2024年 1月 7日 礼拝 聖書:コリント第一 1:26-31
新年が始まり、すでに七日。お休みできた方も、変わらず仕事があったという方も、故郷に帰っていたという人、子どもや孫を迎える側だった人、とくにすることなくのんびりしていたという人、様々なお正月を過ごされたことでしょう。
そして、新しい年を迎えたということで、何かに取り組み始めたという人がいるかも知れません。
私は普段、あまり新年の抱負というようなことを考えたり、言ったりしないのですが、今年はあります。「元気でいること」と「働き方改革」です。元気でいることを抱負に掲げると一気に歳を感じてしまうのですが、去年のこともありますし、まだ治療のプロセスの中にありますから大切だと自覚しています。そして「働き方改革」は健康や体力が元に戻っても、同じ働き方をしたらまた心臓に負担がかかることは目に見えています。それで、夜まで仕事を引きずらない、家に持ち帰らないということを去年から意識しています。どうしても避けられない事はあるかも知れませんが、減らしていきたいと考えています。
そして毎週の説教についても新しい試みを始めます。「日々の聖句」というデボーションガイドを皆さんに紹介しましたが、これに記されている週ごとの説教箇所を取り上げます。今までは計画的にやって来ましたが、導きに任せようという魂胆です。
1.ついつい比べてしまう
しばしば「他人と比べなくてもいい」と言われます。近年は多様性を尊重しようということが先進国の潮流になっているのでよく耳にします。ですが、この価値観はなかなか身につかないようで、やはり外見や学歴、資格、経済力、持ち物などいろいろなもので他人と比べて自尊心を満たしたり、逆に引け目に感じ足りすることが多いように思えます。
コリント教会にもそういうところがありました。
ご存じの方も多いと思いますが、ギリシャの古代都市の一つコリントでパウロが伝道し、教会として建て上げた教会です。パウロは他と比べたら割と長い期間、腰を据えて人々を教え導きました。しかし残念なことにパウロが去った後、教会には仲間割れやいくつかも深刻な問題が起こっていました。そんな状況の兄弟姉妹を叱ったり、気付かせたり、もう一度教えたりして和解し、一致を取り戻すよう励ますためにこの手紙は書かれました。
コリント教会の仲間割れは、1:12にあるように、自分が誰につくかということで張り合ったことが原因でした。実際にはパウロもペテロもアポロもコリント教会にはもういませんから、ちょっと滑稽な感じがします。「キリストにつく」という主張はまだましに見えるかも知れませんが、実際には仲間割れしている他の人々に優越的な態度を取ることで、仲間割れを修復するというよりは、仲間割れに加担しているので同罪でした。
なぜコリント教会にはこのような問題が起きてしまったのでしょうか。今日でも教会が仲間割れするような時に同じような問題があるのでしょうか。
13~17節を見ると、誰からバプテスマを受けたかということが仲間割れの原因の一つだったことが分かります。教会設立者であるパウロからバプテスマを受けたのか、イエス・キリストから直接学んだ使徒ペテロからなのか、後からやってきた雄弁家で知られるアポロからなのかでそれぞれ張り合っていたのです。
また18~25節を見ると、コリントの人々が知恵を重んじる文化の中にいたことが分かります。コリントはギリシャの哲学、学問を尊重していました。特に17節に「ことばの知恵」という言い方が出てきますが、これは演説の巧みさを意味します。人を感動させ、感心させるような巧みな演説の仕方はギリシャの学問の中でも重視されたものでした。雄弁家のアポロはこの点で模範的な教師だったわけです。一方でパウロは「ことばの知恵によらず」福音を宣べ伝えたと言います。別にパウロが話し下手だったというわけではありません。ギリシャ人が感心するような洗練された話し方ではなく、普通の人々が話すような話し方で福音を伝えたのです。雄弁な演説は人を感心させるかも知れませんが、肝心のキリストの十字架に焦点が合わず、話し手に人の目が向くようになります。
コリントの場合はギリシャ文化の中で話しの巧みさということが比較の対象になりがちでしたが、現代ならもっと別なものが比較の対象になるかも知れません。教会の大きさ、会堂の立派さ、プログラムの多様さとか洗練されたイベント。またコリントと同じように牧師の説教の巧みさや対人スキルの巧みさが比較のポイントになるかも知れません。どれも良いものですが、比較の対象にしてしまうと、福音の本質であるキリストの十字架がぼやけるのです。
2.自分たちの姿を直視する
今日の箇所でパウロは、そうやって比較ばかりしているコリント教会の人々に、まず自分たちの姿を直視するよう促しています。
26節を見てみましょう。「兄弟たち、自分たちの召しのことを考えてみなさい。人間的に見れば知者は多くはなく、力ある者も多くはなく、身分の高い者も多くはありません。」とあるように、実際のコリント教会の多くは言う程学問や弁論に優れた人が多かったわけではありません。権力や社会的立場が強かったということでもありません。言ってみれば普通の人が多かったのです。また奴隷階級のクリスチャンたちも少なからずおりました。
自分たちは、知的に優れたから救いに選ばれたのか?町の有力者だったから救われたのか?そうではないだろう、神様はむしろ、知恵ある者を恥じ入らせるため、つまり、人の知恵によって救いを得ることはできないことを示すために、あえて私たちのような愚かな者、弱い者、取るに足りない者、見下されている者、無に等しい者を選ばれたのではなかったかと問いかけています。
コリントのクリスチャンたちは、優れた人々の仲間だということでプライドを高め、他の人たちを見下すまでしていましたが、別に彼ら自身が何かを持っていたわけではないのです。持たざることの引け目を誤魔化すために誰についているかで争っていただけなのです。しかし、神様の恵みを受け取れたのは、持たざる者だったからだということを思い出すべきでした。30節に「しかし、あなたがは神によってキリスト・イエスのうちにあります」とあるように、私たちにとって大事なことは何を持っているか、何がすぐれているかではなく、キリストのうちにあるということです。
私も、もしかしたら多くの牧師たちが直面する誘惑かも知れませんが、他の有能な牧師やリーダーたちが持っているものに憧れ、羨ましく思い、時に妬ましくさえ感じます。説教のうまさ、話しの面白さもそうですし、人の心を捉える人間力みたいなものには羨ましいと感じます。教会にしても、人材の豊富さとか、経済力とか、賜物の豊かさ、教会の近くに大学があるとか、とにかく有利になりそうなものが見えると、こっちにはないからなあと失望したりするのです。
しかし、もしクリスチャンが憧れの誰かのような賜物を持てたり、よその教会をみてうらやましがる何かを手に入れたとして、それでどうなるでしょう。私たちの心が「キリスト・イエスのうちにある」ということをより大切なこと、本質的な価値として心底信じ、実感していない限り、そんなものを手に入れてもうまく使うことができず、現状に満足するか、またしても他者と比較する材料にしてお終いです。
だからパウロは「兄弟たち。自分の召しのことを考えてみなさい」と呼びかけます。自分がどういう状態の時にイエス様の救いを受け取ったのか考えてみなさいということです。十分に満たされていた時ですか。人によって具体的な事情、状況の違いはあるでしょうが、何かに飢え渇き、何か足りなさを感じ、何かに抑圧されたり、無力さを味わっていたり、寂しかったり、痛みを覚えているような時、自信がなかった時、このままじゃだめだと思った時ではなかったでしょうか。意地悪な人は弱みにつけ込まれて宗教に勧誘されたんだと言うかも知れませんが、私たちは恵みを信じました。
3.キリストの愛だけが
パウロがここでコリント教会の人々に気付いて欲しかったこと、そしてのこの手紙を通して神様がすべての人に知って欲しいと願っていることは、キリストの愛だけが人を救うということです。
そうであるならば、私たちが何を持っていようが持っていまいが、それは誇ることでも、恥じることでもなく、ただ私たちを愛してくださった主イエス様だけが私たちの誇りです。
30節に「キリストは、私たちにとって神からの知恵、すなわち、義と聖と贖いになられました。」とあります。
人を救うのはイエス・キリストなのだということを、イエス様がご自身の正しさ、聖さ、そして贖いのために十字架で命を献げてくださったことを通して示しました。それは、イエス様が私たちを愛しており、私たちを救うことができると信じるに足る証拠と言えます。
人間とイエス様の間には、普通の意味での信頼関係というのは存在しませんでした。今はイエス様を信頼しています、と言えるクリスチャンも最初からそうだったわけではないはずです。なぜなら私たちはイエス様を信頼するほどイエス様のことを知らなかったのです。そして、イエス様が私たちがいとも簡単に心が変わり、誘惑に負け易く、逃げ出しやすいかを知っているからです。
それでもイエス様は私たちを愛してくださり、正しいことをなさる方であり、偽りのない聖い方であることを示してくださり、十字架の死をもって贖いを成し遂げてくださいました。私たちは、その姿に「この方は信じられる」「この方の愛は本物だ」と思えたので信じることにしたのではないでしょうか。まだ、イエス様のお考えの全ては分からないし、これからの人生でイエス様が何をされるのかも知らないけれど、信じてみようと思ったのではないでしょうか。
それは結婚にも似ています。結婚してから相手の知らなかった面に気付いて驚いたり戸惑うことがあるのはどの夫婦も同じです。それでも結婚するのは信頼関係があったからではなく、この人となら一緒にやっていけると信じたからです。少なくとも、相手の行動、言葉、態度、自分だけでなく他の人との関わり方、とっさの時にどういう反応をするかなどから、「信じられる人かどうか」の手がかりを掴もうとします。それなしに見た目や社会的なステータスを優先したらうまく行くかは運に任せるしかありません。
人間の場合はそれでも間違いがあり、うまく仮面を被っていることが後々分かる、なんてこともあるのですが、イエス様は生涯を通して共に歩み続ければ、本当に信頼できる方であることがますます確信できるようになります。
しかしコリントのクリスチャンたちのように、イエス様に対する信頼を深めようとせず、前からやっていたように自分たちが持っているものや持っていないものを比較し、それで優劣が決まるかのようなものの見方を捨てずにいれば、当然ですが教会の中の人間関係にこの世にあるのと何も変わらない仲間割れや競争が生まれてしまいます。そんなものは私たちをこれっぽっちも幸せにしないとがっかりしたものを、また新しい神の家族の中に持ち込んでしまうことになるのです。だからキリストの愛だけが私たち人間を救うこと、私たちがキリストのうちにあることが何より大事なのです。
適用:本当に大切なこと
新年最初の聖書箇所を通して私たちが教えられたことは、本当に大切なことから目を離さないということです。何はなくとも私を愛してくださったイエス様がともにいてくださる。これが大事です。
能登半島地震で少しずつ被害状況が明らかになって来ました。それとともに支援体制が築かれつつあります。一般のボランティアは石川県が予約の受付を始めたばかりですが、キリスト教関係の支援団体もすでに現地入りして支援物資を配布するなどしながら支援体制を整えつつあります。
東日本大震災の時もそうでしたが、生きていくために必要な物資から始まり、時間が経つにつれて生活再建のための援助、そして生きがいや分断された共同体をつなぎ直すための支援など、息の長い支援活動が必要とされていきます。
そうした助け合いや無償の支援は被災した人々を励まし、助け、またボランティアの人々もそこに喜びややりがいを感じますが、時間が経って普段の生活に戻っていくと、その地域や家庭に前からあった問題が再び顔を出します。
どの支援も必要ですが、それだけでは救いとはならないのです。私たちを愛してくださったイエス様がともにいてくださる恵みを受け取るまでは魂まで救うことはできないと信じるので、現地にいるクリスチャンたちはそのことを伝えるために留まり、人々とともにいることでイエス様の真実と愛を証ししようとしているのです。それは前の九州でも、今回の北陸でも大切にされるはずです。
災害援助のような緊急事態でなくても、通常の教会の活動でも同じことが言えます。
私たちが周りの人たちに提供できるものは、与えられている賜物によって大きく変わります。他の教会では音楽やエンターテインメントを提供出来るかも知れないし、学生向けの企画が出来たり、英会話教室を開いたり出来るかも知れません。人材や経済的に力があったら様々な可能性がもっとあるかもしれません。
その点、私たちの教会にはそのようなものがあんまりないかも知れません。今年の歩み、あるいは新年度に向けた計画を考える上でどこかの教会を真似して無理なイベントを計画しても仕方がありません。私たちは他の教会と比べる必要はなくて、私たちが教会家族として迎えたお互いを尊び、私たちに与えられているものを喜んで用いる方法を考えればいいのです。その時に何より大事なのは、イエス様が私たちを愛しておられると伝えられること、イエス様が信じても大丈夫な方だと伝わることです。それさえ伝わればまずは大成功です。あとはその愛を信じたクリスチャンが、イエス様のことをもっと学んで、イエス様に対する信頼を深めていくことです。それは私たちの信仰生活の幸いのためであるだけでなく、私たちが伝える福音を確証することになるからです。私たちがイエス様は信頼できると言えなくて、どうしてイエス様の愛を伝えることができるでしょうか。そういう意味で聖書から神様のご計画やイエス様の教え、みわざを学び自分の生活に結びつけるような学びの時間はとても大切なのです。
誰か他人のかっこよさを真似たり、他人と比べるのではなく、神の知恵であるキリストの愛を学び、その愛のうちにあることだけを私たちの誇りとしましょう。
祈り
「天の父なる神様。
新しい一年も、私たちは週ごとにあなただけを礼拝し、あなたのみことばに心と耳を傾け、イエス様が私たちを愛してくださることだけを私たちの誇りとして歩んでまいります。
人と比べたり、真似たりするのではなく、イエス様の十字架から目を離さないでいられるように助けてください。
私たちの言葉や行いが、自分を認めてもらうためでなく、イエス様の愛とイエス様が信じても大丈夫な方であることを証しするものであるように私たちを導いていてください。
イエス様のお名前によって祈ります。」