2020年 5月 24日 礼拝 聖書:マタイ26:31-35
私は、いろいろなことに興味があり、すぐに手を出すのですが、同時に飽きっぽくて、長続きしないところがあります。「今度は続けよう」と決心しても、しばらくたつと、その決意は薄らぎ、まあいいかという気持ちの方が強くなってしまうのです。そういう弱さを自覚しているので、先週開いた最後の晩餐の席で、イエス様が「弟子の一人が裏切る」と予告されたとき、弟子たちが一人一人、イエス様に「主よ、まさか私ではないでしょう」と言い始めた場面はよくわかる気がします。
自分がその場にいたら、果たして「私は絶対大丈夫」と言い切れる人はどれだけいるでしょうか。虚勢を張ってそう言う人はいるかもしれませんが、心のどこかに「それでもひょっとしたら」という不安が残るのが人間ではないでしょうか。
日本では、せっかく信仰を告白しても教会生活が続かない人が結構の割合でいると言われています。それがイエス様を裏切るという意味になるかは別問題ですが、せっかく信じる決心をしても、いろいろな事情で教会を離れたり、信仰を続けられないと思ってしまうことが多いのは事実なのです。
そういう私たちをイエス様はどんなふうにご覧になっておられ、またどうされたいと願っているのでしょうか。
1.他人ごとじゃない
場面は、最後の晩餐を終え、みんなで賛美の歌を歌ってからオリーブ山に向かう途中のことでした。
弟子たちの心の中にはまだ「誰がイエス様を裏切るのだろう」という疑いと不安があったかもしれませんが、食事の交わりがあり、賛美があり、皆で夜道を歩いて祈りの場へと向かうのです。場面としてはとても美しい情景です。
しかし、その道すがら、イエス様はユダの裏切りは恐ろしいことだけれど、ほかの弟子にとっても、決して他人事ではないことを指摘なさいます。
31節「そのとき、イエスは弟子たちに言われた。「あなたがたはみな、今夜わたしにつまずきます。『わたしは羊飼いを打つ。すると、羊の群れは散らされる』と書いてあるからです。」
裏切るのは一人だけれど、ほかの弟子たちも躓き、羊飼いを失った羊の群れがちりぢりに逃げ出すように、弟子たちはイエス様を見捨てて逃げていくのだと、はっきり言われたら、これはかなりショックです。
羊の群れはどんなに大きくても、羊飼いがいてこそ安心していられます。オオカミがやってきて羊飼いを倒したら、「ちょっと待ったー!」と立ちはだかる勇敢で強い羊なんかいません。もし勇気ある羊が一匹くらいいたとしても、敵の前で圧倒的に無力で、ただもう一匹の餌食になるしかないでしょう。
イエス様が捕らえられる時も、武装した大勢の群衆、地位と権力をもった祭司長や長老たちの前に、わずか11人の田舎の元漁師や元取税人に何ができるでしょうか。
しかし、ことは弟子たちの勇敢さだけの問題ではありません。イエス様は31節で「わたしにつまずきます」と言われました。彼らがちりぢりに逃げ出すのは、大勢の武装した群衆を見て怖くなるからというより、一番の原因はイエス様に躓くからだというのです。
一体どういうことでしょうか。
弟子たちにとってイエス様はまぎれもなく神の神子、救い主キリストでした。これまで、信じがたい奇跡を多くの人を癒やし、空腹を満たし、議論では負け知らず。これまでも何度か命を狙われることがありましたが、その都度切り抜けてきました。湖の真ん中で嵐に見舞われても、一瞬で波風を沈め、湖の上を歩いてくることもできるお方です。死人さえよみがえらせました。
弟子たちが危険にさらされたときに、まったく無抵抗で、無力に捕まるなんてことは想像もできません。イエス様のそばにいれば絶対大丈夫だという思いがあったに違いないのです。
事実、彼らがイエス様を見捨てて逃げ出すのは、イエス様が父なる神様に頼めば天の軍勢を味方に呼び寄せることだってできるのだけれど、そうはしない、と言ったからでした。「あなた方を助けることはしないし、自分のために助けを呼ぶこともしない。」そう言われた弟子たちは、頼るものを失い、導く者を失ったのです。イエス様を見捨てたというより、突き放されたか、自分たちこそが捨てられた感じさえしたかもしれません。
私たちは弟子たちと同じように、祈りが答えられない時、ご臨在をそば近く感じられない時、どうしてイエス様はこの肝心な時に助けてくれないのかと、躓いて来たのかもしれません。
2.それでも主は
しかしイエス様は、私たちを見捨てたわけではありません。また、そうやって躓いて逃げていく弟子たちを見限るわけでもありません。もう一度会おうと言ってくださるのです。
32節ではこう言われています。「しかしわたしは、よみがえった後、あなたがたより先にガリラヤへ行きます。」
この短い言葉には、二つの重要なことが含まれています。一つは復活、もう一つは再会です。
イエス様は、十字架の死を予告してきましたが、それは復活とセットでした。イエス様の十字架は全人類の罪を背負う、それこそ一大事ですが、復活を抜きには無意味なものです。イエス様が語って来られた希望や慰めの約束は、どれもがイエス様が生きておられる方だからこそ意味のある、力のあるものです。わたしのもとに来なさい、休ませてあげよう、尽きることのないいのちの水を与えよう、死んでも生きるのだ、永遠のいのちを与えよう、この世が与えるのとは違う平安を与えよう、天の御国でお祝いしよう、労苦や忠実さに報いよう。どれも死んでしまって終わりだったら、ただの口約束です。使徒パウロがコリント書で言っているように、復活が単なる気休めのような希望だったら、イエス・キリストを信じる宗教はまったく愚かで救いようのないものです。
しかしイエス様は十字架の苦しみを受け、死んで三日目によみがえることで、これらの約束と希望が確かなものであることを保証してくださいます。
また、この復活はイエス様を見捨てて散り散りに逃げ出す弟子たちの再会の時でもあります。
イエス様がよみがえったとき、自分を見捨てた弟子たちのことはもう構わず、「もうお前たちはいいから」と切り捨て。ほかの信頼できる人たちを新たな弟子にとるということではありません。この、弱く、ご自身を見捨てるような、しかし愛すべき弟子たちと再会するために、懐かしいガリラヤで待っているからとおっしゃってくださるのです。
一度切れた人間関係を取り戻すのはなかなか大変なことです。単に距離が離れてしまったり、会う機会がなくなって自然に疎遠になった場合は、再会した時にもう一度友情や関係を取り戻すことはできますが、そうでない事情があったときは難しいです。
特に、自分の側に問題があり、それが裏切りだったり、相手が窮地の時に離れてしまった、なんて場合は自分から関係を修復しようというのは結構勇気のいることです。許してもらえないとしても仕方がありません。逆に、そばにいてほしい時に、その辛さ大変さを知っていて無視したり、離れてしまった人のことは、もう友人とは思えません。そういう人と何かの時にばったり出くわしたり、顔を見ただけで具合が悪くなることだってあります。
しかし、イエス様は弟子たちが裏切り、見捨てていくのをご存じで、実際そうなるのですが、それでも、よみがえった後で、またガリラヤで会おうと言われるのです。これはもう愛とか恵みというシンプルな言葉では言い表しきれない、しかしそうとしか言い様のない、本当にありがたいご愛です。
3.人の決意の弱さ
ところが弟子たちは、イエス様のそんなお気持ち、愛をまるでわかりません。「親の心子知らず」です。
弟子たちの先頭を切って、ペテロが「たとえ皆があなたにつまずいても、私は決してつまずきません。」と大見得を切ります。たぶん、ペテロは本気だったと思います。
しかしイエス様はあと数時間の後に起こる彼の躓きをご存じでした。きっとイエス様もこんなことを言うのはつらかったに違いありませんが、ペテロのその決意がもろくも崩れ去ることを告げました。「まことに、あなたに言います。あなたは今夜、鶏が鳴く前に三度わたしを知らないと言います。」
なぜこんなことを言うのか、という気もします。黙っていても、その時が来ればそうなります。言われなくても自分が裏切ってしまったことを気づくはずです。
しかし、イエス様は、彼の回復とその後のことに心を向けていました。まるで医者が、病人に向かって治療の途中に起こる様々な変化や薬の副作用について説明するみたいです。これから起こることは心地よいことばかりではない。薬を飲めばつらい副作用があるだろうし、手術をすればしばらくは痛みを我慢し、きついリハビリに耐えなければならない。そんな風に、ペテロが今後教会の指導者としてたって行き、弟子たちのリーダーとして福音宣教の責任を担っていくためには、この挫折と回復を経験しなければなりませんでした。
それでもペテロは食い下がります。「たとえ、あなたと一緒に死ななければならないとしても、あなたを知らないなどとは決して申しません。」
時代劇の台詞かと思うほど、かっこいい台詞です。もちろんペテロは本気でした。実際、ペテロは武装した群衆に立ち向かうために剣を準備しており、大祭司のしもべに斬りかかったほどです。戦って死ぬならそれでもいいと思っていたのでしょう。ほかの弟子たちも負けじと同じように言いました。みんな本気だったでしょうし、ペテロに負けてなるものかという気持ちもあったかもしれません。
けれども、私たちは人間の決意や意思というものがどれほど弱いものであるかを知るのです。
彼らの決意、彼らの熱心は、ひとえに、イエス様が敵に囲まれ、苦難に遭うとしても、最後の最後には約束の救い主キリストとして、神の栄光と力を表し、大逆転して王国を築いてくださるはずだという期待にかかっていました。そのためならたとえ命を落としても惜しくはない、という思いでした。ところが、イエス様は天の軍勢を呼ぶことはできるが、そうはなさらず、いとも簡単に捉えられ、予想もしなかった負け犬のような姿を見ることになるのです。
私たち人間の決意の強さや持続力は人によって差があります。私のように飽きっぽい人の決意は瞬間的には強くても長続きしないかもしれません。一見、意思の強い人に見えても、その決意を支えているものが崩れてしまえば、心も変わります。
問題は、私たちの信仰の決意が何によって支えられているかです。イエス様に対する身勝手な期待や、自分の忠実さや働きを認めてらいたいというような動機に支えられた信仰は、強そうに見えたとしても、実はもろいものなのです。
適用 恵みによって
ヨハネ1:12~13は大変有名な聖句の一つですが、信仰による救いについて独特な表現で説明しています。
「しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとなる特権をお与えになった。この人々は、血によってではなく、肉の望むところでも人の意志によってでもなく、ただ、神によって生まれたのである。」
神の子供とされる特権、罪の赦しと救いとは、信仰によるものなのですが、その信仰は、「血によって」つまり代々続く血筋や家の宗教だからというのではありません。また信仰は「肉の望むところ」つまり私たちの願望や期待ではありません。また信仰は「人の意思」、私たちの決意や信念に基づくものでもありません。
「神によって」私たちは神様の子供とされるのです。それは神の愛によって生まれると言い換えていいでしょう。先月のみことばはこのヨハネ3:16でした。信じる者に永遠の命を与えるのは神の愛です。
つまり、私たちの弱さをよく知っておられて、弟子たちがみなイエス様に躓き、見捨てて離れていくことをご存じであっても、それでもなお、彼らのため、私たちのために十字架の苦しみを引き受け、死んでよみがえった後でもう一度会うことを願ってくださった、その愛が私たちを救うのです。
信仰は、私たちの決心というより、私たちがそういう弱さや罪深さを持っていることを受け入れ、それでも愛してくださるイエス様の愛を信頼して受け入れることです。この救いに至る信仰は、私たちの信心深さではなく、キリストの愛をより所としているのです。
ペテロは「たとえ死んでも、あなたを知らないとは言いません」と啖呵を切ってますが、私はこの言葉を見るたびに、若い頃、なかなか自分がクリスチャンであること、教会に行っていることを周りの人に言えなかったことを、痛みとともに思い出します。
次は言えるようにと決心したり、状況が変わったら、生活環境が変わったら大丈夫だろうと思っても、心の決意より恐れや「どう思われるだろうか」という不安の方が先に立ってしまいます。こういうことで迷ったり悩んだりしたことがない人は幸せかもしれませんが、けれど、私はペテロと同じような経験をしたことで、私が神様の子供でいられるのは、私の信仰心の強さとか決意の固さによるものではない、ということをはっきりと理解し、また実感することができています。自分を責めることが少なくなり、安心感、平安が大きくなりました。今でも初めて会う人や何のつながりもない人に、自己紹介するときは緊張しますが、肩の力の抜け方は比べものになりません。
私たちの信仰が、自分の意思や決意ではなく、キリストのご愛、神の恵みによるのだということを味わったら、私たちの信仰のありよう、心持ちが大きく変わります。ペテロや弟子たちはそれを経験するための苦い試練をくぐろうとしています。
同じように、弱さを味わう経験をする私たちクリスチャンをイエス様は見放さず、私たちの失敗に失望したりしないで、弟子たちに「ガリラヤで会おう」と言ってくださったように、弱さや挫折、失敗の先によみがえり、再び立ち上がり、待っていてくださるイエス様とまた歩み出すことができるのです。
祈り
「天の父なる神様。
私たちに恵みによって信仰をお与えくださり、ありがとうございます。
私たちはあなたの愛を知り、あなたに信頼することを選びましたが、まずあなたが私たちを選び、愛してくださったことを感謝します。
私たちが弱い者であり、失敗や恐れることの多い者であることをわかっていて、なお、私たちの信仰を受け入れてくださり、私たちの立ち直りを待ち、またともに歩もうとしてくださるイエス様の大きな愛を心から感謝します。
どうぞ、私たちがその愛と恵みを頭で理解するだけでなく、経験し、味わうことができますように。そのために大きな失敗や苦い経験を通らなければならないとしても、弟子たちにそうしてくださったように、私たちに哀れみと慰めを差し伸べ、励まし、立ち上がらせてくださいますように。
主イエス様のお名前によって祈ります。」