2023-11-19 すべてが新しく

2023年 11月 19日 礼拝 聖書:黙示録21:1-8

 物語には終わりがあります。感動的な終わり方をする物語もあれば、もやもやした感じが残る物語もあります。

ゲームやスポーツにも始まりがあれば試合終了やゲームクリアがあります。アンコールが繰り返されるくらい盛り上がったコンサートやライブだっていつかは終わりが来ます。

そして何かを計画したら、その計画が完了する時に何を得たいか、というゴールが必ずあります。ゴールがなければそれは計画ではありません。

有名なエレミヤ29:11には「わたし自身、あなたがたのために立てている計画をよく知っている──主のことば──。それはわざわいではなく平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。」とあり、神様が明確なご計画を持っておられることを明らかにしています。

そして使徒パウロもエペソ教会の長老たちを集めて別れのスピーチをしたときに言いました。「私は神のご計画のすべてを、余すところなくあなたがたに知らせたからです。」神様のご計画は学び理解することができるものです。

今日は黙示録の最後の部分、17~22章を見ていきます。ここも様々な象徴的な幻にあふれていますが、神様の聖書全体を貫くご計画のゴールを表していると考えられます。

1.獣の国の滅亡

17~19章前半には、「大淫婦」とも呼ばれる「バビロン」が滅ぼされることが書かれています。そして「大淫婦」が乗り回す7つの頭と十本の角を持った恐ろしい獣も登場します。

バビロンという国はとっくの昔に滅びています。7つの頭というと、八岐大蛇やキングギドラを思い起こしてしまうのですが、そのような怪獣が世の終わりに登場するということでもありません。ゴジラや怪獣の世界はあくまでテレビや映画の中のファンタジーです。しかし、これらの幻がには明確な意味があります。

旧約時代に軍事力と経済力を誇って神に対して高慢になり、周りの国々を力で支配した帝国に由来する「バビロン」という名前は、歴史上登場する似たような国々、人々の象徴です。そしてヨハネの黙示録を受け取った最初のクリスチャンたちは、黙示録が描くバビロンがローマ帝国とそっくりなことにすぐ気付いたはずです。

その特徴は17:4にあるように経済的な力を誇り、道徳的には堕落しています。さらに5~6節を見ると、大バビロンという名前であり、地上のあらゆる忌まわしいものの源であることが記されています。その振る舞いは「聖徒たちの血とイエスの証人たちの血に酔っている」というのです。

これは歴史上に現れる特定の女性を指しているのではなく、力と繁栄によって欲しいままに振る舞い、邪魔なものは力で排除する傲慢で神に対しても反抗的な人間たちの象徴です。権力者たちだけでなく、その守護のもとで金儲けをしたり欲望のままに生きる人々をもこの大バビロンは支配しています。

ローマは共和制から皇帝をトップとする帝国に変貌を遂げてからヨーロッパ世界を支配し、「パクスロマーナ」と呼ばれる平和と繁栄をもたらしました。今でも帝国時代のローマを理想的な国家像とする人たちはいます。しかし、ローマの平和と繁栄は少数民族や敵を力で支配し、都合の悪い者、例えばクリスチャンを迫害することで成り立っているものでした。

これはローマだけでなく、世界を見渡せば、歴史上いくつもそうした国々が出て来たことが分かりますし、現代も同じです。

大淫婦が乗る頭が何個もあって次々と襲いかかってくる獣の幻が出てきますが、これはローマだけでなく歴史上起こっては滅び、消えたかと思えば何度も姿を変えて登場する、バビロンの性質を持った国々を表しています。古代の大帝国や独裁国家だけでなく民主主義の国であろうと社会主義の国だろうと関係なく、力と繁栄を誇る国は起こります。

国のあり方が正義や寛容さを失い、軍事力や経済力に頼りはじめると「獣化する」と言うことがありますが、日本もそうした歴史があります。明治時代以降、西洋の列強に負けないようにと軍事力と近代化を進め経済的に力をつけた日本は、やがて東洋の盟主として君臨する野望を抱き、アジアを欧米の支配から解放するという理想を掲げますが、その計画は軍事力と経済力による支配でした。発展を遂げた日本はあっという間に獣化してしまったと言えます。

19章では、この消えては現れる大バビロンに対して最終的な裁きが下されることを、旧約の預言書で用いられる様々なイメージを用いて描いています。自分たちの軍事力や繁栄を誇り神とするような者たちはやがて滅びるのです。

2.最後の戦い

黙示録や聖書が示すのは、主イエス様が再びおいでになるとき、力と富を神とする大バビロンに代えて、ご自身の王国を建て、正義と平和をもたらすということなのですが、どのようにしてでしょうか。黙示録19~20章でそのことが描かれています。

幻の中で繰り返されてきた最後の審判は、雷鳴、地震、炎といったイメージでしたが、ここでは「最後の戦い」として描かれます。

19:11に白い馬に乗った方が戦うために天から来られます。イエス様を表すこの幻には大きな特徴があります。13節にあるように、最後の戦いが始まる前にすでにその衣が血に染まっているのです。ピンと来た方もおられると思いますが、衣を染める血は、イエス様が十字架で流された血を表しています。イエス様がご自分の御国の王であり、力と富を神とし不正と欲望の限りを尽くす世界に裁きを下す権威を持っておられるのは、罪の贖いを成し遂げた方だからです。

イエス様がこの世界のために十字架に掛かられたのは、天地創造の時に良いものとして造られたこの世界が暴力と罪で汚されたためで、この世界とそこに生きる人々を贖い、再び良いものとして立たせようと十字架で血を流されたのです。それなのに、あくまでそれを拒み、この世界に悪をもたらし続ける人々の責任が問われるのです。そして、イエス様は彼ら自身がこの世界にもたらした地獄を彼ら自身に返すのです。

そして20:1-7では御使いが登場し、人間を欺き、誘惑してきた悪魔を捉え千年の間封印するという幻が現れます。悪魔が封印された後、イエス様に従って殉教した人々が生き返って王としてキリストとともに世界を治めるというのです。これは「千年王国」と呼ばれています。

この千年王国についてはいくつか解釈の幅があります。ある人たちは文字通り千年続く王国でその統治をかつて殉教したク人々に委ねられると考えます。しかし他の人たちは象徴的な表現であって、イエス様が私はすでに勝利した、天の御国はあなたがたのただ中にあると言われたように、イエス様の復活から現在に至るまでの勝利を象徴していると考えます。

いずれにしても重要なポイントは力と富を神とあがめる悪の世界に対して再びおいでになるイエス様が勝利されるということです。

その後、8節から15節では解き放たれた悪魔が再び諸国を惑わし、イエス様に対して最後の戦いを挑みます。聖徒たちと都を包囲しいよいよ襲いかかろうかと言うところで天から火が下り、彼らは焼き尽くされてしまいます。悪魔も獣も、惑わす偽預言者も火と硫黄に投げ込まれ、さらには20:11以下で、全ての人々が生きている者も死んだ者も天の御座の前で開かれる書物に従って裁かれる場面へと続きます。いわゆる最後の審判と呼ばれる場面です。

しかしここである人たちは反論します。極悪非道なことをした犯罪者と人の悪口を言った程度の人も同じ罰を受けるのはつり合わないんじゃないか。けれどもここで裁きを受けている人たちを見ると、そもそも神とともにあることを望まなかった人たちです。彼らが受ける報いは罪の種類や大きさというより、彼らが望んだとおりに神から永遠に引き離されるという結果を招くのだというふうに言うことができます。

3.新しい天と地

黙示録の最後の部分は21~22章です。ここがいわゆる「天国」についての幻が続く箇所になります。

しかし、読み進めて行くと、この箇所は私たちがやがて住まう天国についての詳細な見取り図のようなものではなく、天地創造の後に起こった人間の堕落によって引き起こされた世界の痛みを回復する神様の壮大なご計画の結末を描いているのだということが分かります。

もっとも大切な宣言は21:5です。「見よ、わたしはすべてを新しくする。」

もちろん3~4節に書かれているように、この世にあって労苦し、時には迫害によって命を失うような目にさえ会った神の民に対して、すべてが報われ、慰められ、涙が拭い取られる日ではあります。しかしそれ以上の日であることが黙示録には記されています。

21:1には「新しい天と新しい地」、2節には「新しいエルサレム」そして22:1~2を見ると「いのちの水の川」、「いのちの木」とあります。エデンの園という言葉自体は出て来ませんが、新しいエデンの園として描かれていることが分かります。

これらは旧約聖書の中で神様がお造りになり、祝福し、ご臨在されるところとしてお選びになった場所を代表しています。遠く隔てられ天におられた神様がおいでくださり、新しくされた世界をまるで花嫁として迎えるように喜び迎え、愛し、慈しみ、祝福されるのです。そしてせっかく造られた世界が人間の罪によって汚され破壊がもたらしてしまったところを回復し、神の名が置かれた都として選ばれたエルサレムなのに神に背を向け数々の非道な行いが積み重ねられついに滅びたエルサレムが回復され、罪を犯した人間から遠ざけられたエデンの園が回復されるのです。

それらは単に昔の姿に戻るというのではなく、本来神様が目指したもっと素晴らしい姿に新しくされます。

そして人間もです。天地創造の時に神のかたちとして造られた人間にこの世界を治めるようにと務めを与えられたのに、罪故に失敗し、逆に呪いを招いてしまいました。小羊であるイエス様によって贖われた人々は、神のかたちとして地を治める務めを再び果たすようになることが21:24以下の都の統治や諸国に恵みをもたらすことによって果たして行く姿が描かれます。

細かな点について考えるとまだまだ謎なことはあります。例えば新しい都にはいのちの書に記された人しか入れないとありますが、都の外にいる諸国の民とはどういう人たちなのでしょう。恐らく多くのことは実際にイエス様が再びおいでになって、この壮大なご計画の結末を見てみなければ分からないでしょう。

しかしヨハネに託されたいくつもの幻が、ローマ帝国による迫害という現実の試練に直面していた初代教会と、後の時代の私たちに伝えようとしている中心的なメッセージは明確です。

ヨハネの幻は歴史の中で繰り返されるパターンとそれに対する神の約束を対比しています。人間の罪深さは、どの時代でもバビロンのようになり、国々は獣のようになってしまうけれど、イエス様を信じる人々は神がやがて世界から悪を取り除いて新しくしてくださる約束を信じて立ち向かい、流されないよう心を定めなさい、ということです。

適用:希望を持って

自分たちが生きている時代を評価するのはなかなか難しいことです。初代教会が迫害に直面し、自分たちのいのちが掛かっているのに、再臨を約束されたイエス様はなかなか帰って来てくださらないように見え、この状況をどう理解して良いか分からないということがあったでしょう。問題はそれだけでなく、偽教師が入り込んで来たり、教会の交わりが表面的になったり、世の中の様々な誘惑にさらされて信仰の道から離れる人がいたりと、心を悩ますことはいくらでもありました。

その点では私たちも同じではないでしょうか。イエス様の再臨はそんなにすぐではない、ということは初代教会の人たちよりは分かっているかも知れません。しかし、私たちが生きる世界には良い面以上に堕落し、悪意があり、不公平で正義が失われているように見え、多くの世界でクリスチャンたちが迫害されてもいます。私たちはいのちの危険があるような迫害ではないにしろ信仰故につらい目に会うことや嫌がらせを受けることはあり得ます。聖書が示す正しさを追い求めて疲れたり、徒労感を覚えることだってあります。

しかしヨハネの黙示録のメッセージを通して、初代教会のクリスチャンたちは自分たちが経験している試練が決して自分たちだけが味わったものではないことを理解しましたし、いつまでも続くわけではないことも分かりました。そしてイエス様が再びおいでになって、全てを新たにし聖書全体を貫いている神様の救いのご計画がゴールを迎えるという確信を得ることができました。

それは、神のご計画の全体像を通して現実の世界を見る知恵が与えられたということだけではありません。彼らが個人的な経験として、また教会の経験として、イエス様が帰ってくるのをいたずらに先延ばしにしているわけではないこと。何よりも、自分たちのことをちゃんと覚えていてくださって、おいでになったときには「よくやった良いしもべよ」と一人ひとりに語りかけ、ねぎらい、涙を拭い、傷を癒してくださるという希望を得たのです。

イエス様は22:12でこう言われます「見よ、わたしはすぐに来る。それぞれの行いに応じて報いるために、わたしは報いを携えて来る。わたしはアルファであり、オメガである。最初であり、最後である。初めであり、終わりである。」

すぐに手に入るような利益や得になることがあるからではなく、イエス様にある希望があるから、すべてが新しくされる日にすべてが報われることを信じるから、私たちに委ねられた人生を望みを持って誠実に生きて生きましょう。そのような生き方を選ぶ者となりましょう。

アルファでありオメガ、最初であり最後であるイエス様はすべての全てであり、すべてを見通し、始めた事を必ず完成してくださる方です。ですからイエス様は今の世界の有り様をしっかりと見定めておられるだけでなく、私たちのこともイエス様から決して忘れられてはいませんし、これまでの労苦も、今直面している悩みも、今後味わう試練や苦難もちゃんと心に留めていてくださいます。

17節で「来てください」と言うようにと勧められています。イエス様が再びおいでになることを私たちの望みとして告白し続けましょう。求める者には渇きをいやすいのちの水を惜しげもなく与えてくださる聖霊が私たちとともにおられます。

祈り

「天の父なる神様。

私たちは大変な時代に生かされていると感じることがありますが、歴史上の多くの主にある人々も同じように、また明らかにさらに過酷な時代を生き、その中で戦い、信仰を全うして来たことを思う時、黙示録に示されている知恵と希望をしっかりと持つことがどれほど大事かと教えられます。

どうか、歴史上繰り返されて来たパターンを越えて、主がおいでになって全てを新しくし、回復してくださるという希望を確かなものとして持つ事ができるように励まし、強めてください。イエス様が私たちのことを覚えていてくださることに希望を持ち、恐れではなく平安を持ち、傲慢さや怒りではなく愛と喜びをもって歩むことができますように。

やがておいでくださるイエス・キリストの御名によって祈ります。」

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