2023-12-10 東方の博士たちも

2023年 12月 10日 礼拝 聖書:マタイ2:1-12

 皆さんは、はじめてプレゼントをあげる側になった時のことを覚えておられるでしょうか。必ずしも誕生日やクリスマスのような特別な機会でなくても、友だちや家族、あるいは見知らぬ誰かに、何かを差し上げる側になったとき、どんな感じがしたか覚えているでしょうか。

贈り物をもらうのはとても嬉しいことです。ほしかったものならなおさらです。しかし誰かに何かを贈ることにはもっと深い喜びがあります。相手が受け取ってくれると、何か心が通じたような感じがします。しかし場合によっては、あまり嬉しそうな顔をしなかったり、受け取ってもらえないこともあります。それは当然がっかりします。それくらい、贈り物をすることには、もらう側にいる以上の大きな心の動きがありますから、贈り物をしようという人にはそれなりの理由と重みがあることです。

クリスマスにプレゼントを贈り合う習慣の起源については諸説あるそうですが、最も説得力があるのは聖書に登場する東方の博士たちによる贈り物でしょう。出来事としてはイエス様が生まれた後の話ですが、救い主誕生を待ち望んでいた異邦人、ということで特別に興味を引く話しでもあり、何度も聞いた話しでしょう。

今日は贈り物を携えてやってきた博士たちにもう一度注目します。この出来事にはどんなメッセージがあるのでしょうか。

1.彼らは何者か

時は悪名高きヘロデ王の時代。イエス様がお生まれになったちょうどその頃に、「東の方の博士たち」が突然王宮のあるエルサレムを訪問して来ました。

「悪名高き」というのは、ヘロデ王が本来イスラエル王家の出身ではなく、エドム人の子孫でした。皇帝アウグスティヌスの保護と血で血を洗う権力闘争によって王位を勝ち取った王ですから、ユダヤ人からはまったくもって人気がありませんでした。それでエズラの時代に再建された後、行く度かの戦渦をくぐって来たエルサレム神殿を拡張し、当時のローマ世界では最も大きな建築物とすることで人々の歓心を買おうとしました。

権力が脅かされることには人一倍敏感で、そういう事態になれば血を分けた兄弟であろうと容赦なく暗殺してしまうような王です。そのヘロデ王のもとに来た博士たちは「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。私たちはその方の星が昇るのを見たので、礼拝するために来ました」と言うのです。王の周りに居た人たちが血相を変え、やばいことが起きそうだと不安になったのが目に見えるようです。いったい彼らは何者でしょう。

「東の方」とはずいぶん大ざっぱですが、星を見てやって来たこと、博士と呼ばれていることから、バビロニア地方の「マゴス」と呼ばれる人たちだったと思われます。マゴスというのは、もともとはバビロニアの祭司のことですが、彼らが魔術や占星術に造詣が深いことから、魔術師や占星術師という意味で呼ばれていました。特に占星術は天文学というべき専門的で洗練された知識体系にまで発展していましたので、常人が及ばぬ知恵を身につけた人ということで博士と呼ばれるにふさわしい人たちでした。

新しい王の誕生や世界情勢に大きな影響を与えるような出来事と天体現象と結びつけるのはさまざまな文化の中にみられます。ユダヤ人の王が誕生したことを知らせる星が昇ったというのが、具体的にどういうことを指しているのかはっきりしません。紀元前7年に魚座で木星と土星が非常に近づいた惑星会合を占星術の意味と重ねてユダヤの王が誕生したと解釈した説や、紀元前12年から11年にかけて観測されたハレー彗星、紀元前5年頃に起こった星の大爆発=超新星、などが提案されてきましたがはっきり分かりません。

ただ、彼らは生まれたに違いない新しいユダヤの王を訪ねる必要があると強く感じました。それは、この王がユダヤ人が待ち望んでいた王であると分かっていたからです。彼らはユダヤ教や聖書の教え、救い主についての預言をある程度知っていました。それは、イスラエルが長い間バビロン、ペルシャで捕囚の民として暮らしながらも信仰を守って来たからのことです。捕囚から解放された後も、ある人たちは築き上げた生活を失いたくないという理由でバビロンに残った人たちがいました。一見、不信仰な振る舞いにも見えますが、長い目で見ると、彼らを通してこの地域に聖書やユダヤ教の知識がもたらされ、博士たちにも届いたというわけです。

福音書や使徒の働きに外国人でありながらユダヤ人の神と聖書を信じ、敬虔に暮らす「神を敬う人」と呼ばれる人たちが度々登場します。博士たちは彼らほどには聖書の知識も習慣も持っていなかったかもしれませんが、それでも、約束の王が自分たちにとって、とても大切な存在になることを感じ取っていたに違いありません。

2.ミカの預言

ユダヤ人の王が生まれるという預言を知っていた博士たちですが、ベツレヘムで生まれる、ということまでは知らなかったようです。彼らは当然のように首都エルサレムに向かいました。

東方の博士たちの来訪目的が、「誕生した新しい王を礼拝するため」と聞いて、ヘロデ大王も首都全体にも動揺が広がりました。ヘロデは自らの権力が危うくなる可能性を考えました。ユダヤ人がダビデの子孫から約束の王が誕生することを待ち望んでいるのを知っていたからです。人々が動揺したのは、またしても凄惨な権力闘争が起こるのではないかという恐れからかも知れません。4節にあるように、博士たちはもちろんのこと、この話を聞いた誰もが、ヘロデ自身でさえも、その誕生したという新しい王が預言された「キリスト」である可能性が高いことが分かったのです。

エルサレムでそんな話しが出ていないことは分かっていましたから、ヘロデはどこで生まれたのかどうしても知りたくなり、聖書の専門家たちに預言では何と言っているか問いただしました。

そこで学者たちは預言書の一節を挙げて、その町はベツレヘムであることを告げます。

引用された預言はミカ書5:2です。『ユダの地、ベツレヘムよ、あなたはユダを治める者たちの中で決して一番小さくはない。あなたから治める者が出て、わたしの民イスラエルを牧するからである。』」

ただし、実際にミカ書を開いてみると、だいぶ違いがあることに気付きます。学者たちが用いた翻訳がかなり独特なものだったのか、あるいはキリストが生まれる町であることを強調するために意訳したものなのか分かりません。重要なポイントは、ダビデの町として知られていた小さな町ベツレヘムが、約束のキリスト誕生の町として預言されていたということです。

「行ってみてがっかりした観光地」の一つに札幌の時計台があるそうです。本当は価値があるのに、多くの人たちは、ビルのはざまに立っている小さな時計台のある古い建物を見て、綺麗だけれどそれだけ、という感じでがっかりするらしいです。ベツレヘムも「ダビデの町」という由緒ある名前はついていましたが、実際に行ってみたら何もない小さな町です。1,2時間歩けば首都エルサレムですから、多くの人は真っすぐエルサレムを目指したことでしょう。

しかしその大して重要視されていなかった町がたちまち注目の町になりました。それはちょうど、さして注目されていなかった人々に突然焦点が当てられるクリスマスの物語全般と共通しています。子どものいない年老いた祭司夫妻、田舎町ナザレの少女マリアと大工のヨセフ、突然やってきた異国の博士たち、人々からのけ者にされていた羊飼い。そして華やかで権力と富をめぐって人間の醜さがうごめくエルサレムではなく、その近くにありながら注目されるようなもののないベツレヘム。

そんな小さな、注目されない町ですが、しかし「決して一番小さくはない」のです。振り返れば、ルツがナオミとともに帰って落ち穂を拾った町であり、ダビデが生まれ、預言者サムエルによって王として油を注がれた町です。この町からイスラエルを治める者が出るのです。そして異邦人も含んだ、すべての人々を羊飼いのように牧する方として、新しい王はご自身の御国を治めます。

3.贈り物の意味

星の出現と博士の来訪、預言者ミカの預言は、ローマ帝国によって王位に就かせてもらったイドマヤ人のヘロデに代わる、ダビデ王家に属する正当な王、約束された王の誕生を指し示していました。

しかしこの王が、単にユダヤ人にとっての王というだけの存在ではないことがこの後に示されていきます。それは、博士たちが贈った贈り物に表れています。

エルサレムを出発した博士たちは星に導かれてベツレヘムのある家畜小屋にたどりつきました。星が導くとはどういうことかについても様々な説が唱えられて来ましたが具体的なことは分かりません。大切なことは、神様が当方の博士たちにわかる仕方で幼子のもとへと導いてくださったということです。

星に導かれた博士たちは大いに喜びながらマリアとともにいる幼子のイエス様のいる部屋に入るとひれ伏して礼拝しました。そして国から持って来た宝の箱を開け、黄金、乳香、没薬を贈りものとして献げました。

博士たちは約束の王に最もふさわしい、喜ばしい贈り物を考えてそれらを持って来たのだと思います。旧約聖書の実例や中東の文化で、これらの贈り物が王に相応しい喜ばしい贈り物だったことは明らかです。しかし、それが意図せず象徴的な意味合いを持ったと言えるかもしれません。福音書の中で話しが進んでいく中で、イエス様は神の国の王として来られただけでなく、大祭司として神と人との間に立つ方であり、贖い主として自らを犠牲の小羊として献げた方であることが分かって来ます。その視点から見れば、王の権威を表す黄金や祭司としての役割を思い出させる乳香、埋葬に用いられた没薬とぴったり重なるように思えます。

しかし、この出来事の最も象徴的な面は、家畜小屋という最も貧しい場所で、新しい王の誕生への最上の贈り物が献げられたという「不釣り合いさ」です。これだけの贈り物ならば、王宮の豪華な部屋で、多くの家来たちや貴婦人たちが見守る中、うやうやしく贈り物の箱が空けられ、もったいぶった態度で献げられるのが普通だと思います。しかし、薄暗くむさ苦しい家畜小屋で飼葉桶に敷き詰められた藁のベッドに寝かされた赤ん坊を前に、狭い中でぎゅうぎゅうになりながらこれらの贈り物が携えられて来た場面を想像すると、何とも不釣り合いです。しかしそんなことを気にする人は誰もいませんでした。神でありながら人としてお生まれになった方に、そのへりくだられた姿に、最大限の喜びと敬意が示されたのです。

「栄光を受ける」というと、皆から称賛され誇らしさと高揚した気分に満たされる様子を想像しますが、イエス様が「栄光を受ける」とご自分で言われた時に意味していたのは十字架の苦しみに向かうことでした。神の栄光が表れるのは、もっともへりくだった姿の中においてなのです。

赤ん坊として生まれ、親の保護と愛情を受け、いつも誰かの助けを必要とする者となってくださった神の御子は、神としてのあり方を捨て、貧しい者、弱い者、のけものにされた者、助けが必要な者、罪ある者、そして博士たちのように聖書の約束から遠く離れた者とさえともにいてくださる方です。そして博士たちの贈り物が意図せず暗示しているように、十字架の死と埋葬によって私たちの罪の贖いとなることで栄光をお受けになるのです。

適用:私たちも贈る側に

今日はアドベントということで、新しい王の誕生を知って駆けつけた東の国の博士たちの出来事を読んできました。

マタイの福音書は、旧約聖書をよく知っているユダヤ人を念頭に書かれたと言われています。だから系図で始まり、数々の預言を引用しながら、イエス様こそが旧約聖書の成就なのだ、待ち望んでいたキリストなのだということを示しています。

そのイエス様誕生の出来事の中に、異邦人である博士たちの来訪を入れていることには大切なメッセージが込められています。遠くの人たち、周辺の人たち、見過ごされてきた人たち、関係ないと思われていた人たちにも神様の救いと祝福がキリストによって届くのだということです。受けるに値しない、その資格がないと思われていた人に神様が一方的に救いや祝福を与えることを、聖書は「恵み」と呼んでいます。それは神様からの贈り物です。

神様の側からすれば、はじめに人が神に背を向けて罪と死に囚われてしまった時から計画し、準備し、アブラハムを選んでその計画を実行に移し始め、イエス様の誕生によっていよいよ計画が大きな山場を迎えるというところまでたどりついたわけです。もちろん何千年という年月が神様にとって長すぎるということではないでしょうが、それでも忍耐強く準備してきた贈り物です。しかし、そこには私たち人間側が受け取るのを拒絶するかもしれないというリスクもありました。実際、ヘロデ王は幼子を殺そうとしましたし、エルレムの住民の多くもイエス様を拒絶してしまいます。

しかし、この贈り物を受け取る人たちがいます。その中には東方の博士たちのように、聖書の歴史やことばとは無縁と思われた人たちも含まれています。

博士たちは神様の贈り物である幼子の救い主に最上の贈り物をもって礼拝を捧げ、感謝と尊敬を表しました。それがふさわしい方だからです。この贈り物はすぐにヘロデ王の手を逃れてエジプトでの逃亡生活をしなければならなかった貧しいヨセフとマリヤにとって大きな助けになったはずです。神様の御わざが教会を通し、さまざまな人々の具体的なささげ物や奉仕によってなされたのはクリスマスのような奇跡の連続に思えるような出来事の中でも変わりませんでした。

果たして私たちは、大きな恵みをもって、受ける資格も権利もない私たちを愛し、ご自分のいのちを与えてくださったイエス様に何を捧げているでしょうか。よみがえられたイエス様は私たちが何を捧げるまでもなく存在し、務めを果たしてくださいますが、イエス様から働きを任された教会は多くの献げ物と奉仕によって支えられる必要があります。

博士たちがイエス様を訪ねて行ったように、私たちも日ごとに、週ごとに、私たちのためにおいでくださったイエス様に会いに行くという思いで聖書を開き、また祈り、礼拝を捧げましょう。

私のようにやり過ぎて倒れてしまうのは良くありませんが、それでも「やっぱり自分から仕えること、献げることは嬉しい事だ」という実感は変わりません。イエス様からもらうだけの者、神様からの恵みを受けるだけの者から、贈り物を送る側、喜んで捧げる側、自分から神様の働きのために仕えていく側に立ちましょう。その時、私たちはより深い喜びを味わうことができます。

祈り

「天の父なる神様。

私たちに贈り物としてひとり子イエス様をお与えくださり、ありがとうございます。感謝をもってイエス様を受け入れます。そして、喜びとともにイエス様に会いにいくつもりで日ごとに聖書を開き、週ごとに礼拝をささげます。そして、私たちも受けるだけでなく、与える者とならせてください。自分から贈り物を献げる側、喜んで仕える側に立たせてください。さまざまな誘惑によって、そうした献身が妨げられやすい者ですが、与えられた恵みの大きさと祝福を大いに感じ取って、応答する者でいさせてください。

イエス様のお名前によってお祈りいたします。」

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