2023年 10月 8日 礼拝 聖書:使徒の働き12:4-17
今日、こうして再び講壇に立つことができることをとても嬉しく思います。ここに至るまで、多くの祈りが捧げられたことや教会同士の交わりの中で教会が支えられたことに感謝で一杯です。
多くの方々が、この回復を奇跡だと言ってくださいました。主の真実さや主のみわざを見ることができたと喜んでくださいました。おそらく、8月15日の朝、倒れて1週間意識がなかった私より、皆さんのほうがずっとそのように実感しておられるのだと思います。私は、そうした声や言葉を聞きながら、「そうなんだなあ」と後追いするように確認するのが精一杯でした。
入院している間は外からの情報が閉ざされた期間が長かったので、看護師や理学療法士の皆さんだけでなく、主治医の先生も「奇跡的だ」と言ってくださらなかったら自分の回復具合がどれほど驚くべきことだったか理解出来なかったと思います。
意識がはっきり戻ってから、私自身は自分の身に起きたこと、そしてこの「奇跡的な」回復を通していろいろと考えさせられました。一週間近く現実と夢の区別がつかない「せん妄」の中にありましたが、殆どの夢をかなりはっきり覚えていて、それらもまた自分の歩みや心の深みを顧みるヒントになりました。その中のいくつかのことを今日から3回に分けてみことばとともに思い巡らし、共に味わっていきたいと思いますので、どうぞお付き合いください。
1.度重なる苦難
今日開いている箇所は、使徒の働きの中でもわりと有名なエピソードです。もちろん、牢に捕らえられたペテロのために教会が心を一つにして祈っていた、という場面は私が入院中に祈っていてくださった教会の皆さんのことを思い出させました。
しかしまずは少しこの箇所の前後を見て、この出来事が初代教会にとってどんな意味合いがあったのかを考えてみましょう。
今日の箇所は9:32~12:25までの大きなまとまりの中にあります。このまとまりの中には、エルサレムで始まった教会が異邦人にまで拡がっていく様子が描かれています。神が約束された救いと祝福はユダヤ人だけのものではなく、すべての人に等しく開かれているのだということが示され、意識を変えていかなければならない時だったということがわかります。
はじめにドルカスを生き返らせるという奇跡の出来事があり、その直後にローマ軍の百人隊長、つまり異邦人であるコルネリオがイエス様を信じて聖霊を受けるという大きな出来事が続きます。
異邦人もイエス様を信じるだけで救われるのだ、ということはユダヤ人の諸教会に衝撃を与えました。しかしペテロの説明を聞いた諸教会は驚きながらもこれを受け入れていきます。そして11:19以下で、今度はエルサレムから迫害によって散らされた人々がユダヤ人以外にも福音を宣べ伝えはじめ、さらにアンティオキアで異邦人中心の教会が誕生するという画期的な出来事が起こります。
神様はユダヤ人中心の教会に対して、少しずつ神様の救いのご計画が、実は全ての人に開かれているということを示しはじめたのです。それはユダヤ人こそ選びの民であり、神のキリストによる救いと祝福は自分たちに約束されたものという人々の意識が大きく変えられる時でした。しかし、そんなときに、その邪魔をするかのような度重なる苦難が教会を苦しめます。
小さな記事ですが11:20~30ではユダヤの地方を飢饉が襲い、貧しい人の多かったエルサレムやユダヤの諸教会が困難に陥ります。このときはユダヤ以外の諸教会、特にアンティオケ教会を始めとする異邦人クリスチャンたちが、同じ神の家族であり、霊的な祝福をもたらしてくれたユダヤ人クリスチャンに愛を示すために支援をしています。
12章に入ると、ユダヤの領主であったヘロデが伝統的なユダヤ人の感心を買うために十二使徒の一人、ヤコブを捕らえ、斬殺してしまいます。イエス様をキリストとは認めたくないユダヤ人を喜ばせたことに気付いたヘロデは行動をエスカレートさせます。
ユダヤ人からの支持がさらに集まると考えたヘロデはペテロを捕らえ牢に入れてしまいます。イエス様が十字架に引き渡されたのと同じ過越の祭が明けた後で民衆の前に引きずり出すつもりでした。
教会が異邦人にまで拡大するという驚くべき変化の時期に飢饉には襲われ、ヤコブだけでなく、新しい時代に自分たちを導いてくれるはずのペテロまで失おうとしている状況は教会にとって大変ショッキングで、神様は自分たちをどのように導こうとしているのかワケが分からなくなってしまうような混乱をもたらしたことは容易に想像がつきます。
2.教会の祈り
クリスチャン個人や教会が困難に直面し、どのようにして良いか分からなくなったとき、どんな時代の、どんな民族のクリスチャンや教会も常にして来たことは12:5にあるように祈ることです。
せん妄状態の中で見た面白い幻覚の一つはこんな内容でした。
治療に当たっている医師の中に信仰や宗教に否定的なことを言う医師がいました。それに対して家内が、たくさんの人たちが祈ってくれているからきっと大丈夫だと主張し「私たちは信仰で立ち向かう」的なことを宣言していまいます。私は身動きが取れないなか、頭の中では「そんなこと言っちゃって大丈夫かな」と心配していたのでした。あくまで夢の中なので、信仰を否定するような医者も、家内の過激な発言も実際にはありませんでした。しかし、確かに多くの人たちが祈ってくださっていたのです。
その幻覚を思い起こす時に、私たちが困難に直面するときのある種の信仰的な緊張感をよく表しているように思います。
不当に囚われたペテロのような状況を解決するための現実的な手段は法律や政治の力に訴えるということかも知れないし、有力者に袖の下を掴ませるようなグレーなことをするということかも知れません。病気の場合なら医療の力と技術に頼ることになるでしょう。何か障害が残れば、在宅医療とか社会的な支援に頼る必要も出てきます。
そうしたいわば現実的な手段を可能な限り取りながら、それでもクリスチャンは祈ります。信仰があれば医療に頼る必要がないとか、法律や社会の様々な仕組みを利用しなくても大丈夫ということではありません。また祈ることが何か具体的な解決になるわけではないかもしれませんし、祈りがどういうかたちで聞かれるかも分かりませんが、それでも祈ります。祈りを聞いていてくださる神様が、私たちのまだ知らない仕方で応えてくださるという信仰があるからではないでしょうか。
この信仰は、私たちの願望が実現されるはずだという思い込みとは一線を画するものです。もちろんそうなったら私たちとしては嬉しいですが、いつも願いがかなうというものではありません。むしろ具体的な祈りの答えをはっきりイメージ出来ていいないときのほうが多いかも知れません。特にペテロのような状況や医学的に危機的な状況の時にはそうです。無事に帰って来て欲しいという願いはあっても「ダメかもしれない」という思いも浮かんできます。
ペテロのために祈っていた教会も、まさかこの夜に奇跡的に救出されるとは思いもしていませんでした。そして私の場合も、家族は退院出来たとしても介護生活が待っていると覚悟を決めていたそうです。
12:13を見てみましょう。救い出されたペテロが、みんなの集まっていたマルコの母マリアの家の戸を叩くと、ロデという女中が嬉しさのあまり戸を開けるのも忘れて、ペテロを外に待たせたまま家の中にいる人たちにペテロが帰って来た!と報告します。ところが中にいた信者たちは「頭おかしいんじゃないか」と否定したり、「ペテロの御使いだ」と意味の分からないことを言ったりする始末です。
ありがちなことではないでしょうか。しかし、それでも祈るのがクリスチャンであり教会です。
3.奇跡による解放
エルサレムの兄弟姉妹が祈っている間、ペテロは牢に閉じ込められ、残されたのは数時間の命という状況でした。そんな状況の中でペテロは二本の鎖につながれ、兵士たちに挟まれていました。
そこに天使が現れ、牢の中が光で照らされました。イエス様のよみがえりの朝に見張り役の兵士たちが恐ろしさのあまり気を失ってしまったように、二人の兵士は気を失ったのかも知れません。
「帯を締めて、履き物をはきなさい」「上着を着て、私について来なさい」という御使いのことばに促されてついて行きましたが、ペテロには現実とは思えず、幻を見ているのだと思っていました。
私の場合は、せん妄を体験している最中は見えていないはずのものが見えたり、聞こえるはずのない会話が聞こえたりしていましたし、目を開けても閉じても同じ光景が見えて、自分が起きているのか夢を見ているのか分からない時がありましたが、実に不思議な体験です。ですが、ある日はっと我に返るように、急に意識が明瞭になり、そこから現実が混乱するということはなくなりました。
ペテロは夢の中だろうと思いながら二つの衛所、つまり番兵が詰めている監視所の前を通り抜け、それから牢獄と外界を隔てている最後の鉄の扉の前に来ました。すると門がひとりでに開き、御使いとペテロは外に出て通りを進んで行きます。少し歩いたところで御使いが彼の元から離れ、その時にペテロは我に返り、主が救い出してくださったことがはっきりと分かったのでした。
ということはペテロ自身も使徒ヤコブと同じ運命を辿るのだろうとある程度は覚悟が出来ており、まさか奇跡的に救い出されるとは想像もしていなかったということだと思われます。自分の身に起こったことが現実であり、主の御手によってなされた奇跡であることを理解したのは事が起こった後でした。
神様の御わざが為されているまさにその時というのは、案外、そんな風に現実とは思えなかったり、それが本当に主による御わざだとは理解し切れないものかも知れません。
私も、看護師から「マサキさん、心臓止まっちゃって本当に大変だったんですよ。意識が戻って本当に良かったです」と言われ、主治医から「1時間20分心臓止まっていたんですよ」と言われ、病棟の看護師や理学療法士の方々から説明されたり、驚かれたり、声を掛けて頂いたりしてだんだん自分の身に起こったことが分かりました。そして退院が近づいた頃にようやく外の世界とつながり、そこではじめて本当に大勢の方々が祈ってくださったことや奇跡的な回復の中に主の御業が現れた、祈りが聞かれたと、ある意味大騒ぎし、喜んでくださっている様子を知りました。そうやって、ようやく少しずつですが、「本当に奇跡だったのだと」思えるようになったのでした。
そして重要なことは、ペテロがその奇跡を経験していたまさのその時、本人は夢を見ているのだと思っていましたが、話しを聞いた教会にとって大きな励ましになったということです。いろいろな反対や困難はあっても主が変わらずに恵みと祝福を世界にもたらすために私たちを用いようとしてくださっていると励まされたのです。その結果が12:24です。ここは9章途中からの大きなまとまりのまとめの箇所ですが、福音がますます拡がっていった様子が記されています。
適用:「このことを」
このような奇跡的な経験というのは何度も経験するものではないし、一生縁が無いということだってあり得ます。むしろ多くのクリスチャンは祈ってもなかなか願いがかなえられない事に苦しんだり、忍耐が切れそうになったりするものです。実際、初代教会では多くのクリスチャンや教会指導者が迫害に会いましたが、ペテロのような奇跡的な救出を経験したのは、他にはパウロとシラスがピリピの監獄に捕らえられた時くらいです。
私は今回の経験の中で、素直には喜べない心苦しさを感じていました。というのも意識が戻ってからは別として、いちばん大変な時の記憶が全くありません。素晴らしいことを経験したという自覚がないのです。周りの家族や教会、友人たちにとって奇跡的な出来事として受け止められ、主を賛美し、祈りが届いたことへの感動を伝えていただくのですが、実感が伴いません。逆に祈りが積まれても願ったようには回復せず、いのちを取り戻せかったケースもたくさん経験しています。そういう意味で奇跡は不平等です。そのことを喜んで良いのか、どう理解したら良いのか分からずにいました。
ただ、ペテロの救出を目の当たりにした教会がそこに主の御力と権威を見出し、励まされ、確信を持てたことが肝心なのだとするなら、私がどう感じるかより、この出来事を知った皆さんが「ああイエス様は真実な方だ」「神様は祈りを聞いてくださる」と励まされ確信したのなら、それが大事なのだ、それで良いのだと思うことができるようになりました。あるいはクリスチャンではない友人たちが「普段は信仰心はないのだけれど祈った」とか「祈りが通じた」といったことを言ってくださったりもしました。こうしたことから気付かされるのは、奇跡というのは体験した個人に与えられる素晴らしい経験などではなく、それを目撃した神の家族としての教会に与えられた神様の恵みのしるしだということ示しているのではないでしょうか。
そう考えてみると、私たちは奇跡的な出来事を経験していないとしても、私たちの普段の暮らしを通して誰かが神様の恵みや素晴らしさに気付かされ、励まされているということが割とよくあるのかも知れません。
もうすぐ退院できるという時にコロナに感染し隔離病棟に移されて少しがっかりしていました。けれども隣のベットの方が、足の痛みに耐えながら松葉杖の使い方を習い、狭い病棟の廊下を歩く練習を自発的にやっているのを見て、ああそうだ、今も出来る事があると教えられ、励まされました。本人は他人を励まそうなんて考えもせず、自分のために頑張っていただけだったと思います。
クリスチャン生活の多くの経験は、普通すぎて奇跡とは程遠いものです。悩みや困りごとの中でもがいたり、しのいだり、がんばったり、諦めたりします。本人はそうするしかないからやっているだけかも知れませんが、しばしば、そうした歩みが他のクリスチャンにとっては大きな励ましや気付きの機会となります。
聖書が示している奇跡は、その人自身以上に、それを目撃した神の家族にとっての大きな励まし、慰めとなる恵みのしるしなのです。神の恵みのしるしを自分の経験の中からだけ探したら見つけ難いかも知れません。しかし交わりの中で、誰かの歩みの中に見出す神様の素晴らしさに気付き、励まされるなら、きっと私のありきたりな生活を通してでも、誰かの励ましや慰めになり得ます。
祈り
「天の父なる神様。
あなたは私たちの祈りを聞いてくださる方です。あなたの思いは私たちの思いを遙かに超えて恵み豊かです。時に私たちの願いとは異なる答えを示されますが、時には驚くようなみわざをなさってくださいます。
けれども恵みのしるしは教会家族の交わりの中にこそ与えられています。お互いの交わりの中で気付かされ、励まされ、喜びを分かち合い、慰め合い、ともにイエス様への信仰を確かなものとし、神様の恵みと祝福を周りの人たちに届ける使命のために励む者としてください。
イエス様のお名前によって祈ります。」