2023年 2月 5日 礼拝 聖書:ホセア10:9-12
最近、某回転寿司チェーンで、いたずらにしては度を超したことをしでかした様子が動画で出回って大騒ぎになっています。こうしたことは以前からもありましたが、今回は本人と両親が謝罪しても損害賠償の裁判を起こすことになりそうだと記事で読みました。実際の損害を計算するのは法律的には結構難しい問題のようですが、それでも未成年だからといって謝って済む話しではないと多くの人が思うことでしょう。これは教育やしつけ、企業経営に関する問題ではありますが、根底には正義の問題があります。損害に対しては応分の報いが与えられるべきだ。未成年の子どもには責任能力があるのか、どこまで罰せられるべきか、いつも議論となります。
正義がなされていないと私たちが感じるとき、怒りと正義を求める思いが沸き起こってきます。クリスチャンは互いに赦し合うことや和解の務めを教えられていますが、しばしば、この正義への求めが満たされないために赦しや和解を難しく感じます。こちらが寛大に振る舞っても、相手がいっこうに反省の色を見せないような時、言い訳ばかりしているとき、7を70倍するまで赦せと言われたイエス様ご自身の教えでさえ、非現実的だと思わせます。
今年度の主題である「主の回復」には、この正義の問題もしっかりと含まれており、聖書の大事なメッセージとなっています。今日はホセア書を通して、正義の問題について学んでいきましょう。
1.誰よりも主が正義を
第一に、私たちは誰よりも主ご自身が正義を求めておられることを理解し、信じましょう。
考えてもみてください。なぜ神様は預言者たちを通してでも、福音によってでも、そのメッセージの中で私たちの罪を問題にするのでしょうか。もし神様が正義に無頓着で、私たちがどう生きようと気にしないということだったら、律法を与えたり、罪を指摘する預言者を遣わしたり、悔い改めを迫ったりはしなかったはずです。
ところが私たち人間は、自分にとっての正義が満たされないことばかり気にして、神様が正義を求めていることをすっかり見過ごしてしまうのです。
誰かが私に嘘をついた。ひどい事を言った。不公平な扱いを受けた。差別された。見下された。もちろん、他の人のために怒りを覚えることもあります。どこかの国で自由が抑圧されている。性別や身分によって酷い目に合わされている、そんなことを聞けば悲しくもなり、怒ることもあるでしょう。
そんなときに神様のことを思い出すとしても、「どうして神様はこんな酷いことを放っておくのか」という文句をぶつける相手として思い出すくらいです。
9節と10節をもう一度見てみましょう。
「ギブアの日」というのは、士師記の最後に出てくる事件の事です。下劣な犯罪者をベニヤミン族が不当にかくまったために他の部族が怒り狂ってベニヤミン族がほとんど根絶やしにされそうにまでなりました。当時のイスラエルの堕落ぶりと混乱を象徴するような出来事でした。その悪はホセアの時代になっても変わらず、ずっと罪を犯して来たのだと厳しく指摘されています。
当時、イスラエルの民は外国から責められて苦しんでいました。そのことで神の民である自分たちを神が見捨てた!正義はどこに?と文句を言っていました。しかしホセアは、正義を求めているのは神ご自身で、彼らの悪に対する報いを求めたのだと言います。
11節はちょっと面白い喩えです。イスラエルの民は「飼い慣らされた雌の子牛」で、「麦打ち場で踏むことを好む」というのです。麦打ち場というのは、収穫した麦を穂から実を外し、脱穀する作業場のことです。打ち場での作業は平らで牛にとっても歩き易い場所で行われ、時には脱穀の仕事をしながらおこぼれに与る楽しみもあるものでした。イスラエルは神の民、祭司の民として世界に平和を祝福の実を収穫する務めを主から与えられましたが、役得には与りたいけれど、そのための労苦を好みませんでした。それどころか酷い悪を選んで来たのです。
ですから、神様は柔らかく美しい首にくびきを掛け、畑を耕す重労働に向かわせるように、彼らの悪に対して報いを与えます。神の正義というのは自分たちにだけ都合の良いものではないことを思い知らせるようなメッセージです。
私たちは他人や社会の悪を問題にし、正義を求めて怒ったり苦しんだりしますが、神様こそが正義を求めているのだと気付かなければなりません。旧約の歴史を見ていくと、神様は悪を行った国々に対して報いをもたらしていますが、それは神の民に対しても同じであったことが分かります。神様こそが誰よりもこの世界に、そして私たちの生き方に正義を求める方なのです。
2.主が正義を回復される
第二に、主は正義を回復してくださいます。これは神様が繰り返し宣言し、約束して来られたことです。そして、イエス様が人の子として来られた時に、そして王として再び来られる時にもたらされる正義です。
12節の終わりに注目しましょう。「ついに主は来て、正義の雨をあなたがたの上に降らせる。」とあります。
雨は降り出すと土地全体をくまなく潤し、植物にいのちを吹き込み、あらゆる生き物の渇いた喉を潤します。アフリカのサバンナで年に数回という雨が降ると、これっぽっちも緑が見えなかったところに一斉に花が咲き出す映像を見たことがあります。そのように神様は正義を地の全面にすみずみまで行き渡らせ、回復してくださいます。今はカラカラに乾いた土のように、水分が足りずにしなびかかった作物のように、正義を渇き求めているとしても、やがて雨が降るように正義を回復します。どのようにしてでしょうか。
まずは救い主キリストによってもたらされる憐れみと恵みの良い知らせとしてです。ルカの福音書4章で、悪魔の誘惑を退けた後にイエス様は働きを始め、ナザレに行きました。安息日の会堂でイザヤ書61章の預言が朗読され、人々が注目する中、イエス様は「今日、この聖書のことばが実現しました」と宣言なさいます。
イザヤの預言にあった内容は、貧しい人、虐げられている人が顧みられ、捕らわれた人が介抱され、目の見えない人の目が開かれ、主の恵みの時が到来したということでした。
そのことを証明するようにイエス様は病んでいる人々を癒やし、貧しい者や社会からのけ者にされている人々のもとへ行って友となられました。
このイエス様の働きは後に弟子たちを通して教会の働きとなっていきます。福音が宣べ伝えられるところでは、この世界の悪や不正に苦しみ、差別され、痛んでいる人々に福音が語られ、人種や性別や身分、文化的背景の違いに拘わらず、ひとつの神の家族として迎え入れら、愛と慰めがもたされました。
一方、教会には権力の側にある人たちや金持ち、奴隷の主人たちもいましたが、彼らもまた悔い改め、不正を改め、へりくだることを学びました。そのようにして神の家族の中に和解と正義がいくらかずつでももたらされました。完全な正義の回復までには至りませんが、確かに正義を求める人々に慰めをもたらしました。
正義の回復の、次の段階は、イエス様再び地上においでになるときです。その時、イエス様は王としてこの世界を治め、悪に報い、完全な正義を回復なさいます。
ナザレの会堂で朗読されたイザヤ書の預言にはもちろん続きがあります。イザヤ61:4~11には、神の民が再び世界に対する祭司の役割を取り戻し、不法に対しては真実をもって裁きが行われ、正義がもたらされます。興味深いことに11節ではホセア書と同じように種が芽を出すという喩えが用いられて正義がもたらされることが描かれています。
種を蒔いたら次の日に実がなっているということはありません。雑草を抜き、害虫や病気から守って、世話をし手入れをして、時が来ればようやく実を結びます。主が正義を回復してくださるのも、時が来るのを待たねばなりませんが、それは必ず訪れるのです。
3.正義の種を蒔け
第三に、主が正義を回復してくださるので、私たちは今、正義の種を蒔くようにと励まされています。
聖書の文としては少し戻る形になりますが、12節の前半で「あなたがたは正義の種を蒔き、誠実の実を刈り入れ、耕地を開拓せいよ。」と命じられています。それはやがて正義の雨がもたらされるからです。
終わりの方から物事を見る、ということを聖書はしばしば示しています。主は完成した姿を示して、そこに向かっている私たちはどう歩むべきなのかと考えさせるのです。
アメリカのメジャーリーグで大活躍している大谷選手が高校生時代にはすでにメジャーで活躍する選手をイメージして、そのために野球の技術だけでなく、体力や生活、社会との関係などについて具体的な目標を立て、その実現のために何が必要かをかなりよく考えて実行していた、というのは有名な話しです。
もちろん、この世界の正義を回復するのは私たちの努力次第ということではなく、あくまでも神様のなさることです。しかし、その神の恵みによって義とされ、神の民とされた私たちは、神がもたらそうとしている正義の姿を、私たちの心と周りの世界とに拡げていく努力はすべきなのです。それは私たちの暮らしに正義を取り戻すだけでなく、私たちの周りにいる人たちが神の正義が回復される姿を今、この時にじかに見る機会になります。
しかし、注意しなければならないのは、世の中の不正や目に付いた悪について、正義感を振り回し、押しつけるのではないということです。
最初に例にあげた回転寿司での悪戯のケースでも、犯人を特定し、さらし者にし、よってたかって叩くのが聖書の示す正義ではありません。伝道者の書の中にこんな言葉があります。「あなたは正しすぎてはならない。自分を知恵のありすぎる者としてはならない。なぜ、あなたは自分を滅ぼそうとするのか。」(7:16)
聖書の教える正義は人の生き方をどうこう言うものではなく、自分の生き方を正すものです。もちろん、社会に正義を求めることはすべきことですが、まずは自分です。
正義に関する最も有名な律法の一つは復讐を禁じるものです。レビ記19:18には「あなたは復讐してはならない。あなたの民の人々に恨みを抱いてはならない。あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい。わたしは主である。」とあり、私たちの正義の表し方とは、罰することは神に任せ、むしろ愛するようにというのです。
こ使徒パウロはの律法をローマ書12章で適用して、恵みによって義とされた私たちの生き方として教えています。悪に負けず善から離れないようにし、相手を祝福し、できる限り平和を保ち、神の怒りに委ね、善をもって悪に打ち勝ちなさいと。
つまり、正義の種を蒔くとは、他人の価値観や生き方を批判したり正義を押しつけてとやかく言うことではなく、私の生き方が愛と善を土台とするもの、愛と善を表す者にしなさい、ということなのです。そうであればこそ、私たちが社会に正義を求めることにも説得力が出て来ますし、良い影響力を持ちます。自分の生き方に愛と善がなかったら、自分のことは棚にあげて世の中に不満をまき散らす我が儘となにも変わりません。
適用:希望によって生きる
さて、神様のご計画の中で正義の回復が重要なテーマであることは分かりました。しかし、その完全な実現まではまだ間があること、そして今私たちが生きている世界には悪あがり、正義への求めが必ずしも満たされないことも現実であることも認めなければならない事実です。
では、聖書は私たちに何を語っているのでしょうか。とにかく我慢して正しいことをしなさい、ということでしょうか。
私は、そうではなく、希望によって生きることを教えているのだと受け止めました。それは社会正義のために奮闘している運動家や活動家のように、理想主義のような生き方をするのとは少し違います。私たちには約束があるのです。しかもその約束はすでにイエス様の十字架と復活によって確かなものとして私たちに与えられています。
イエス様がすべての悪、罪の報いをご自身で背負い、赦しと和解の道を開いてくださいました。その上で、私たちを新しく造り変え、新しい人として生かし、神様が実現しようとしておられる正義を生きる者にしてくださるのです。
もちろん、自分のためにも、他人のためにも、また世の中に対して正義を求めることは当然の権利です。差別がまかり通る社会に、「それはおかしい」と誰かが立ちあがるべきです。不当なことが行われている時に、「ちゃんとやって欲しい」という声が届けられるべきです。
そのことと、悪に対して私たちが正義を振りかざして罰することとは別問題です。
それでも、現実問題として、腹立たしいことはあり、しかも悪いことをした者が平気でのさばったりするのを見ると何とかならないかと思います。個人的にすごく傷つけられ、さらに傷口に塩を塗りつけられるようなこともあります。それでも「復讐するな」と主は口をすっぱくして戒めます。
だから希望が必要なのです。神様ご自身が王として来られるキリストを通してすべての正義を回復してくださいます。「復讐はわたしのもの。わたしが報復する。」とさえ言ってくださる主に任せるべきです。
この希望がなかったら全ては馬鹿らしいものに思えるようになるでしょう。この希望によって、私たちは忍耐をし、また赦し、また自分に関しては平和を求め、また自分自身が善であることを求めるのです。
ある時、ずいぶん酷い仕打ちを受けて、私はなんとかそれを正そうと必死になりました。一生懸命訴えても話しは通じません。そうなると、何とか一矢報いてやろうという気になるのですが、いちおうクリスチャンですし、表向きは平静を装いながら、心の中では怒りや恨みがずいぶんとうごめき、おそらく時折意地悪な態度や言葉を出していたのだと思います。それはある種の復讐です。
けれども、今思えば、そのようにして復讐をし続けたからと言って心が晴れるわけではなく、何かが回復するわけでもありませんでした。
心のうちの回復は、その問題は神様に任せて、今神様が私にさせようとしていることに、そのとき自分が関わる人たちに正しく、誠実であろうとすることに心を傾けることによってようやく落ち着きと平安を取り戻しました。
正義の問題は切実ですが、求め方を間違うとかえって苦しくなったり、ややこしくなったりします。
誰よりも主ご自身が正義を求めており、必ず回復してくださるという希望を持って、種を蒔くように、愛と善をもって日々を生きていくようにしましょう。やがて、ついには正義の雨が私たちを覆ってくれます。
祈り
「天の父なる神様。
主の救いのご計画の中に正義の回復があることを感謝します。
その希望があるから私たちは赦すことができ、たとえ問題が解決しないときでも忍耐し、愛と善を追い求めることができます。
実際には正義を振りかざしてしまったり、また忍耐が続かないこともあります。ですからどうぞ、イエス様にあって、ただ恵みによって赦された者であることを思い出させてくださり、主がやがて正義をもたらしてくださることを思い出させ、へりくだり、希望を持つことができるように助けてください。
イエス・キリストの御名によって祈ります。」