2022-10-09 希望の光は地の果てまで

2022年 10月 9日 礼拝 聖書:使徒の働き28:17-31

 私は楽しみのために、たまに一人でテントを張ってキャンプをするのですが、その時に欠かせないのが灯りです。だいたいキャンプをする場所は外灯などはありませんから、手元を照らすためにも、雰囲気作りにも灯りは必要です。安物でも小さく炎がゆらめくランタンなんかがあると満足度が高くなります。

何であれ、灯りをともしたら当然適当な高さの所に吊したり、テーブルの片隅に置いたりして、必要なところに灯りが届くようにします。これは必ずそうします。ライトをつけてそのままリュックの中にしまうなんてことは絶対にしません。

イエス様は灯りをつけたら誰もそれを隠す人はいないというたとえをお話しになりました。ルカの福音書には、神の国について教えている箇所とエルサレムへの旅の途中での2回、イエス様がその話しをなさったことが記されています。

「明かりをつけてから、それを器で隠したり、寝台の下に置いたりする人はいません。燭台の上に置いて、入って来た人たちに光が見えるようにします。」

イエス様は福音という希望の光のことを話しています。イエス様の十字架の死と復活によってもたらされた救いの良い知らせ、福音という希望の光は、どうやって人々に届くのでしょうか。使徒の働きの後半を見ていきましょう。

1.宣教旅行

第一に教会の歩みの中心には、いつも希望の光を届ける宣教の働きがあります。使徒の働き後半は13章から始まります。後半の内容はアンティオキア教会から始まった宣教旅行を軸に描かれています。最初はバルナバとパウロ、後からはパウロをリーダーとするチームが福音宣教のための旅を続けます。

13:1を開いてみましょう。アンティオキア教会にはバルナバ、シメオン、ルキオ、マナエン、サウロといったリーダーたちがいました。どの人たちも賜物豊かな人たちです。

アンティオキア教会の皆さんがともに礼拝をし断食をしているときに聖霊がバルナバとサウロを主の働きのために着かせるようにと語りかけました。そのとき教会は「この二人はうちの教会に欠かせない人材です」と断ったりせず、すぐにその導きを受け止めて二人の上に手を置いて祈り、送り出しました。人の計画や思いを超えた聖霊の導きが福音宣教の働きを広げていくものなのです。

使徒の働きには3回の宣教旅行が記されています。もちろん、他にも宣教の働きはなされていて、東に向かい、インドや中国に向かった人たちもいましたし、アフリカ大陸に向かった人たち、北の方に向かった人たちもいました。

ルカがパウロを中心とする地中海周辺の働きに絞って書いたのは、彼自身がパウロの旅に同行したというだけの理由ではありません。イエス様がパウロを異邦人のための使徒として召してくださり、彼を通して神様の救いのご計画が明らかにされ、その宣教の働き方を一つのモデルとして示すためでした。

使徒の働きに記された3回の宣教旅行ですが、13~14章で小アジアと云われる、今のトルコ西側の地域が一回目。二回目は16~18章前半の小アジアからさらにギリシャへと足を伸ばします。そして18章後半から20章ではこれまで歩いて来たところを再度訊ねます。手元の聖書に地図がついている方はパウロの宣教旅行のルートが描かれたページがありますのでご覧になってみてください。

この3つの宣教旅行にはいくつかの特徴があります。

まずパウロの宣教旅行は教会から派遣され、教会に帰って来るというパターンがあります。そして単独で行動することはほとんどなく、宣教の働きはチームで行うのが常でした。

13:4でアンティオキア教会から派遣されたバルナバとサウロ、別名パウロは助手としてヨハネを連れていきます。このヨハネはマルコの福音書を書いたマルコのことです。今のトルコ西部の小アジアと呼ばれる地域をめぐって各地で伝道し、教会を生み出し14:26~28にあるようにアンティオキア教会に帰り、報告し、交わりの中で休息と励ましを得ます。

また、パウロのチームはどの町にいっても、まずユダヤ人のコミュニティを捜し出し、彼らの先祖に約束された神の御国がキリストによって到来したことを知らせることから始めます。受け入れる人たちもいますが、多くの場合は反対に会い、それでは、ということで異邦人に福音を知らせるというパターンが繰り返されます。神の救いのご計画やアブラハムの子孫に与えられたものですが、ユダヤ人以外の多種多様な人々に、誰にでも与えられた救いでもあるということが繰り返され、はっきり示されます。

2.エルサレム会議と衝突

第二に、神様が約束された救いと神の御国という希望の光は、あらゆる世界の人々に分け隔て無く与えられることがはっきりと示されます。そのことをより明確に示すために宣教旅行の中で起こった二つのタイプの反発が用いられました。一つはユダヤ人社会から、もう一つはローマ社会からの反発です。

ユダヤ人社会から起こった反発は、パウロたちがユダヤ人以外の人たちにも福音を宣べ伝えているだけでなく、異邦人が神の民に加えられるために、ユダヤ人の守っている律法は必要ないと主張したことによりました。

エルサレムで始まった教会はヘレニストと呼ばれるギリシャ語を話すユダヤ人はいたものの、基本的にユダヤ教から改宗した人たちで、生活習慣は律法とユダヤ教の伝統をそのまま引き継いでいました。ところがアンティオキア教会のようにユダヤ教の伝統がまったくな人たちの教会では、当然ですがユダヤ人が食べないような食べ物を平気で食べましたし、安息日だから仕事をしてはいけないとか、長距離の移動をしないといった制約はありませんでした。もちろんエルサレム神殿に対する特別な感情はありません。

そういう姿が、ユダヤ教の伝統を生きていたクリスチャンたちにすると、神のことばである聖書を軽んじているように見えたのです。ユダヤ人クリスチャンでさえそうでしたから、普通のユダヤ教徒からしたら同じ神を信じているとか、メシアだとか口にしている異邦人は神を冒涜しているとしか見えなかったのでしょう。

そこで、あるユダヤ人クリスチャンたちは、ユダヤ人以外の人たちがクリスチャンになるためには、まずユダヤ人と同じように律法を守るべきだと主張したのです。

それが大問題となって15章のエルサレム会議と呼ばれる教会会議で話し合われることになりました。そこではパウロとバルナバはもちろんのこと、エルサレムに留まっていたペテロを初めとする使徒たち、主の兄弟ヤコブら教会指導者らがつぎつぎと立ちあがって神様が聖書で何を教えておられたか、実際に宣教の働きの中で神様がどのように導いてくださったかを説明しました。そして、ユダヤ人以外の人たちがクリスチャンになる場合は、異教の礼拝に加わらないということ以外は、ユダヤ教の律法を守る必要はないということが確認され、すぐに諸教会に伝達されたのでした。

もう一つの反発はローマ社会の中に起こりました。いくつかの例が上げられていますが、16章のピリピ教会誕生の時のものを見てみましょう。

小アジアで次の導きを求めていたパウロに神様はマケドニア人が助けを求める幻を見せます。聖霊の導きを確信したパウロたちは海を越えてギリシャに渡ります。そしてピリピという町に着いた時にリディアという神を敬う婦人と出会い彼女を信仰に導きました。そんな中で占いの霊につかれた女奴隷があまりにもしつこく付きまとうので困り果て、彼女から占いの霊を追い出してしまいます。ところが、彼女を利用して商売をしていた主人たちがこれに腹を立てて、こいつらは世の中を騒がせる怪しい宗教を宣伝する奴らだと訴え、よく調べもせず牢に入れられてしまうという事件が起こります。これが看守家族の救いという有名な話しにつながるのですが、こうした対立はあちこちの町でどうしても起こってしまいました。

3.ローマへの道

こうして第三に、衝突や反対にも拘わらずパウロの旅はローマへと続き、希望の光は地の果てまで届けられました。

パウロのローマへの道のりは22章から始まります。きっかけは21章のエルサレム訪問です。パウロはエルサレム教会に戻って、異邦人の間でなされた宣教の働きを報告しました。その後で、ヤコブたちのアドバイスに従って、ユダヤ人の誤解を解くためパウロたちはユダヤ人の一人として身を清め神殿で礼拝を捧げようとしたのです。その時、一部のユダヤ人はパウロが異邦人を神殿に連れ込んだと誤解し、大騒ぎを起こしてしまいます。人々は積もり積もった苦々しい思いをパウロにぶつけ、この機会にやっちまえとばかりに宮の外に引きずり出し、殺してしまいかねない大混乱に陥ります。

そこにエルサレムに駐留していたローマ軍の千人隊が駆けつけ、ローマ市民でもあるパウロを救出します。

22章で弁明のために立ちあがったパウロはユダヤ人に対してあえてヘブル語で語りかけます。生粋のユダヤ人であり、ユダヤ教の正規の教育を受け、教会を迫害する者だった自分がイエスこそが神の備えたキリストであると気づかされたことを証しします。それから神が異邦人にも分け隔て無く救いを備えてくださっており、自分をそのために召してくださったことを話しました。

しかしそこまで静かに聞いていたユダヤ人たちが再びパウロを殺してしまえと騒ぎ初めたため、千人隊長は混乱を収めるためにパウロを捕らえて取り調べをするよう命令します。

ユダヤ人でありながらローマの市民権を持っているとなると、正式な手続きと裁判が必要になりますので、取り調べと裁判が行われました。しかし内容が聖書の預言の成就に関することなのでなかなか地方の裁判では決着が着かず、身の危険を感じたパウロはローマ皇帝に上訴します。今でいうなら最高裁判所に上告したわけです。そのため、パウロはローマへの旅をすることになるのです。

一連の取り調べや裁判の中でパウロが常に強調して来たことが26:22~23にまとめられています。パウロが語って来たことは神が預言者達を通して告げていたことにほかならず、キリストがクス意味を受け、死んで後に復活し、ユダヤ人にも異邦人にも希望の光を届けられるということです。

27章で船旅を始めたパウロは途中嵐に見舞われるような危機的な状況も経験しましたが、そうした場面でも神様の助けによって守られ、全員の命が助かるという奇跡を通して、パウロの信じ伝える神が生きておられる方であることを証ししました。

そしてローマに到着してから再びローマにいるユダヤ人との対話があります。受け入れて信じた人たちもいましたが、信じようとしない人たちも多く、そこでもパウロは旧約を引用してこの福音は異邦人に向けられるだろうと告げました。その後は裁判の結果が出るまでは監視付ではありましたが割と自由に生活することができ、その機会を用いて神の御国を宣べ伝え、教えました。その活動の中でパウロは遠く離れた諸教会に手紙を書き、その一部は聖書として今私たちが読むことができるようにもなっています。

使徒の働きは、どんな困難があろうと聖霊によって励まされ導かれた教会を通して、エルサレムから始まり、地の果てまで福音が宣べ伝えられ続けるのだ、という余韻をもって閉じられます。

適用:神の家族を通して

さて、一週間を置きましたが、二回にわたって使徒の働きをざっと観て来ました。パウロとともに宣教旅行をしたルカが、多くの人たちに取材をし、テオピロにあてて福音書とともにこの使徒の働きを記しました。その二つが聖書の一部、神が私たちにご自身のみこころを伝えるための神のことばとして受け取られて来たのです。

第二部にあたる使徒の働き、特にその後半で繰り返し描かれていることは、教会が宣べ伝えている福音は、神が約束された救いという希望の光が全ての人に分け隔てなく与えられているということです。それは神が旧約のモーセや預言者たちが告げて来たことであって、本当はユダヤ人たちが待ち望んでいるはずのことでした。受け入れる人もいましたが、多くは旧約時代の歴史を繰り返すように拒絶します。そのため福音はユダヤ人以外の人々に届けられます。誰でもイエス様による救いを頂くことができ、神の御国の民になるためにユダヤ人と同じように律法や伝統に従う必要はありません。

それがどれほど驚異的な事であるかは、イスラムの人たちにアラビア語の経典じゃなくてもいいよとか、ラマダンや戒律を守らなくてもいいよと言うようなものです。そんなことを言ったらどんな反応が返ってくるかは、世界で起こっている宗教的な衝突や摩擦をみれば明らかです。

一方、どんな時代でも福音が宣べ伝えられる場所では必ずもとからある社会や権力者から疑いの目で見られたり、迫害されました。それは、キリスト教の教えが、ただおひとりの神だけを礼拝するということから、権力者たちに楯突くものと見られたり、偶像礼拝をしないということが社会の秩序を乱すと受け止められたからです。さらには外国の手先のように疑われたり、かつては福音宣教が貿易との引き換えだったり植民地化が進められることへの反感もありました。教会側の間違いや考えの足りないところもあったのです。

しかしながら、そうした衝突を越えてなお、すべてのに分け隔てなく希望の光を指し示す福音は受け入れられ、神の御国がこの地上に拡がり、祝福が届けられて来ました。それはただ宗教上の教えとして一神教であるとか、すべての人を救うというだけのことではなく、実際に生きておられる神と、確かに人として来られたイエス様の十字架と復活によって本当に新しい人生へと変える力があったからです。

皆さんがイエス様を信じた時、家族や友だちなど周りの人たちに小さからぬ波を起こしたかも知れません。キリスト教なんて日本人をやめるのか、家族を捨てるのか、くらいの厳しい反対にさらされた人たちもおられたと思います。最近のように宗教全般に対する疑いの目が向けられる風潮の時は、よく知りもしないくせに批判する人もいるでしょう。

しかし、私たちのうちにおられる聖霊とみことばの教えに立って歩んでいるなら、私たちの生き方や教会の交わりの中に現れる神様のご愛と恵み深さは疑いようがありません。人への愛と思いやり、他人への尊敬と誠実に仕える姿として実を結びます。それらを非難したり、否定することは誰にも出来ません。そのような神様の恵みは私たちが不完全で弱い者であればこそ、ますます確かなものとして証しされます。ただし、私たちが不完全さや弱さを誤魔化したり強がったりせずに、神様にへりくだり、信頼していればこそです。

神様の愛とキリストの救いという希望の光が教会とクリスチャンたちを通して、エルサレムから始まり、地の果てに向かって灯され続けたように、今も私たちクリスチャンと私たちの交わりである神の家族、教会を通して灯され続けます。そこには世の中のどんな楽しみや欲望を満たすものよりも、素晴らしい魅力と慰めに満ちていることを確信して歩み、証ししていきましょう。

祈り

「天の父なる神様。

使徒の働きを二回にわたって概観してきました。イエス様のことばと行いが教会を通して続けられていること、そしてまた今も私たちを通してキリストの希望の光が人々を照らし続けるべきものであることを学びました。

ざっと見ただけでは気づかない多くの教訓や励ましがまだまだありますが、この救いの素晴らしさ、魅力、慰めを味わい確信して、歩み、証しできるように助けてください。地の果てである、私たちの周りの世界にあなたの光を届けさせてください。

イエス様のお名前によって祈ります。」

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