2023-11-26 草は枯れ花はしぼんでも

2023年 11月 26日 礼拝 聖書:イザヤ40:1-11

 2020年の10月から、聖書全体を一巻ずつ概観するシリーズを始め、先週ようやくヨハネの黙示録を終えました。終盤で長い中断があったせいもあり、2年掛かったことになります。

一つ一つの書物の中心的な内容をすべて覚えてはいられないかもしれませんが、それでも今までほとんど開いたことのなかった箇所を開いたり、気付かなかったことに気付いたり、全く新しい発見があったという感覚は残っているのではないでしょうか。そしておぼろげながらでも、聖書全体のストーリーとそこに流れる神様の偉大なご計画を感じ取れていたなら、このシリーズをやった意味があったと言えます。

使徒パウロがエペソの長老たちに語ったように、聖書全体を通して明らかにされた神様のご計画は私たちが誰でも学び、理解できるものです。私たちは研究者ではありませんから、細かな点を詳細に学び記憶するより、全体像を掴み、私たちの人生や教会の歩みの助けとなるようにすることです。

そこで今日は、イザヤ40章のみことばを手がかりにこれまで見て来たことを振り返りながら、神様のご計画の大筋を確かめ、そのご計画に結び合わされた私たちの歩み、教会の歩みについて思い巡らすことにしたいと思います。

1.慰めのために

第一に、神様の偉大なご計画は私たちに慰めを与えるものです。

イザヤ書の前半はイスラエルに対する神の裁きについて警告する内容が記され、およそ100年後にそれは現実のものとなりす。アッシリヤ帝とバビロン帝国によって王国が滅ぼされ、捕囚として連れて行かれます。

しかしイザヤ書後半は、滅亡の後に残される希望について語られます。主はその希望を宣言するように、「慰めよ、慰めよ、わたしの民を。」と語りかけるのです。

思い出していただけるでしょうか。神様の偉大なご計画について最初に示されたのは創世記のアブラハムに対してでした。アブラハムとその子孫に土地を与え、彼らを通して全世界を祝福するという約束のかたちで示されました。

そこには「慰め」という言葉は出て来ませんが、アブラハム、イサク、ヤコブと3代続く族長たち家族を神様がお取り扱いになった時、彼らに慰めがもたらされていたことを見ることができます。

アブラハムと妻サラには子孫が与えられると約束されましたが、ご存じの通りサラは不妊症であり、二人ともすでに高齢でした。しかし、神様はアブラハムとサラの間に男の子を与えました。この、不妊の女性を神様が憐れみ、子どもを宿らせて慰めを与えるという奇跡は、旧約聖書を通して繰り返し表れるパターンです。

アブラハムの息子イサクは両親に可愛がられて育ちましたが、母サラがなくなった時、アブラハムだけでなくイサクも深く悲しみました。イサクの将来を考えたアブラハムはしもべに嫁探しを託し、リベカを見出します。イサクはリベカを妻として迎えることで、母を失った喪失からようやく慰めを得たことが記されています。

イサクの息子ヤコブはエジプト王の前で「不幸な人生だった」と嘆きました。争いの絶えない兄弟たちや愛する息子ヨセフを失った悲しみに心を痛めていましたが、エジプトの地で息子と再会し、家族そろって飢饉の苦しみから救出され、晩年は落ち着いた生活ができました。約束の地からは離れてしまいましたが、いつの日か子孫がその地に帰ることを信じていました。

ヤコブの子孫であるイスラエルがエジプトで長い間奴隷として苦しんだ時、その嘆きと叫びは神様のもとに届き、モーセを通して解放され約束の地を目指す旅へと力強く出発しました。

その後、王国を建国しましたがイザヤの時代には神に背を向けることが多く、その報いとして他国に滅ぼされることが警告されていました。それでも約束を果たされる神様は慰めると改めて約束なさったのです。「エルサレムに優しく語りかけよ。これに呼びかけよ。その苦役は終わり、その咎は償われている、と。そのすべての罪に代えて、二倍のものを主の手から受けている、と。」

主のご計画において、私たちに対する慰めは、単に苦しみや悩みの中にある者への労りや励ましというだけでなく、自らの罪によって招いてしまった苦しみ、痛みを贖い、癒すことが含まれます。マイナスだった人生をプラマイゼロに戻すだけでなく、さらに祝福を与えるものですから「二倍のものを」主からいただくのです。

この慰めのご計画の中にあるとき、完全な形ではなくても、主の慰めを味わうことができ、未来に約束された完全な慰めを思い起こさせてくれるのです。

2.まっすぐな道

第二に、神の偉大なご計画を通して人類は人としてあるべき姿へと回復されていきます。そのことを2~5節では、道がまっすぐにされるという喩えで言い表しています。

この箇所は、イエス様が登場する直前にバプテスマのヨハネが自分のことを問われたと、自己紹介に使った聖句です。約束のキリストをお迎えするために、悔い改めなさいと語るためにイザヤ書のこの箇所が引用されました。

道を真っ直ぐにする、谷が引き上げられ、山や丘が低くされる。曲がったところが真っ直ぐにされ、険しい地は平らになる。こうしたイメージは、曲がった心や生き方が正され、高慢な者は遜らされ、貶められていた者は名誉を回復することを表しています。そのようにして、神のかたちとして造られた人間が本来あるべき姿へと整えられ、回復することが、神の救いのご計画にとって重要な部分です。

貧しかった者が顧みられ、虐げられていた人々が救いに招かれる。逆に高い地位にあった者たちや金持ちたちが御国から拒絶される。こうした図式は福音書の中でよく出て来ました。しかし大事なポイントは立場の逆転ではありません。権力に支配され苦しんでいた民衆が立ちあがって立場が逆転した、というような歴史上の出来事は小説や映画に美しい物語として語られますが、現実にはどの革命も相当に残酷で凄惨な話しが付きまといます。

神様の救いのポイントは、貧しい者も虐げられたり除外されることなく救いに預かることができ、金持ちや権力者たちがひいきされることもなく、立場に関係なく神の前にへりくだる時にその歩む道がまっすぐにされ、あるべき人間性を取り戻せるということです。

人の権力や豊かさは、時が経てばしおれる草や散ってしまう花のようです。実際、イスラエルの王国は神に頼ることをやめたとき、力を失い滅びて行きました。イスラエルを滅ぼしたバビロンもその栄華の極みの中であっという間に次の権力者に取って代わられました。幾らかのお金と力は私たちの暮らし向きを良くし、いろいろな心配ごとや悩みを解決してはくれますが、それを私たちの救い、魂の回復と同一視したとき、私たちもまた草や花のようにやがてしおれてしまうのです。

しかし8節にあるように、「私たちの神のことばは永遠に立」ち続けます。神の偉大なご計画を記した聖書のことばこそが、私たちが頼りにできるものです。

聖書が信頼できる、という確信はキリスト教信仰の要となるものです。ヘブル1:1に「神は昔、預言者たちによって、多くの部分に分け、多くの方法で先祖たちに語られました」と記されているように、神様はおよそ1500年に渡る歴史の中で、様々な人を通して、様々な状況で語られました。またその文体も物語形式、法律文書、歴史書、詩、金言ことわざ集、手紙、黙示文学など様々。用いられた言語もヘブル語とギリシャ語が中心ですが、一部アラム語も用いられます。ユダヤ人もいれば異邦人クリスチャンもいます。

私たちはこの聖書を通して読んできて、そこに一貫した流れがあったことに気付きました。時代が変わっても、変わらない神様のご計画と人の不信仰や不誠実さに拘わらず、約束を果たそうとする神様の強い意志、力強い働きを見て来たのです。

3.私たちの羊飼い

第三に、私たちに慰めをもたらす神の偉大なご計画は、私たちの羊飼いとなってくださる方を通して実現します。

旧約聖書の主なテーマは、神の約束が果たされるために、神ご自身が遣わす王であり、祭司であり、預言者である方、神でありしもべである約束の救い主がおいでになることに焦点が当てられていました。

新約聖書、特に福音書では、約束された方が歴史上、実在する方としておいでになり、神が約束の地として示した土地で生活し、神の約束が成就し神の国として実現したことを様々な奇跡や教えを通して記し、何よりも生涯の終わりに十字架につけられて死に、三日目に復活することで贖いが成し遂げられたことを明らかにします。

そして使徒の働きとそれに結びつけられる手紙を通して、約束された方が天に帰られた後も生きておられ、教会を通して神の救いの御わざが続いて居ること、やがてもう一度救い主が、今度は王として帰って来られることを指し示し続けます。

そうした中で約束された方を表す一貫したイメージが王であり、また羊飼いであるということです。

このイザヤ書でも、主ご自身が力を持って来られ、治める方として、また羊飼いとして、その群であるご自身の民を引き寄せ、懐に抱き、優しく導くことが宣言されており、その良い知らせを声を上げて知らせよと呼びかけています。

イエス様が約束された方としてお生まれになり、人々の前に現れた時、多くの人々は救い主を力で自由と尊厳を回復してくれる力強い王を期待していました。ですから、そういう意味でのユダヤ人の王であることは否定しましたし、そのような期待に応えるつもりはありませんでした。ただし喩えの中ではしばしば王や主人といった喩えを用いています。しかし、それ以上にイエス様が何度も用いたイメージは羊飼いです。たとえ話として語ることもありましたし、私たちはイエス様の弟子たちや人々に対する接し方、振る舞いの中に良き羊飼いとしてのモデルを見ることができます。

新約聖書の他の手紙では、やはりイエス様を王として、また羊飼いとして描き、その権威のもとに、その守りの御手の中に留まり、励まされながら歩むようにと勧めています。

神の偉大なご計画を実現するためにおいでになる方が羊飼いとして描かれるのは、聖書の舞台となった中近東の文化と土壌が背景にあるのは間違いありません。羊飼いと彼らが世話する羊の群の関係性が、確かに神と民との関係性をよく表していました。羊飼いと羊の群の関係性は、民を導く者として神から務めを委ねられた王と国民の関係にも当てはめられましたし、新約時代には教会のリーダーたちとクリスチャンの関係に当てはめられました。牧師の「牧」は羊飼いを表し、ギリシャ語では文字通り羊飼いを意味する言葉が用いられています。そしてヘブル13:2では、羊飼いの羊飼い、という意味で、「永遠の契約の血による羊の大牧者、私たちの主イエス」という称号が捧げられています。

私たちの牧者としてお来られたイエス様は、贖いのための犠牲の小羊になっただけでなく、引き続き永遠の契約の血による大牧者として私たちが神のかたちとして完全に回復され、真に慰められるまで私たちを守り、導いてくださると聖書全体が語っているのです。

適用:変わらぬみことばに

聖書全体を貫いている神の偉大なご計画は、私たちとこの世界に慰めをもたらすものです。その慰めは私たちを神のかたちとしてあるべき姿へと回復し造り変えることによってであり、その約束は永遠に変わることがありません。そしてこの偉大なご計画は羊飼いとしておいでくださった、そしてやがて再びおいでくださるイエス・キリストを通してなされるものです。

私たちがキリスト教に関心を持ったり、聖書を読み始めたとき、学びはじめたときには様々な動機があったことと思います。

ある人は人生の目的が分からずに悩んでいました。ある人はどうしてこんなにも苦難が続くのだろうかと救いを求め、ある人はたまたま誘われて来た教会の交わりの温かさに憧れました。ある人は子どもの頃から聴かされていた聖書のお話を自分のこととして考える何かのきっかけがあり、ある人は自分がいやで変わりたいと願いました。またある人は自分の居場所を探していました。別なひとはお付き合いしていた人がクリスチャンだから関心を持ちました。

動機は何であれ、真剣なものですし、どれが正しくどれが間違っているということはありません。私たち人間は誰でも、神のかたちとして造られたのに、そのあるべき姿から離れてしまい、真っ直ぐな道を見失い、直ぐに枯れたりしおれたりする草花のようなものに答えがないかと探しているような者でした。

しかし、神様は不思議な導きによって私たちを聖書に出会わせ、大牧者であるイエス様に出会わせてくださいました。そのことによって、私たちは自分の人生が、今までとはまったく違う物語として見えるようになりました。

私はたまたまクリスチャンの両親のもとに生まれ、近所の友だちや同級生とは違った家庭環境や習慣があり、そのことでたまにからかわれたり、寂しい思いをしたのを隠して、教会では良い子でいる、少しひねくれたところのある青年として育っただけの者ではありませんでした。神様の偉大なご計画のもとで、羊飼いなるイエス様の贖いにより、欠けはたくさんあるけれど、私も神のかたちとしてあるべき姿へと回復され、造り変えられる途中にあることを知り、いろいろな人との出会いや聖書のことば、出来事を通して慰めをいただきながら、やがて与えられる完全な慰めを待ち望んで、希望を持って生きられる者だということを知りました。不完全であることを恥じることはないし、いろいろなコンプレックスを持っている者でもあることを否定しないで認めて、そのままで生きて良いことを教えられました。

教会の中にさえ入り込んでいる人間の作り上げた伝統や歴史、習慣、価値観に生き方を縛られるのではなく、神様の永遠に変わらないみことばによって示しておられる原則に頼って生きるとき、自由でいられることを知り、慰めと平安が与えられました。

たとえ、人生の中に困難があり、周りの人の無理解や悪意に傷付いたり困ることがあっても、私の牧者である方が私の味方でいて下さいます。地上において解決が与えられなくても、主が再びおいでになる時に望みを置くことができます。

このような新しい物語の中に私自身を置いて、草や花のように移り変わるものではなく、永遠にかわらない神のことばに根ざして一歩ずつ歩んでいきたいと心から願います。

祈り

「天の父なる神様。

聖書全体を貫いて表されているあなたの偉大なご計画が、私たちに慰めをもたらすものであることをありがとうございます。ただ気持ちに寄り添ってくださるだけでなく、私たちを新しく造り変え、神のかたちとしての在るべき姿に回復させようと、大牧者なるイエス様を与えてくださり、ありがとうございます。

どうか、この救いに招き入れられた者として、あなたの変わらないみことばに信頼し、根ざして歩むことができますように。移ろい易いこの世のものではなく、変わらないあなたの約束とイエス様の真実さに信頼させてください。

イエス・キリストのお名前によって祈ります。」

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