2023-06-04 希望から希望へ

2023年 6月 4日 礼拝 聖書:ローマ5:1-5

 先週は、70周年記念礼拝をともにお捧げすることができて、本当に感謝でした。記念礼拝の後、食事を一緒にしたときにアメリカに帰ってからのポールさんたち家族の歩みをお話してくださいました。詳しく話すことはできませんが、本当に誰の人生にも起こりうる苦悩や悲しみ、長い年月かかえたままの重荷などを通して、神様の深い愛と恵みを体験させてくださったことをお聴きしました。そして思ったことは、福音の働きは確かに神様の御わざなのですが、それは生身の人間を通してなされるということです。だからこそ、そこに悩みもあれば痛みもあります。しかし、それさえも後には益と変えられ、より深い信仰や、温かな人格への成熟などに用いられます。不完全させも福音のしるしとして用いてくださる、神様の忍耐と知恵深さに驚かされます。今日は、年間主題に基づき、忍耐から生まれる希望についてローマ書から学んでいきます。

今日の箇所を改めて読む時、私は一つの素朴な疑問を持ちました。パウロがローマのクリスチャンたちに書き送った手紙には、苦難が忍耐や品性をもたらし、その品性が希望を生み出すと書かれています。いや、普通は希望があるから苦難の中で忍耐できるのではないか?ニワトリが先か、卵が先かという議論にも似た単純な疑問を持ちました。今日はそんな素朴な疑問を持った私が改めてみことばを味わって教えられたことを分かち合っていきたいと思います。

1.恵みがもたらす望み

第一に、私たちはイエス様の恵みによって、誰にでも望みが与えられているということです。イエス様を救い主として受け入れたすべての人に与えられる救いの恵みは、「神との平和を持っている」と言い表されています。

この救いの恵み、神様との平和は、私たちがイエス様への信仰によって義と認められためにもたらされたものです。私たちにはこの世界を造られた神様の願いや意図を無視して悲しませ、傷つけるような罪があります。それは私たちに報いをもたらすもので、もし魂の履歴書があったなら、そこには長い長い前科のリストがあって、いつもそれが私たちに付きまとっています。私たちはそんなに自分が罪深いとは気付いていなかったのですが、神の存在を知った時、その神の聖さと義の性質に気付いた時に、魂の履歴書にどれほど酷いリストが続いていたかに気付かされるのです。

ある人は、神であれ他人であれ、誰かからそんなことを指摘されたり、責められるなんてまっぴらだと考え、無視します。まるで、健康に問題がありそうだから病院に行ったほうが良いんじゃないかという助言をうるさがって耳をふさぐようです。

しかしある人々は神の前に罪があるという聖書の教えを真剣に受け止めます。そして罪の赦しを与えるために罪の報いを全て代わりに引き受け、死んでよみがえったイエス・キリストを信じます。そのような人々は、その信仰を通して神に義と認められ、もう責められることはないと太鼓判を押してもらうのです。魂の履歴書の長いリストは消され、これからも付け加えられることはありません。

しかしこの救いは単に罪が赦され、神様の子どもとされたというだけでなく。2節の終わりにあるように「神の栄光にあずかる望み」、つまり神のかたちとして創造された人間本来の素晴らしさを表す者、別の言い方をすればイエス様に似た者として完成される約束が与えられているということです。それはたとえていうなら病気か事故で体が利かなくなった人に、この病院のこの先生に診てもらうと痛みが取れるだけでなく、前のように、いや前以上に元気に動けるようになるよ、という希望のようです。その希望は、実際に病院に行ってきちんと診察を受けることで始めて現実的な希望になります。病院の門を叩かなければ、ただの良い知らせで終わります。

私たちには罪があるけれど、イエス様が救ってくださるという良い知らせ、赦されるだけなく、私たちが今どんな人間で、どんな問題を抱えていようとも、この恵みによって人間本来の素晴らしさ、神の栄光を現す者へと造り変えられるという望みは、その知らせを聞くだけでなく、イエス様を信じることで自分のものになります。

そして、病院のスタッフに導かれて高名なお医者さんの前につれていかれるように、2節では「今立っているこの恵みに導き入れられました」とあります。この「導き入れられる」という言葉は王様や神のような高い地位にある人の前に近づく特権を意味しているのだそうです。使徒パウロは、今私たちが神様の子どもとしていられることが、実はとんでもない特権であり、光栄なことだと気付かせようとしてこんな言い方をしています。

このことは、私たちのクリスチャンとしての歩みが、まずは希望をもって始まったことを意味します。それは私たちクリスチャンの多くが経験したことと重なっているのではないでしょうか。

2.試練がもたらす品性

第二に、神との平和を持っているから希望があるだけでなく、苦難さえも喜ぶのがクリスチャンだと言います。

これは多くの人たちにとって、簡単には「そうですね」と言いかねるものかも知れません。苦難は喜ばしいものではなく、悲しく、辛く、できれば避けたいものです。

苦難を喜ぶというのは、感覚的に嬉しいとか楽しいということとは直接結びついてはいません。もともとの言葉を調べていくと、この「喜ぶ」という言葉は、多くの場合「誇りとする」というふうに訳されています。つまり、苦難の直面したときの感情を表しているのではなく、苦難がもたらす結果を知っているので、クリスチャンとしての歩みの中に苦難があることも誇りに思えるのだと言っているのです。

多くの人は、人生に苦難が訪れると、それを損失と考えます。実際、経済的にだったり、健康的にだったり、いろいろ失うものがあったりするので、そう感じるのは当然のことです。しかし、イエス様を信じて、神の栄光にあずかる者とされたクリスチャンが、なぜそんな目にあうのかという、もやもやした疑問が私たちの心の深いところで繰り返されます。ある人はもっとはっきり、神が愛であるなら、なぜこんな悲劇を許すのかと神を責めます。

大きな災害に巻き込まれて家族や財産を失ったり、戦争によって怯えながら生きることを強いられたり、パンデミックで家族を失うこと、人生がめちゃめちゃになることを、神の愛や恵み、喜びや回復と結びつけて考えることはなかなか難しいです。

多くの人たちにとって、それはむしろ罰のようにも見えるし、裏切られたとか、やっぱり本当は神なんていないんじゃないかとさえ思わせるものです。クリスチャンでも苦難や試練にあうことを祝福されていない、愛されていないことのしるしのように感じたり、お前はダメなやつだと言われているような感じを受ける人がいます。

しかし使徒パウロは苦難を損失として考えるのではなく、苦難がもたらすものを考えてみようと呼びかけているのではないでしょうか。苦難は忍耐を生み出し、忍耐は品性を生み出します。そして品性が練られることで希望が生み出される。だから、苦難は私たちにとって損失ではないし、むしろ私たちの信仰、忍耐、人格を成長させ、練り上げるものとして受け入れ、否定するのではなく肯定し、恥じるのではなく誇りとしようと言っているのです。

もちろん、苦難があるから自動的に忍耐や品性が磨かれるのではありません。苦難の中で、イエス様を通して与えられた救いの恵みと希望を信頼して歩み続ける時に、良いものが生み出されていきます。苦い薬やつらいリハビリを信じて続ける時に効果を発揮するようなものです。

自分の歩みの中でも、何度かほんとうにしんどいという時がありました。結婚して最初に奉仕したのは今でも友人の宣教師家族と一緒に開拓伝道の働きでした。しかし思ったような成果は上げられず、次々と起こる問題にはうまく対処できず、親身に家族のように接してくれていた友人たちさえ敵に見えるような苦しい中を通り、惨めな終わり方をしてしまいました。しかし、その経験はへりくだることや自分の足りなさをはっきり自覚する機会となりました。練られた品性には程遠かったですが、その一歩ではありました。

3.品性がもたらす希望

第三に、苦難を通して練られた成熟はより確かな希望を生み出します。

この希望は、イエス様を信じたときに与えられた希望と本質的に同じものです。しかし、イエス様を信じたときの希望は、約束としての希望ですが、苦難を経て生まれる希望は、実体験を伴う、約束がまさに自分の人生、経験の中で果たされつつあるという実感のある希望です。

先日、がん闘病中のシンガポールにいる友人からメールが届きました。約1年半前にがんと診断されたときは余命数ヶ月と言われていて、ほとんど絶望の瀬戸際にいるような文面でした。その中でも神様のあわれみにすがり、回復を願って治療に臨むことが書いてあったのを思い出します。化学療法による副作用のことや回復の可能性がどれくらいあるかなど、きっと説明されたはずです。しかし、やはり希望があったから治療を受け始めたのです。そして11サイクル目の化学療法を終えた今、腫瘍の大きさはかなり小さくなっており、腫瘍マーカーの数値も改善しています。今年の初めには長崎に旅行に来ることさえ出来たそうです。今回受け取ったメールには12サイクル目の化学療法でさらに腫瘍マーカーが下がるよう祈って欲しいというリクエストがあり、また宣告された余命を越えて今も生きていること、この闘病期間の間に、これまでかたくなだった両親がイエス様を信じてバプテスマを受けたことなどを聞いています。この経験を彼は本にして出版することになっているそうです。希望が苦難を通してより確かな希望になるのだということを教えられます。

もちろん、イエス様によって与えられる希望はある種の病気に対する回復を約束するものではなく、神のかたち創られた人間が、その栄光にふさわしい者へと変えられていくということです。ちょっと皮肉屋で、自分の境遇のことや願ったような仕事が出来ないことで文句を言ったり、鬱々とした気分が続いてかなり感情的にもダウンしてしまうことが度々あった人ですが、闘病中に希望や喜びを持つようになり、難しかった両親への証しが実を結んだり、新しい挑戦を始めた姿を見ると、神様は彼の病を回復させつつある以上に、彼の信仰とクリスチャンとしての成熟を促してくださったのだということが分かるような気がするのです。

この「神の栄光にあずかる望み」という視点では、直面した苦難を首尾良く乗り越えられるかどうかは、あまり大きな問題でなく、その経験を通して、その人の信仰やクリスチャンとしての成熟が進んだかどうかに、希望の確かさが表れるのです。

ですから、私が最初に奉仕した開拓伝道の働きが私にとっても、他の誰にとっても失敗に終わったように見えたとしても、それについては今でも申し訳ない気持ちがありますが、それでもその苦難を通して私の中ではイエス様が与えてくださったこの救いと希望が確かなものだという感覚を得させてくれました。苦いし副作用もあったけど、確かに効いている。続ければ良くなる、という希望に結びつくのです。

人生は長いですから、その後もいろいろ経験し、苦しいことは他にもありました。その度に、またギリギリの所に立つ思いがするのですが、恵みによって希望から希望へと進ませていただきました。

適用:ゆるがない希望によって

紀元325年5月20日から約2ヶ月にわたって、ニカイヤ会議という教会指導者たちの会議が開かれました。長い迫害の時代がようやく終わり、使徒たちから始まってローマ世界に拡がった教会の様々な問題、特に使徒たちから受け継いだ福音理解を再確認するため会議を開きました。しかし、そこに集まった教会指導者たちは長い迫害の間に鞭で打たれた傷や生々しい拷問の跡が残る人たちがいたそうです。しかし、彼らはいのちと希望に輝いていました。実際、待ち望んだ迫害の時代の終わりを見ただけでなく、迫害の中にあっても教会が帝国のすみずみまで拡がっているという神様のみわざを見て来たのです。彼らに与えられた希望は迫害という苦難を通して、何にも揺るがされない希望へと高められていました。

苦難が希望を生み出す、という言葉への単純な疑問、どっちが先なの?という「ニワトリが先か卵が先か」的問題は、良く読めば、実に当たり前なことでした。神様がイエス様を通して与えてくださった希望がまずあってのことです。その希望があるからこそ、私たちは苦難の時にも主に信頼し、期待し、ぎりぎりの時もかすかな希望をもって生きることができますし、その先に「ああ、やっぱり神様の恵みと真実は本当だった」「この希望は確かなものだ」という感謝と確信に至るのです。

5:5に「この希望は失望に終わることがありません」とあります。この言葉はイザヤ28:16からの引用ですが、元々の文章は「この希望は恥を欠かせることはない」です。イザヤ書では「これに信頼する者は慌てふためくことがない。」と訳されています。

イエス様に信頼する者、この希望を握る者は期待を裏切られることはありませんし、望みを置いた私たちに神様が恥を欠かせるようなことはなさいません。

希望は恵みによって与えられ、苦難を通してより具体的で手応えのある希望になっていくのです。希望は漠然とした期待感や根拠のない夢のようなものではありません。

神のかたちとして創られ、本来神様の素晴らしさを映し出す存在であったはずの人間が罪に囚われてしまったので、罪とその結果である死から救い出すためにひとり子イエス・キリストを遣わしてくださったという愛と事実に基づいています。神様はイエス様によって私たちの罪を赦し、私たちを本来の人としての素晴らしさを表せる者に造り変えてくださることを約束しました。ここに私たちの希望の根拠があります。

しかしこの希望や未来に実現する約束であるだけでなく、私たちの人生を通して近づいていることを実感し、私たちが直面する困難の中で生きる力になるような希望です。そのために、聖霊と神の愛が私たちのうちに注がれているとパウロは指摘しています。

もし、この希望を見失っているか、あるいは実感がなくなってしまっているなら、使徒パウロがやってみせているように、私たちの望みが何に由来し、どんな望みだったか、そしてイエス様を信じたときに抱いたあの期待、希望を思い出すところからやり直してみましょう。

そして、これまでの歩みを振り返って、たとえ失敗や迷いがあったとしても、神様が私たちに何をもたらしてくれたか、それは最初の救いの約束にどう結びついているか思い巡らしてみましょう。私は挫折やみっともない失敗がありましたが、それでもそこから学んだことが確かに、私をキリストに似た者に造り変えようとするみわざと結びついていることに気付かされました。

これまで味わった苦難、病気かも知れないし、事故かもしれないし、人間関係から来るものかもしれませんが、それらの経験を通して気付かされたこと、学んだ事がきっとあるはずです。その苦難を人生の損失や罰、恥ずかしいこととしてではなく、私たちをより良い者にしようとする神様の恵みゆえに受け入れ、むしろ誇りとして覚えましょう。

祈り

「天の父なる神様。

今日は希望について聖書から改めて学びました。イエス様によってすでに与えられている望みが、苦難を通して磨かれ、具体的で力ある希望となることを、私たち自身の確信とさせてください。

私たちの中で希望を見失ったり、確信を持てなくなっている者がいるなら、どうぞ私たちのうちに与えられている聖霊と神の愛に気付かせ、奮い立たせてくださいますように。私たちの希望をより確かなものとする苦難を恥としてではなく、誇りとして受け取ることができるように、私たちの信仰の目をしっかり開いてください。

主イエス様のお名前によって祈ります。」

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