2022-12-04 約束されたお方

2022年 12月 4日 礼拝 聖書:マタイ1:17-25

 今日から三回にわたって、三つの福音書の冒頭から、それぞれの福音書がイエス様の降誕をどのように描いているのか、それは何を意味しているのか味わっていきたいと思います。今日はマタイの福音書ですが、婚約者マリヤが聖霊によって身重になったことを知ったヨセフが思い悩むという有名なエピソードの前に、長い系図が記されています。マタイは、イエス様の誕生が神の約束の成就であることに注目します。

先週、国道107号線の土砂崩れで通行止めになっていた箇所に迂回する橋が完成し、1年7ヶ月ぶりに通れるようになったというニュースがありました。ずっとお休みしていた道の駅も営業再開してそうで、もう食べられないのかと諦めていたダムカレーもそのうち食べに行けるのではないかと期待しています。もちろん、シオン錦秋湖に行くのも楽になります。

これは仮設の橋で、本格的な復旧はトンネルを通す計画だそうです。まだ先の事でしょうが、こうやって計画が一つずつ前進し、いずれ完成すると期待が持てるのはいいこと、希望のあることです。

神様の救いの計画はアブラハムへの約束に始まり、ダビデとの契約、そしてバビロン捕囚の時代を経て、イエス様誕生によって実現しました。道路の復旧工事よりずっと長い物語です。しかしそれらの物語は私たちにとってどんな意味があるのでしょうか。

1.繁栄と暴力の時代

第一に、神の救いの約束は繁栄と暴力の時代に告げられました。

マタイの福音書が系図で始まるのは見ての通りで、本当は系図も含めてお読みしたかったのですが、舌を噛みそうなので止めました。冗談はさておき、この系図から重要な三つの時代があることが分かります。2節のアブラハム、6節のダビデ、12節のバビロン捕囚です。今まで創世記から一書ずつ学ぶシリーズをやって来ました。ですからこれらが旧約聖書の大きな物語の中心的な流れを作っている登場人物と出来事だということが思い出せると思います。創世記に登場するアブラハムは信仰の父と呼ばれますが、それは彼が神の約束した祝福を信じたからで、その約束は契約と呼ばれます。

では、神様はなぜ、アブラハムの時代に、彼を選び、救いの約束を最初に与えたのでしょうか。

アブラハムが生きた時代は紀元前2000年頃です。一度は耳にしたことのあるメソポタミヤ文明が栄えていた時代のことです。同じ時代、他にもエジプト、中国の黄河流域、インド・パキスタンのインダス川流域、南米大陸のアンデスなどで大きな文明が長く栄え、繁栄していました。そうした繁栄の中で様々な知識と知恵が磨かれ、すぐれた技術が生み出され、それがまた富と力をもたらしました。古代の技術の中には現代でも再現できないものがりますし、各地の遺跡で見つかる巨大な石や大量の黄金、宝石など、いったいどれほどの権力と富の集中があったのだろうかと驚かされます。

これらの時代の研究にはロマンを感じますし、私などはテレビで特集があるとついつい見てしまいます。しかし聖書はアブラハム以前の時代について少し違った面に注目しています。

創世記には天地創造に続いて人間が罪を犯し堕落してしまう話があります。エデンの園を追い出された人類は地上に増え拡がっていきますが、繁栄とともに道徳的な堕落と暴力がはびこる世界でした。ノアの箱舟やバベルの塔の話が出て来ますが、いずれも神に背を向けた人類が繁栄の影で道徳的な腐敗と暴力から離れられない姿を描いています。そこまで描いてからアブラハムが登場します。

アブラハムの時代、地球上のあちこちに散った人類は再び繁栄していました。しかしノアの時と同じように繁栄の影で暴力を手放せずにいました。各地で発見された遺跡の中には素晴らしい芸術や繁栄の様子だけでなく、様々な武器と戦争の形跡、あるいは人間の命さえ神々に献げる残虐な宗教儀式の様子が見られます。

聖書は、神に背を向けた人類には常に光と影があることを示しています。人は神のかたちに造られたので知識と知恵、創造力を持っていて、それらを用いて繁栄します。同時にアダム以来の罪ゆえにいつも道徳的な腐敗と暴力から離れられないのです。繁栄の影に闇ありです。そんな時代に、神様はアブラハムを選びました。

アブラハムが自分の生きた時代について嘆いていたとか悩んでいたとは書かれていません。彼が何を思っていたかは分かりませんが、「あなたとあなたの子孫を通して世界を祝福する」という神の約束を本気で信じたのです。ヘブル書には出て来た故郷よりもっと優れた天の故郷に憧れていたと書かれています。今私たちも自分たちの生きている世界に愛着もありますが、同時にこの世界の有り様に心を痛め、「なんでこんなことが」と嘆くようなこともあります。そういう時代に神様が祝福と希望の約束を与えたのです。

2.栄光と挫折の時代

第二に、神の救いの約束は栄光と挫折の時代に改めて語られ、再確認されました。それがダビデの時代です。

ダビデの時代は、イスラエルの民が王国を確立し栄光を勝ち取った時代ですが、同時にゆっくりと破滅へ向かっていく時代でもありました。まるで戦後の日本が驚異的な復興と経済成長を遂げて世界でも有数の経済大国になった後、じわじわと衰退を続けているのに似ています。ともかく、ダビデ王によってイスラエルが国として確立した後で、神様はアブラハムの約束を更新しました。

神様がアブラハムへの契約として与えた内容には、彼の子孫が一つの民となり、約束された土地を受け継ぐということが含まれていました。つまり、一つの国になるということです。その約束が目に見える形ではじめて表れたのが、イスラエル王国でした。ダビデは二代目の王でしたが、彼はイスラエル王国の栄光の頂点にあります。経済的な繁栄や領土の広さという点では、ダビデより良い時代はあったのですが、まことの神が選び、神に対する信頼と畏れ、忠実さという点でダビデに並ぶ王はいません。

そのダビデに対して神様がアブラハム契約を更新し、より詳しい約束の内容が明らかにされたことがサムエル記第二の7章に記されています。それは神に背を向け破滅してしまった先代の王サウルが死に、ダビデが新たな王として立てられたあとのことです。7:1には「主は、周囲のすべての敵から彼を守り、安息を与えておられた」とあります。国内の権力争いも、周辺諸国との戦争も止み、つかの間の平和が訪れていた時代です。この後、ダビデは幾つかの戦争に勝利しますが、これらの戦いで敗れた国、民族が後の時代にイスラエルにとって常に悩みの種になっていきます。また、ダビデ自身ももう軍の先頭に立って指揮をすることもなくなり、部下が戦地に赴いている間、最も忠実な兵士の美しい人妻に心を奪われ、我が物にし、しかも妊娠させてしまうのです。ダビデは預言者の言葉によって我に返り悔い改めますが、彼の人生はだんだんと下向きになっていきます。略奪婚をして生まれた子どもはすぐに死に、他の息子たちはろくでもない子に育ち、やがて謀反を起こします。

ダビデの跡を継いだのは、例の略奪婚によって妻となったバテシェバから生まれたソロモンで、これまた王宮内に波紋を拡げることになりました。しかし、ソロモンは賢く王国を治め、当時の世界では最も知恵深い王として尊敬を集め、富も集めました。

しかし、「繁栄の影に闇あり」です。繁栄と挫折はダビデ個人の問題だけではなく、イスラエル王国全体の問題でした。

ソロモンが外国との交流を深める一方、千人もの妻と側女を置きました。しかも妻や側女とされた多くの外国の女性たちが、それぞれ故郷の国から異教の神々をイスラエルに持ち込みました。

ダビデの残した負の遺産とソロモンが持ち込んだ偶像礼拝は、次の代で王国が分裂し、南北の王国が絶えず争い、弱体化したイスラエルに対して常に周囲の国々が争いを仕掛けるという、長いゴタゴタの時代が続き、やがてアッシリヤ、バビロンといった強大な国々によって国は滅ぼされていきます。

そんな栄光と挫折の中で、神は希望を語り、未来があることを指し示したのです。たとえ世の中が下り坂で、悪くなっていくようであっても、神の祝福の約束はなおも私たちの希望であり続けます。

3.希望が消えかけた時代

第三に神の祝福の約束は希望が消えかけた時代にも、まるで真っ暗闇の海を照らす灯台のように光を灯し続けました。

ダビデ王とその後のソロモン王、そして続く分裂王国の時代が栄光から挫折へと転落していく時代だったとすれば、バビロン捕囚の時代は、希望が消えかけた時代でした。

分裂王国時代は、ダビデ時代のゆるやかな死であり、後のバビロン捕囚につながっていくのですが、この捕囚前後の時代に目覚ましい活躍をしたのが預言者たちでした。

預言者達はことある毎に遣わされ、神との契約を思い出し、立ち返るよう王や人々を説得しようとします。その預言のことばの中に、神による祝福の約束の、さらの具体的なことが明らかにされるようになりました。例えば、今日開いているマタイ1:23は預言者イザヤの預言です。イザヤはアッシリヤ帝国によって北王国が滅ぼされ、その手が南のユダ王国にも伸ばされているという、希望が消えかけた時に、この預言のことばを残しました。

神に背を向け、神との契約を破れば、当然その報いを受けることになると何度も警告されていましたが、実際に王国が滅びたら、神に見捨てられたと思うしかありませんでした。国を失い、遠い外国の地に捕囚として連れていかれたのでは希望が消えたも同然です。

しかし、その後も神の預言者達は遣わされ続け、なおも希望が指し示され続けます。

バビロン捕囚から70年後、イスラエルは再び元の地に神殿と城壁を再建し、自分たちの国を取り戻しますが、そこまでしてもまだ、人々の心は神様にちゃんと結びついていませんでした。そんな中、預言者たちが指し示したのは、ダビデの子孫として生まれるキリストです。この方こそが、人々の心を新たにし、救いをもたらすという希望を示します。

最後の預言者マラキがやがて来られる救い主とその道備えについて告げたのを最後に、およそ400年の間、神様から預言者が遣わされることはありませんでした。その間、イスラエルはつかの間の独立を勝ち取りますが、全体としては支配者がギリシャ、ローマと代わっていき、時にはそうした支配者によってせっかく再建した神殿に汚れた動物が放り込まれたり、偶像が持ち込まれたり冒とくと屈辱を味わう歴史でした。そんな中で人々の救い主への期待は次第に民族としてのプライドを取り戻し、独立した国を再建してくれる、そんな期待を持つようになっていったのです。

この系図には神様が繰り返して来た祝福の約束・契約が、ただの紙切れの読みもしない保険の契約書みたいなものではないことが現れています。神の約束は現実世界の中で生きた人々への希望として、あるいは立ち返るべき道標として息づいていました。

その約束が果たされる時が今まさにやって来たというのが、このアドベントの物語です。御使いがマリアに語ったことは、まさに旧約の預言がマリヤを通して生まれる男の子であることを示していましたが、婚約者であり夫となるヨセフは、どう受け止めたらいいか迷っていました。マリアが人々のさらし者になることを心配しました。しかし御使いは恐れずにマリアを向かえるよう励まします。やがてその子が人々を救ってくれるからです。しかも救い主はローマからの解放ではなく、罪から救う方であることが明言されました。

適用:救いと希望はいまも

今日は長々と旧約聖書の物語をおさらいするような話しをして来ました。それは、マタイがイエス様誕生の経緯を語るうえで欠かせない物語だったからです。それがこの系図に込められた意図です。そして、私たちはこれを読むときに、キリスト教がただの古い宗教だというだけでなく、現実の世界の中で生きた人々の希望となり、慰めとなり、道標となってきたものだということを教えられます。

聖書が指し示す神様は、ギリシャ神話やローマ神話に出て来るような気まぐれだったり、怒りっぽかったり、色恋で争うような神々ではないし、日本の神々のように細かな役割限定、季節限定、地域限定の神々でもありません。今年の流行語大賞に「村神様」が選ばれました。ヤクルトファンとしては嬉しい反面、クリスチャンとしては困ったなあと複雑な気持ちになります。しかし、日本人の神観からするとなるほどと思えるものです。昔から日本では秀でた能力を持った人やとんでもない業績を残した人物を神に祭り上げてきました。犯罪者でも神様になるのです。すごく可愛い女の子や男の子たちはアイドルとなりますが、アイドルの本来の意味は偶像です。

しかし聖書の神様はまったく異なります。人間に備えられた素晴らしさを用いて繁栄しつつも、罪の性質ゆえに繁栄の影にいつも道徳的な腐敗と暴力を拭いきれない、そういう人間の歴史の中に、そこで暮らし、苦しみ悩み、傷付き、挫折し、希望を失っている人々に、いつも語りかけ、希望を与えて来ました。その希望を握りしめた人々は、弱さも失敗も確かにあるけれど、それでもこの世界にあってただの自己中心になりさがったりせず、忍耐し、約束してくださった神を信頼し、人々に誠実であろうとしました。

この希望の中心におられる約束のキリストは今からおよそ二千年前のユダヤでお生まれになりました。

その救いはイエス様の十字架によってイスラエルの人々だけでなく、アブラハムに約束されたとおり全世界への祝福となりました。

そして、現代の世界は、アブラハムの時代のように繁栄と暴力の時代です。ダビデの時代のように栄光と挫折の時代でもあり、捕囚時代のように希望が消えかけている時代でもあります。

技術と経済の発達がある人々を富ませていますが、その背後には常に貧しい人々、抑圧された人々がいます。戦争が一日に何百人も兵士や市民を殺し、経済格差の中で見捨てられた人々が飢えに苦しんでいます。社会が弱っていっているのに過去の栄光を忘れられない政治家たちが未来を指し示すことができず迷走し、若い人たちは世の中に希望や期待を持ちにくくなっています。子どもが生まれることが、かつては手放しで喜ぶことだったのに、今は人生のリスクにさえなってしまっています。

神様なんかほんとにいるのかと思うようなことが毎日起こっているかも知れません。しかし、旧約の物語を見ていくと、まさにそんな現実の中で神は語り続けて来ました。そして今やその神が23節にあるように「インマヌエル」「神が私たちとともにおられる」方としておいでくださいました。

今の時代がどんな時代であれ、私たち一人一人が人生のどんな状況にあったとしてもイエス様は私たちと共にいてくださいます。これからも一緒にいてくださいます。定住地もなく旅を続けたアブラハムとともに歩まれた神様、栄光を掴んだかと思ったら不倫の果てに挫折を経験したダビデを見捨てず共に歩み続けて下さった神様、反抗を繰り返し背を向けたイスラエルに語り続けてくださった神様が、ひとり子イエス様を与え、十字架の死に引き渡すほどに私たちを愛してくださったのです。

私たちがいったいどんな失敗をしたからといって見離すことがあるでしょうか。私たちがどんなに神様を疑ったり、みことばに従えない弱さがあったからといって見捨てることがあるでしょうか。

インマヌエルなるイエス様の希望と救いは、今も私たちのものなのです。

祈り

「天の父なる神様。

クリスマスを待ち望むアドベントの日曜日に、神様の大きな物語を思い巡らし、そこに現れたご愛と忠実さを覚えます。約束された祝福と希望が今も私たちのものであることを感謝します。

私たちがいまどんな状況に置かれているとしても、どんな境遇や心持ちの中にいるとしても、おいでくださったイエス様がインマヌエルなる神として、私たちと共にいてくださり、救いと希望を与え得てくださることを心から感謝します。

イエス・キリストの御名によって祈ります。」

コメントする

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA