2024-03-31 弱き者を立ちあがらせる方

2024年 3月 31日 イースター礼拝 聖書:サムエル記第一2:1-8a

 イースターおめでとうございます。今日は主イエス様が十字架で死なれ、三日目によみがえられたことを記念しお祝いする日です。

大切な友人の牧師が昨年から体調を崩して数ヶ月間休養しておりました。つい最近、仕事に復帰して、今日が復帰最初の礼拝メッセージをするということで、多くの人たちがその復活を喜んでいます。私も昨年、教会に戻って来られた時の喜びを思い出して、復活の主イエス様をお祝いできることの幸いを噛みしめています。

イエス様は死者の中からよみがえり私たちに新しいいのちを与えてくださいますが、肉体の復活は約束であって、いつかの未来の話しです。私たちが生きている間に、新しいいのちによって生かされることをどういう形で体験するかは人それぞれです。皆が奇跡的に病気から回復するわけではないし、その事実は人によっては残酷に思えたりします。それでも私たちはイエス様の復活に希望を見出し、イエス様をよみがえらせた父なる神様に祈り続けます。

今日私たちが開いている箇所はイエス様の時代よりおよそ千年遡った時代の、一人の女性の祈りの言葉です。彼女もまた神の祝福の約束の中にあるはずなのに、現実には自分だけその恩恵に与れていない悲しみと孤独を味わっていました。そんなハンナの祈りと関連する出来事をヒントに、イエス様の復活と今を生きる私たちにいったいどんなつながりがあるか、ご一緒に考えていきます。

1.こんなはずではなかった

ハンナがこの祈りを捧げた時代は、ひと言でいうなら「失意の時代」です。多くの人たちが「こんなはずじゃなかった」とがっかりしていたと言えます。

40年にわたる荒野の旅を終え、ようやく約束の地に着いた民は、そこで神様が約束された祝福を受け取り、周りの国々に祝福をもたらすような素晴らしい国を築くはずでした。ところがモーセやヨシュアといった指導者がいなくなると、人々の心はてんでバラバラになっていきます。

この時代の状態をよく表す言葉が士師記21:25にあります。「そのころ、イスラエルには王がなく、それぞれが自分の目に良いと見えることを行っていた。」

みなそれぞれに正しいと思うこと、あるいは自分に都合が良いと思うことをやっているわけですから、社会に中心や土台がなく、何よりも、約束の地に入ってからも従うと誓った神様やそのことばに対する信仰も敬意も失われてしまっていました。その結果、世の中は混乱し、道徳的にもどんどん乱れ、正義も公正も失われました。外国や他民族との争いが頻発するようになり、貧富の差は激しくなり、貧しい者はますます貧しくなっていきます。聖なる神を信じ敬う民らしい高潔さや喜びは滅多に見られなくなってしまいました。

それは「社会全体が」という他人ごとではなく、そこに生きる一人ひとりの神への畏れや周りの人たちに対する親切心、隣人愛が失われたことの積み重ねに過ぎません。

そんな時代に生きたハンナですが、それでも神様への恐れを忘れてはいませんでした。1:1~3を見ると、ハンナの家族は毎年決まった時期に家族そろって礼拝のために当時ツロの町に置かれていた神殿へ礼拝しに出かけていたことが分かります。

もっとも、一夫多妻制が残っており、夫のエルカナにはハンナの他にもう一人ペニンナという妻がいました。そのことがハンナに苦しみをもたらしたことは容易に想像できます。ペニンナには息子や娘たちがいましたが、ハンナには子どもが出来ませんでした。夫はハンナをとても大切にしていましたが、家族みんながそろう会食の席はハンナにとっては非常に残酷な時間になりました。

1:4~8にはある時の食事の席での出来事が記されています。礼拝をささげた後、ささげ物にした動物の肉の一部は家族に返され、皆でそれをいただくというのが決まりでした。一家の主が家族それぞれの分を取り分け配る時間というのは、特に子どもたちにとっては楽しみな時間だったと想像できます。ペニンナと子どもたちが賑やかに肉を受け取る一方、ハンナは一人です。エルカナはそれでもハンナを愛していたので、特別に取りわけてあげます。量のことなのか、稀少部位なのか良く分かりませんが、大事に思っているよというサインを送るわけです。しかし、そうした気遣いは逆に辛かったんじゃないかとも想像します。食卓にはたくさん人が集まり賑やかでしたがハンナは孤独でした。

そのうえペニンナはハンナに対して意地悪な態度をとります。言葉遣い、態度、表情がいちいちハンナを苛立たせ怒りをかき立てます。そんな様子をペニンナは勝ち誇ったような顔で見ていたのではないでしょうか。7節にあるように、それが家族そろって礼拝をささげるような場で繰り返されていたのですから余計に醜悪です。

2.ハンナの二つの祈り

聖書にある前例としては、アブラハムの妻サラと女奴隷ハガルのケースがあります。サラは自分に子どもが出来ないために、女奴隷ハガルを妻として夫に与え、生まれた子を自分たち夫婦の子として育てることを目論みました。現代ではあり得ない選択かも知れませんが、古代社会では跡継ぎがいない場合のいくつかある選択肢の一つです。そして目論見通りハガルは身籠もりますが、途端に態度が変わり、サラをいらだたたせます。そして後にサラに念願の男の子が生まれた後で、ハガルとの間に争いが起こると、サラはハガルとその子イシュマエルを追い出しにかかりました。

エルカナの家庭に起こった出来事は、言ってみればよくある家庭内のトラブルでした。8節で夫エルカナがやさしく語りかけますが、それで彼女の心が癒されることはありませんでした。そこでサラのようにペニンナにやり返すことも可能性としてはあったでしょうが、9節を見ると食事が終わるまで怒りを堪え、じっと我慢していたことがわかります。そして食事が終わるやすぐに立ちあがって、神殿に行き、そして祈り始めます。サムエル記1~2章にはハンナの二つの祈りが記されていますが、その一つが1:11です。

ハンナは、もし主が私の苦しみに目を留めてくださり、男の子をくださるなら、その子を主にお渡ししますと誓いを立てて祈りました。頭にかみそりを当てないというのは、ナジル人という特別に聖別された者となる誓いです。ナジル人はたとえ親子であっても死者に近づくことが許されなかったので、母親として子どもを生涯ナジル人とすることは、自分が死ぬときにも息子に会えないことを覚悟するという意味があります。それほどの強い願いを激しく泣きながら祈っていました。

そこに居合わせた祭司エリはハンナが酔っ払っているのかと思いましたが、ハンナは赤く腫らした目で心の痛みを語ります。それに対してエリは「安心して行きなさい」と語りかけ、ようやくハンナは心を軽くして家に帰って行くことができました。

翌年、ハンナの祈りは聞かれ、身籠もって男の子を産みます。しばらく手元に置いて育て、乳離れした頃に、あの時祈った祈りの誓いを果たすために祭司エリのもとに息子サムエルを連れていきます。その時に祈った祈りが今日読んでいただいた箇所になります。

1~3節にあるように、その喜び具合は、以前の苛立ち、怒り、悲しみ、悔しさとは真逆で喜びと誇りに満ちています。ペニンナのような、高慢になって横柄な言葉を口にするような人に傷つけられ、辱められたとしても、神様がすべてを知っておられます。人を見下したり、横柄な態度を取る人は、自分が一番だと思っていて、恥ずかしい姿を神様がちゃんと見ていることに気付きもしません。

大声で怒鳴り散らしたり、強さをこれ見よがしに見せつける人がいても、神様はそういう人たちの傲慢さを打ち砕きます。その影で力なく嘆き、弱り、押しつぶされていた人を、そう、ハンナのような者を神様が引き上げてくださることが賛美されています。

6節に「主は殺し」という言葉が出てきてドキッとしますが、6~8節で言わんとしていることは、主は死んだ者をも生き返らせる力を弱い者のために使ってくださる方だということです。弱く貧しく、卑しめられた者を引き起こし立たせるのは、死んだ者をも生き返らすことのできる神様だからだというのです。

3.何世代も後に

ハンナの祈りから何世代もあとに、主が死んだ者を生かし、弱い者、貧しい者を引き上げる方であるというハンナの祈りが、にわかに注目される出来事がいくつか起こります。

その中心はイエス・キリストの誕生であり、その生涯の終わりに十字架で死なれたイエス様が3日目によみがえられたことです。

イエス様の母となったマリアは「マリヤの賛歌」と呼ばれる詩を献げます。それはハンナの祈りをモデルにした詩です。田舎町のしがない大工の婚約者で、世間から注目されることなんてなかった者に神が目を留め、大きなことをしてくださった。その神様のあわれみ、弱い者や低い者を引き上げてくださる神様が救いを待ち望む者たちに約束を果たしてくださるのだと美しく歌い上げます。

そうしてマリアを通して生まれた赤子のイエス様はやがて大人になり、人々を教え始めると、いつも病人や虐げられた人たち、罪人だとレッテルを貼られる人たちのそばにいてくださいました。彼らを癒やし、慰め、安心しなさいと語りかけてくださいました。

イエス様が弱さの中にある者を立ちあがらせてくださる方であることを身をもって体験した人物の一人は、弟子のペテロです。

ペテロは自分が特別だと思っていました。何があってもイエス様について行くという覚悟は立派でした。そんな熱い男であるペテロにイエス様は捕らえられる前の最後の食事をしているときに「鶏が鳴くまで3度わたしを知らないと言うでしょう」と予告しました。ペテロは絶対にそんなことはないと否定しますが、確かにペテロは自分がイエス様と関わりがあることを全否定してしまうのです。鶏が鳴いて、こちらを見つめるイエス様の眼差しに気付いたとき、イエス様の言葉を思い出したペテロは激しく後悔し、自分にがっかりし、泣き崩れてしまいます。

しかしそんなペテロのためにイエス様は別のことも話していました。「あなたの信仰がなくならないように祈りました。立ち直ったら他の弟子たちを力づけてやりなさい」。でも、そんなことすぐに出来るわけがありません。イエス様が十字架に磔にされて苦しんでいるとき、遠目で見守るしかできず、葬られた後も残党狩りを恐れて仲間たちと家に隠れしっかり鍵までかけていました。そんなペテロの心にいくらかの光が差し込んだのは、日曜の朝に墓を観に行った女の弟子たちが墓は空っぽで、そこにいた人がイエス様はよみがえったからここにはいないと言ったと大騒ぎしたことです。ペテロは急いで確かめに行き、確かに墓が空っぽであることを確認しました。まだ何が起こったから分かりませんが、その日のうちにイエス様に会ったという弟子たちが何人か出てきます。そして日曜の夜、弟子たちが隠れ家に集まっている所にイエス様が表れ、驚き怪しむ弟子たちにご自分が復活し生きておられることをお示しになったのです。それでもまだペテロの心は晴れません。

そんなペテロが本当の意味で立ち直るきっかけになったのは故郷のガリラヤ湖のほとりでイエス様を囲んで朝ご飯を食べているときでした。三度イエス様を知らないと言ってしまったペテロに、イエス様は三度「わたしを愛するか」と問います。「はい、私があなたを愛していることはあなたがご存じです」と答えますが、さすがに三度目には辛さが勝ってしまいます。それでも、ペテロは立ち直り、確かに他の人たちを慰め、励ます者となっていったのです。

適用:復活の主に期待して

ハンナは子どもが出来ず、そのことで惨めな思いをさせられている境遇の中での悲しみ、いらだち、怒りから祈りが聞かれて男の子を産み、喜びと誇らしさへと変えられました。

マリアは天使の思いがけない訪問によって救い主の母となる名誉を受けたときに、田舎の誰も目に止めないような者に神様が目を止めて用いてくださることに、すべての弱い者に救いをもたらす神様の慈しみを覚えました。

ペテロは野心ややる気だけではどうにもならない自分の弱さ、愚かさ加減を思い知らされ、打ちのめされましたが、知らないと言ったことを愛しますと上書きし、立ち直っていくことができました。

他にも多くのケースが聖書には実例として挙げられていますし、今日の私たちも含め、弱さの中から立ちあがらせていただいた経験に共通しているのは、死者の中からよみがえらせることのできる神様の恵みと慈しみによって立たせていただいたということです。

神は死んだ者を生かすことのできる方で、その力を弱い者のために使ってくださるという信仰が、悲しみの中でハンナにかすかな希望を与えましたし、実際そういう方だということを体験して賛美しました。

その神が十字架で死なれたイエス様をよみがえらせてくださったので、打ちひしがれているペテロはもう一度立ちあがることができました。よみがえられたイエス様とお会いし、その愛と赦しによって力づけられたのです。

ハンナの視点では、神様が本当に死者の中からよみがえらせることのできる方であることが明らかにされるのはずっと先のことです。ペテロにとっては、目の前で経験したこと。そして私たちにとってはずっと過去のことです。

しかし、主イエス様の復活はそういう時間の隔たりなどこれっぽっちも関係なく、どんな時代でも、どんな状況に置かれていても、信じる人の希望となり、また実際に弱さの中にある者の力となるのです。

新約聖書の中で使徒パウロが祈った言葉にこんなのがあります。「あなたがたの心の目がはっきり見えるようになって、神の召しにより与えられる望みがどのようなものか、聖徒たちが受け継ぐものがどれほど栄光に富んだものか、また、神の大能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力が、どれほど偉大なものであるかを、知ることができますように。この大能の力を神はキリストのうちに働かせて、キリストを死者の中からよみがえらせ、天上でご自分の右の座に着かせ」ました。

イエス様を死者の中からよみがえらせたその力を、神様は私たちのために用い、私たちのうちで働かせてくださいます。私たちに希望を与え、励まし、慰め、戒め、整え、勇気を与え、生きる力、より良く生きる力、愛する力、誰かのために役立とうとする力、慰めを与える者となる力を与えてくださいます。

イエス様は「貧しい者」「悲しむ者」は幸いだと言われました。そういう人こそ、このよみがえりの力にあずかることができるからです。去年、私のために祈ってくださった方々は、私が無力で、祈っている自分たちも無力であることをはっきり感じていたことでしょう。だからいのちの主である方に祈りました。今も、様々な苦難や病、状況の中で弱さを覚えている人たちのことを考えると、自分に出来ることがほとんどないことを痛切に思い知らされます。しかし、だから祈ります。

もし、自分が弱さの中にある者だと感じておられるなら、弱い者のために復活の力を用いてくださるイエス様に頼ってみてください。すでにクリスチャンとなった方々も、私たちのうちに働く復活の力がどれほどすばらしいものか、ますます知ることができるように、期待してハンナのように祈る者でありましょう。

祈り

「天の父なる神様。

主イエス様がよみがえられたことを覚え、今も生きて、その御力を私たちに与えてくださる恵みと慈しみを心から感謝します。

その御力を弱い者のために働かせ、引き上げ、立ちあがらせてくださることを信じて祈ります。どうぞ約束のとおりに私たちを救い、新しいいのちのうちを歩ませてください。

イエス様のお名前によって祈ります。」

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