2020-03-29 再び来られる主

2020年 3月 29日 礼拝 聖書:マタイ24:29-35

 子供が産まれて少し経ってから、当時一緒に働いていた宣教師家族が、私たち夫婦だけの時間を作れるようにと、まだ小さい娘を預かってくれると言ってくれました。

もちろん、娘は不安がり、泣いたりもするのですが、そのときその宣教師夫妻は私たちたちに大事なことを教えてくれました。「お父さん、お母さんがどこかに出かけても必ず帰って来るということを教えることになる」ということでした。なるほどと思いました。その効果がほんとうにあったのか、娘が保育園に行く時に、小学校の通学バスで一緒に行くのですが、保育園に着くまで泣き続けるという最長不倒記録を作ったそうです。でも、時間はかかりましたが、ちゃんと学んでくれたようで安心しています。逆にこっちが心配するくらいどこにもでも出かけるようになりました。

なぜこんな話しをするのかというと、聖書が私たちに教える世界のありようというのは、留守番をする子供たちのようだと思うからです。今日の箇所の後ろの方には留守を待つしもべたちの譬えが出て来るように、再び帰って来られる主を待っている生活、というのがクリスチャン生活のあり方を決定づける考え方です。

世の終わりの様々なしるしに動揺しがちな私たちを励ますためにイエス様が語っておられることを今日も学びましょう。

1.本当にヤバい日

第一に、本当にヤバい日がやってきます。前回、24章の前半から終わりの日の様々な前兆について取り上げました。具体的な内容よりも、そうしたことに惑わされたり、揺るがされたりしないで、神を愛し、人を愛する者として立ち続け、神の愛と福音を伝えていくようイエス様が励ましておられることを見ました。

戦争や戦争のうわさ、偽物の救い主や偽物の預言者、民族同士の対立、飢饉や地震、自然災害などはこの世界がやがて終わりを迎えることを指し示す、前触れです。いま、まさにそういう事柄が起こっているように思えますが、これらは産みの苦しみのように、何度も何度も押し寄せて来ます。そして産みの苦しみの終わりには、主イエス様の再臨と新しい世界の誕生が待っています。

終わりの日は裁きの日という恐ろしい面もありますが、救いの完成や完全ないやし、復活と再会という希望があるのです。

さて、イエス様のお話は続いています。29節から30節をもう一度見て見ましょう。

「そうした苦難の日々の後、ただちに太陽は暗くなり、月は光を放たなくなり、星は天から落ち、天のもろもろの力は揺り動かされます。そのとき、人の子のしるしが天に現れます。そのとき、地のすべての部族は胸をたたいて悲しみ、人の子が天の雲のうちに、偉大な力と栄光とともに来るのを見るのです。」

これらのイエス様のお話は、3節で弟子たちが質問したことのうち、後半の方の「あなたが来られ、世が終わる時のしるしは、どのようなものですか。」の問いに答えるものです。

実際に太陽や月、宇宙になにが起こるのかをはっきりと言うことはできませんが、わかることは、誰の目にもわかるように、イエス様が来られるということ。そしてその光景に人々が「胸をたたいて」とあるように、嘆き、悲しむと言われています。多くの人たちにとってイエス様が再び来られることは嘆きであり、悲しみになるというのはどういうことでしょうか。

一つには、イエス様が神の御子であり救い主であることを拒絶したイスラエルの人々の過ちが明らかになることで、イスラエルの民が嘆き悲しむという意味です。

もう一つは、どんな災害や災難があっても「世界が滅びるわけなんかないだろう」と思っていた人々が、これは本当にヤバい時が来たとはっきり分かることではないかと思われます。

ペテロの手紙第一3:3~7を開いて見ましょう。終わりの時代に、キリストの再臨のようなクリスチャンが主張するような世界の終わりなんてどこにあるのかと嘲る人たちのことが書かれています。人間というのは世界にどんな悲劇が起こっても、身近な危機として感じるまでは、自分とは関係ない、まだ大丈夫だと思いたがるものです。ちょうどアジアで新型コロナウイルスで大騒ぎになっているときに、アメリカやヨーロッパでは対岸の火事のように、「マスク?」などと笑っていましたが、今は大慌てです。

「この世の終わりか」と思うような戦争や災害があっても、「本当に終わったりはしない、きっとなんとかなる。キリスト教が言うような世界の終わりなんか来ない」と考えていたのに、「これはほんとにヤバいぞ」と思う時が必ず来るのです。イエス様が偉大な力と栄光とともに再びおいでになるのを世界中が目撃するのです。

2.思いがけない時に

第二に、イエス様は思いがけない時に帰って来られます。

24章全体の言葉遣いはちょっと不思議な感じがします。文字通り受け取って良いのか、何かの象徴なのかわかりにくいのですが、それは、イエス様が旧約聖書の中の「黙示文学」という、文章で理路整然と語るというよりは、イメージでメッセージを伝えようとする預言書からたくさん引用しているためです。

星が天から落ちるとか、栄光の雲、ラッパの響き他にも旧約の預言書の中ではおなじみの象徴的な言葉が使われています。

これらを正確に理解しようとすれば、緻密で膨大な学びが必要となりますが、イメージを思い浮かべて、そこから伝わる緊張感やただ事ではない感じが想像出来たらまずはOKです。

32節から35節はいちじくの木からの教訓から学べと言われています。身近にないのでちょっとピンと来ないかも知れませんが、終わりの日のさまざまな前兆、しるしは、季節の変化を感じるようなものだというのが、この教訓のポイントです。雪が溶け始め、木の芽がふくらめば春が近づいている。紅葉が終わり木の葉が落ちたら冬が直ぐそこまで来ていると分かるように、さまざまなしるし、戦争、紛争、疫病、飢饉、災害が増えれば増えるほどに、イエス様が再びおいでになる日は近づいているということです。35節で「天地は消え去ります。しかし、わたしのことばは決して消え去ることがありません。」と、これらの前触れとその後のイエス様の再臨が確かなことであることを確約されました。それはこの時代が終わり裁きの時が来るとともに、イエス様がご自分の民を、つまり私たちを御元に集めてくださるということです。

その時、イエス様が来られたことは誰の目にも明らかとなります。27節でイエス様の到来は「稲妻が東から出て西にひらめくのと同じように」とあります。以前はどんなふうにして、そんなに瞬時に人々が分かる様なしかたで来られるのだろうかと昔は思っていましたが、インターネットの普及で、ああ、そういうことも可能なんだと思うようになりました。イエス様の再臨がネットでライブ配信されるとか、そういうことなのかは分かりません。それでも地球の裏側にイエス様が来られたとしても、ほとんど同時に、知る事のできる時代になってはいると言えます。しかし重要なポイントは、その日がいつであるかは分からないということです。

36節「ただし、その日、その時がいつなのかは、誰も知りません。天の御使いたちも子(つまりキリスト)も知りません。父(なる神)だけが知っておられます」

37節から44節には、ノアの洪水の日に食べたり飲んだり家庭をつくったりしていた人々、畑で働いている二人の男、臼をひいている二人の女、泥棒が入ってくる時間など、つぎつぎと実例や譬えをあげながら、イエス様が思いがけない時に帰って来られて、ご自分の民を集めるのだということを語っておられます。

イエス様が再び来られる日というのは、留守番する子供が望んでも親が都合良く帰っては来ないように、私たちにとって都合の良い時にイエス様を呼び出すことはできません。留守番する子供がまだまだ帰って来ないだろうと勝手に思い込んで好き勝手なことをして痛い目にあることがあるように、イエス様が帰って来るのも先のことだろうと勝手に決めつけるわけにはいかないのです。

3.忠実に、賢く

イエス様は私たちに、この世界の歴史がただ同じ事の繰り返しを延々と続けるものではなく、一つの終わりに向かっていることを教えています。まことの神様に背を向ける人々にとっては自分自身の罪についてさばきを受ける厳しい時となりますが、神様に向き直り、イエス様を救い主として信じる者には、救いの時となります。

その終わりの日に、主イエス様が世界をさばき、私たちを迎えるために帰って来られる。これが、聖書が私たちに指し示す世界の姿です。

問題は、それを知ったことで、私たちの生活にどう関わるかということです。そのことを教えてくれるのが46節から25:13節まででイエス様が語っておらえる二つの物語、しもべたちの譬えと十人の娘たちの譬え話しです。

この二つの譬え話は、二つの似たような戒めに挟まれています。45節の「ですから、あなたがたも用心していなさい。人の子は思いがけない時に来るのです」と25:13の「ですから、目を覚ましていなさい。その日、その時をあなたがたは知らないのですから」です。

二つの譬えはどちらも、油断なく備えて置く事ようにという教訓が語られていますが、最初のたとえでは、イエス様から委ねられた務めに忠実であることを、10人のたとえでは、来たるべき日に備えておく賢さに焦点が当てられています。

しもべたちというのは、主人から委ねられた権限を用いて人々を支配するのではなく、世話をし、仕えることが期待されています。私たちクリスチャンは、神様の造られたこの世界で人々に仕え、みことばの福音をもって養うことが求められており、その務めを果たすために神様から全てのものを任されているのです。

イエス様がいつ帰って来られてもよいように、忠実にその務めを果たすなら、豊かな報いを受け取ることができます。しかし、どうせまだろうと高をくくっているような者は、神を畏れるといいながら自分の欲と見栄のために生きていた偽善者と同じ評価を受けることになります。

また、10人の娘たちは全員が結婚披露宴の席に着いて、一緒にお祝いすることを期待してるのですが、実際にその宴にあずかれるのは、花婿が来た時に迎える準備がちゃんと出来ている人たちだけです。準備していた賢い娘たちは、愚かな娘たちに同情はしますが、分けてあげるほどには用意がありません。花婿を迎える備えというのは、自分自身の問題として、自分が責任をもってしなければならない事なのです。同じように天の御国の祝いの席に着けるのは、イエス様を迎える準備が出来ている人だけ。単に自分も入れると期待しているだけでなく、イエス様を信じ、聖霊を宿している人たちだけなのです。誰もほかの人の分まで備えることはできませんし、他人任せにはできないのです。

花婿とが来ることを知っているだけでは備えにはなりません。終わりの日がある、イエス様が来られるということを知っているだけ、願っているだけではだめで、親とか友達とか他人任せではなく、イエス様を自分自身の救い主として信じるという、自分自身の備えがなければならないのです。その上で、私たちはしもべとして任された務めに忠実であることを求められています。

適用 目を覚ましていなさい

イエス様の再臨についての教えは、私たちに目を覚まし、用心して備えていなさい。忠実に、賢くありなさいという戒めがポイントです。

私たちは、忠実さということを、いつもやっていることを、いつものようにやり続ける事だと単純に言ってしまうことがあります。ある面でそれは間違いではないと思いますので、私もそういう言い方をすることがあります。

しかし状況が大きく変わった時などはそう単純ではありません。イエス様の再臨の前の様々なしるしとして挙げられている、戦争や自然災害などの中に置かれたら、いつものようにはできないのが当たり前になります。今でいうなら、たとえば、今の世界中を襲っている新型コロナとの戦いの中でもいろいろと考えされます。

昨日、ペルーの**先生に様子をお聞きしました。アメリカで看護師として働いている娘さんのことも気になったので連絡しました。ペルーでは最初の感染者が出てすぐに大統領が非常事態宣言を出したので、教会として礼拝をどうするかなんて考える暇すらなかったそうです。医療事情や歴史的に非常事態宣言にはある意味なれっこなので「そんなものか」と受け止めているそうですが、日本では戦後あたりまえのように受け取って来た信教の自由と集会の自由を脅かされるだけでなく、信仰自体が権力によって制限されるんではないかと恐れているようなところもあります。

何が何でもいつも通りの教会のやり方を変えない、というある意味かたくなな態度をこそ忠実な教会の姿と考える人もいます。

しかし、イエス様は賢くありなさいと言われました。私たちが大事にし続けなければならないのは、外面的なやり方ではなく、本当に神を愛し、礼拝し、兄弟姉妹を思いやり、励まし合い、そして私たちに委ねられている、人々に愛をもって仕えるという使命です。

この新型コロナに大きく揺さぶられている世界の状況をみて、イエス様がすぐにでも帰って来られると慌てふためく必要はありませんが、どうせすぐ収まると、のんびり構えておくわけにも行きません。確かにイエス様はいつの日か遠くないうちに帰って来られ、世界はいつか終わりを迎えます。それは私たちにとっては希望ですが、今はその希望を胸に、忠実に、賢くあらねばなりません。

このような状況の中でどうすることが具体的に人々によりよく仕える事になるのか祈りつつ考えていかねばなりません。

クリスチャンではない隣人に、どういう態度をとったら安心や希望を与えることができるでしょうか。マスクを自作して他の人に差し上げたり安く譲っている方もいます。買い物が大変な高齢者の方のためにお使いに行ってあげる方もいます。

最近の朝メールではそのようなことを意識しながら書いていますが、思った以上に未信者の方々が興味をもって読んで下さっています。不安が世の中を覆っている時に、希望と平安を持ちつづけられるクリスチャンにできることは、私たちが考えている以上に大きいのです。

教会は、これからも主を第一とし、神を愛し、人を愛する民として歩み続けます。これから先、この騒ぎが収まってくれることを願っていますが、そう楽観は出来ないようにも感じています。そうなると集まり方、やり方は変わっていくかもしれません。変化についていくのが難しい人もいるでしょう。ネット中継とか言われても、できないという人もいます。そんなとき、割と近くに住んでいる兄弟姉妹のために自分が何ができるか考えることもできます。

外面的なありかた、やり方は柔軟に、しかし芯は真っ直ぐしっかりと。そのような忠実で、明確な希望を持った歩みと働きが、今本当に世界の人たちが見たいと思っていることなのかもしれません。

祈り

「天の父なる神様。

イエス様が教えてくださっているように、この世界はイエス様が再び帰って来られる日に向かっていますから、さまざまなことが起こります。

そうした出来事は私たちに恐れや不安をもたらしますが、イエス様のことばを思い出して、慌てずに、しかし目を覚まして、イエス様を迎える備えをし、委ねられている務め、神と人を愛し、愛をもって人々にお仕えする務めを忠実に、賢く果たしていけるように、私たちを励まし、なおも信仰と愛と知恵とをお与えください。

イエス様のお名前によって祈ります。」