2024年 3月 10日 礼拝 聖書:ルカ22:54-62
明日は東日本大震災から13年目となります。それに合わせて、今日の午後は釜石で「3.11集会」が行われます。今年は年始めに能登半島で大きな地震による災害もあり、改めて自然災害の多い日本で生活し、その中に私たちクリスチャン、そして教会が遣わされているということの意味を考えさせられます。
災害やその中で被災された方々、支援や復興への取り組みの中で教会やクリスチャンがどう関わるのが良いだろうか手探りでやって来ましたが、そのような中で折々に立ち止まって考えてきたことは、イエス様はこれをどのような眼差しでご覧になっているだろうか、ということです。海外から来たある人たちは、大震災は人間に対する神の裁きだと断言し、被災してぼろぼろになっている人たちに悔い改めるようにと説きました。そうした傲慢で偏ったものの見方をする人たちの考えに「そんなはずはないだろう」と直感的に反応はするのですが、ではこの惨状、悲しみをどうご覧になっているのかと考えざるを得ませんでした。
さて、今日の箇所にもイエス様の眼差しがとても印象的なかたちで取り上げられています。4つある福音書の中でルカだけがイエス様の眼差しに触れていますが、いったいどのような意味合いで記されたのでしょうか。そしてイエス様は私たちをどんな目で見ておられるのでしょうか。
1.逃げ出してはしまったが
さて、今日の箇所はほとんどの方々がよくご存じの出来事だと思います。イエス様が祭司長などユダヤの指導者たちに捕らえられ、いよいよ十字架に引き渡されるというところです。それまでイエス様と共に歩み、威勢良くたとえ命を失ってもついて行きますと鼻息を荒くしていた弟子たちが蜘蛛の子を散らすように逃げてしまいます。その後、こっそり様子を見に行っていたペテロが人々からイエス様の弟子だろうと見破られ、三度も「知らない」と否定してしまうという、心が痛むような出来事です。
福音書が書かれた時代は、ペテロはまだ存命中で教会の指導者として尊敬されていましたが、4つの福音書のどれもがこの出来事を記しています。誰もペテロに忖度することなく、卑怯な逃亡と裏切りを書いているのです。
しかし、4つの福音書を丁寧に読み比べてみるとそれぞれの書き方の特徴に気付かされます。
マタイとマルコは弟子たち全員が「見捨てて逃げてしまった」と書いています。ところがルカとヨハネは弟子たちがイエス様を見捨てて逃げ出したことには触れず、ルカはペテロが、ヨハネは恐らくヨハネ自身とペテロが捕らえられたイエス様の後をついて行ったことを記しているのです。
おそらく、実際の出来事としてはイエス様が群衆に捕らえられた時に皆逃げ出したのでしょう。それは間違いないのです。しかし、すぐにペテロとヨハネだけはイエス様がこれからどうなるか気になって少し距離をとりながら後をつけたということでしょう。そして、ヨハネには伝手があったのでペテロと一緒に大祭司の家に入ることができましたが、その後二人は別行動を取っていたようです。
なぜルカはペテロが逃げ出したことではなく、ついて行ったことに注目しているのでしょうか。実は逃げ出したことを書いたマタイとマルコも、弟子たちが逃げ出した事実は描くものの、その理由については何も記していません。同じようにルカとヨハネも後をついて行った事実は書いていまが、どちらにもついて行った理由、動機は書かれていません。
そのため、裏切り者のユダのことも含め、弟子たちがなぜイエス様を見捨てたのかについて様々な推測がなされ、ペテロがついて行った理由に関しても推測されてきました。命を捨てる覚悟さえしていて、群衆が取り囲んだ時もなお強気だった弟子たちですが、イエス様が無抵抗で捕らえられた時に急に怖くなったのかも知れません。イエス様は私たちのために戦ってくださらないんだと分かったことへの失望かも知れません。理由はともかく逃げ出します。そして、イエス様の身を案じたのかも知れませんし、捕らえられた先で鮮やかな奇跡を行って敵を懲らしめてくれると期待したのかも知れません。理由は分かりませんが、後をついて行きました。
後で詳しくお話しますが、私はルカがペテロの逃亡ではなく、ついて行った事実に注目したのには、二つの大きな理由があったと考えています。一つは福音書の続きである「使徒の働き」で教会指導者であるペテロの活躍を描くわけですから、逃げたことだけで終わらせては物語のつながりが失われること。そしてもう一つは当時の教会では迫害の中で信仰を捨てたり教会を離れるクリスチャンがいるという現実に答える意味があったのではないかということです。
2.予告されていた裏切り
ところで、ペテロの裏切りはイエス様ご自身によって予告されていました。
「今日、鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしを知らないと言います。」という有名な予告です。それ自体はマタイの福音書にもマルコの福音書にも、ヨハネの福音書にも記されています。
しかしルカは他の3人が書かなかったことにただ一人注目し、大事なこととして記しています。それは例の「鶏が鳴くまでに」の直前のことでした。
場面は過越の祭のための特別な食事、過越の食事を囲んでいる時のことです。これはとても親密で特別な時でした。イエス様が一番目を掛けてきた12弟子と最後に過ごす時間です。ルカの福音書は22:14節から食事の場面を描いています。この食卓でイエス様はパンと杯を分けること、つまり後に「主の晩餐」と呼ばれるようになる記念の仕方について教えました。
一方で21節にあるように、この12人の中から裏切る者が出るという予告があって、弟子たちの関心はすぐにそちらに移ってしまいます。恐らく「俺じゃない」とか「私の方がイエス様に忠実だ」「いや、俺はイエス様に信頼されている」などと言い合っているうちに24節にあるように「だれが一番偉いか」という議論になってしまったのでしょう。
その時もイエス様は機会を逃さず、教会におけるリーダーシップとはどういうものかを教えています。そして28節で使徒たちに授ける権威と報いを告げるのですが、その直後31節でペテロに対する不吉な予告をなさいます。ルカだけが、イエス様がペテロを名指しで警告していたことを記しています。
イエス様ははっきりとシモン、つまりペテロがサタンの試みに会い、麦がふるいにかけられ余分なものがふるい落とされるように、ペテロ自身がふるい落とされる、つまり誘惑にあって失敗すると告げたのです。言われた方としては結構キツイことです。自分の実力を過信して意気込んでいる生徒が先生に「きっと失敗する」なんて言われたら深く傷付くに違いありません。しかし傷つけるためではありません。続きがあります。32節「しかし、わたしはあなたのために、あなたの信仰がなくならないように祈りました。ですから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい」。
イエス様は二つのことを約束なさいました。失敗してイエス様を裏切ってしまうことになるペテロですが、彼の信仰がなくならないということ。そして立ち直るということです。
ルカの福音書が書かれた時代、すでにマタイとマルコの福音書は出来上がっていました。当時、教会の指導者だったペテロには、実はイエス様を知らないと三度も否定したことがある、という衝撃的な事実をすべてのクリスチャンが知っていました。しかし、その彼が今や教会の指導者として立っていることに驚きと神様の憐れみ深さを感じたかも知れません。そしてルカの福音書を通して、ペテロの復活劇には、このイエス様の祈りがあり、イエス様を裏切ってしまったペテロの信仰がなくなってしまわなかったこと、立ち直れたことがイエス様の恵みの故だということをはっきり知る事ができたのです。そして、それはまた自分たちや周りのクリスチャンにとって大きな励ましとして受け取られたことでしょう。
3.イエスのまなざし
大祭司の家の中庭でのペテロは、なるべく目立たないようにしながら、何とかイエス様の様子を知ろうと聞き耳を立てていたに違いありません。しかしそんなペテロに目を注ぐ人たちがいました。
最初に声を掛けたのは召使いの女性です。56節で、灯りに照らされたペテロの顔を「じっと見つめて」いたと記されています。イエスと一緒にいた仲間の中に似たような顔の人がいたなあと記憶を辿りながら、じっと見つめていたのでしょう。まるで指名手配犯の似顔絵と実物を見比べるような眼差しで見ていましたが、ついに間違いないと確信し、周りの人たちに「この人も、イエスと一緒にいました」と言ったのです。
それに対してペテロはすぐさま否定します。「いや、私はその人を知らない」。「だったらなぜここにいるのか」とツッコミが入りそうな言い訳ですが、彼は知らぬ振りを通します。
しばらくして、他の男性がペテロを見ました。ペテロを疑いの眼差しで見る人たちが増えていたのかも知れません。彼はペテロがイエス様と一緒にいただけでなく、仲間の一人だったと確信して「あなたも彼らの仲間だ」と断言します。ペテロはすぐさま「いや、違う」と否定します。元のギリシャ語には「男よ」とあるので、「なんだお前」くらいの強い否定のニュアンスだったと思われます。
三番目の眼差しはさらに1時間ほど経ってからでした。ヨハネの福音書を見ると、この人は、ゲッセマネの園でイエス様が捕らえられそうになったときにペテロが剣で打ちかかって耳を切り落とした大祭司のしもべの親戚にあたる人でした。幸いイエス様が耳を治してあげたので大丈夫でしたが、そんな行動を忘れるわけがありません。そしてペテロがガリラヤ出身であることまで見抜き、「確かにこの人も彼と一緒だった。ガリラヤ人だから」と詰め寄りますが、またしてもペテロは「何を言っているか分からない」と答えます。ここでも「男よ」と原文にあるので、強く否定したことがわかります。マタイの福音書では「嘘ならのろわれてもよい」と誓いながら否定したとありますから、相当必死だったことが分かります。
そして4つめの眼差しは、鶏の鳴き声とともにペテロに向けられました。ペテロが一生懸命言い訳をしている最中に夜明けを告げる鶏の鳴き声が響き渡ります。そして61節。イエス様が振り向いてペテを「見つめられた」のです。
イエス様はこの間、大祭司の取り調べを受けていました。正式な裁判ではなく、イエス様を死刑にするに相当する律法違反をでっち上げるための取り調べで、偽証を含め様々な証人がイエス様を訴え、大祭司が問い詰めるという長い取り調べでした。どういう位置関係か分かりませんが、少なくともイエス様とペテロは目が届くような距離にいました。ある映画では中庭を挟んだ向こう側で別の場所へ連れていかれるイエス様が振り返った場面が印象的でした。ペテロがイエス様の仲間であることを否定することに必死になっているすぐそばで、イエス様は厳しい取り調べや暴言、中傷、からかい、暴力に耐えていたのです。
ルカは61節で、ペテロがイエス様の言葉を思い出したのが鶏の鳴き声ではなく、イエス様の眼差しであったことを明らかにしています。「今日、鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言います」と言われた事を思い出し、外に出て号泣しました。
適用:離れた人々のために
ペテロがこの後どうなったでしょうか。24章でイエス様がよみがえったという話しを聞いたペテロが誰よりも先に確かめに行ったことを書いて、ペテロの変化を表しています。しかし本当の意味で回復し、イエス様が言われたように他の兄弟たちを励ます者になるのは、「使徒の働き」に描かれているように、ペンテコステの日に聖霊に満たされることによったのだと思います。
では、どういう意図でルカはこの記事を書いたのでしょうか。神様はルカの視点、意図を用いてどのようなことを私たちに明らかにしてくださったのでしょうか。
以前もお話したことがありますが、ルカの福音書はテオフィロという人を念頭に、伝えられた福音を確信させるために書かれました。これは、テオフィロだけでなく、すでに福音を信じているけれど、当時の教会やクリスチャンのあり方、教えが真実であるかどうか、イエス様が教えたことに叶っているか、確信の揺らいでいる人たちがいたことを表しています。
イエス様が天に上げられた後、その働きは教会に委ねられました。しかし教会というのは、罪赦されてはいても不完全で失敗の多い人間の集まりですから、クリスチャンや教会に躓く人も出てきます。福音書が書かれた時代には各地で迫害が起こっていました。ペテロがそうだったように、恐れたり、困難の中でイエス様が助けてくださらないじゃないかと疑念を持つような事は起こり得ました。
パウロをはじめとする使徒たちや指導者たちが手紙を通してそうした人たちを慰め、教え、確信に留まるよう励ましています。
では、肝心のイエス様はそういう人たちをどう思っておられるのか、どんな眼差しを向けておられるのかを、このペテロの経験と重ねて思い巡らすことをルカは意図したのではないでしょうか。神様はそのようにルカを導いて他の人たちが書かなかったイエス様の予告や眼差しに注目して書かせたのです。
理由は様々です。恐れかもしれないし、疑いかもしれない。自分がクリスチャンであること、イエス様を信じていることを否定したり、隠してしまうことが人間にはあります。しかも、それですっかり興味を失うことなく、教会のことが気になり、ちょっと距離をとりながら様子を見ている。「でも、お前もクリスチャンなんだろ?」と聞かれると、「前は行ってたけど今は行っていない」「距離をとっている」「躓いて傷付いた」そんなふうにして、イエス様の友であり、仲間であることを否定し、教会から離れてしまう。
私たちがそんなふうに誰かを躓かせたり、困難にあることに気付かず、見捨てられたような気にさせてしまう原因になってしまうこともあります。私の愛のない言葉や人を赦せずにいることが、イエス様の赦しと愛の確かさを疑いわせてしまうことがあるのです。
そういう人たちをイエス様はどんな眼差しで見ておられるのでしょうか。
「やっぱり失敗したよね」と確認するように冷たい眼差しで見るのでしょうか。いやそうではなく、いろんな理由でイエス様を否定する人間の弱さに心を痛めながら、その信仰がなくならないよう祈っているよ、立ち直れるよう支えるよと、見つめていてくださるのではないでしょうか。そしてペテロが立ち直れたように、イエス様の恵みによって信仰を失わず、立ち直ることができるのです。
私にとっては、青年時代を共に過ごしながら教会を離れてしまった何人かが10年、20年経って再び教会に戻って来たという事実が、大きな励ましであり、慰めです。そして、今教会を離れている、信仰から遠ざかっている人たちについて希望を失わずにいられる理由でもあります。
もし、私たちの周りに、理由はそれぞれでしょうが、ペテロのようにイエス様や教会から離れたり、関わりを否定するようになった人がいるなら、その人を見下したり、見離したり、諦めたりしないで、イエス様がどんな眼差しでご覧になり、取り扱おうとしておられるかを思い、謙虚な思いと忍耐強く、私たちも信仰がなくならないよう祈り、立ち直れることを信じましょう。
祈り
「天の父なる神様。
今日はペテロがイエス様を知らないと三度否んだ記事を通して、弱い私たちへのイエス様の眼差しの意味を思い巡らしてきました。私たちが過ちやすく、恐れに囚われたり、躓きやすいものであるイエス様が、私たちの信仰がなくならないよう祈り、立ち直るために助けてくださることを信じて感謝します。
自分自身のためにも、そして今まさにイエス様や主の教会から遠ざかっている人たちのためにも、このイエス様の愛とあわれみ、慈しみ深い眼差しを信じさせてください。
イエス様のお名前によって祈ります。」