2023-11-5 あなたとともにいるから

2023年 11月 5日 礼拝 聖書:イザヤ41:8-13

 誰かが傍らにいてくれることは、私たちにとって愛を感じ、信頼や希望が持てるということでもあります。

今日は入院中に気付かされたことをみことばとともに思い巡らす、いちおう最後の回にしたいと思いますが、ちょうと今年度の主題聖句にも通じる内容になるのではないかと思います。

意識が回復してからの入院生活で何よりの楽しみはリハビリの時間でした。はじめはベッドの脇に立つだけで精一杯だったのが少しずつ回復して自力で歩けるようになり、その距離も伸びていくという楽しさもありましたが、何より嬉しかったのは、リハビリのために来てくださる理学療法士の方々の存在です。もちろん、看護師の皆さんや看護助手、検査技師、清掃スタッフと様々な方々が病室を訪れ、簡単な挨拶をしたり、ちょっとした世間話をしたりするのですが、リハビリの時間はもう少しまとまった時間、そばにいてくださってその日の目標のために励まし、助けてくれます。必要以上に世話を焼くことはありませんが、安全のためにいつも手の届く距離にいて、こちらのペースに合わせて一緒に歩き、今日はもうちょっと頑張ってみましょうかとか、少し休憩しましょうかとか、適宜声を掛けてくれるのです。

その体験は、傷付いたり弱ったりしている魂の回復のために助けになるとはどういうことかについて考えさせられるものでした。

1.助け合う人々とは

今日開いているイザヤ書を通して、神様がわたしたちとともにいてくださる、ということについて考えた上で、私たちが誰かのために共にいる、ということを考えていきたいと思っています。

しかしその前に、6節と7節に注目しましょう。

助け合い、励まし合っている様子は一見、良い情景のように見えますが、実はこの場面は主に背を向ける人々が偶像を造るために頑張っている姿を描いています。鋳物師、金細工人、金槌で打つ者、鉄床をたたく者はそれぞれ青銅や金を用いて偶像を立派に造るための職人たちです。そうやって職人の手で造り出された偶像は、真剣な仕事であったかもしれませんが、釘で打ち付けて床に固定されたもの、やはりいのちも力もないものでした。

なぜ彼らがそんなふうに頑張って偶像をこしらえているかというよ、41章の始めから語られているように、主が来られるからです。主は人々に救いをもたらすためにおいでになり、招いてくださるのですが、それを望まない人々にとっては敗北の時であり、恐ろしい時として映るのです。そのため、彼らは自分たちが拠り頼む神々をますます立派に造ろうとしているのです。

今日も様々な理由、動機で、聖書的な視点からすると偶像にあたるものをつくる人々がいます。美術や文化の表現として仏像を彫る人はプロだけでなく、一般の人もいます。そこには信仰心が含まれることも多いです。また、お祭りのための御神輿や山車を地域の共同体として造ることも多いと思います。

そうしたことを馬鹿にする気持ちはありませんし、真剣さや関わる人たちの一体感も本物だと思います。日常の辛さから一時でも解き放たれるという意味で救いと感じることも分かるような気がします。

しかしながら、それが本当に救いになるのか。人が抱えている罪と死から解放されるのか、そしてこの世界の創造主の前で問われた時に立ち仰せるのか、というと、やはり違うのだと言わざるを得ません。

病気を治す治療法を持っている医者に背を向けて、自分たちで頑張るからと患者同士が励まし合っているようなもので、その励まし合いは美しいものだとしても問題の解決にはならないのです。

入院生活の終わり頃、隣のベッドにいた方は退院後に松葉杖が必要でした。リハビリの先生から「勝手に調整したり歩いたりしないで、私がちゃんと調整して、それから歩き方の指導を受けてからにしてください」と念を押されたのに、松葉杖を受け取ったその日のうちに、自己流で使い始めていました。何とか転倒や怪我をすることはありませんでしたが、とても危なっかしく、また無駄な力を使うので必要以上に疲れたようです。幸い、翌日ちゃんと指導を受けて無理なことをしないで歩けるようになり退院していきました。

本当に救いをもたらすことのできる方に頼らず、自力ですることの問題は、愚かさというより危うさなのかも知れません。その努力がどれほど本気で、チームワークや技術が美しいものだとしても、一時与えられる解放感やエキサイトした気分を救いと勘違いしてしまうことが何より怖いのです。それは文字通りの偶像をつくることだけでなく、スポーツや音楽のライブ、仕事、その他どんなものにも偶像となり得る危険は潜んでいます。

2.主がわたしを助ける

人々が頼る偶像と対照的に、イザヤの預言は、主が私たちを助けるのだと告げます。私たちを助けること、救うことができるのは、主だけだというのが預言者イザヤ、聖書の主張です。

8節「だがイスラエルよ、あなたはわたしのしもべ。わたしが選んだヤコブよ、あなたは、わたしの友アブラハムの裔だ。」

主の救いはアブラハムへの約束に基づいています。「イスラエルよ」とありますが、もちろんこの救いはイスラエル民族だけのものではなく、イエス様を信じる信仰によって神の子どもとされ、神の民に加えられ、アブラハムの子孫と見なされたあらゆる民族のクリスチャンを含むものです。それは9節にも見られるようにイザヤの預言を通しても示されてはいましたが、まだはっきりと理解されてはいませんでした。それでも、この預言を受け取った人たちに理解できたことは、自分たちの祖先であるアブラハムに神様が約束されたことが今も有効で、その約束に基づいて自分たちを救ってくださると主が語ってくださったことです。

私たち人間はどこかで、私たち人間の信心深さ、信仰深さ、確信の強さによって救いが左右されるような理解をしているところがあります。それはある意味やむを得ないかも知れません。人間同士、この社会は信頼関係に成り立っていて、約束があっても相手が信頼を裏切り約束を破れば、もはや約束は終わりです。どんな契約にも片方が約束を破った場合は無効になるとか、違約金が発生するといったことが書かれています。相手が約束やぶってもこちらは守り続けるなんて損なことはしないのが普通です。

そういう感覚があるからなのか、私たちが神への信頼、信仰、確信が揺らぐと神の救いや祝福から外れてしまうのではないか、得られる恵みが減ってしまうのではないかと考えがちです。

しかし、預言者が私たちに告げているのは、私たちの救いは神様ご自身が約束したことに基づくというのです。

実際、イザヤが活躍した時代、アブラハムの子孫であるイスラエル民族は二つに分かれ、北王国は神に背を向けてもう長い時間が経っていましたし、その報いとして滅亡の危機にありました。南王国も度々、神に背を向け北王国と同じ運命を辿ろうとしていたのです。歴史の中で味わった敗北や侵略を受けるといった経験も、神が見捨てたということではなく、懲らしめ、悔い改めを促すためのものでした。ですから、そんなイスラエルの民に対して「わたしはあなたを選んで、退けなかった」というのです。

私たちが不忠実で不真実だったとしても、主は変わらずに真実で、約束を守られるというのは聖書全体を通して繰り返されていることです。たとえば第二テモテ2:13「私たちが真実でなくても、キリストは常に真実である。ご自分を否むことができないからである。」、ヘブル10:23「約束してくださった方は真実な方ですから、私たちは動揺しないで、しっかりと希望を告白し続けようではありませんか。」、第一ヨハネ1:9「もし私たちが自分の罪を告白するなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、私たちをすべての不義からきよめてくださいます。」

いずれも、私たちは失敗し、動揺し、罪を犯すこともあることが当たり前のこととして、それでも主は真実だから恐れるのではなく、諦めるのでもなく、信頼し続けようと励ましています。

3.ともにおられる主

そんな私たちに対して約束に忠実でいてくださる主がどのように私たちと関わり、救いをもたらしてくださるのかというと、「ともにいることによって」です。

イザヤ41:10で主は預言者を通してこう語りかけています。「恐れるな。わたしはあなたとともにいる。たじろぐな。わたしがあなたの神だから。わたしはあなたを強くし、あなたを助け、わたしの義の右の手で、あなたを守る。」

有名な聖句の一つだと思いますし、聖書中の様々な登場人物が重要な場面で聞かされてきた言葉でもあります。そして多くのクリスチャンが個人的な主からの励ましとして聞いて来ました。

しかしここで一つ理解しておくべきことがあります。イザヤを一とする預言者たちが告げたことは、イスラエルの南北それぞれの王国は一度その背信の罪ゆえに捨てられる、厳しい裁きが待っているということです。それでもなお、主は約束されたことに忠実だとはどういうことでしょうか。一方で捨てると言っておきながら、こちらでは決して見捨てないとはどういうことでしょうか。

神様の約束には永遠の視点と今この時の視点があります。永遠の視点では、確かに神様は約束されたことを守り私たちを救い祝福を注いでくださいます。しかし、短い人生の中では罪の結果を自ら刈り取らなければならないことがあります。気づきを与えるために苦難に直面することを神様が許されることもあり、反抗的なときに手を離されることがあるかもしれません。しかしそれは一時的な事です。やはり神様はともに居続けてくださるのです。

入院中に、隣りの部屋でリハビリを嫌がっている患者さんがいました。リハビリの先生は一生懸命励まし、これをやらないと家に帰られないんですよ、がんばりましょうと言うのですが、何としてもやりたがらず、しまいに怒りだしてしまう始末です。リハビリの先生もついに折れて「それじゃ、今日はここまでにしましょうね。また明日来ますね」と言ってその場を離れたようでした。しかし一時的に手放していますが見捨てたわけではないですね。患者を歩けるようにして返すというミッションを捨ててはいないはずなのです。

アブラハムの子孫であったイスラエルの民には約束の地を受け継ぎ、彼らを通して世界が祝福されるという約束がありました。神様はイエス・キリストを通して救いを誰でも求める者に与え、どんな人でも人種や身分に拘わらず神の民とすることでその約束を果たしてくださいました。しかし、民族としてのイスラエルへの約束も消えたわけではありません。

いま、その聖地で行われている戦争はどちらにも正義があり、それ以上にどちらにも罪深い行いがあります。多くのクリスチャンのイスラエル側の肩を持ちたくなる心情も分からなくはありませんが、それが神の約束を実現する正しい道とは私には思えません。戦争に勝ったとしても、世界に祝福より憎しみをまき散らすのではないかと恐れます。その結果を現代のイスラエルの民が引き受けなければならないかも知れません。

だとしても、いつの日か、どのようなかたちなのかは分かりませんが、イスラエルの民が主のもとに帰るようにしてくださるでしょう。主が誓われた約束に対して主は常に真実です。その真実さは私たちにも向けられています。

適用:ともにある人となる

以前も、信仰生活はリハビリのようなものだと言ったことがありますが、ますますその通りだなあと思わされています。私たちはそれぞれに神のかたちとして回復されていくべき課題があり、主は片時も離れず私たちとともにおられ、励まし、導き、力を与えてくださるのです。

ですから今日の箇所の結論として10節と13節で繰り返されているように「恐れるな」と言われるのです。この「恐れるな」の第一義的な意味は、当時敵に囲まれていたイスラエルや、これから起こることとして告げられていた苦難の時代に、迫り来る敵や苦難を恐れることはない、ということです。しかし同時に、現代の私たちや将来のクリスチャンも含めた神様の救いのご計画の中にある者たちへのメッセージとして、人生の中で迫り来る苦難があっても恐れることはない、あるいは自分たちの不誠実さや不忠実さゆえに神の約束からこぼれ落ちてしまうことを恐れなくて良い、という慰めのメッセージでもあります。

では、神がご自身の約束に基づいて私たちとともにおられ、助けてくださるから恐れなくて良い、という慰めを受け取った私たちは、どのように生きるべきなのでしょうか。

安心して生きていられればそれで良いということなのでしょうか。大きく傷付いた状態から回復したばかりなら無理せずゆっくり過ごす必要もあります。でも、力を取り戻したらやはり、アブラハムの子孫を通してこの世界を祝福するというご計画に召された者として、神様の祝福を周りの人たちに届ける者となることが良いのではないでしょうか。

新約聖書の中でも、慰めを受けたなら慰める者になりなさい、赦されたのだから赦す者になりなさい、神との和解を受け取ったのだから和解の使者となりなさい、と受け取った恵みを周りの人と共有することを教えられています。主がわたしたちとともにいてくださってもう恐れることはないのだから、私たちも誰かとともにいる者になるということではないでしょうか。

先週、仙台のある教会の若い牧師が狭心症で倒れました。私がなった心筋梗塞の一歩手前の症状です。幸い大ごとにはなりませんでしたが、今月中にはもう一度カテーテル手術が必要とのことで心配されます。先生と奥様の話を聞くと、少し前にあった婦人同労者会で妻が話したことや私の症状についての説明を思い出して病院に駆け込むことができたということでした。それでも不安や落ち込みの中にあるようだということで、先生に直接電話をしてお気持ちを聞きました。似たような病気であることもあって、お互い共感することがあり、いくらか力になれたようです。

私たちには神様と違って病を癒す力はないし、敵を退ける力もありません。しかし、同じ痛みや弱さを知ることができますし、かたわらにいることで励まされ、慰められることがあることも知っています。

こちらの善意や考え、やり方を押しつけるのは身勝手ですし、助けになっているという感覚に満足を覚えるためにするならただの自己満足です。しかし共感し、相手の迷いや決意をそのまま受け止めて支えることは大きな助けになるはずです。リハビリの先生がすぐに手を差し伸べる距離で一緒に歩き、患者自身が歩けるよう励ますように、お互いにクリスチャン生活というリハビリの歩みをする者として、ともにいるようになりたいと思わされます。主が、まず私たちにそうしてくださったからです。

そうして励まし合い、支え合いながら歩む私たちを、やがて主はともに完全に回復させ、受け取るべき天の祝福、健やかさ、栄誉を受け継がせてくださいます。

祈り

「天の父なる神様。

今日は、私たちのただお一人の救いである主が、私たちのこの地上での歩みの間、どのような時もともにいてくださることを改めて学びました。主がともにいてくださるので、私たちは救いの確かさについて不安になる必要はないし、差し迫る苦難の時にも恐れることはないと励まされています。

そのような励ましと慰めを受けた者として、誰かとともにいる者とさせてください。そうして、私たちがともに歩み続け、やがての日には豊かな恵みと祝福に与れますように。

主イエス様のお名前によって祈ります。」

コメントする

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA