2023年 1月 1日 元旦礼拝 聖書:詩篇23篇
新年を迎えましたので、いつものように詩篇を開きます。今年は2023年ですので、23篇を味わっていきましょう。おそらく数ある詩篇の中でも最も愛されている詩だと思います。
皆さんは「信仰によって歩む」という言い方を聞いたり、使ったりしたことがあると思います。それはいったい何を意味しているのでしょうか。
いろいろな意味合いが込められた言葉だとは思いますが、その中でも大切なことの一つは、ある信仰に立って物事を見ていくという、新しい世界観や人生観で生きるということです。
この世界が偶然出来たと信じることと、私たちを愛してくださる神によって造られたのだと信じることでは、この宇宙や人生を見る目が変わって来ます。それは生き方の違いに現れます。
今日、私たちが味わう詩篇23篇には、まず詩人ダビデの信仰の確信が表明されています。「主は私の羊飼い」だ。その信仰に立った時、その人の目には人生がどのようなものに映るでしょうか。
この信仰はダビデの人生を通して得た確信かも知れませんが、反対にその信仰がなかったら、この詩に現れているような人生の見方はできず、まったく違ったものに見えたはずです。
では、ご一緒に23篇を見ながら、私にとっても主は羊飼いでいてくださることの恵みを味わっていきましょう。
1.緑の牧場
第一に、主は不毛と思えるような人生や生活を緑の牧場、いこいの汀に変えてくださいます。
主が私の羊飼いだというのは比喩的な表現なのですが、主が王であるとか、父であるとか、ぶどう園の主人であるといった他の比喩にはない、特別な味わいがあります。詩人ダビデは羊飼いでしたから、羊飼いがあらゆる面で世話を必要とする羊たちのためにどれほど汗水流して働くかを良く知っていました。良い羊飼いのもとにいる羊の群は決して乏しいことがなく、十分なものが備えられます。
イスラエルの聖地旅行に行った人の話しです。ツアーガイドが郊外のゴツゴツした岩が所々顔を出している丘陵地帯へ連れて行ったそうです。そしてこう言いました。「ここが緑の牧場です。」
水と緑が豊かな日本で暮らしていると、緑の牧場と言ったら小岩井農場みたいな美しくなだらかな丘陵地帯の牧場を思い浮かべるかも知れません。しかし聖書の世界では、緑の牧場といったら荒れ地のような場所に所々草が生えているような場所でした。ですから羊飼いたちは、一箇所に長くとどまることができず、あちこち移動しながら羊たちを食べさせ、水場に行くためまた移動するのです。
詩人ダビデはそのことを経験上よく知っていました。そして、その様子が人生とよく似ているとも感じたのです。
神様が私たちを緑の牧場に導く、という時、あるいは休息できる水のほとりに連れて行くというとき、必ずしも緑豊かで水もたっぷり飲めるような場所というわけではないし、何より、実際今暮らしている生活とかけ離れた世界につれて行くということを意味しているわけではありません。
つまり、神様が私たちを今より良い暮らしにしてくれる、例えば、経済的に豊かになり、会社で昇進したり、急に家族が仲良くなったり、問題が劇的に解決する、ということを必ずしも意味していないのです。もちろん、結果的にそうなることは十分あり得ることです。信仰によって生活が落ち着き、整えられることが生活の安定や人間関係を改善することは救いの実の一つです。
しかし、多くの場合、私たちはイエス様を信じた後も、まだ岩だらけの荒野を歩き回っているように感じることがあります。
それでも、主が私の羊飼いとなって私の歩みを導き、支えてくださるのだという信仰にたって見る時、一見荒れ地のように見える暮らしの中にも、その時々に必要な草が生えていることに気づき、見渡せばそこら一帯に草が生えていることに突然気づかされるのです。溢れるような水を独り占めできるのではないけれど、互いに分け合える小さな水場で、誰かと一緒に喉を潤すことは十分に出来る、そんな恵みをあちらこちらで主が与えていてくださっていることに気づかされるのです。
実際ダビデの生活は、サウル王のもとに召し出された時からというもの、困難の連続でした。文字通り荒野に身を隠しながら逃亡生活をしたこともあります。しかしその逃亡生活を背景にしたたくさんの詩が聖書に残されていますし、ヨナタンというかけがえのない友人と出会い、どんな逆境でもダビデに従う者たちに恵まれました。見方を変えれば試練に次ぐ試練でしたが、主が羊飼いだから、そういう厳しい中でも乏しいことはなかった。荒野のような日々でも、必要は十分に満たされていたと言うことができたのです。
2.死の陰の谷
第二に、主が羊飼いであるなら死の陰の谷をも恐れることはありません。
「死の陰の谷」とは、羊飼いが羊の群を移動させる時に通らざるを得ない危険が潜む場所です。一歩間違ったら谷底に落ちてしまうような道だったり、羊を狙う獣や強盗が潜む場所もあったことでしょう。そんなとき、羊飼いは羊を導き、危険から守り、時には手に持っている杖とむちを駆使して襲って来る獣や敵と戦います。ダビデも羊を守るためにライオンや熊と戦ったと言いました。ダビデの武器は小石を投げて敵を倒す小型の投石器でしたが、3m近い巨人ゴリアテを一発で仕留めるくらいの威力がありました。まして万軍の主と呼ばれる神様が私たちの羊飼いとなってくださるなら、どれほど心強いかとダビデは歌うのです。
ある有名人が昨年末のテレビでの対談の中で「来年は新しい戦前になるんじゃないですか」と言って話題になったそうです。実際そうなるかは分かりませんが、緊張感は確かに高まっていますし、今の政権は増税してでも防衛力を増強すると言っています。世の中の論調も、昨年のロシアによるウクライナ侵攻と同じような状況が台湾や日本海の島々で起こるのではないかという不安の中、侵略戦争は良くないけれど、自衛のためなら仕方ないよね、という見方が増えているように思います。太平洋戦争も一般人が知る間もなく戦争に突入していましたから、あながち根拠のない話しでもないように思います。そうでなくても私たちの人生には面倒なことが多いのに、世の中が戦争になってしまったら、いったい私たちの生活はどうなるのでしょうか。
私たちが詩篇を味わう時に注意したいのは、23篇も含め、これらの詩は決して80年も戦争がなく平和と繁栄を謳歌していた時代に生み出されたものではないということです。
ダビデは若くして次の王として神に選ばれていましたが、それゆえに権力争いのまっただ中に置かれてしまいました。昔の権力争いは政治的な駆け引きだけでなく、根回しや話し合いで解決できなければ手っ取り早く武力に訴えるということでしたし、他の国との外交や貿易も軍事的な力を背景にしたものでした。今よりずっと厳しい時代です。そういう中で主が私を守ってくださった、いのちを助けてくださったと何度も歌っているのです。
また死の陰の谷はダビデ自身の内側にもありました。ダビデの家庭は彼自身のスキャンダルもあって決して平和で楽しい家庭ではありませんでした。実の息子のクーデターで命を狙われることもありましたが、バテシェバとの不倫や主の命令によらない人口調査などは霊的な死の危険と隣り合わせでした。しかし、そのような中でも主は預言者を遣わし、ダビデをもとの道へと引き戻したのです。
主が羊飼いだという信仰がなかったら、こんな酷い人生とか、なぜ自分だけこんな目に遭うのかとか不満が先立ち、理不尽に腹が立つというような状況です。しかし、主が私の羊飼いだという信仰があればこそ、たとえ死の陰の谷を歩まざるを得ないような時でも、ひょっとしたら世界中がさらに戦争の危機が高まるような年になったり、あるいは私たちが道を踏み外して霊的な危機に陥ることがあるとしても、主が私たちを守り導こうとしてくださっていることに気づくことでしょう。
3.慈しみと恵み
第三に、羊飼いなる主の慈しみと恵みとは今年も尽きることがありません。これはこれからの生活、人生に対する希望です。
詩篇23篇は5節で少し雰囲気が変わって来ます。4節までは明らかに主を羊飼いに、自分を羊に喩えて歌っているのですが、5節では主が祝宴に招き、喜んで迎えてくれる様子に喩えて、あふれるばかりの主の恵みを歌っているように見えるのです。最後まで羊飼いが羊を世話する様子を描いているというふうにも見えなくはないのですが、いずれにしても言わんとしていることははっきり分かります。主の恵みは、たとえ敵がいようとも生きている間ずっと追いかけるように私に与えられ続けるという信仰の告白です。
外には敵がこちらを狙って様子をうかがい、今にも戦いを挑んで来るかも知れないというのに、私たちの主は私たちのために豊かな食卓を準備し、私たちを祝福し、食事に招くことを喜びとして香油を注ぎ、杯にあふれるほど飲み物をついででくださるというのです。私たちの文化には香油を注ぐということはありませんが、聖書の世界ではこれは最高のおもてなしの表現です。
しかし、すでに羊飼いである主が、私たちを祝福し、必要を備え、危険から守ってくださるというのに、その上さらに恵みが追って来るとはどういうことでしょうか。「私は乏しいことがありません」で始まった詩が「いのちの日の限り、いつくしみと恵みが、私を追って来るでしょう」と大きく恵みの世界が拡がるようにして終わるこの詩で、ダビデが伝えようとしたこと、神様がダビデを通して私たちに教えようとしたことは何だったのでしょうか。
私たちの暮らしの保証や安全を生涯にわたって支えるという約束でしょうか。
神様はかつてダビデに一つの約束を与えていました。ダビデ契約とも呼ばれますが、アブラハムへの祝福の約束を継ぎ、さらに発展させた約束でした。ダビデの子孫から永遠の王国が立てられます。
サムエル記第二7章にありますので、少しだけ見てみましょう。
7:14には「杖とむち」が登場し、ダビデの子孫を主ご自身が導き、訓練することが告げられています。また15節では主の恵みが、決して取り去られることはなく、その王国が永遠のものになると告げられていました。
牧歌的な詩篇23篇ですが、ダビデがこの約束を忘れたなんてことがあるわけがありません。羊飼いなる主のダビデに対する恵みは単に彼の日常を支えるだけのものではなく、やがて慈しみと恵みとがあの契約を成就させるのだと考えたのではないでしょうか。そしてそれが主の救いのご計画であったことを私たちは知っています。
詩篇23篇の終わりと響き合う聖句が新約聖書に登場します。ヨハネ1:14と16です。ヨハネの福音書で「恵みとまこと」と約束されている言葉は旧約の「いつくしみと恵み」とほぼ同じです。
イエス様は詩篇23篇で歌われていた尽きない恵みといつくしみを体現した方です。そしてこの方によって16節にあるように私たちは「満ち満ちた豊かさの中から、恵みの上にさらに恵みを受けた」のです。恵みが私を追って来る、という表現と重なります。
ダビデがどこまで理解していたかは分かりませんが、彼が確信していた恵みが尽きることなく、追いかけて来るだろうという望みは、イエス様を通して実現し、私たちに今注がれています。
適用:いつまでも主の家に
さて、今日は2023年の始まりということで詩篇23篇を味わって来ましたが、最後に詩の終わりの一行を見ていきましょう。
主が私の羊飼いであるという信仰に立って人生を見るとき、そこには主ご自身の養い、導き、守り、戒め、慰めがあったことが見えて来ました。そしてこれからも、たとえ敵がすぐそこにいたとしても主が私を喜び、祝福し、溢れるほどと慈しみと恵みとをまるで追いかけるようにして注いでくださるという希望を持つことができました。
聖書の詩は、日本の俳句や短歌、また現代詩とは違って、歌を味わうだけでなく、教訓的な面があります。以前、詩篇について学んだ時にお話しましたが、詩篇は礼拝で用いられる賛美を通して、神の言葉に聞き従い、約束された救い主を待ち望むよう民を教え、励ますために書かれました。
ですから「主は私の羊飼い」という美しい詩的な言葉を聞いて、緑の野原で主イエス様のもとでのんびりくつろいでいる光景を思い描いて、「ああ、なんかいいなあ」とぼんやり思い描いて終わったのでは、心ここにあらずで歌詞をよく考えもせずぼんやり讃美歌を歌っているようなものです。詩篇の本当の意味も力も知らずにいることになります。
主が私の羊飼いであるという確信がダビデの生き方を支え、変えたように、私たちの生き方を支え、変えていくものです。
23篇の最後は「私はいつまでも、主の家に住まいます」という決断で終わっています。主が私の羊飼いであり、恵みと慈しみに満ちた方なので、これからもずっと主の家に住まいますと告白しているのです。
主の家とは直接は神殿のことを指していますが、神殿は住宅用ではなく礼拝を捧げる場所なので、もちろんこれも比喩的な表現です。神殿は主を礼拝する場であり、主が民の真ん中におられることの象徴ですから、意味するところは、これからもずっと主に信頼し、主を主とし、主と共に、また主の民と共に歩む、ということを言っているのです。
新しく始まった一年、ご一緒に「主は私の羊飼いです」と告白して歩みましょう。そして「私はいつまでも、主の家に住まいます」と日々心を新たにして歩みましょう。
主が羊飼いであったという信仰に立って昨年の歩みを振り返った時、自分の歩んで来た道のり、世界はどのように見えますか。荒れ地のような中を歩んだ時、病の時、困難な時、その時々は確かに大変だったかもしれませんが、誰かや何かを通して、あるいは主ご自身から、主の守りと導き、慰めと助けがありませんでしたか。
新しい年も、荒野を歩むように思える時には、羊飼いなる主に従って歩んで行けば、その時々に必要な備えがあり、休息が与えられることに気づかせていだきましょう。
死の陰の谷を歩んでいるような状況の時も、それが外から来る脅威や恐れであれ、内から戦いを挑む霊的な危機であれ、主イエス様が私の良い羊飼いとして守り戦ってくださり、導いてくださることを見させていただきましょう。
皆さんの新しい一年が、主の恵みといつくしみの絶えない一年でありますようお祈りいたします。
祈り
「天の父なる神様。
新しい年を迎えさせてくださり、ありがとうございます。
私たちの羊飼いとなってくださる主イエス様が私たちの日々を支え、守り、やがて天の御国で喜びの祝宴に着く日まで導いてくださいますように。
その歩みのただ中にある私たちは時に飢え、渇き、恐れますが、主がすべてを備え、守ってくださることを信頼して、主と共に歩む事が出来ますように。主を主とするすべての兄弟姉妹と共に歩むことが出来ますように。
主の慈しみと恵みとが私たちを追って来ますように。私たちが主の家に共に住まわせてください。
主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。」