのイエスだ。ヨハネの福音書の導入部分である1章ではそのようにまずは宣言しているのです。

このことは私たちに大きな希望です。この世にあっては肉体的に、心理的に、あるいは社会的に死んだ者、望みのない者とみなされるような状況になったとしても、キリストにあってなお私たちは生きた者であることができるからです。

2.7つのしるし

第二に、イエス様が神の小羊であることは7つの象徴的な奇跡によって証しされました。

ヨハネの福音書の前半、2章から12章には、イエス様がメシヤであり、神の小羊であることを様々なかたちで説明しているのですが、特に印象深いのが7つの奇跡です。ヨハネの福音書ではこれらの7つの奇跡を「しるし」と呼んでいます。

七番目のしるしだけは福音書後半のイエス様ご自身の復活なのですが、6つ目までが2~11章に記されます。そしてヨハネが注目するのは、イエス様がこれらのしるしを行うと、イエス様への信仰を呼び起こしたり、逆にユダヤ人の間に議論や論争を巻き起こしてある人たちを怒らせてしまったりするというパターンがあります。

最初のしるしは2章に書かれている有名なカナの婚礼での奇跡です。大量の水を上等なワインに変えるという奇跡を「最初のしるし」だとヨハネは書いています。7つの象徴的な奇跡の、最初のものという意味です。

この時、この奇跡を目撃したのは宴会場で楽しく飲み食いしていた人たちではなく、裏方の人たちだけです。しかし、この奇跡を目撃した弟子たちはイエス様を「信じた」とあります。

第二のしるしは4:46以下に出てくる、死にかけた王室の役人の息子をいやす奇跡でした。イエス様はその場に行くことすらせずにこの男の子をいやされました。このときは王室の役人と家族がイエス様を信じたとされています。

第三のしるしは5章のベテスダの池でのいやしです。三八年もの間、奇跡の瞬間を待っているのに誰も助けてくれないとひがみ、恨み節をイエス様にぶつける病人をいやされました。しかし、これが論争を引き起こします。というのもこの日が働いてはいけないとされていた安息日だったからです。文句を言うユダヤ人たちにイエス様は「父なる神は安息日でも働いているから自分も働いている。そしていのちを与える権威と判断をわたしに委ねたのだ」と驚くべき言葉で応じるのでした。

第四のしるしはイエス様の奇跡をみた人たちがイエス様に特別な期待を抱いて追いかける状況の中で行われました。6章の有名な5つのパンと二匹の魚で5000人以上の人たちの空腹を満たすという奇跡です。人々はこの奇跡にさらに期待を膨らませますが、その後に「わたしがいのちのパンです。」と言われたことで多くのユダヤ人が躓き、文句を言いはじめます。

第五のしるしは9章の、こちらも有名な「シロアムの池」での盲人のいやしです。弟子たちはこの人の目が見えなくなったのは誰かの罪の報いかと考えますが、イエス様はそうではなく神の栄光が表れるためだとおっしゃって、泥をこねてまぶたの上に塗りつけると池の水で洗ってくるようにと言われました。彼が言われたとおりにすると見えるようになりました。この時も安息日だったためにパリサイ人たちはいやされた男を問い詰め、論争になり、ついにパリサイ人たちはこの人をユダヤ人コミュニティから追い出すことを決めてしまいます。しかしイエス様はこの人をもう一度見つけ出し、彼はイエス様を信じます。そしてイエス様は39節でこう言われました。「わたしはさばきのためにこの世に来ました。目の見えない者が見えるようになり、見える者が盲目となるためです。」

3.ラザロのよみがえり

イエス様のなさったしるしとしての奇跡により、ある人たちは真理に目が開かれますが、自分たちは分かっていると思っていた人達は真理に目が塞がれてしまうというのです。

第三に、ヨハネの福音書前半のしめくくりとして6つ目の奇跡が行われます。11章で描かれるイエス様の友人ラザロの復活です。この出来事はその後の出来事にも影響していることが12章を見れば明らかで、イエス様が死んだ人をよみがえらせたという奇跡は、イエス様を信じる人たちにとっても、イエス様に反対する人たちにとっても衝撃的な出来事でした。

もともとイエス様はエルサレムに向かって旅をしていましたが、その先にある栄光は人々が考えていたような華々しい王宮での生活や権力ではなく、神の小羊として十字架で死ぬことを意味しました。そんな旅の途中にあったイエス様のもとに友人であるラザロが死にそうだという知らせが入ります。

もちろんその知らせはイエス様の心を激しく揺さぶったはずです。後でイエス様はラザロの墓の前で涙を流すほどでした。しかし、なぜかイエス様はすぐに動こうとしませんでした。

11:6~7で知らせがあってから二日経ってイエス様は弟子たちに「もう一度(ラザロが待っている)ユダヤに行こう」と呼びかけます。しかし弟子たちもユダヤに行けば危険が待ち受けていることは予測できました。それでもイエス様は「眠ってしまった」ラザを起こしに行くのだと言われます。もちろんそれは死んだことを意味しています。それは弟子たちが信じるためだとおっしゃっています。つまり、イエス様がいのちを与えるために来られた方であり、そのためにはご自分のいのちが危険にさらされても構わないことを弟子たちが理解するためでした。

11:17でエルサレム近くのベタニヤという村に着いたときにはラザロが死んですで4日経っていました。姉のマルタはどうしてもっと早く来てくださらなかったのか、という気持ちで一杯でした。しかし、イエス様は「わたしはよみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は死んでも生きるのです」と言われ、妹のマリヤも連れてラザロの墓の前に行きます。そして福音書の中でただ一度涙を流された様子を描きながら、それは悲しみであるだけでなく人間を縛っている死に対する憤りであり、人々の間にいのちを与える神への信仰がないことへの憤りであったことが分かります。

イエス様は墓の前に立って祈りを捧げます。イエス様の祈りはこの奇跡が何のために行われるかをはっきり示していました。イエス様が父なる神に遣わされたメシヤであり、いのちを与える方であることを信じるようになるためです。そして大声でラザロを呼ぶと、包帯でぐるぐる巻きにされたラザロが墓から出て来ました。みんな驚きましたが、ラザロが一番ビックリしていたかもしれません。

この奇跡によって多くの人々がイエス様を信じるようになりましたが、同時にイエス様に反対する祭司長やパリサイ人たちはますます焦り「われわれは何をしているのか。このままではみんながあいつに着いていくようになる。そうなったらわれわれはお終いだ」と言い合い、イエス様を殺害する計画が立てられていくことになりました。弟子たちが心配していた通りになるのです。しかしそれこそが、イエス様が栄光を受けるということの意味する事でした。

適用:いのちを与えるために

これら6つのしるしとしての奇跡は、いのちを与えるために来られたイエス様が、確かに神の御子であり、救い主であることを示しました。そしてイエス様が与えようとしているいのちがどういうものであるかを指し示してもいます。イエス様は嘆きと失望を喜びに変え、希望のない者に希望を与え、助ける者のない者を助け、飢え渇く者を満たし、見えていない者を見えるようにし、死に定められた者に新しい命を与え、復活の望みを与えてくださいます。

ヨハネ前半のまとめになる12章でイエス様がそのようないのちを与えるのは愛の故であることをお示しになりました。ラザロのために涙を流し、いのちの危険を承知で訊ねたのは愛ゆえです。

ベタニヤのラザロの家でお祝いの食事会があり、その中でマリアがイエス様に高価な香油を塗り、イエス様はそれを埋葬のための備えと受け取ってくださいました。そこにも麗しい愛がみてとれます。翌日、エルサレムに入場し、大歓迎を受けます。この場面はマタイやマルコでも観て来たとおりですが、群衆の大歓迎にはラザロ復活という奇跡が大きな要因になっていたことは明らかです。一方で祭司長たちはイライラが頂点に達していました。

人々のイエス様に対する期待は、ユダヤ人だけでなくギリシャ人と言われる人々にも及び、イエス様にお会いしたいと訊ねてくる人人たちがいました。そのことによって神が遣わした救い主が人種を問わず誰にとっても希望となっていることを知ったイエス様は、23節で「人の子が栄光を受ける時が来ました」と弟子たちに告げます。しかしそれは弟子たちが期待し、人々が期待したように王座について力で敵を滅ぼすのではなく、一粒の種が地に落ちて死ぬようなことでした。ユダヤ人だけでなくギリシャ人も、全ての人にいのちを与えるためにご自分は地に落ちることを選んだのです。

バプテスマのヨハネが「世の罪を取り除く、神の小羊」と言ったように、人類を死んだ者としているのは私たちのうちにある罪であり、その罪を赦し取り除くためにイエス様が犠牲の小羊となってくださったのです。

あまりに有名なこの聖句は、様々な絵画や詩、文学の題材となりましたが、イエス様は豊かな実りを得るために、世界中の人々がいのちをえるために、ご自分のいのちを献げようとしていたのです。

自分たちが偉くなることや栄誉を受けることばかり考えていた弟子たちにも、そんなものを求めるのではなく、そういうのは放って置いて、イエス様についていくことを求めました。自分のいのちを憎んで、というのはそんな意味です。自分たちが求めて来た名誉や栄光はむしろ永遠のいのちの邪魔になるものだと思い定めることを弟子たちに求めたのです。

私が中学生の頃、イエス様が私の罪の赦しのために死なれたということの意味がいくらかはっきりと解ったと思えた時のことを思い出します。些細なことで妹と喧嘩し、怒りが収まらずにいました。弟子たちはまた違った形で、自分が求めるものに拘っていました。自分の怒りが納得できる形で満たされることを求め続けていたら、いつまでたっても平安も喜びも得られなかったでしょう。それを手放して、こういう自分のためにイエス様は十字架にかかってくださったのだなあと思い起こして見た時に、イエス様の愛が分かったような気がしました。子供っぽい出来事でしたし、子供っぽい理解の仕方だったかも知れませんが、それは確かにいのちを得た経験でした。

自己犠牲を賛美し、推奨しているのではなく、自分たちが追い求めているものにしがみつくことで永遠のいのちを失っていることに気づくようにとのイエス様の願いが込められた教えだと思います。

このような私たちにいのちを与えるために来られた神の小羊、イエス様の語りかけに静かに耳を傾け、心を探っていただきましょう。

祈り

「天の父なる神様。

いのちの主なるイエス様を神の小羊としてこの世界に遣わしてくださりありがとうございます。イエス様が私たちを愛してくださり、そのいのちを献げてくださって、罪が赦され、いのちに生きる道を備えてくださいました。

どうかおひとりおひとりがいのちを与えるために来られたイエス様を信じ、また心の中でイエス様の愛より自分がしがみついているものがないかどうかを探って、永遠のいのちに至る道へと導いてください。

イエス・キリストの御名によって祈ります。」

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