2023年 5月 7日 礼拝 聖書:創世記6:5-22
今年も6月にリレーフォーライフのイベントがあり、その時教会がゴスペルフラの皆さんと一緒にチームを組みます。そのチームの旗が会堂の後ろに飾ってありますが、旗にはノアの洪水物語に登場する虹とオリーブの葉を加えた鳩のイラストが添えられています。そして、英語で信仰・希望・愛が大きく記されています。今年度の主題は「いつまでも残るもの」で、それは信仰と希望と愛の3つだというコリント書の聖句が年間主題として掲げられています。
今年度も毎月第一主日はこの主題にちなみ、信仰、希望、愛に生きた聖書の人物にスポットをあて、彼らの信仰や生き方を通して学んでいきたいと思います。
今日注目したいのは洪水物語で有名なノアです。聖書の中でノアが重要な人物であるのは、大洪水と箱舟による救出という出来事の大きさ以上に、はじめて「契約」という言葉が登場するからです。
罪に対する裁き、信仰の応答による救い、祝福の約束という、聖書全体を通して流れる神様の救いのご計画の大事な面が、すでにノアの経験した出来事と契約の中に現れています。そして、そのことがあらかじめ説明されていたわけではなく、妻や3人の息子夫婦と暮らすノアの生活の中で示され、応答を求められたということを考えるとき、神を信頼する、神のことばを信じるとはどういうことなのか深く思わずにはいられません。
1.暴虐の時代
ノアがいつの時代の人なのかということは分かりません。地球の創造がおよそ6000年前だという極端な立場を取る人たちは紀元前2300年頃だと主張するようですが、聖書解釈の原則に照らしても、考古学や科学的な研究に基づいた根拠もありません。
聖書はノアがいつの時代であるかを指し示すようなヒントを何も残していません。しかし、彼の生きた時代がどんな時代かははっきり指摘しています。11節にあるように「地は神の前に堕落し、地は暴虐で満ちていた」。また12節「神が地をご覧になると、見よ、それは堕落していた。すべての肉なるものが、地上で自分の道を乱していたからである」
人間の堕落の最たる特徴は「暴虐」という言葉で表されています。暴虐という言葉の使い方を旧約聖書の中で見ていくと、力に任せて相手をねじ伏せたり、自分の欲を満たしたりするだけでなく、正義感から出た暴力や悪意ある嘘についても用いられる言葉のようです。
例えば、創世記34章に、ヤコブの娘ディナが当時暮らしていた土地の族長の息子に乱暴された上、嫁に欲しいと言い出したという話しが出てきます。その時、ディナの兄であるシメオンとレビが策略を巡らし、族長の一族が油断しているときに襲いかかり、部族ごと殺してしまうという事件が起こるのです。 ヤコブは晩年にこの事件を振り返り、二人の行動について49:5でこう言います。「シメオンとレビは兄弟、彼らの剣は暴虐の武器」。二人の行動はディナが受けた辱めに対する正義感から出た怒りだったと思われますが、その怒りを満たすために暴力に訴えるなら、それは暴虐なのです。
もう一つ、この言葉が用いられている有名な箇所はイザヤ53:9で、受難のしもべ、キリストについての預言の中に出てきます。キリストを葬り去ろうとする敵に対して、この方は「不法を働かず、その口に欺きはなかったが」とあります。この「不法を働かず」言葉が暴虐と同じ単語が使われています。欺き、偽りの動機にある悪意のことです。
つまり、ノアの時代の人間世界の堕落ぶりを表す暴虐とは、分かりやすい欲深さや悪意ある暴力行為だけでなく、独善的な正義感から出た暴力や悪意ある嘘を含むものだったのではないかと思われるのです。
そう考えてみれば、当時の世界が洪水で滅ぼされたほどの人間の邪悪さは、現代の人類よりよっぽど酷かったというわけではないのではないかと思えて来ます。ロシアとウクライナの間の戦争をあげるまでもなく、いつも世界のどこかでは国と国、民族と民族の間で争いがあり、力による支配や脅しがまかり通っています。社会の不平等や権力者に対する歪んだ正義感がテロや暴力行動に表れることもあります。暴力的な犯罪だけでなく、人目につかないDVや子どもに対する虐待、自分たちの利権を守るための平然とした嘘や他人を攻撃するための悪意あるデマなどはいつの時代もありますが、このところの情報化社会の中ではそれらがしょっちゅう目に付くようになりました。それでも、ノアの時代の世界が滅ぼされたのに、今の世界がまだ滅ぼされていないのは、ノアの信仰による応答によってもたらされた約束を神様が守っておられるからです。
2.ノアの信仰
ではノアの信仰とはどのようなものだったのでしょうか。それは神を信頼し、そのことばに従ったというものです。
6:22、7:5、8:18にはそれぞれ神のことばに対するノアの応答が見られます。大洪水に備えて箱舟を作るように、つがいの動物たちと共に箱舟に入るように、そして箱舟から出るよう言われたそれぞれの場面で、ノアは神が告げられことに従ったことが記されています。「信じた」という言い方は実は出てきていません。ノアの行動が神への信仰であったことが明言されているのは、先週開いたヘブル書11章の中でのことです。では信仰とは神の命令に従うことなのでしょうか。なぜノアが神のことばに従ったことが、神を信じたというふうに言われるのでしょう。
まず、従うことが全て信仰から出るものではないことをはっきりさせておきましょう。いやいやながら、あるいは恐怖故に、また人目を気にして神のことば従うこともありますが、それら信仰とは言わないはずです。そうした従い方は、表面的で命令の本来の意図をくみ取れず、単に決まりとして守るだけのことです。そのような宗教は形骸化し、ただ人の心を縛るだけものになりかねません。
しかし、信じることが従うことを求める場合があることを私たちは日常の中で経験します。たとえば病院でお医者さんから「この薬はこういう効果があって、あなたの症状に効きますから飲んでください」と言われたら、私たちはそれを信じて毎日飲むようになるでしょう。信じなかったら飲まないかもしれないし、そもそも病院にすら行かないかも知れません。
暴虐な世界でノアとノアの家族は奇跡的に神を畏れ敬い、正しく生きようとする人でした。完全に正しい人とは言えませんし欠点もあったでしょう。しかし、神にはそれで十分でした。そんなノアに間もなく世界を滅ぼすような大洪水が来るから、箱舟を作って乗り込むよう語りかけました。
洪水の気配なんて何一つない時に、海でも川でもなく、陸地で巨大な船を造り始めたとき、周りの人たちがどんな反応をしたかは想像に難くありません。それでもノアは神の警告を真剣に受け止めました。洪水が来ることを信じただけでなく、神が告げた箱舟を造って乗り込めば救われるということも信じ、何ヶ月かかけて船を建造している間、誰に何を言われようとも信じ作業を続けました。そして新約聖書の証言によればおそらくその合間に周りの人々を説得し、一緒に船に乗ろうと誘い続けたようです。
洪水のあとで船から下りる場面でも神への信頼を示しました。水が引いたあとの世界は自分が知っていた世界とはだいぶ違っていたと思われます。船を下りるということは、すべてを新しくやり直さなければならないということです。
ノアは船から下りたあと農業を始め、ぶどう園をつくりましたが、それは誰の助けもなく、たった一つの家族で始める復興事業のようなものです。その先に未来があることを信じられなければとてもやっていけないような大変な仕事です。船を下りるということはそういう生活を引き受ける覚悟を必要としたはずです。
しかしノアは神の祝福のことばを信じました。その祝福はアダムに告げられた祝福を受け継ぐものであり、契約として与えられました。
3.契約の虹
それでは、神様がノアに与えた契約がどのようなものであったかを見ていきましょう。
雨が止み、洪水が引いたあとで船から出るようノアに命じた神様は、彼らの新しい歩みを祝福しました。8:16~17節です。
これらのことばの終わりに「それらが地に群がり、地の上で生み、そして増えるようにしなさい」と祝福し、それに応えるようにノアがささげものを捧げた時に、今度は21節でこのように心の中で思われた、ということが記されています。「人のゆえに、大地にのろいをもたらしはしない。人の心が思い測ることは、幼いときから悪であるからだ。わたしは、再び、わたしがしたように、生き物すべてを打ち滅ぼすことは決していない」
ノアによって人類がやり直しをしても人間の本質が変わるわけではありません。これからも人間には罪があり、神に信頼せず、その言葉を聞かない、そんな者であり続けるでしょう。しかしだからといってまた滅ぼすことはすまいと心に決めたというのです。
そのことが具体的に契約として結ばれるのが9章です。
まずはじめに神様は、天地創造の時にアダムを祝福したことばを繰り返すように、繁栄と神様の造られた世界の管理を任せると祝福します。9:3で動物の肉が食べ物として許可されたように読める文章がありますが、この箇所全体の意図を読み取ると、食糧のために動物をあやめる時以外に、人間だけでなく動物でさえも意図的に殺してはならないということを言っているように思えます。それは滅ぼされた世界にあった暴虐さの一つだったのでしょう。
いのちというのは食糧という例外を除いて、殺されるべきものではなく、その存在が喜ばれ、尊ばれるべきもだという考え方が3~7節には込められています。そういう意味では、聖書にはペットのことは書いていませんが、劣悪な環境で動物を飼育するようなことも、この視点からすれば、この世界の暴虐さの一面だと言えます。
神様がやり直しをする人類のためにノアと結んだ契約の具体的な内容は9節以下に記されています。再び、大洪水によって世界を滅ぶそうなことはしない。そのしるしとして虹を立てる。この虹が雲の上に現れるとき、この契約が思い起こされるだろう、ということです。大事なポイントは、虹を見て契約を思い起こすのは神様ご自身だということです。
現代の人々は虹を見て単に綺麗だと思う人もいますし、誰かが亡くなった時に虹の橋を渡ったと詩的な表現をする人もいます。また多様性、特に性的多様性を象徴するものとして用いられます。
しかし神様が虹をご覧になるときはノアとの契約を思い出します。人々がどれほど罪深く、ノアの時代以上に暴虐がはびこる世界であったとしても、再び大洪水で世界を滅ぼすことはしません。
ただし、神様はこの世界をずっと放っておくのではありません。ノアとの契約はアブラハムを経て更新され続け、キリストによる救いへとつながっていきます。その中で明らかにされるのは、神が虹を見る度に思い出し、忍耐しているのは、人間の罪を放置しているからではなく、キリストによる救いが人々に備えられ、伝えられ、応答するのを待っているからです。それでも背を向ける時、最終的なさばきはやはりあるのです。しかし、今はまだ虹が救いの希望のしるし、神の愛と忍耐のしるしとして生きている時代なのです。
適用:この時代に
ノアの信仰から私たちは何を学ぶべきでしょうか。神様の救いのご計画を聖書全体から読み解けば、ノアの果たした役割はどれほど重要だったか分かりますし、その鍵が信仰であることが分かります。この後、神様は度々歴史の中に介入し、契約を更新し、救いの契約を少しずつ明らかにしていきますが、どの場合でも、鍵となったのは信仰でした。神を信頼し、その警告のことばを信じ、自分と家族の救いのため、そして出来ればもっと他の人も救われることを願って、箱舟を造れという荒唐無稽にも聞こえる命令に聞き従った、その信仰です。
考えてみれば、ノアにはその先のことはほとんど何も知らされていません。物語は始まったばかりで、自分の信仰の応答が何をもたらすか、どんな神のご計画につながっているか、まるで知らない中で神を信頼しました。そして、周りの人たちと言えば、そんなノアの声に耳を貸すことはありませんでした。それでも、家族を励ましながら、従い続けました。
私たちにはいま、神様の契約がイエス様によって完成し、まさに信仰によって神の子どもとされ、神の国の民の一員、新しい神の家族に迎えられ、約束された祝福を受け継ぐ者とされることを知ってます。
この新しい契約においても、信じることが鍵です。そして神への信頼は罪と死に支配されている私たちが新しいいのちに生きる者へと変えられ続けるために、神のことばに聴くことを求められています。病院にかけこんだ病人が医者の診断に従って治療を受けたり、怪我から回復した人が理学療法士の指示に従ってリハビリをするようにです。こうすれば良くなるという彼らの言葉を信頼して従うように、こうすれば新しい人として生き、変えられるのだという神様のことばを信頼して従う、そんな信仰です。
しかも、私たちの生きているこの時代、この世界は、おそらくノアの時代に負けるとも劣らない、暴虐に満ちた世界です。もちろん日々の暮らしは割と安全で、夕暮れ近い時間帯に散歩すればのどかだなあとさえ思えます。そんなささやかな幸せを感謝して楽しむことは許されているので、存分に味わいたいと思います。しかし神様はもっと切迫した思いで、この世界をご覧になり、虹が出るたびに「もう少し待とう」と思っていてくださるのです。
神様は私たちに箱舟を造るようには命じていません。しかしこのままでは世界が滅びに向かう中で、キリストにこそ救いがあることを私たちの信仰、生き方を通して証しし、求める者にははっきりと福音を伝えることを命じています。
神様を愛すること、教会の兄弟姉妹が愛し合うこと、誰であれ隣人を愛すること、これらの命令は単に道徳的な基準として与えられているのではなく、現代に与えられた箱舟の存在を証しするものです。ノアが神に信頼して箱舟を造ったように、私たちも神様を信頼して、神を愛し敬う者になり、兄弟姉妹を敬い、仕え、互いに助け合、隣人に対して寛容で親切であろうとするのです。それはイエス様のことばによれば地の塩、世の光になることですし、パウロの言葉を借りれば福音を飾るものです。
ノアの言ってることは分からなかったとしても箱舟を造る生き方が何か違う生き方をしていると気付かせるものだったはずです。私たちが神の言葉に聞き従って神と人を愛する生き方をするなら、この世界にあって違う生き方があることを気付かせる十分な箱舟になります。
祈り
「天の父なる神様。
神様がノアに語りかけた時代は、現代にも似て大変な時代であり、世界でしたが、ノアは神様の語りかけを信頼しました。今日、私たちはこの時代にあって箱舟ではなく、キリストの福音をかかげ、新しい人としての生き方を建て上げることで世界に救いと希望を指し示すよう召されています。どうぞ、その語りかけに信頼して従うことができますように。この世がどれほど罪深いとしても、神さまを愛し敬い、隣人を愛する者であり続けることができますように。
主イエス様のお名前によって祈ります。」