2024年 5月 19日 礼拝 聖書:エゼキエル37:1-14
今日は教会暦で「ペンテコステ」と呼ばれる記念日です。ユダヤ教では過越の祭から七週が過ぎた時に行われる「シャブオット=七週の祭」という祭の日です。シナイ山で律法が与えられたことを記念します。しかしキリスト教においては、その過越の祭の時にイエス様が十字架につけられ死んでよみがえり、それから50日、ちょうど七週の祭の時にイエス様が約束された聖霊がくだり教会が誕生した日として新しい意味でペンテコステを祝います。
ペンテコステといえば、一つの家に120ほどが集まって祈っているときに、ものすごい風の音とともに聖霊が別れた舌のような炎のかたちで弟子たち全員にくだり、聖霊に満たされた弟子たちは外に出てそれまで学んだことのない様々な国の言葉で福音を語り始めたという出来事が有名です。七週の祭を祝うために世界のあちこちから集まっていたユダヤ人たちは自分たちが普段話している言葉で福音を聞いて驚き、その日福音を信じてバプテスマを受け、弟子として3000人が加えられました。そんなことが使徒の働きに記されていて、毎年この時期に読み返しています。
しかし、あの出来事が現代の私たちにどんな関係があるか分からなければ、単なる昔話かクリスチャンの一般教養として知っている話し、ということで終わってしまいます。そこで今日は聖霊についての大切な預言の一つを通して学んでいきたいと思います。
1.干からびた骨
司会者の方にお読みいただいたとおり、エゼキエルの見た幻はかなり異様な印象を受けます。
しかし幻について見る前にエゼキエルやイスラエルの状況について知っておきましょう。1:1~2をみますと、エゼキエルはユダ王国がバビロン帝国によって滅ぼされ、捕囚となってケバル川のほとりに他の人たちと一緒に暮らしていたことがわかります。エゼキエルはもともと祭司です。神殿を失って神殿での勤めが出来なくなった祭司たちは、聖書を書き写して伝承し、人々に聖書を教えたり、民の指導者としての役割を果たしていたようです。
ケバル川がどこであるかはっきり分かっていませんが、ユーフラテス川に流れ込む支流の一つだと考えられています。イスラエル民族が国を失い、捕囚の民となったのは主なる神様との契約を破り、主を神として認めることを投げ出し、他の神々を自分たちの神とし、律法の定めを破って道徳的にも堕落してしまったからでした。どんな契約にも一方的に破棄した場合の違約金などペナルティについて条項があるように、神の民となることを誓って結ばれた契約にも、破れば裁きを受けることが契約の中に含まれていたのです。
そのため「捕囚」となっていたわけですが、テレビやネットの映像で見る、捕虜収容所とか各地の難民キャンプのような劣悪な生活を想像するのですが、それは間違った印象のようです。捕囚の民としてのユダヤ人は、そんなに酷い生活を送っていたわけではありません。ある程度の制約はありましたが、家を建て、仕事をしたり商売をし、また国内を旅する自由も認められていたそうです。
ですからエゼキエルの見た「すっかり干からびた数多くの骨」の幻は、経済的に困窮し飢えに苦しんだり、社会的な最下層で虐げられていたということではなく、神を見失って霊的な柱がなくなり、自分たちの生き方や社会の原則となるべき聖書を捨ててしまい、さらに国という拠り所もなくなって、イスラエルが霊的には完全に死んでしまったかに見える状態を表しています。ケバル川のほとりに多くの民が生き延びて暮らしを立て、曲がりなりに日常を取り戻しているようにも見えていましたが、主がエゼキエルに幻を見せたとき、その民の姿は干からびた骨のようにしか見えなかったのです。
そして主はエゼキエルに問いかけます。「人の子よ。これらの骨は生き返ることができるだろうか」。
この問いはとても重い質問です。一度堕落した民が再び神の民として起き上がることができるでしょうか。希望的観測で簡単に「できる」と言うことは無責任ですし、干からびた骨を見てだれもが感じるように「もう無理だ」と言ってしまえば、国を失いバビロン帝国の捕囚となった自分たちはもう希望がないと言うようなものです。民族としてのアイデンティティは失われ、他の民族と同じようにそのうち歴史から消えて行くのは明白です。そして、今こうして祭司として預言者として仕えているエゼキエルの人生にも意味はないということになってしまいかねません。果たして神様はそんなふうに自分たちを扱うのだろうか。答えに困るような質問です。
エゼキエルはこう答えました。「神、主よ、あなたがよくご存じです。」「神」が太字で書かれているように、ここは「ヤハウェ」という主の名が記されています。契約を結ばれた主ご自身だけが確かな答えを持っておられるはずに違いないというわけです。
2.生き返った?
神様にボールを返したエゼキエルに対して、主は4節で「これらの骨に預言せよ」と少し変わった言い方でみことばを告げます。
「わたしがおまえたちのうちに息を吹き入れるので、おまえたちは生き返る」。エゼキエルが預言の言葉を骨たちに告げると、骨たちがガラガラと音を立てながらつながり合い、その上に筋がつき、肉があらわれ、皮膚が完全に体全体を覆いました。見た目は完全に人間の姿を取り戻しました。しかし残念ながら8節の終わりにあるように「その中に息はなかった」のです。
私はどうしても理科室にあった人体模型が思い出されてしまうのですが、あまりリアルに想像すると気持ち悪くなるかも知れません。11節にあるように、これらの骨はイスラエルの民を表しています。ですから、今は干からびてしまったようなイスラエルが再興することを指し示していると考えられます。
そもそも彼らが干からびたというのは、彼ら自身の不満の言葉を反映しています。11節後半、「見よ、彼らは言っている。『私たちの骨は干からび、望みは消え失せ、私たちは断ち切られた。』と。」
まるで誰かに酷い目に合わされたような言い方ですが、実際は彼ら自身が神に背を向けたために干からび、祝福と約束を手放したために望みは絶たれ、自分たちが主なる神様との関わりを断ち切ってしまったのです。その結果、主は契約に基づいて、勢力を拡大し続けていたアッシリヤやバビロンといった巨大な帝国にイスラエルを引き渡してしまわれたのです。
しかし、12~13節にあるとおり、主は彼らを墓の中から引き上げるように、彼らをイスラエルの地に連れ戻すと約束されました。エゼキエルが見た、骨がガラガラと音を立てて結びつき、筋と肉をまとい、皮膚で覆われて立ちあがっていく姿は、そのことを表していました。具体的には、バビロン帝国に代わってペルシャが中東地域一帯を支配するようになったときに、ペルシャの王が統治の仕方を変え、捕囚とした民族をもとの土地に返す政策の一環として、ユダヤ人をイスラエルの地に戻ることを許すのです。
紀元前539年、総督ゼルバベルに率いられたユダヤ人はエルサレムに帰還し、神殿を再建し始めます。それは神様が預言者たちを通して約束されたことであり、今回のエゼキエルにも示されたことの成就です。
しかしエゼキエルに示されたことで重要なポイントは、民がエルサレムに帰還し、神殿を再建したとしても、それがすなわちイスラエルの完全な復活ではないということです。8節の最後に「しかし、その中に息はなかった」とあるように、霊的にはまだ死んだままだったのです。
実際、エルサレムに帰還したユダヤの民は、困難に耐えながら神殿を再建したり城壁を再建したりし、主のみことばに従うと誓ったりしますが、なかなかその通りはいきませんでした。エズラ記9章には神殿で礼拝の用にあたる祭司やレビ人が異教の民と交わり、その習慣を取り入れ続けていることにエズラが呆然として座り込んでしまったことが書かれています。約束の地に戻ったからといって、神の約束が果たされたことを経験し、目撃したからといって、それで人間が新しくなるわけではなかったのです。
3.主の息によって
骨がガラガラと音を立てて結びつき、人間の姿を取り戻したのに息がないのを見たエゼキエルに、主はもう一度語りかけました。
37:9「息に預言せよ。人の子よ、預言してその息に言え。『神である主はこう言われる。息よ、四方から吹いて来い。この殺された者たちに吹き付けて、彼らを生き返らせよ。』」
霊的に死んだ者たちが、ただ民族として国を取り戻すだけでなく、霊的によみがえり、神の民として生きて行くためには神様の息が吹き込まれる必要があります。最初に人間が創造されたとき、地の塵で形造られた人間に神様が息を吹き込んで生きた物となったように、もう一度息が吹き込まれる必要がありました。
この「息」という言葉は「ルアハ」というヘブル語が使われていますが、息だけでなく風や霊とも訳される言葉です。聖霊なる神様を表しています。この言葉は5節にも出ていました。イスラエルの民が捕囚から帰還してもう一度自分たちの土地で国を取り戻す時にも聖霊の助けがあったのです。預言者たちが語りかけ、リーダーたちに志が与えられ、民全体が励まされたのも聖霊の働きです。しかし、聖霊が彼らのうちに吹き込まれた時に、彼らははじめて、本当の意味で生き返るのだというのです。
12~14節の神様ご自身による解説をもう一度見てみましょう。神様はイスラエルの民を墓から引き上げてくださり、それからまた「わたしの霊」を入れることで生き返る、と二段構えになっていることがわかります。
イスラエルの民は捕囚から解放され、約束の地に帰還しますが、それだけで新しい心で新しい人、新しい神の民となるわけではありません。聖霊が彼らのうちに留まることで初めて霊的に生きた者として立ちあがることができるのです。
エゼキエルは幻の中でその姿を見ました。息が吹き込まれたときに生き返り、非常に大きな集団となったことが記されています。
では、この預言はいつのことを指しているのでしょうか。新約聖書で明らかにされたことは、ペンテコステの日に、イエス様を信じる弟子たちが聖霊を受け、教会が誕生することによって、これらの預言は成就したということです。
イスラエルの子孫、ユダヤ人であるかどうかではありません。教会が誕生して最初の殉教者となったステパノはエルサレムでユダヤ人にイスラエルの歴史を辿りながらこう締めくくっています。「うなじを固くする、心と耳に割礼を受けていない人たち。あなたがたは、いつも聖霊に逆らっています。あなたがたの先祖たちが逆らったように、あなたがたもそうしているのです。」
絶えず聖霊は人々の心に働きかけて来ましたがイスラエルの民は心を頑なにし、神が約束のキリストとして遣わしたイエス様をも拒絶しました。しかしこの方を信じ、受け入れる人々は新しい神の民とされます。エゼキエルが「非常に大きな集団」として見た新しい民にはユダヤ人だけでなく、あらゆる国、あらゆる民族のイエス様をキリストと信じる人々が含まれていたのです。
そのことがはっきり分かるように、激しい風が吹くような響きとともに聖霊が弟子たちに降り、聖霊に満たされた弟子たちが預言者たちのように語り始めたのです。その光景は、福音の扉がユダヤ人からサマリヤ人へ、さらに異邦人へと開く度に繰り返されました。
適用:今もなお
この聖霊の働きは今もなお続いているのでしょうか。たまに誰かが、激しい風の音を聞き、その時聖霊に満たされた経験をしたという話しをします。ですが、常にそういうことが起こるというわけではありません。
しかし、聖霊の働きは今もなお続いています。
目に見えない方の働きや存在を知るというのは、分かりにくいかも知れません。イエス様も聖霊の働きは風のようだと言われました。風自体は空気の流れですが、それ自体を見ることはできず、木や草がそよいだり、旗がたなびいたりするの見て分かったり、肌に当たる風を感じることもできます。時にはスゴイ向かい風で歩きあぐねたりするほどですが、私たちはそれらを自然なこととして受け止め「ああ、風が吹いているなあ」と言います。
では、一般的に聖霊が働かれるとき、どんなことが起こるでしょうか。エゼキエルの幻にあったように、霊的に死んだ者が生きた者になるということですが、具体的なことはイエス様が説明してくださっています。
ヨハネの福音書16:7~16を開いてみましょう。イエス様が弟子たちに最後の晩餐の席でもう間もなく、弟子たちと別れ十字架に向かわなければならないことを告げた時に言われた言葉です。十字架だけでなく、復活の後、天に帰られることをも含めています。
イエス様はここでご自分が去った後には「助け主」が遣わされることを明言しています。13節でこの方は御霊なのだ、つまり聖霊であると言っています。その聖霊は何をされるのか。8節、「罪について、義について、さばきについて、世の誤りを明らかになさいます」
神様を知らなかった人たちに神様がおられることを気付かせたり、その神の前で罪があることや、罪はそのままでは大きな報いをもたらすことを気付かせてくれます。普通は聖書を通して、福音を聞いた時に、ああそうなのかと気付かせます。つまり、まずは私たちがクリスチャンになるために知るべき事、気付くべき事を悟らせてくださるのです。
さらにクリスチャンになった人たちが新しい人として生きていけるように13節にあるように、すべての真理に導いてくださいます。私たちが聖書を学んでいるときに、「ああ、そういうことか」と突然意味がわかったり、納得したり、「ああ自分のこのことについて語られているのだ」と気付きが与えられることがあります。あるいは私たちが苦しんだり、落ち込んでいる時に、神様の恵みや希望を思い出させ、私たちを慰め、どんな時でもともにいて下さることを味わわせてくださいます。
そういうとき、風が吹いているのを感じるように聖霊の働きを感じることができます。
大事なポイントは、その聖霊の働きを感じ取り、信じることです。エゼキエルの時代のユダヤ人たち、あるいはステパノに石を投げつけた人々は、そういう聖霊の働きがあったにもかかわらず拒絶し、心を閉ざして気付かなかったことにしてしまいました。
今日、私たちは聖霊の働きを知るために、骨がガラガラと音を立てながら組み上がっていく幻を見ることはないし、聖霊が炎のような姿でくだるのを見ることもないでしょうし、突然外国語で話し始めることはないでしょうが、同じ聖霊が、私たちを新しい神の民として生かし、新しい人として造りかえ続けてくださいます。その力強さはまったく変わっていません。
聖霊は心頑なな者の心も新しくし、主を知り、新しく生きる者に造り変える方です。ぜひ自分のうちに働き住まわれる聖霊を信じ、ますます造り変えられることを願い続けましょう。
祈り
「天の父なる神様。
今日はペンテコステということで聖霊様のお働きについてエゼキエルの見た幻を通して学びました。頑なな心をも新しくし、造り変える聖霊様は今も変わらず、私たちに働きかけ、住んで下さいます。日々の暮らしの中で働かれる聖霊の働きに気付き、その導きに信頼して従う者にしてください。聖霊によって新しい人として造り変えられることを願い続ける者にしてください。
イエス様のお名前によって祈ります。」