2024-01-21 安心して行きなさい

2024年 1月 21日 礼拝 聖書:列王記第二 5:1-19

 日本という国、文化の中でクリスチャンとして生きていくことには特有の悩みが付きまといます。周りを見渡せば仏教や神道などの宗教的な伝統、習慣、価値観にあふれています。特定の宗教団体に属さず、日常的に宗教的な習慣をもたない人は多いですが、信仰心がないわけではありません。お盆になれば先祖が帰ってくると普通に言いますし、誰かが亡くなれば成仏してもらおうといろいろやります。祭となれば信仰心と地域の結びつきと経済効果が一体となったような盛り上がりを見せ、ドーンとあがってパッと散る花火に人のいのちや亡くなった誰かとの関わりを思い起こします。

そういう中でクリスチャンとしてどこまで関われるのか、具体的には葬式の時に線香を上げていいのか、どういう振る舞い方をしたら良いのか悩み、お祭りに誘われた時にどこまで許されるのか悩みます。

今日開いている聖書箇所は、有名なナアマン将軍のいやしの出来事ですが、最後のエリシャの言葉のせいで、異教世界に生きるクリスチャンにとって励ましにもなるし、難しい問題が投げかけられることになります。

今日は、この箇所を通していろいろな「カミサマ」に溢れている私たちの文化にあっても確信をもってクリスチャンとして生きることを学びたいと思います。

1.預言者エリシャ

いつものように文脈をまず確認したいと思います。耳にタコができるくらい言いたいのですが、聖句の意味は文脈で決まります。

「あんたなんか大嫌い」という言葉も文脈によっては心底嫌いという意味になったり、むしろ大好きの裏返しだったりします。

ナアマンのいやしの記事は、預言者エリシャが預言者エリヤの後継者であり、神はエリシャとともにいてくださることを確かに示す幾つかの奇跡の中の一つとして、4:1~8:15に記されています。

そもそもエリシャが預言者エリヤの後継者として立てられたのは、カナン人の神であるバアルに傾倒するアハブ王との対決の中で、いってみれば燃え尽き症候群になってしまったエリヤに対する主の取り扱いの中で示された事です。

エリヤがどれほど神の言葉を伝え、バアルとの直接対決の中で主が生きておられ、力ある方であることを示してもアハブ王やその妻はエリヤに対する憎しみと怒りを収め、神の前にへりくだることはありませんでした。

そのあたりのことは第一列王記19章に記されています。

19:15~18で、くたくたになったエリヤに対して、神に背を向け、へりくだることをせずバアルに仕え続けるイスラエルの民に対する宣告を告げます。そこでイスラエルへの裁きをもたらす者として、アラム王ハザエル、イスラエル王エフーを新たに立て、エリヤに変わる預言者としてエリシャを立てると告げます。彼らを通してさばきが行われますが、バアルに屈せず主に従い続けた7千人が残されていると、孤独を感じていたエリヤに告げます。

そのようにして預言者エリヤが立てられました。そしてエリシャは今日開いている箇所を含めたいくかの奇跡を通して預言者として確かなものであることをあかしし、アラム人のハザエルやイスラエルのエフーをそれぞれ王に立てます。それらが奇跡の後の中心的な出来事になっていきます。

エリシャの記事の中では、負債を負ったやもめや、裕福ではあるけれど子どもがいない女性。彼女はその後子どもを失ったり土地を失ったりして苦しみを味わいます。また異邦人でツァラアトに冒された敵国の将軍といった人たちに神の奇跡は与えられます。国中が神に背を向けバアルを拝んでいる中で、神の人エリシャが仕える神に助けを求めた人たちは神の恵みを受け取り、奇跡を経験するのです。エリシャが行った奇跡のうちの幾つかは、イエス様がなさった奇跡を思い起こさせます。カナの婚礼で水がぶどう酒に変わったり、死んでしまった幼い子どもが生き返ったり、大勢の人たちに食べ物を与えたり、ツァラアトに冒された人をいやし清めたり。

イスラエルの悪に対する神の裁きは避けられませんが、その中にあっても神に拠り頼む者には救いがあることがエリシャを通して示されたのです。そしてエリヤに「残された7千人がいる」と言われた人たちは、まさにそのような人たちだったのです。

そのような文脈の中でナアマンのいやしの記事を見ていくと、神の民でありながら頑ななイスラエルが神のさばきに向かっているのとは対照的に、イスラエルの敵国であり、汚れた者と忌み嫌われる者も神の恵みを受け、神の民に加えられることが示されているのだと理解できます。

2.頑なさとへりくだり

それでは、ナアマンの記事を読んで行きましょう。

1節にナアマンの紹介が記されています。「アラムの王の軍の長ナアマン」ということで、よく「ナアマン将軍」と呼ばれています。しかし、アラムの将軍ということですから、イスラエルからしたら敵国になります。2節にも、以前イスラエルに略奪に出かけたときに若い娘を捕らえて来ていたとありますから、そうした戦争と略奪の指揮を執る人物だったことがわかります。また、ナアマンのためにアラム王がわざわざ手紙を書いていたり、王が彼らの神の神殿へ礼拝のために行く時には同行していたということですから、よほど評価され、信頼されていたのでしょう。

しかもその活躍の背後には「主が…勝利を与えてくださった」と、神様の背後での導きと助けがあったという驚くべき秘密が隠されていました。彼は知らなかったのですが、神を知る前から神は彼を知り、彼の人生に関わり、助けていたのです。

しかし、そんな勇士である将軍ナアマンはツァラアトという重い皮膚病に冒されていました。イスラエルでは宗教上の理由から差別されがちでしたが、アラムでは、単に不治の病で、目をそらしたくなるような症状で恐れられていたのかもしれません。それは勇士であるということと正反対の恥のようなものだったのでしょう。

しかし、イスラエルから略奪し妻に仕えさせていた娘が預言者エリシャならきっとご主人を治してくれるはずだと告げます。

さっそく、ナアマンは王に相談します。国の英雄が長年の苦痛から解放されるかも知れないということで、王は手紙を書き、贈り物を持たせてナアマンをイスラエルに向かわせます。

イスラエルの王はアラム王の手紙を見て、罠なんじゃないかと恐れますが、その知らせを聞いたエリシャは自分の所に寄越すよう王に告げます。

ところが、ナアマンがエリシャの所に行くと、使いの若い者が「ヨルダン川に行って七回沐浴するように」と言づてを伝えるだけで、本人は来ません。せっかく一国の将軍が遠くから来てお願いに来たのだから、うやうやしく頭に手を置いて有り難いお祈りをしてくれるようなことを期待したのです。それなのに、こんな下っ端をよこしてお終いか!しかも、小汚いヨルダン川で沐浴しろなんて馬鹿にするのもいい加減にしろ!と怒って帰ろうとします。

慌てた従者がなだめ諭した結果、ナアマンは言われた通りにヨルダン川に入って七回身を浸します。すると、彼の体は完全に癒され、幼子のような健康な皮膚を取り戻していました。

この出来事にはどんなメッセージが込められているでしょうか。

イスラエルにとってツァラアトは汚れの最大の象徴でした。ナアマンはアラムというイスラエルの敵であり軽蔑する異邦人です。イスラエルの敵であり汚れたものと軽蔑の対象になるようなナアマンは、初めこそプライドが勝ってエリシャの言葉を拒絶しましたが、最終的にへりくだって神の恵みを受け癒されました。何度預言者の言葉を聞いても悔い改めることのなかったイスラエルとは正反対です。ナアマンの奇跡には、神の前にへりくだり、救いを求めるなら、異邦人であれ、汚れきったイスラエルであれ、主の恵みにあずかることができるのだということが表れています。

3.恵みのほうが勝る

すっかり癒されたナアマンは一つの決意をもってヨルダン川からエリシャのもとへ帰って行きました。こんどはエリシャが迎えてくれました。

エリシャの前に立ったナアマンはまず、イスラエルの神がまことの神であり、この方以外に神はおられないとはっきり語ります。これは驚くべき告白です。ナアマンは王とともにアラムの神リンモンに神殿に行っていましたから、恐らく自分の病気が治るよう祈っていたことでしょう。しかし彼の願いを聞いてくれたのは敵であり、姿も分からないようなイスラエルの神でした。ナアマンはもうこの方以外に神はいないと確信していました。

感謝にあふれたナアマンは、感謝のしるしとして贈り物を受け取って欲しいと願いますが、エリシャは受け取ろうとしません。それで、彼はしかたなく17節にあるように「それなら、どうか二頭のらばに載せるだけの土をしもべに与えてください。しもべはこれからはもう、主以外のほかの神々に全焼のささげ物やいけにえを献げません。」と言います。

イスラエルの土を持ち帰るのは、国に帰ってから持ち帰った土を使って祭壇を築き、その上でイスラエルの神、主にささげ物を献げるためでした。旧約の律法ではエルサレムの神殿だけがささげ物をささげる場所であるべきでしたが、異邦人であるナアマンにとってそれは無理なことです。律法の外にいるナアマンには、主だけを礼拝する、というただ一点で十分でしたので、そのことをエリシャが咎めることはありませんでした。

またナアマンには一つ懸念がありました。アラム王が彼らの神であるリンモンの神殿に入ってひれ伏して礼拝するとき、主君の傍らでともにひれ伏すことが求められます。それはリンモンに対してというより、主君に対する敬意として断ることのできないことでした。それを主が赦してくださるでしょうかと問いかけたのです。

それに対してエリシャは「安心して行きなさい」と答えます。この言葉は「シャローム」が使われています。イスラエル人同士の間では、神の平安があるようにという親しい挨拶のほか、「ごきげんよう」といった日常的な挨拶の言葉にも用いられます。この場合は外国の将軍に言っていますので、ちょっと意味合いが変わります。

神の平安があるように、という挨拶ができるのは、互いに神の契約の中にあるという土台があるからです。ということは、エリシャはアラム人であるナアマンがすでに神の契約の中にあって、異邦人でありながらも神の民と見なしていたと言えます。同じ神を信じ、同じ神に仕える者として、「神の平安があるように」と答えたわけです。それはいったい何を意味しているでしょうか。ナアマンの懸念にどう答えていると言えるのでしょうか。

ひと言で言うなら「主の恵みのほうが、人の不完全さに勝っている」ということです。異教世界に戻るナアマンが、しかも王に仕える身分で宗教的に完全にイスラエル人と同じようにできるわけはありません。形式的にであっても偶像の前に跪かなければならない事態がありました。しかし神様は、彼が主だけを礼拝する者と知っています。礼拝する場所が違っていたり、彼の置かれた状況の中で、かたちの上で偶像にひれ伏すことがあっても、神の救いの恵みが勝っているから、安心しなさい、という意味なのです。

適用:赦しと自由

では、この出来事を通して語られていることを現代の日本に生きる私たちに適用するなら何が言えるでしょうか。

ナアマンの時代と私たちの時代の間にはイエス様の十字架があります。誰でも神の前にへりくだるなら神の恵み、神の平和を受け取ることができるということは、ナアマンの時代よりもはっきりと私たちに示されています。

使徒ペテロが、はじめて異邦人の百人隊長コルネリウスの家に招かれた時、使徒の働き10:34でこう言いました。「そこで、ペテロは口を開いてこう言った。「これで私は、はっきり分かりました。神はえこひいきをする方ではなく、どこの国の人であっても、神を恐れ、正義を行う人は、神に受け入れられます。」

その福音によって、今日の私たちも神に受け入れられ、神の国、神の家族に迎え入れられました。

しかし、ここで私たちはしばしばナアマンと同じ問題に直面するわけです。私たちは王に仕える身ではありませんが、イエス様だけを主とし、まことの神様だけを礼拝すると心に決めても、まわりにあふれる偶像や異教的な習慣と無縁ではいられません。

おそらく最も身近なことはお葬式とお祭りでしょう。昔ほど厳しくはなくなったかも知れませんが、親や親戚、会社の上司や同僚などつながりの深い人、お世話になったはずの人のお葬式でお線香の一つもあげないというのはそうとう不義理に見られます。医療や介護関係者なら利用者さんが亡くなった時にお葬式に参列することもあります。滅多にはありませんが、自分の過失で誰かが亡くなってしまったというときに、私はクリスチャンなのでお焼香は遠慮させてください、なんていうことが通用するとは思えません。

家族や親しい人たちに丁寧に説明しておけば理解してもらえることが多いですが、時にはそれが難しいこともありますし、クリスチャンであっても仏式の葬儀の喪主を務めなければならないという事もあります。お葬式の話しばかりしましたが、お祭りや他の宗教がらみの習慣にも多かれ少なかれ似たような問題にぶつかることがあります。

私たちが信じるのはイエス・キリストのみ、拝むのは聖書を通してご自分を表してくださった神様だけだと心に定めても、前からある宗教的な習慣に形だけでも関わらざるを得ないとき、私たちはそういう状況の人や自分を責めるのではなく、その心の痛みを思いやって「安心しなさい」と言ってあげるべきです。なぜなら、思いのままにならないこの世界に生きる私たちの不完全さより、神様の恵みのほうがはるかに大きく豊かだからです。

しかし安易に「まあいいか」「形だけだから」と流されることはやはり良くありません。恵み豊かな神様も心痛むはずです。

一方で、今日、曲がりなりにも信仰の自由がこの国で認められていたり、家族があまり偶像礼拝の問題で悩むことがないとしたら、それは先人たちの信仰の戦いがあったからだということも思い出さなければなりません。

ローマ時代のクリスチャンたちは、皇帝への忠誠心を試され、皇帝の像を拝むことを強要されましたが、命がけで抵抗しました。私たちの中にも、家族から相当プレッシャーを掛けられたり、親に線香もあげられないんなら家族の縁を切るなんて言われながら、なんとか信仰を守り抜いた人たちがいます。ただ戦うだけでなく、愛を表し誠実に生きることで少しずつ認めてもらったことでその後の世代はしがらみを感じずに生きられるということもあります。

ローマ時代のクリスチャンたちや迫害の時代を通った日本のキリシタンたちが抵抗できたのは、復活の信仰があったからです。これはナアマンとは大きな違いです。それは私たちにも与えられている希望です。ですから、もし私たちが戦って自由を勝ち取るなら、それは私のためというより、これからの世代のために益となることを覚えてください。それは挑戦する価値があることです。その戦いの中で失敗したり、傷付くことがあるかも知れませんが、神様の恵みはもっとずっと大きく、「大丈夫。安心しなさい」と語られているのです。

祈り

「天の父なる神様

今日はナアマンがいやされ、主を礼拝する者とされた出来事を通して、この世に生きる私たちの歩みについて学びました。

あなたの恵みの豊かさに心から感謝します。恵みによって赦された私たちは自由とされたはずですが、現実世界では必ずしも自由ではありません。どうぞ私たちを憐れみ、また互いに慰め、励まし合う者とし、真に自由となるまで忍耐をもって戦わせてください。」

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