231112_Rev.7.9-17_いかに生きるべきか

2023年11 月 12日 礼拝 聖書:黙示録7:9-17

 8月に中断したままになっていた黙示録を再開したいと思います。今日と次週とで黙示録を終え、11月最後の週は全体を振り返りたいと思います。

さて、8月に黙示録をはじめた時は、ウクライナでの戦争のまっただ中で(それは今も変わらないのですが)、世界全体が恐れに包まれていたように思います。しかし、今私たちが毎日目にし、耳にするのはパレスチナのガザ地区での戦争です。その地域は聖書の舞台となった地域であり、イスラエルを取り囲む国々がイスラエルに敵対し怒りを向ける有様は聖書の告げる未来の出来事と重なるようにも思え、この事態をどう理解したら良いのか戸惑うことがあると思います。これは世界の終わりに向かう予兆なのか、歴史上繰り返されて来た戦争がまた起こっただけなのか、それとも別な意味があるのか。そうした理解の違いは黙示録をどう理解するかと関係がありますし、受け止め方の違いは生き方の違いに結びつきます。

前回は1~5章を中心に、黙示録が困難に直面した教会を励ますために書かれたものであることを見ました。

今日は6章から16章までを取り上げます。ここには複雑な構成の中に様々な幻が次々と現れ、読む者を混乱させます。なかなか難しいのですが、できるだけ分かりやすく説明し、その意味を考えてみたいと願っています。

1.7つのしるし×3

まず、6~16章には7つの印が続く3つのセットが入れ子の形で記されています。と、言葉で言うと「はてな?」という感じがします。簡単な図をスライドで映しますのでご覧になっていただければなんとなく構造がつかめると思います。

6章から8章のはじめには「7つの封印」が次々と開かれる幻が続き、七つめの封印が解かれた時に11章まで続く「7つのラッパ」の幻が続きます。そして七つめのラッパが吹き鳴らされた後、15~16章で「7つの鉢」がぶちまけられるという幻が続きます。7のシリーズは入れ子状、あるいはマトリョーシカ式になっていいて、それぞれの7のシリーズの終わりは「最後の裁き」について触れており、また間には、重要な幻が挿入されています。

個別の幻をどう理解するか、ということ以上に重要なのは、全体をどのようなものとして受け止めるかです。

一つの見方は、これらの幻はそのまま時系列だとする立場ですが、この見方でも過去の出来事を記しているという立場、黙示録が書かれた時代のことを書いているという立場、未来のことを書いているという立場がそれぞれあります。

もう一つの見方は、入れ子式の書き方や、実際の内容がだいたい同じような災いが繰り返されていること、いずれも最後の裁きで終わっていることなどから、これはイエス様の復活から再臨までのことを3つの異なる視点から描いているのだ、という立場です。

私は、以前は一つ目の見方で、未来に起こる世の終わりの出来事を時系列で預言しているものだと教えられ、そのように考えてきましたが、今は二つ目の見方をするようになっています。

7つのシリーズで繰り返されることは、様々な災いが地上に降りかかること、それでも多くの国々の王たちも民も神の前に遜らず、かえって反抗すること、それに対する神の最終的な裁きがあるということです。それらの間に、小羊なるイエス様が勝利と救いをもたらし得ることや、イエス様に従う教会が苦難を受けつつも、イエス様に従うよう励まされていることです。

もし黙示録の幻が未来に起こる最後の審判に向かう時の一連の出来事を順番に指し示しているなら、私たちは青白い馬に乗った者が地上に死をもたらす出来事はどの出来事かということを探しはじめるでしょうが、ああでもない、こうでもないという議論に時間を費やしてしまうかも知れません。

しかし7つのシリーズに出て来る幻は旧約の預言書や出エジプトの時の災いのイメージを用いて描かれていて、天地の創造主に対して反抗的な人類に対する懲らしめとして繰り返されて来た災いを思い出させようとしているようです。それらは今日も繰り返されているものであり、この世界が絶えず直面してきた戦争、飢饉、疫病、死といったものです。さらに神の民に対する嫌がらせ、迫害が何度も繰り返され、クリスチャンはこの世の常である災いの中で苦難を味わうだけでなく、迫害による苦しみに悩み、忍耐しなければならないということが繰り返されているのです。そんな中で神の民はいつまでこのようなことが続くのかと訴えますが、主は、もう少し待つようにと答えているようです。例えば6:10~11です。

私たちには計り知れませんが、主はイエス様を信じる人々が十分に起こされるまで、この世界を終わりにはなさらないのです。

2.教会の役割

7つのシリーズの出来事が、未来のいつかの時点から始まる時限爆弾のカウントダウンのようなものでなく、イエス様が復活し、教会が始まって以来、主が再びおいでになるまでに繰り返される人間の神への反逆と悔い改めを促す神の懲らしめを描いているとするならば、その中での教会の役割は何でしょうか。

今日お読みした箇所はそのことを理解するために鍵となる大事な箇所の一つです。

6章から始まった7つの封印の幻のうち、4つの封印が解かれ、白、赤、黒、青白い馬が次々現れます。それらは戦争や侵略、飢饉、疫病を表しています。また6:9には5つめの封印が解かれ、祭壇の下に迫害によって殉教した人たちの魂がいる幻が表れ、その人たちが「いつまでこのままなのですか」と主に訴えます。

さらに6番目の封印が解かれるとさらに大きな災いが起こり「だれがそれに耐えられるだろうか」という嘆きとも絶望とも取れる問いを呼び起こします。

それに対して、ヨハネは神が災いをもたらす御使いたちに選んだ民に刻印が押され終わるまで待つようにと言われ、またその民の数が14万4千人であるという声を聞きました。

ここでヨハネが聞いたことと見たことにギャップがあることが分かります。14万4千人というのはイスラエル12部族からそれぞれ1万2千人ずつ数えたものですが、民数記の最初に出て来る人口調査に良く似ています。

しかし、ヨハネが実際に見たものは7:9にあるようにイスラエルの民の限られた人々だけでなく「すべての国民、部族、民族、言語から、だれも数えきれないほどの大勢の群衆」なのです。

しかもその集団は、軍事的なリーダーとしてではなく、贖いのために血を流された犠牲の小羊としてのイエス様に従う人々です。すべてのクリスチャンが迫害によって命を失うことになると言っているのではなく、14万4千人はイエス様を信じる新しい神の民を象徴しています。エホバの証人が主張するように実際の人数ではなく、あくまで象徴的な数字です。

神様がイエス様によってもたらすこの世に対する勝利は戦争や暴力によるのではなく、イエス様がそうなさったように神の民の忍耐と愛の犠牲によるのだということを表しています。

10章から11章にかけて小羊の巻物が開かれる幻があり、その中でものすごい権威を持った二人の預言者が登場します。ある人たちは実際に歴史の中に登場する特定の人物だと考えますが、「二本のオリーブの木、また二つの燭台」といイメージはむしろ福音を宣べ伝える使命とそのための権威を与えられた教会を指していると考えられます。二人の預言者は主が十字架につけられたように、この世の力、権力者によって迫害され、殺されますが、神によってよみがえらされます。個々のクリスチャン、町々にある教会は迫害によって滅ばされることはあっても、キリストの教会そのものが完全に滅ぼされることはなく、何度も立ちあがるのです。それは神の前に悔い改め、救い主を受け入れるようにと福音を宣べ伝える預言者としての役割を果たすためです。そのようにしてある人々は、クリスチャンの愛と忍耐、福音のことばによって悔い改め、神の民に加えられて行くのです。

3.いのちの水の泉へ

もちろん、この苦難の多い教会の歩みは永遠に繰り返されるものではありません。

7章に戻りますが、イエス様は私たちをやがて「いのちの水の泉」へと導いてくださいます。

15節から17節

「それゆえ、彼らは神の御座の前にあって、/昼も夜もその神殿で神に仕えている。/御座に着いておられる方も、/彼らの上に幕屋を張られる。

彼らは、もはや飢えることも渇くこともなく、/太陽もどんな炎熱も、彼らを襲うことはない。

御座の中央におられる子羊が彼らを牧し、/いのちの水の泉に導かれる。/また、神は彼らの目から/涙をことごとくぬぐい取ってくださる。」

これらの表現は21:3~4の新天新地における救いの完成した姿と同じである事が比べて見ると分かります。

「見よ、神の幕屋が人々とともにある。/神は人々とともに住み、人々は神の民となる。/神ご自身が彼らの神として、ともにおられる。

神は彼らの目から/涙をことごとくぬぐい取ってくださる。/もはや死はなく、/悲しみも、叫び声も、苦しみもない。/以前のものが過ぎ去ったからである。」

この事からも、これらの幻がこれから起こる災いや出来事を単に時系列に並べているのではなく、同じ主題を何度も繰り返して描くことで、読む人々にはっきりしたイメージを持たせようとしているのだと理解することができると思います。

私たちは、世の中の様々な出来事から世の終わりが近いというしるしを見つけようとやっきになったり、心配したりするより、ヨハネの福音書の中でイエス様が言われたことを思い出すべきなのです。ヨハネ16:33で主は言われました。「これらのことをあなたがたに話したのは、あなたがたがわたしにあって平安を得るためです。世にあっては苦難があります。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝ちました。」

クリスチャンはどの世界、どの時代に生まれ、生きたとしても苦難があります。しかしすでに勝利されたイエス様を信頼して平安をいただき、未来の希望を胸に勇気を出すことができるはずのです。

イエス様はすでにそのように約束してくださったのですが、現実に苦難や迫害に直面するときに問題なは、そのことを信じ切れなかったり、イエス様に希望を託すことを選びきれかったりすることかもしれません。

ですからヨハネの黙示録では、神に反抗して十の災いを招いたエジプトや繁栄し、力を誇示しながらもやがて滅びたバビロンといった旧約時代の様々なイメージを用いて、それらとは対照的な十字架で犠牲となられた小羊イエス様にならって生きることを選択するようにと繰り返しくり返し語りかけているのではないかと思います。私たちの生活は黙示録の中ほど苛烈ではないとしても、日頃経験する霊的な葛藤は、実は大きな戦いの一部なのだと思い起こすべきなのでしょう。その上で、いのちの水の泉に導いてくださる主イエス様に信頼し、忍耐しながら歩んでいくのです。

適用:どのように生きるべきか

黙示録が私たちにどんなメッセージを伝えようとしているか、それをどう適用するかを考えるにあたって気をつけておかなければならないことは、前も言ったように、すでに間違ったイメージを植え付けられている面があるということです。

オカルトものの映画が流行った時代、「666」という数字は悪魔を表すものとして有名になりました。今でも、出所を知らないまま「666」というと何か不吉な数字という印象を覚える人もいると思います。この数字は13:18に出て来ます。しかし良く読めば、これは誰かの額に現れる不吉なしるしのようなオカルトっぽい話しとはまるで違うことが分かります。

話しの続きになる14章に目を移すと、子羊なるイエス様とともにいる民が描かれています。14万4千については前に触れたとおり、世界中のあらゆる民族から集められた主の民、教会を表しています。彼らの額には子羊の名前と父なる神の名前が記されているとあります。

「666」の方は、軍事力や暴力、経済力で人々を支配する勢力のしるしです。ここで思い出さなければならないのは申命記6:8の「シェマー(聞けイスラエル)」と呼ばれる聖句です。「心を尽くし、いのちを尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい」という聖句が書かれたものを手に結びつけたり額にくくりつけたりしました。今日のクリスチャンにもそうするようにという意味ではありません。要は自分たちが何を大切にして生きるのかを絶えず思い起こし、実際の生活で表しなさいということです。

「666」という数字が頭のどこかに記されるかどうかを気にしたり、イエス様の名前入りステッカーをどこかに貼ったりすることではなく、私たちの生き方として、イエス様のご愛と犠牲、神様の恵みと真実さにならって生活するのか、それとも力で他人を支配する勢力に与するのか、どちらかを選ぶことになる、ということです。選ばないとか、答えを保留にするということはできません。

この世界を動かしている原理は力による支配です。戦争しかり、経済格差しかり、国際問題や政治の問題には常にかたちこそ違え、力による支配が関わっています。会社や地域社会で問題になるパワハラ、セクハラ、モラハラ、DVといった問題の背景にも、いつも力や立場の優劣がからんでいます。気をつけないと教会がカルト化するのも同じです。そういうものは良くないと誰もが言いますが、それらは人間に染みこんだ罪に根ざすものですからなくなりはしません。批判する側にも歪んだ正義感で徹底的にこき下ろしたり制裁を加えて喜んでいるようなことが起こります。態度を明らかにしないのは、そうした世の流れに身を任せているだけのことです。

しかし、そのような世にあってイエス様の名によって生きるというのは、まるで違う原理に従って生きることです。コロサイ書では「新しい人として生きなさい」という言い方でしたし、ガラテヤ書では「御霊の実を結びなさい」と言われていました。赦し、寛容、誠実、愛はクリスチャンでなくても人気のある言葉ですが、実践しようとすると案外煙たがられることがあります。たとえ良い反応が得られなくても、かえって煙たがられても、私たちはイエス様がそうであったように謙遜に、柔和、寛容、親切、慈しみの行動を選ぶ者でありたいと思います。それがいのちの水の泉へと招かれ、赦しによる救いと慰めの希望を与えられている私たちに相応しいことだからです。

祈り

「天の父なる神様。

私たちが生きているこの時代、世界の有様を見る時に、世界の終わりが絵空事ではなく現実のものであることを思わされます。そして主が再びおいでになる日が近いのではないかと思うこともあります。

けれどもイエス様は確かに、それがいつであるかを詮索するより、主の日がいつ来ても良いように、心ぞなえをし、なすべき務めを忠実に果たすようにと教えたことを思い起こします。

この世界はますますこの世の原理に従って罪深くなるでしょうが、私たちはイエス様の歩まれた道に確信をもって進ませてください。いつの日か、すべてが終わり、慰められ、いのちの水の泉へと辿り着かせていただくことを信じて、イエス様が側にいることを決断し、選び続けることができますように。

イエス様のお名前によって祈ります。」

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