2022-11-06 家族の回復

2022年 11月 6日 礼拝 聖書:エペソ5:20-33

 原則に従うことが確実に解決に向かう道だとしても、それがたやすいということは滅多にありません。

一月ほど前に巻き爪になってしまい治療することになりました。「痛いですよねえ」と言いながらお医者さんは躊躇なく爪を起こし、切れ目を入れたシリコンチューブをぐりぐりとちょうどいい場所に収まるまで何度も入れ直します。これがこの症状の場合の基本的な治療方法ですが、やっぱり痛いものは痛い。

私たちにとって、家族の問題は、そのような痛みに似ているかも知れません。回復に向かう道のりは必ずしも楽な道ではなく、霊的にも感情的にも相当揺さぶられ、試されます。それでも聖書が家庭の回復を大きく取り扱うのは、福音による回復という神様のご計画にとって家族関係の問題は最も重要なものだからです。

しかし実際にこのことについてお話することはとても難しく感じます。聖書には書いてあっても、他人には触れられたくない場合もありますし、何より夫婦や親子といった家族を扱うテーマは他の問題より自分自身が深く問われることでもあるからです。

それでもこのテーマは今年の主題である「回復」から外すことのできない重要なテーマであることを聖書自体が告げています。決して簡単に解決できることではありませんが、回復に至るための原則は知っておく必要があります。

1.傷ついた家族

第一に、人類に罪が入った時に最初に問題が起こったのは家族の間でした。

今日も創世記まで遡ってみましょう。

3章でアダムとエバが神様の戒めに背いて食べてはいけないと禁じられていた木の実を食べた後のことです。

有名すぎるエピソードですが、神に背を向けたアダムとエバは、はじめに神様の目を恐れ、隠れてしまいます。エデンの園を歩き回ってアダムとエバを見つけた神様は、「あなたは、食べてはならない、とわたしが命じた木から食べたのか。」と尋ねます。

その問いかけに対してアダムは「食べてしまいました」「エバが食べるのを止めないで黙って見ていました」と素直に答えることはありませんでした。代わりに「私のそばにいるようにとあなたが与えてくださったこの女が、あの木から取って私にくれたので、私は食べたのです。」と、まるでエバのせいだ、もっと言うならエバを自分のそばに置いた神のせいだと言わんばかりの言い訳をします。

神様がエバに「なんということをしたのか」と咎めると、今度はエバが「蛇が私を惑わしたのです。それで私は食べました。」と答えます。

たった一歩だけ、たった一口だけ、神様の単純な命令に背いたことで、人々は自分の過ちを他の誰か、他の何かのせいにし、早くも夫婦の間に亀裂が起こりました。そして私たちはこのような言い争いが今の私たちの時代にも、親の世代でも、あるいは独立した子どもたちや孫たちの世代でも繰り返される、よくある事として見ています。その始まりは神に背を向けたことにあったのです。

神様の憐れみによって彼らは覆われ、その後は仲良く暮らしたようです。だからといって罪がなくなったわけではありません。彼らは自分たちが招き入れてしまった罪と死が子どもたちにも間違いなく引き継がれていることを恐ろしい形で知る事になります。

創世記4章に描かれるカインとアベルの事件です。兄カインと弟アベルがそれぞれ育てた作物と小羊を神様への献げ物として持って行きます。しかし神への畏れと信頼が込められた弟の羊は受け入れられ、そうした畏れと信頼を欠いた兄の作物が受け入れられなかったことで兄のカインは怒ってしまいます。神様にその心にある小さな罪の種を指摘され、向き合うべきことを示されますが、彼はそうする変わりに弟アベルを逆恨みして殺してしまうという恐ろしい事件が起こってしまいます。

ここまで酷いことがどの家庭でも起こるわけではありません。しかし、自分のうちにある罪とその結果を自分で引き受けるのではなく兄弟や他人に怒りとしてぶつけることはよくあることです。子ども時代の兄弟ゲンカや劣等感を土台にした歪んだ感情、いい年をしてからの仲違いや遺産をめぐる争いまで、事件にはならずとも家族にはこうした問題が付きまといがちです。

エペソ書に戻ってみましょう。5:20~21を見ると、聖書が私たちに、最初の家族が見失ってしまった神への畏れや感謝をイエス様への信仰によって取り戻し、それを土台に家族の回復を目指すよう励ましていることが分かります。夫婦であれ親子であれ、家族であれキリストという中心があり、共に遜るべき方がおられるからこそ、互いを敬い仕える確かな土台と確信を持てるのです。

2.家族の教科書

第二に、聖書は家族のあり方について原則を示しています。

今日、家族の多様性ということが言われています。子どもがいない夫婦も、死別や離婚によって両親が揃っていない親子もあります。再婚を繰り返して親と呼ぶべき大人が何人もいる子どもたちがいます。同性愛のカップルを家族と呼ぶべきだと権利を主張する人たちもいます。正式な結婚をせずに事実婚を積極的に選択する人たちもいます。現代社会の多様性は、善し悪しは別として、現実問題として受け入れなければならないことですが、何の原則もなければ混乱を引き起こすだけです。

5:22~6:9は「家族の教科書」と呼ばれる箇所です。これは聖書が書かれた時代のローマ社会の中で哲学者や教師たちが道徳教育の一環として家族の在るべき姿について書いた書物の形式によく似た書き方で書かれているからです。しかし、内容はまったく異なっていて、パウロはキリストを信じた私たちがどういう家族関係を目指すなら、神様が本来意図した家庭の祝福を味わえるかを教えようとしています。

ですから、この箇所はこれから家庭を築こうとしている人たちにとっても重要ですし、クリスチャンになった人が自分の家族との関わりを良いものにしようとするときに必要な原則です。

最初に5:22~33では夫婦の関係について教えられています。それから6:1~4は親子の関係について。6:5~9には現代人にはちょっと違和感があるかも知れませんが奴隷と主人の関係について記されています。

この家族の教科書に示された原則を正しく使うためにいくつか注意点があります。

まず、夫婦も親子も「互いに」責任があるということです。また男尊女卑や最近の宗教二世の問題に代表されるような一方的な支配や抑圧を正当化するために使ってはいけないということです。

その上で一つ一つの関係を簡単に見ていきます。まず夫婦についてですが、妻たちには夫に従うように、夫には妻を愛するようにと教えられています。この点で女性側から「ずるい」という声が上がりがちです。夫は「従わせる側」という有利な立場と誤解するからです。夫に求められるのはキリストが私たちを愛したように、ということです。妻の最善を願い、妻のために自分を犠牲にし、仕える者になるような愛し方をしなければなりません。妻が夫を信頼できるような愛し方を、夫はしなければならないのです。

我が家では最近奥さんが仕事で帰りが遅くなりがちです。でも「ご飯まだ」なんてことは言わず、食事の準備をして待って「お疲れさん」と言って一緒に食べたりするのはこの教えを具体的に実践しようという努力です。注意深くありたいのは、聖書が男性や女性の社会的な役割について固定した考えを示してはいません。男は外で稼ぎ女は家を守っていろとか、家事育児は女の仕事といった役割の固定ではなく、夫婦の関係性や秩序の原則を示しているのです。

親子の問題についても同じことが言えます。子どもは親に従っていればいい、という単純で親に都合の良い話しではありません。親を敬い従うのは子の務めですが、親の務めは子どもが怒りをうちに秘めるような成長の仕方をさせてはいけないのです。自らが主の前にへりくだって教えられなければなりません。

3.キリストの愛と恵み

第三に、このような家族関係の回復はキリストの愛と恵みの豊かさを表し、証しするものとなります。特に、夫婦の関係性はキリストと教会の間の愛と一体性い比べられる深い愛を表します。

神に感謝し、キリストを恐れて互いに従いないなさいという20~21節の大原則に続いて、5:22~33で夫婦の関係性について教える時、パウロは一貫してキリストと教会の関係性を例に挙げながら説明しています。

互いに敬い、従順と愛を示し合うことは、キリストと私たちの愛と従順という関係性を人間関係に広げるということです。その最初が夫婦の関係であり、家族の関係ということになります。

特にキリストがいのちを捨ててまで私たちを愛し、私たちもまたキリストを敬い従い、教会がキリストに分かちがたく結び合わされる愛の交わりと比べられるほどの結びつきは、夫婦関係以外にはありません。

私たちが夫婦関係を良いものにしようと思うなら、単に家庭内での仕事を分け合うということではなく、お互いに対する尊敬と愛、相手のために仕えようとする態度を、イエス様の愛と仕えてくださった姿に倣って学び身につける必要があります。神様が私たちに願っているのは単に家事や育児の分担を上手にできる夫婦ではなく、互いに敬い、愛し、仕える夫婦です。

親子についても同じ原則が流れています。父なる神様が私たちを愛し、私たちを守り、私たちを尊重しつつも私たちを正しく導こうとされた姿から学ぶ必要がありますし、父なる神様への信頼と従順を親子の間に広げていくことを目指します。

奴隷と主人の問題は現代の私たちにはなかなか理解しがたいですが、初代教会の時代、ローマ社会では奴隷はありふれた存在でした。多くは戦争捕虜が奴隷とされたり、借金が返せなくて奴隷に身を落としてしまうということもありました。同じ家に家族とともに過ごしますが、一人の人間として扱われるというより、財産の一部と見なされていました。聖書ではキリストにあって彼らを家族の一員とみなし、脅したり差別したりせず、罪の奴隷であった私たちを赦し、家族として向かえてくださった神に倣って公正で寛大に扱うことを求めています。奴隷たちにもキリストのしもべとしての生き方、態度を地上の主人にも向けるようにと教えています。それは当時の文化の中では考えられないような全く新しい家族の姿でした。

このように、エペソ書の「家族の教科書」の中心にある考え方は、単に夫と妻の役割はこれだ、子どもの役割、親の役割はこうだ、という役目の内容をあげていくことではなく、イエス様によって神との交わりの中に入れられた私たちが、イエス様や父なる神様との間にある愛と一致、信頼と従順をあらゆる人間関係に広げていくことです。その最初が、私が属する家族に対してなのです。

私たちが神への愛と信頼、従順を家庭の中に広げていくとき、その家族は神の栄光を現し、神とキリストの愛と恵みの豊かさが他の人たちに証しされるものとなっていきます。

そして、このようにキリストにあって回復されていく家族が主にあって集められたのが、大きな神の家族としての教会なのだ、というのがエペソ書の重要なテーマになります。最初に言ったように、福音がもたらす回復にとって家族は欠かせないのです。

適用 それぞれの立場で

さて、私たちは、家族の中で夫として、妻として、親として、子など様々な立場を持っています。必ずしも一緒に暮らしていなくても家族としてのつながりはありますし、すでに死別して関係を回復しようにも相手はもういないという場合もあります。

どのような立場のときにクリスチャンになったとしても、あるいは長い人生の中で家族の関係性が変わっていったとしても、その時々の立場で他の家族に対して、キリストが愛し仕えてくださったことに倣い、イエス様に対する信頼と畏れ、従順を家族の人間関係に少しずつ広げていくことが教えられていることを今日は見て来ました。

それが簡単なことではないと、恐らく誰もが経験するでしょう。「もっと夫がちゃんと愛してくれたら喜んで仕えられるのに」とか、「もっと妻が文句ばかり言わずに従ってくれたら愛せるのに」とか言い訳をしたくなります。でも私たちが忘れてはいけないのは、イエス様が私たちを愛し、いのちを捨てたのは、私たちがまだ罪人だったときなのだ、ということです。そして、往々にして、私たちがそういう言い方で相手に要求しているときの私たちの心は聖書に従おうという動機ではなく、私の言い分を通したいからです。

関係を回復できないまま死別するということもあります。この世にあっては完全な意味での和解や回復ではないかもしれませんが、私たちの心において赦したり、尊敬を取り戻すことで感情において回復することはできます。そこまで出来なくても、なぜあんなに酷いことを自分にせざるを得なかったのか、そうさせてしまう苦しみや悩みを抱えていたことに思い至ることが幾らかの救いにもなるでしょう。それらもまた簡単なことではありませんが、心の中にわだかまりややり場のない怒りを抱えたまま生き続けるよりずっといいことですし、イエス様がどれほ私を愛してくださったか、その愛の深さを知ることにもなります。

夫婦間のDVや子どもへの虐待があるような状況では、非常に難しいことになります。最近問題になっている宗教二世の問題は決して異端グループだけの問題ではなく、親子関係を正しく学ばなかった場合は、クリスチャン家庭でも起こりうることです。

そのようなケースでは、盲目的に従うことがかえって苦しみを増し、相手の罪をさらに深くしてしまいます。そのような状況は、自分たちの信仰や努力だけで動かせるものではありません。逃げること、他の人の助けを求めることが必要です。

そしてこれはなかなか厳しい話しですが、罪の問題や病や老いと同じように、家族の問題も残念ながらこの世にあっては解決できないことがあります。私たちにとって慰めは、この苦難が永遠に続くわけではないこと、天国に行った時には完全に癒されるという希望があることです。また教会家族が励ましや慰めの場、居場所となることもできます。

家族の回復は、ある意味では私たちにとって霊的な戦いです。黙って待っているだけでは何も解決しないですが、取り組もうとすれば巻き爪を治す時みないに痛みと忍耐が伴います。それを避けて放置すれば、状態はぐずぐずと悪化してしまいます。

自分自身のうちにある様々な思いを越えて、イエス様への信頼と愛を現実の人間関係に広げていくには多くの葛藤があります。また、混乱した現状を諦めてしまうという誘惑は常にあります。

だからこそパウロは6:10で「終わりに言います。主にあって、その大能の力によって強められなさい」と、この戦いの力は主からだけ与えられることを、そのために御言葉と信仰が鍵であることをそして18節にあるように、互いのために忍耐を尽くして祈ることを勧めています。

今日は家族の回復に向けた原則を学んで来ましたが、実践するには御言葉と信仰、祈りと忍耐が必要です。しかしその努力には豊かな報いがあります。どうか、皆さんの家族との関わりが恵みと喜びに満ちたものとなりますように。

祈り

「天の父なる神様。

私たちが生まれてから死ぬまで関わり続ける家族との関係は喜びをもたらすだけでなく、時に痛みと悲しみや怒りを引き起こしてしまうことがあります。

どうか、この大切な家族との関係に主にある回復をお与えください。主にあって、恵みと喜びに満ちたものとなるまで、私たちに信仰と忍耐をお与えください。

主イエス様のお名前によってお祈りいたします。

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