2024-04-28 天国で歌う歌

2024年 4月28 日 礼拝 聖書:黙示録15:2-4

 皆さんは未来に希望を持っているでしょうか。未来に希望を持てるかどうかは、今を生きる力に大きな影響を及ぼします。

先日、将来消えてしまうかもしれない市町村についての調査結果が公表され、ちょっとざわざわしたようです。人口減少が続く日本については、労働力の低下や経済力の低下など、あまり明るい未来は描けないような様々なデータや将来予測が出されています。中には自分の町が消滅する可能性のある自治体として名前が挙げられたことに文句を言う首長もいたそうです。そんなことで腹を立てている場合ではないとも思いますが、あなたの町に未来はないみたいに名指しされたら、プライドが傷付いたり、企業や住民が町から逃げ出すんじゃないかと恐れるのかもしれません。

私たちの人生についてはどうでしょうか。今日開いている黙示録は、迫害の中にあった教会を励ますために使徒ヨハネが書いたものです。ヨハネ自身もパトモス島という小さな島にいわゆる島流しになっている時に神様が見せた幻を書き記したものです。

ヨハネ同様、様々な困難、苦難に直面して簡単に未来を描けないような状況にあったクリスチャン、教会に希望を与えるために書かれたものです。どんどん世の中が悪くなっていくように思える今の状況でも、私たちには常に希望があることを教えてくれます。

1.立琴を手に

黙示録の中にはヨハネが見た幻がいくつも記されています。これから起こる事柄についての幻ではありますが、その一つ一つは少々難解です。

前に私が入院中にせん妄状態の中で見た幻についてお話ししましたが、実は全部ではなくて、ごく一部なんです。もっとたくさんの夢だか幻だか分からない映像、物語が次々と出て来て、話しもあちこち飛んだり、戻ったり、つながったり途切れたりと、言葉で説明するのがすごく難しいと感じます。

ヨハネも頑張って見たものを言葉で説明しているのですが苦労したと思います。黙示録のメッセージは、迫害の中にあったクリスチャンたちに、この世界はますます混乱し、破滅に向かっているけれど希望がある。イエス様がもういちどおいでになる時には、破滅をもたらす悪を滅ぼし、この世界を回復し、苦しんでいた人々を慰めるという希望を指し示すために書かれたものです。

15章もこの世界が直面する酷い状況の中で天国の情景と思われる様子を描いています。

2節「私は、火が混じった、ガラスの海のようなものを見た。獣とその像とその名を示す数字に打ち勝った人々が、神の竪琴を手にしてガラスの海のほとりに立っていた。」

ガラスの海のようなものは4章にも出てきますが、どうやら神様の前の聖さを表しているようです。そのほとりに立っているのは、「獣とその像とその名を示す数字に打ち勝った人々」です。いったい何のことやらという感じですね。黙示録の中には、いくつかの恐ろしい姿の獣が出てきます。実際にそういう魔物かゴジラのような化け物が地上を支配するということではありません。獣は象徴です。軍事力や経済力で人々を支配し、自らを神であるかのように傲慢な振る舞いをする支配者や国家を象徴しています。そうした権力に擦り寄って良い思いをしようとする人たちもあれば、非人間的な支配によって苦しむ人たちもいます。歴史の中で何度も繰り返されてきた現実です。黙示録が書かれたヨハネの時代から、イエス様が再びおいでになるまで何度も繰り返しながらその邪悪さが深刻になっていく様子をヨハネの幻は示しているようです。

そのようなものたちに「打ち勝った人々」とはどんな人たちでしょうか。武力で戦い、勝利するというより、忍耐し、神様に背を向ることなく信じ続けた人たちです。ですから打ち勝った人々の中には生き延びた人たちもいましたし、殉教していった人たちも大勢います。しかし彼らは皆、勝利者です。

彼らの手には竪琴がありました。ハープの一種ですが、実物を見る機会はあまりありません。キャサリンさんのハープは手で持つようなタイプではなく大型のものですが、もっとコンパクトで作りもシンプルなものだったようです。通常は歌の伴奏に用いられた楽器ですから、3~4節に記された歌を歌うための楽器なのでしょう。実際に天国に言ったときに楽器を配られるのかは分かりませんが、天の御国に行ったときには、私たちは神様を賛美し、礼拝するのだということを表しています。

多くの宗教で天国はこの世で叶えられなかった贅沢や欲望が満たされる場所と語られていますが、聖書はだいぶ違った様子を描いています。天国での暮らしの中心には歌があり礼拝があるのです。

2.主こそ驚くべき方

では、天国で歌う歌の内容を見ていきましょう。

この歌にはタイトルがついています。「神のしもべモーセの歌と小羊の歌」です。同じ曲の二つの呼び方ということなのだと思います。そして神のしもべモーセは旧約時代を代表する人物で、小羊はイエス様のことです。律法と恵みは同じ神を指し示し、同じ神を称えるものだということを表しているのだと考えられます。

天国で歌う歌の最初の主題は3節にあるように、主なる神様こそ驚くべき方だということです。

「主よ、全能者なる神よ」。この呼びかけは旧約聖書っぽい言い方です。天地を造られ、治めておられる神様だと告白しています。

「そのみわざわは偉大で、驚くべきもの」この言葉には先ほどお話した黙示録に出てくる獣の力に対して、主なる神様こそ驚くべき方だという強いメッセージが込められています。

さっきも言ったように獣は怪獣や魔物の類ではなく、軍事力や経済力で世界を支配し、自らを神であるかのように振る舞う権力の象徴です。13章にも出てくるのですが、3節を見ると、この獣が死んだと思われたのに致命傷が治ったことで「全地は驚いてその獣に従い、竜を拝んだ」とあります。さらに4節後半には、この獣を称えて「だれがこの獣に比べられるだろうか、だれがこれと戦うことができるだろうか」と賛美しています。

なんだか異様な光景です。しかし私たちも獣の幻としては見ていませんが、現実世界の中で同じような言葉を聞いているのではないでしょうか。世界を何回も滅ぼせるほどの威力をもった兵器を誇示し小さな国々を恫喝する国があります。権力を維持するために人々の口を塞ぎ、互いに監視させ、国民にさえ銃を向ける国もあります。弱い立場の人たちの声に耳を傾けることなく、権力者の利益を守ることには一生懸命だけれど不公平と貧困を放置している国。

最新の兵器の威力や性能に驚き、最先端の技術によって造り出される魔法のような世界に驚き、圧倒的な経済力によって作り上げられた高層ビルが立ち並ぶ大きな街に驚きます。ドローンとLEDをコンピューター制御して素晴らしいショーが繰り広げられると、その美しさと迫力に圧倒され歓声を上げますが、まったく同じ技術が戦場で相手を叩きのめすために用いられることを忘れがちです。

しかし主イエス様が帰って来られる時、主なる神様こそ偉大で、驚くべき方だということに世界の目が開かれます。しかもその偉大さは圧倒的な軍事力や暴力的に弱い者を飲み込んでしまうような経済力ではなく、3節の終わりにあるように、主が指し示す道が「正しく真実」だということにあるのです。

主なる神様が王として世界を治める方法は力で支配し、奪いとることではなく、正義と真実によって治めるのです。世の中の権力者はそんなの青臭い理想論だ、結局は力がものを言う、金がものを言うと主張するでしょう。

イエス様が十字架に向かおうとする場面でも、権力者は暴力と数の力でイエス様を抹殺しようとし、ペテロや弟子たちはやはり剣を取って抵抗しようとしますが、イエス様はそれを止めました。そして十字架へ向かいました。けれども、それこそが正義と真実によって世界を救い治める神様のやり方でした。それが正しかったことがイエス様の再臨の日に誰の目にも明らかになるのです。

3.願いが届くから

ですから賛美は続き、4節で「主よ、あなたはを恐れず、御名をあがめない者がいるでしょうか」と歌います。

続く「あなただけが聖なる方です」以降、実は日本語に訳されていない言葉が入っています。「~だからです」という短い単語が一番最後だけでなく3回繰り返されています。つまり、すべての人々が主を敬い、御名を崇めるようになる3つの理由があるということです。それぞれの詩の表現の元になった旧約聖書を調べていくと、神様が私たち人間の願いに答えてくださる方だと気付かされるから主なる神様を恐れ敬い、賛美するようになるのだと分かります。

まず「あなただけが聖なる方(だから)です」。もちろん、神様の聖さはいろいろな場面で示されています。律法の中では神様が聖いお方なので、神様の民とされた者は聖くあるようにと求められています。一方で歌の中で神様の聖さが歌われるとき、少し違った表情が見られます。1サムエル2:2を開いてみましょう。一月前に開いた箇所ですね。ハンナの祈りです。ここにも黙示録の歌と似たような調べで「主のように聖なる方はいません。まことに、あなたのほかにはだれもいないのです」と祈っています。ハンナがこのように祈ったのは、子どもが生まれず、そのことで嫌がらせをされ惨めな思いをしていたハンナの祈りが聞かれ、子どもが与えられたからでした。主が聖なる方であるということを実感したのは、悲しみ弱り、ただ主にすがるしかない者に目を止め、祈りを聞いてくださったという経験を通してでした。聖なる神様は、私たちのように汚れた者から遠く離れた方ではなく、待ち望む者に近づいてくださる方で、真実に耳を傾けてくださることでその聖さを表すのです。

二つ目、黙示録にもどり4節の半ば「すべての国々の民は来て、あなたの御前にひれ伏します(ひれ伏すからです)」。これも旧約の中に似たような表現があります。詩篇86:9を開いてみましょう。貧しく苦しみの中にあったダビデが主に祈ったときに答えてくださったことを歌った歌です。主は呼び求める者すべてに恵み豊かでいてくださるから、すべての者が主を称えると歌っています。

三つ目、4節の最後「あなたの正しいさばきが 明らかにされたからです」。詩篇119:62~64を開いてみましょう。さばきというのは罰を与えるという意味ではなく評価するということです。この世はとかく不公平で、真面目に生きたからといって評価されるとは限りません。一方で悪い事をしながら平気でいられ、かえって良い思いをしている人たちもいますが、神様はそれをそのままにしておかれず、正しく裁いてくださいます。その上神様は、正しくあろうとしても過ちを犯しやすい私たちに対して恵み深くいてくださいます。神様は正しく裁く方ですが、へりくだる者にはイエス・キリストの贖いのゆえに恵み深く赦してくださる方です。

こうやって天国で歌う歌の言葉の背景にある旧約聖書を見ていくと、主は聖なるお方ですが、決して私たちから遠く離れてはおられず、かえって罪ある私たちであっても恵み深く、私たちの願いや弱い者の訴えに耳を傾けてくださり、正義と真実を実現してくださる方だということが繰り返し歌われてきたことが分かります。そして天国に行った時には、それが本当だったと誰の目にも明らかになるのです。そしてこの混乱した世界で人間が求めていた恵み、憐れみ、正義、真実等が神様のうちにあることに目が開かれるのです。

適用:未来の景色

もういちど、黙示録が書かれた状況に立ち戻って、こんなふうに未来の景色が描かれる理由を考えてみましょう。

ヨハネが黙示録を書いたのは紀元90年代の終わり頃だと言われています。イエス様がもう一度来るからと約束して天に挙げられてからすでに50年以上経っていました。ローマ帝国内に教会が増えていくにつれて迫害の度が増していったことは歴史上よく知られた事実です。

いったいこれからどうなるのか。いつまで待てばイエス様が帰って来るのか、この苦しい状況をどうやって生き延びられるのかと悩み、恐れ、迷う人たちがいてもおかしくありません。

一方で、ペテロやパウロが活躍していた時代から少し時間が経って、初期の頃に見られた情熱や愛が少し薄れていったり、間違った教えから自分たちを守るために教会が愛の交わりよりも冷たい交わりになってしまうこと、逆にこの世の考え方に影響されてだらしなくなってしまう面もあったりしました。

神様はヨハネを通してそんな教会を励まし、力づけ、立たせるために幻を見せました。イエス様は必ず帰って来るけれども、すぐにでも帰って来るわけではないことを明らかにされました。なぜなら、まだまだ福音が届けられるべき人々がたくさん残っているからです。しかも、この世界にはかつて様々な国や民族を武力で支配し、権力を誇った獣のような大帝国と似た、新たな獣が現れ人々を苦しめ、クリスチャンを迫害するだろう。人々の愛は冷え、世の中はますます悪くなる。けれども、そうした苦難の中で忍耐し、主を愛し敬い続けなさい。そのような人たちには天での豊かな報いがあるからというメッセージを届けるためにこれらの幻が描かれたのです。天の御国で勝利者として迎えられるという約束は、今現在私たちが直面している苦難に対する直接の助けではないかもしれません。しかし、私たちは未来を思い描くことができます。

頑張ってもどうせ何も変わらない、何も報われることがないと思うなら、何の意味があって苦難を甘んじて受けるでしょうか。

アメリカ公民権運動で有名なキング牧師は個人的にはいろいろ問題があった人ですし、褒められた人格であったかはとても疑わしい生活だったことが指摘されています。それでも彼が聖書に基づいて語った有名な演説は人種差別が根強いアメリカでの公民権運動に大きな影響を与えました。「私には夢がある。それは、いつの日か、この国が立ち上がり、「すべての人間は平等に作られているということは、自明の真実であると考える」というこの国の信条を、真の意味で実現させるという夢である。私には夢がある。それは、いつの日か、ジョージア州の赤土の丘で、かつての奴隷の息子たちとかつての奴隷所有者の息子たちが、兄弟として同じテーブルにつくという夢である。(中略)私には夢がある。それは、いつの日か、あらゆる谷が高められ、あらゆる丘と山は低められ、でこぼこした所は平らにならされ、曲がった道がまっすぐにされ、そして神の栄光が啓示され、生きとし生けるものがその栄光を共に見ることになるという夢である。」

いろいろな問題が解決されずに現代にまで残っているとしても、確かに未来のビジョンを思い描けたから大きなうねりとなり、日々を生きる力になったと思います。

私たちには天国であらゆる人種、民族、性別の人たちが職業、経済力、身分などに関係なく、一緒に神様を賛美し、ああ確かに神様は私たちと共にいてくださって、真実で、私たちの祈りに耳を傾け、私たちの願いを聞いていてくださったと喜び、歌う時が来るという希望があります。え?歌うことが希望なの?と思いますか。私はそう思います。今だって、自分の心をぴったり表していると思える歌に出会ったら感動で胸が熱くなります。天国に行ったとき、私たちは聖書に書かれたこの歌が、本当にそうだったと感激の涙を流しながら歌えるに違いないと信じていますし、その希望をもってとてもじゃないが歌う気分じゃないという日も主の前に、主とともに生きてゆこうと思っています。

祈り

「天の父なる神様。

イエス様はよみがえられ、天に挙げられ、やがて再びおいでになる方です。しかし、それまでの間、様々な苦難が私たちの人生に、そしてこの世界に起こり、繰り返されます。そんな私たちに絶望ではなく希望を与えてくださり、ありがとうございます。

天の御国の素晴らしさを想像し、心に思いうかべ、希望とし、力としてください。やがて天の御国で、皆さんと一緒に心を合わせ、心からその通りだと思いながら主の偉大さと恵み深さを称えることができますように。そのような希望の中に生かされていることを確信させてください。

生きておられ、再びおいでになるイエス様のお名前によって祈ります。」

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